第09話 非現実が現実に
次の日の朝。静寂に包まれた森が、ゆっくりとその緑を深めていく。
いつも通り、体内時計が正確な亮は、目覚まし時計が鳴ることもなく、朝六時ちょうどに目を覚ました亮は、身支度を整える前に、今は少女が眠っている、自身の部屋の引き戸にそっと近づく。
音を立てないように、ほんの僅かだけ戸を開け、中に差し込む朝日の光に照らされた、穏やかな寝顔の少女がよく眠っている姿を確認すると、安堵の息をつき、朝の散歩を行うためにそっと自室を後にした。
実は、今朝の散歩には目的があった。それは、昨日少女を見つけた、あの不気味な洞窟の奥へ、もう一度行くことだ。
特に何か具体的な考えや、目的があってのことではない。だが、昨日の出来事が現実だったのか、あるいは夢ではなかったのか。その『確証』を得るため、そして、あの洞窟に何があるのかを無性にもう一度自分の目で確かめたくなったのだ。
早速、簡単な準備だけを整え、彼は家を出た。
新緑がまぶしい森の中を、鳥のさえずりだけを友に歩くこと数十分。彼は昨日と同じ、化け物の口のような洞穴を見つけると、躊躇なくその中へと入っていった。
スマートフォンの明かりだけが頼りの薄暗い洞窟の中を、足音を響かせながら歩くこと小一時間。昨日と同じ、洞窟の奥にある広々とした空間へとたどり着いた。空気は湿って冷たく、沈黙だけが支配している。
そして、その空間のさらに奥。昨日、少女が閉じ込められていた鉄格子があった場所へと、亮は足を踏み出した。光る壁に囲まれた奥にあるその場所に立ち、目の前に広がる光景を目にした亮は、思わず、自分の目を疑った。
「……あれ?確か……ここに鉄格子が……あったはずなんだけど……?」
彼の口から、困惑したような声が漏れた。かつて少女を見つけた鉄格子があった場所には、鉄格子が『跡形もなく消え失せていた』のだ。地面に打ち込まれていたであろう痕跡も、壁に固定されていたであろう跡も、全く見当たらない。まるで、最初からそこに何も存在していなかったかのようだった。
ただ、少女が閉じ込められていた牢屋になっていた、岩壁のくぼみだけが、まるで消えない記憶のように、ぽっかりと残されている。その場所は、今やただの洞窟の岩肌の一部として、そこに存在している。その謎めいた状況が、亮の混乱をさらに深めた。
「……ますます、わけがわからないけど……」
亮は、頭を抱えそうになりながら呟いた。
「逆に言えば、これは、現実では、常識では、ありえないことが起きているっていうことの、『明確な証明』なのかもしれないな……うん……」
考えれば考えるほど、頭の中がぐちゃぐちゃになる。もはや、既存の知識や論理では、目の前の出来事を説明できない。
亮は、少し考えることが面倒くさくなった。そして、彼は、目の前で起きたあまりにもありえない現実をありえないこととして否定するのではなく、起きた現実として、そのまま受け止めることに決めた。
それはつまり、あの少女が、自分の知る世界ではない、他の世界から、この地球へ転移してきたという、突飛な仮説を、真実として受け止めるということだ。
(それしか、ないよな……)
洞窟からの帰り道、亮は、もはや非現実ではない、現実となった問題を考えていた。それは、異世界からやってきた少女と、これから自分がどういう風に過ごしていくかという問題だ。
少女が、自分が暮らすこの世界の人間ではない、ということを前提に考えると、文明が発達し、管理社会でもある先進国である日本で、彼女が暮らしていくことには、いくつかの『重大なリスク』が伴う。
まず一つ目に、『戸籍がない』ということ。これは、彼女がこの国の国民として存在しないことを意味する。
二つ目に、少女が持つ通常の人間にはありえない、『異質な身体的特徴』、特にあの獣の耳のようなものが、もし外部の人間によって見抜かれ、その正体がばれてしまった場合、何らかの不都合な事態、例えば、国の機関に拘束されたり、研究の実験体とされてしまうようなことが起きる可能性も全くゼロではないということだ。
後者のリスクは、現実的にはなかなか考えられないことではある。だが、ドラマやアニメといったフィクションの世界では、こういった展開は『よくあること』だ。そして、今、彼の目の前では、既に現実では到底ありえないことが、いくつも起こっている。
洞窟に閉じ込められていた異世界の少女、そして消えた鉄格子。それらを考えると、たとえ低い可能性であったとしても、そういった『最悪のリスク』に関しても、考えておくことは必要だと亮は真剣に思ったのだ。
「とりあえず、あの子の耳の部分を隠して、あまり人目のつくところに行かなければ、当面は大丈夫そうな気はするけど……」
彼は、思いつく限りのリスク回避策を頭の中で巡らせた。しかし、全てのリスクを排除することは不可能だ。
「もし、あの子が病気とかして……病院に行きたい、ってなった時とかが……困るよな」
戸籍がないということは、法的な身分を証明するものが何もないということだ。そうなれば、もちろん健康保険証などもあるわけがない。病気になっても、医療機関で適切な治療を受けることが困難になる。
それじゃなくても、もし体を詳しく調べられでもしたら、少女が普通の人間とは全く違う存在であることが、すぐにばれてしまうだろう。それは、彼が最も恐れるシナリオの一つだった。
「……健康第一で過ごしていくこと、か……」
亮は、リスク回避の結論として、あまりにも根本的な解決になっていない、しかし、唯一確実にできることに行き着いた。
そして、それ以上の有効な対策が思いつかないことに、大きな、大きな溜息を一つ、「はあ……」と漏らしながら、到着した自宅の玄関の扉を開けたのだった。
リビングに戻る前に、亮はもう一度、少女の眠る自分の部屋へと足を向けた。そっと引き戸を少しだけ開けて覗いてみると、そこには、まだぐっすりと、穏やかな寝息を立てて眠る少女の姿があった。
やはり、昨日までの極限状態と、それに続く環境の変化によって、身体的にも精神的にも、相当な疲労が溜まっているのだろう。亮は、今はまだ、彼女をゆっくりと寝かせてあげようと考え、声をかけることはせずに、静かに部屋を閉め、リビングへと戻っていった。
リビングのソファーにどっかりと腰を下ろす前に、彼はキッチンへと向かった。冷蔵庫の中から、彼の朝食の定番である橙色の野菜ジュースと、バナナ、納豆一パックを取り出し、手早く簡単な朝食を済ませる。
栄養補給を終え、ソファーへ座ると、彼は膝の上にノートパソコンを準備した。
画面を開き、電源を入れる。起動画面が表示され、しばらくして見慣れたデスクトップ画面が現れる。亮は、マウスを操作してブラウザを起動し、いつものショッピングサイトを開いた。そして、検索窓にキーワードを打ち込み、これから彼の家で暮らしていくことになるであろう、少女に必要な物を探し始めた。
(まずは、身につけるものから、だよな)
彼は、まず『下着』の検索を開始した。少女の正確なサイズは分からないが、見た目の年齢から推測して、子供用サイズで最も小さそうなものを選んだ。
(子供用……下着……女の子……うわあ、なんか変態っぽい検索ワードだなこれ……)
若干の恥ずかしさと気まずさを感じながらも、シンプルなデザインのキャミソールとショーツを選び、それぞれ五着ずつカートへと入れる。さらに、洗い替え用に靴下を五足と、外出時にポケットに入れておけるハンカチも五枚、まとめてカートへ追加した。
(うん、これで下着類は大丈夫だろう。あとは、普段着とパジャマかな)
亮は、次に普段着の検索に移った。少女の推定年齢と、これから彼女が安全に家の中で過ごすことを想定し、動きやすい『ワンピース』を何着か選んでカートへ追加した。
(うん、とりあえずこれで何着かあれば着替えには困らないだろう。後は、そのうちあの子が、どんなデザインとか色が好きか分かったら、本人と一緒に選んで買ってあげればいいか)
次に、パジャマの検索を始めた。様々なデザインの子供用サイズのパジャマが表示される中で、ふと、あるカテゴリーに彼の視線が引きつけられた。それは、『動物の着ぐるみデザインのパジャマ』だ。
(パジャマは……着ぐるみのパジャマとか、着せたら……)
亮の脳裏に、少女が動物の着ぐるみパジャマを着ている姿が思い浮かんだ。純白と桃色の髪、そしてあの獣の耳。とても可愛らしい容姿をしている少女が、さらに動物の着ぐるみパジャマを着れば、それはまず間違いなく『とんでもなく可愛い』だろう。
(その姿を見ることは、ある意味、俺の『目の保養』にもなりそうだ……なんて、思っちゃったりして……)
彼は、自分の正直な欲望に、少しだけ頬を緩めた。
「よし。とりあえず、定番のクマと、あと、パンダと……ネズミの、三種類だ!」
彼は、迷うことなく、その三種類の着ぐるみパジャマをカートへ追加した。そして、「……いや、でも、いくら可愛いからって、着ぐるみだけってのも不便か」と、現実的な部分が顔を出す。
「一応、普通の、ノーマルのパジャマも、二着くらい追加しとこう」
結局は考え直し、シンプルなデザインの子供用パジャマを二着、追加でカートに入れた。
こうして、少女の今後の生活に必要な衣類を、あれこれ考えながら選んでいるうちに、なんだかんだで『四万円から五万円』の商品をカートに入れていた。宝くじで十二億円を当てた彼にとっては、端金のような金額だが、それでも、目の前の少女のために、具体的な行動としてお金を使っているという事実に、彼の心はほんの少し満たされ、満足げに、購入ボタンをポチることになったのだった。
「いやあ、やっぱり、買い物って楽しいよなぁ……ついつい、余計なものまで買っちゃうっていうか……いかんいかん。ミニマリズムを忘れるわけにはいかないぞ」
亮は、ノートパソコンを閉じながら、独り言をつぶやいた。長い一人暮らしで、自分の内面や思考を声に出す、いわゆる『独り言』が、すっかり板についていた。しかし、今、その事実に気がつくと、それまで買い物の楽しさで紛れていた不意の寂しさが、まるで冷たい波のように、またしても彼の心を襲ってくるのを感じた。これは、もういつものことだった。
「ほんと、この不意に来る寂しさが、一人でいる時に一番嫌なやつだよな……まあ、もう慣れてはいるけど……」
亮は、ため息混じりにそう呟いた。十八歳の学生の頃以来、特定の恋人ができていない彼は、一人の気楽さや自由さを求め、それを謳歌しているように見せているが、心の奥底に隠しきれない『深い寂しさ』とも、ずっと向き合って生きていた。
ましてや、彼には血を分けた両親がいない。心を許せるような、肉親と呼べる家族がいないということは、この世界のどこにも、本当の拠り所がないということにも等しかった。
そして、仕事上での人間関係は、持ち前の器用さでうまく、円滑にこなせる。上司や同僚とも、表面上は良好な関係を築くことができる。しかし、それはある意味、『完璧な仮面』を被っていることと同義であった。本来の彼は、人付き合いが心底苦手で、極度の人見知り。そして、過去の経験から、誰かを深く信用するということが、ひどく難しい、そんな複雑な性格なのである。
「ああ、もうだめだ。こうして、やることがなくて暇な時間ができると、ろくなこと考えないわ。どんどん、ネガティブな方に、考えが進んじゃうな……」
亮は、自身の内面的な弱さを自覚し、自己嫌悪のような気持ちに沈みかけた。その思考を断ち切るように、彼は立ち上がる。
「そろそろ九時になるし……うん。あの子の様子でも見てくるか」
少女の様子を見る、というのはあくまで体だ。彼の本音を言えば、誰か、自分以外の誰か、特にあの異世界の少女の存在を確かめ、少しでも人恋しさを紛らわせたいという、切実な欲求があったからだ。
足音を忍ばせながら、格子や障子をあしらった、温かみのある和風色の強いモダンな廊下を進む。足元には柔らかい光が灯り、壁には美しい影が落ちている。自室の前の引き戸に手をかける彼の心臓は、僅かに早鐘を打っていた。まだ眠っているかもしれないということに配慮して、彼は極力音を立てないように、ゆっくりと、本当にゆっくりと扉を開けた。
部屋の中に視線を向けると、窓から差し込む柔らかな朝日の光の中、ベッドの上で、あの少女が既に体を起こしていた。
彼女は、亮の気配、あるいは姿に気づくと、まるで訓練された人形のように、素早く姿勢を正し、ベッドから滑るように降り、床の上に完璧な正座で座った。そして、いつものように、亮に対して仰々しく、深々と頭を下げたのだ。その額は、再び床に付きそうだった。
「昨晩は、このような穢らわしいわたしに、過分なる配慮をいただき、誠にありがとうございました。りょう様のおかげで、久方ぶりに、心ゆくまで体を休めることができました……」
見た目の年齢にして十歳前後と思われる、幼い少女が取るべき態度では、全くなかった。彼女の言動、そして体に染み付いた一連の動作は、完璧に、そして完全に、絶対的な主従関係に基づいている。そして、その関係における少女の立場は、明確に逆らうことのできない、『従う者』の側だった。
それは、亮にとっては全く好ましくない状況であった。彼は、この少女を、奴隷のように従えるつもりもない。支配するつもりなど、尚更ない。もし叶うのであれば、この家で、彼女と対等な立場として、共に穏やかに過ごしていきたいとすら思っているのだ。
しかし、その対等でいたいという感情が、一体自分の心のどこから現れる感情なのか、その真の正体には、亮はまだ答えを出せずにいた。
(俺のエゴ、なのか……?単に、自分の寂しさを紛らわせたいだけ、だよな……きっと)
彼は、再び自分を卑下するような思考に囚われた。
(そう考えると……俺も、最低な人間だよな……)
自己嫌悪の念に、またも気持ちが沈み込みそうになる。しかし、その沈み込む感覚と同時に、彼の心の奥底から、どうしようもない苛立ちが湧き起こるのを感じていた。
(なんで、伝わらないんだ……?なんで、そんなに怯えるんだ……?俺は、君の味方なのに……!)
自身の優しさや気遣いが、少女にはまだ届いていない、あるいは恐怖として受け取られているという事実。異世界からやってきた少女という非現実的な状況そのものへの混乱。過去の嫌な出来事を思い出してしまったことによる、漠然とした不安感。そして、どうしようもない孤独。それらの感情が、ぐるぐると頭の中を回り、彼の心を深く蝕んでいた。
そんな複雑な感情を押し隠し、亮は努めて明るい声で少女に言った。
「そ、それはよかった。ぐっすり眠れたなら、安心したよ」
そして、彼は立ち上がり、リビングの方へと視線を向けた。
「それじゃあ、ご飯にしようかな。何か食べられそうなもの、準備するからさ。俺についてきてくれるかい?」
亮の言葉を受けた少女の顔色は、一瞬で急に青ざめた表情となった。その瞳には、再び深い恐怖の色が宿る。食べるものをくれる、という亮の申し出そのものよりも、『ついてこい』という、彼女にとっては『命令』に聞こえる言葉に、過去のトラウマが反応したのだろう。
しかし、彼女は亮の言ったことには逆らえない。戸惑いと恐怖に顔を歪ませながらも、彼女は「は、はい……かしこまりました……」と、震える声で了承した。
そして、ゆっくりと、しかし確実に、その場に立ち上がった。恐怖に染まった、怯える翡翠色の瞳が、亮の姿をまっすぐに見つめている。その視線に、亮の胸はまたしても締め付けられた。
(はあ……なんか……まるで、俺が、この子にすごく悪いことを無理強いしてるみたいだな……)
少女の過剰なまでの怯えと従順さは、亮の不安定な精神状態に、わずかながら『苛立ち』を覚えさせるものだった。それは、彼女への怒りではなく、自分自身の無力さ、そしてこの状況に対する、どうしようもないフラストレーションだった。
「……よし。じゃあ……行こうか」
亮は、自らの複雑な感情を押し殺し、改めて声をかけた。
亮の問いかけに、少女は小さく、『コクリ』と頷いた。そして、彼の背中を追うように、亮の三歩ほど後ろを、まるで影のように歩き始めた。その足取りには、これから一体どこへ連れて行かれるのかという、先の見えないことへの不安や恐怖が、ありありと滲み出ていた。二人の間には、まだ、目に見えない深い溝が存在している。




