第08話 異世界の話
亮が自身の名前を説明し、少女がそれを復唱する中で、二人の間には確かに『言葉の壁』は存在しないことが確認できた。
そこから、亮は少女との本格的なコミュニケーションを開始した。彼は、まるで失われた世界の歴史を紐解くかのように、たくさんの質問を重ね、少女はそれに一つずつ答えていった。
だが、少女は会話そのものを楽しんでいるような素振りは一切見せなかった。彼女の応答は淀みがなく、亮の質問に対して何一つ逆らうことなく、ただひたすらに従順に答えている。
それはまるで命令に正確に答える訓練を施されたかのような印象だった。どこまでも染み付いた従順さが、彼女の全身から滲み出ていた。
その日、亮は少女の壮絶な生い立ちや、洞窟に辿り着くまでの経緯、そして彼女が見世物小屋で過ごした凄惨な日々など、彼女が覚えている範囲の話を、文字通り根掘り葉掘り聞き出した。
その会話の節々に、彼女が当たり前のように口にするワードや、語られる世界の理から、亮は、やはり彼女がいた場所が、自分が暮らすこの地球とは全く異なる世界であると、確信を深めていった。
まず、彼女がいた世界には、『獣人』という種族と、『人間』という種族の、二つの明確に異なる種族が暮らしているということだった。
獣人というのは、いわゆる獣の特徴である顔、体毛、耳、尻尾などを持ちながら、二足歩行をし、人間のように言葉を話し、社会を形成する種族のイメージらしい。
亮がスマートフォンの画面に、ファンタジー作品に出てくるような狼人間の画像を表示して少女に見せたところ、彼女は少し驚いたような顔をしながらも、『そのような姿をしているのが獣人です』と答えてくれた。
一方、人間に関しては、亮と全く同じ特徴を持つ種族だという。顔立ちこそ彼女の世界の人間とは違うようだが、亮がやはりスマートフォンで西洋人の写真を何枚か見せたところ、『ほとんど同じ見た目です』と答えたことから、少女が住んでいた世界の人間は、亮のような東洋人ではなく、西洋人に近い見た目をしていたと推測された。
そして、この二つの種族は、お互いを根の底から忌み嫌い合っているという暗澹たる事実が明らかになった。互いに侮蔑し、恐れ、憎み合っており、二つの種族が偶然鉢合わせた場合、ほとんどの確率で、言葉を交わす間もなく殺し合いが始まるほど、その間には深い、深い溝があるようだった。
だからこそ、獣人の特徴である『尖った耳』を持ちながら全身の体毛がなく、ほとんど人間に近い見た目をした彼女は、人間から異質で不気味な存在として疎まれ、激しく迫害されていたのだという。
また、人間のような滑らかな肌を持ちながら、『紛れもない獣人の耳』があるという、その半端な存在故に、彼女は獣人からもどちらにも属さない紛い物として、等しく迫害の対象とされていた。
どちらの世界にも、本当の意味での『居場所がない』。彼女は、ただ金持ちの道楽のための道具として、その幼い人生を、暗く冷たい見世物小屋という名の檻の中で過ごしてきたのだ。
彼女との会話は、亮が思っていた以上に長い時間続いた。ほとんどが一方的に亮が質問を投げかけ、それに少女が簡潔に答える、という形式で進んだ会話だったが、気づけば約三時間にも及ぶコミュニケーションとなっていた。
腕につけたスマートウォッチの画面をちらりと確認した亮は、自身が思っていた以上に時間が過ぎていたことに気づき、一旦会話を切り上げることにした。少女も疲れているだろうと、彼は気遣ったのだ。
「あ、ごめんね。なんか、すごく長い間、辛い話とか、たくさん聞いちゃって……疲れちゃったよね?」
亮の言葉に対し、少女は、その小さな顔を亮に向け、大げさに、そして慌てたように頭を振った。
「そ、そんなこと、ございません!りょう様からの、お話し……その、ご命令であれば、何なりと……お命じください!」
仰々しく、そしてどこか悲痛な響きすら含まれた言葉と共に、少女の頭は亮の前で深く、深く下げられる。それこそ、先ほどのように、再び額が床に付きそうになるほど深々と。
(うーん……。あんまり、こういうことはして欲しくないんだけどな……)
亮は、少女の過剰なまでの従順さに、改めて困惑した。彼女の生い立ちや、見世物小屋での扱いを考えると、この『従順であること』が、彼女が生き抜くために身につけた、あるいは強要された唯一の処世術だったのかもしれない。
それを、今の段階で『そんなことしなくていいよ』と、真っ向から否定してしまうのは、きっと彼女をさらに困惑させてしまうだろう。
(しばらくは……ある程度、見て見ぬ振り、というか受け入れているふりをしつつ、少しずつ、直してもらおうかな……)
亮は、長い間見世物小屋という名の檻の中で、徹底的に支配され続けてきた彼女は、誰かに従うこと、誰かの命令に従うこと以外では、生き方を知らないのかもしれないと考えた。しかし、それは彼女がいた世界での話だ。この地球にやってきた以上、彼女には誰にも支配されず、自由に生きる権利があるはずだ。亮は、その権利を、この家で、この世界で、彼女に教えていきたいと思った。
きっと、この少女には行く宛がないのだろう。それこそ、世界を超えて、ここにやってきたのだ。元いた世界に帰る方法があるのかも不明だし、もしあったとしても、あの見世物小屋のある世界へ帰りたいとは思わないだろう。ならば、この家で、彼女が一人でもこの世界で生きていけるようになるまで、あるいは、もっと別の道を見つけるまで、『ここで共に過ごしてもいいかな』と、亮は思い始めていた。
(……まあ、単に……俺が、寂しいだけ、なのかもしれないけどね)
亮は、自分の心の奥底にある、本音のようなものに気がついた。現在の彼は独身であり、しばらくの間、彼女と呼べる存在もいない。頼るべき両親は既に数年前に他界しており、親族も遠方に住んでいるため、実質的に『天涯孤独に近い』状態だ。普段は強がって一人の生活を楽しんでいるように見せているが、心の奥底では、確かに孤独を感じていた。
そして、今、目の前にいるのは、そんな自分よりも遥かに、深く、そして強い孤独と絶望の中で生きてきた少女だ。彼女の姿を見ていると、亮は彼女に対する『同情』と共に、どこか『強い共感』を感じている自分がいることに気がついたのだ。
寂しいのは嫌だ。一人でいるのも嫌だ。誰かの温もりが欲しい。そんな、人間としてごく当たり前の、『根源的な欲求』が、まるで抑えつけられていた感情が首をもたげるように、彼の心の扉を激しく叩いていた。
冷静な自己分析もほどほどに、気持ちを切り替えた亮は、目の前で自身の言葉に恭順の意を示す少女に、改めて優しく語りかける。
「とりあえず、君はまだ体の調子が良くないだろうから、無理はしないで、この布団でゆっくり休んでいていいよ」
彼女の体は、骨と皮ばかりに痩せ細っている。診察をするまでもなく、深刻な栄養失調状態であることは明らかだった。そんな彼女の体には、まず何よりも栄養と、そして十分な休息が必要だ。亮は、彼女の体のことを心から心配していた。
そんな亮の、純粋な気遣いと心配とは裏腹に。少女は、亮の言葉に対し、まるで『とんでもない申し出を受けた』とでも言うかのように、慌てて、そして必死に遠慮を示した。
「りょう様っ……!わたしのような、このような汚らわしいものがっ……!そのような尊い布団で休むなどっ──」
少女の、自己を卑下するような、そして亮への畏敬の念に満ちた言葉が紡がれようとした、まさにその時。亮は、少女の言葉を、それ以上続けさせないように、優しく、しかし明確な意思をもって遮った。
「大丈夫だよ。それ以上は、言わなくて大丈夫だ」
少女が何を言おうとしていたのか。これから、どれほど自分を卑下する言葉を紡ぎ出そうとしていたのか。そんなものは、彼女が語った過去や、染み付いた従順さを考えれば、亮にはすぐに察することができた。だからこそ、彼はその言葉を、彼女自身に聞かせたくなくて、そして、彼女に自分を卑下させたくなくて、遮ったのだ。
そして、そんな彼女に対して、今、彼女が最も理解し、受け入れやすい形で、彼の真意を伝えることにした。それは、普段の亮ならば決して使わないような、『ある特定の言葉』だった。
「いいかい?これは……『命令』だよ」
亮は、決して強い口調で言ったわけではない。だが、その言葉には、少女が逆らうことなく従えるように、彼の真剣な思いと、温かさを含んだ強さが込められていた。
「まずは、その布団で、何も気にせずゆっくり休むこと。これが一つ目の命令だ。それから、後でまた、飲み物とか、何か食べられそうなものを持ってくるから、それをしっかり食べること。そして、体が落ち着いて、もう少し元気になったら、これからの君のことについて、色々話し合おう。いいかな?分かったかい?」
亮は、一つ一つ区切りながら、少女に語りかけた。無理強いではなく、彼女に必要な休息と、将来への希望を与えるための『命令』。
「……わかり、ました……りょう様の、言う通りに……いたします……」
少女は、依然として『困惑した表情』を浮かべたままではあったが、亮の言葉に含まれた『命令』の響きを理解したのだろう。怯えた様子ではなかったが、なぜ亮が自分にこんなにも優しくするのか、なぜこんなにも過酷な場所から救い出し、布団で休めと命じるのか。その理由が分からず、混乱しているようにも見えた。しかし、彼女は逆らうことなく、ゆっくりと、亮が示した布団の方へと足を進めた。
布団のそばまで来た少女に、亮はさらに優しく声をかけた。
「よしよし。ちゃんと、毛布かけて、暖かくして寝るんだよ」
そう言いながら、亮は少女に毛布をかけてやるために、一歩、また一歩と、彼女の元にゆっくりと、しかし確かに近づいた。彼の足音は、絨毯の上を歩く音なので、ほとんど聞こえない。ただ、彼が近づく気配だけが、部屋の空気の中で濃くなっていく。
しかし、亮が彼女との物理的な距離を詰めようとした、まさにその瞬間。少女の体は、『ビクリ!』と、まるで電流が走ったかのように大きく跳ね、反射的に亮から遠ざかるように、ベッドの上で小さく後ずさりをしたのだ。そして、その小さな顔を恐怖に満ちた表情に歪め、まるで亮を拝むかのような、土下座に近い体勢で、悲痛な声をあげた。
「ご、ごめんなさい!ごめんなさい……!お願いしますっ……!許してくださいっ……!」
あまりに少女が尋常ではないほど怯えるので、亮は一瞬面食らった。まさか、毛布をかけてあげようとしただけで、これほどまでに怯えられるとは、想像もしていなかったのだ。
自分の善意の行動が、彼女には恐怖として映っている。今は、これ以上刺激を与えない方が良いだろう。彼はそう判断し、そっとしておいてあげようと考えた。
(やっぱり……まだ、俺が物理的に近づくのは、怖いんだな……)
亮は、少女の、抗うことのできない『生理的な反応』を見て、胸を強く痛めた。
見世物小屋での、あの非人間的な経験が、彼女の心と体にどれほどの『深い傷』を負わせたのか。彼の、純粋な善意の行動でさえ、彼女にとっては、反射的な恐怖の対象となってしまうのだ。その痛ましい様子を見て、亮は、まだ彼女に、これ以上物理的な距離を詰めるタイミングではないと、慎重に、そして痛みを伴いながら判断した。
「ごめんごめん。大丈夫だよ。無理強いはしないからね」
亮は、そう言って、それ以上少女に近づくのをやめた。その場に立ち止まり、彼女の怯えが少しでも和らぐように、もう一度、優しい笑顔を浮かべた。そして、少女を一人残すことに、僅かな後ろめたさを感じながらも、静かに部屋を後にしたのだった。
その後、亮は少女が眠る彼の部屋には立ち入らず、リビングで静かに自分の時間を過ごした。読書をしたり、スマートフォンを見たり。部屋に広がる静寂が、彼の孤独を際立たせるようだった。
夕食の時間になると、彼は再び、少女のために心を込めて食事を用意した。彼女の体調を気遣い、メニューは消化に良いように、栄養価の高い野菜ジュースとプロテインに加え、皮を丁寧に剥き、細かく切った、柔らかくて甘いバナナを持っていった。
部屋のドアをそっと開けると、少女はベッドの布団の上で、静かに目を覚ましているのが見えた。
亮は、彼女のそばに食事を置き、ゆっくりと休むことを改めて、優しく命じた。少女は、亮の言葉に逆らうことなく、与えられたバナナを少しずつ、しかし従順に口にした。その食べる様子を見守りながら、亮は彼女の回復を願う。
そうして、亮が少女の体調と心に、静かに、そして根気強く寄り添いながら過ごした、その日の長い一日は、ゆっくりと静かに終わっていった。二人の間の物理的な距離は、まだ遠い。しかし、亮の献身的な優しさは、確かに少女の心に、微かな変化をもたらし始めていた。




