第07話 少女の過去
小さく、しかし確かに『ごくり、ごくり』と喉を鳴らしてプロテインを飲む少女の姿を、亮は温かい気持ちで眺めていた。そうして五分ほど経過した頃だろうか。彼女はシェイカーの中の全てのプロテインを飲み干した。
それからシェイカーを飲み物の入っていたお盆の上へ丁寧に戻すと、再び亮の方を向き、吸い込まれるような翡翠色の瞳でじっと彼を見つめていた。
その瞳に、先ほどまでの極度の恐怖の色はもはやなく、どこか安堵と、そして僅かながら亮に対する『興味や観察』のようなものが宿っているように見えた。
「えっと……美味しかった、かな?」
言葉は通じないと分かっていながらも、亮は思わず声をかけていた。先ほどまで血の気が引いたように青白かった顔色も、心なしか良くなっているように見える。
表情から恐怖の色が消えているのを見れば、なおさらのこと、この小さな命が少しでも安心していることに安堵し、話しかけずにはいられなかったのだ。
しかし、亮が声を発するたび、少女の小さな肩は『ピクリ』と揺れた。突然の発言に驚いているのか、それともまだ亮に対して不安を感じているのか。その真意は分からないが、少なくとも少女がまだ亮という存在に対して警戒心を抱いている、あるいは極度に物音や声に敏感になっているということだけは、傍から見ても明らかだった。
亮としては、早めに彼女の誤解を解き、自身が敵ではないことを伝える必要性を感じていた。というのも、それ以前に、彼女が一体何者なのか、なぜあんな場所にいたのか、といった『根本的な謎』について、少しでも話を聞いておきたいという焦りがあったからだ。このままでは、謎が多すぎるのだ。
どうしたものかと頭を悩ませながら、亮が次の言葉を選ぼうとしていた、まさにその時──少女が、小さく、だがはっきりと、口を開いた。
「あの……」
掠れた、しかしどこか澄んだ声が、部屋の中に響いた。亮の耳は、その声に釘付けになる。
「おいしい……です」
そして、次に紡がれた言葉は、亮にとってあまりにも予想外で、衝撃的なものだった。
「…………え?」
亮は、その言葉を聞いた瞬間、鳩が豆鉄砲を食ったかのような、あまりの出来事に唖然とした表情を浮かべた。まさか、悪い言い方をすれば、異形ともいえる容姿を持つ少女が、日本語を話せるとは、夢にも思っていなかったのだ。
だが、彼女が確かに話した言葉は、紛れもないれっきとした日本語であり、しかも、その発音も、言葉の意味も、彼の耳にしっかり通じるレベルのものだった。驚き、という言葉だけでは表現できない、まさに呆然自失といった状態だった。
「き、君……いま、日本語……?俺が話してる言葉の意味……わかる、のかな?」
亮は、恐る恐る、確認するように問いかけた。
すると少女は、少しだけ戸惑ったような様子を見せた後、ゆっくりと頷いた。
「は、はい……。ちゃんと、理解できています」
少しだけ、単語を選んでいるような、たどたどしい口調ではある。しかし、それは片言というレベルではない。むしろ、日本の子供が日常的に使っている言葉遣いに近く、日本語を、ほぼ完璧に習得しているようにも見えた。その言葉を聞いていると、彼女の異質な容姿とのギャップに、亮の頭は再び混乱し始めた。
(あれ?この子……日本人なのかな?それとも、日本生まれの外国人、とか?でも、それなら、あの洞窟にいた理由とか、身なりとか……いや、そもそも、『あの耳』は、一体どう説明すればいいんだ……?)
言葉が通じるという、願ってもない状況に喜びを感じる一方で、それ以上に、彼女の常識から外れた容姿が、亮の心を捉えて離さない。
日本人とは明らかに異なる顔立ちであり、外国人であるというだけならば、まだ理解の範疇だ。しかし、彼女には、人間としての耳に加え、獣のような尖った耳まで付いている。まるで、アニメやゲームの世界にしか存在しないような、『獣耳少女』が、今、彼の目の前に座って、日本語を話しているのだ。
亮は、混乱を一旦脇に置き、最も知りたい核心へと踏み込んだ。
「えっと……、君は、一体……どこから来たのかな?何か、覚えていること、ある?」
亮の直接的な質問に、少女は小首を傾げる仕草を見せた。その翡翠色の瞳は、何かを思い出そうとするかのように宙を彷徨い、辺りをキョロキョロと見渡す。そして、困惑した表情で小さく呟くように語り始めた。
「わたしは……『見世物小屋』に、いました……そして、とても暗い、あの牢の中で、ずっと閉じ込められていて……気が付いたら、ここに、いました……ここは……どこなのでしょうか……?」
(見世物小屋……?)
亮は、少女の口から出た、その不穏な言葉に反応した。
(見世物小屋って……確か昔、外見が珍しい人とか、珍しい動物とかを、人に見せて金儲けしてた、あれだよな……)
洞窟で発見した当初の、少女の痩せ細り、汚れきった姿を思い浮かべると、『見世物小屋』という言葉は、亮にとって非常に不吉な響きを帯びて聞こえた。それは、一般的に娯楽として考えられている見世物小屋とは異なり、人間以下の扱いを受け、搾取されるような、いわゆる裏側に属する、闇の見世物小屋ではないのか。亮の頭の中では、そんな嫌な想像が膨らんだ。
「そう、だったんだね……」
亮は、少女の言葉に、優しく相槌を打った。
「ここはね……君がいた場所とは、多分違うと思う。ここは、『日本』という国で、この場所は、一応、俺のお家なんだけど……」
亮は、できるだけ少女が理解できるように、簡潔に、そして事実ベースでの話を試みた。
「君はね、昨日、近くの森にある洞窟の一番奥の、牢屋みたいなところで倒れていたから、俺がここまで連れてきたんだ」
彼が、『日本』という国であること、そして『俺の家』であることを伝えたところで、少女がどのような反応を示すのか。
彼は、注意深く少女のことを観察した。現実離れしているが、少女が異世界のような場所から来た可能性も頭をよぎり始めた亮は、彼女の反応に、何かヒントがあるのではないかと期待したのだ。
しかし、少女は、亮の言っていることが『全く理解できない』ような、困惑した表情をしていた。その瞳には、言葉の意味が分からず、混乱している様子がはっきりと伝わってくる。
「に、ほん……?」
少女は、亮の言葉を鸚鵡返しにした。
「ここは……『プルスラルト帝国』では、ないのですか……?」
少女の口から出た、聞き慣れない国名に、今度は亮が首を傾げた。
「え?プル……?何て言った?」
亮が聞き返すと、少女は少し不安そうな顔をしながら、繰り返した。
「わたしがいた国は……人間が治めている、『プルスラルト帝国』という国でした。……『にほん』、という国の名前は、今まで一度も聞いたことが、ございません……」
その言葉を聞いて、亮の疑念は、ほぼ確信へと変わった。
「そ、そうなんだ……」
亮は、内心の動揺を抑えながら言った。
「俺も、プルスラルト?という国の名前は、正直、聞いたことがないな。……でもまあ、分かった。君は、プルスラルト帝国っていう、そこの国の、見世物小屋にいたんだね」
亮の言葉に対し、少女は再び静かに頷いた。
「はい……元々は森で、動物のみんなとわたし一人で暮らしていましたが……その、見世物小屋の主人に捕まって……それからずっと、見世物小屋にいました……」
「そっか。その、見世物小屋での生活について、もう少し詳しく聞かせてもらってもいいかな……?もちろん、もし、言いづらかったり、嫌な気持ちになったりするなら、無理に話さなくても大丈夫だからね」
亮は、少女の表情を注意深く見ながら、気遣うように尋ねた。
彼の心中には、彼女が語る『見世物小屋』という場所が、一体どのようなものだったのか、想像するだけで胸が締め付けられるような予感があった。聞く前から、決して碌でもない場所であることは予想がついていた。だが、彼女から聞き出せる情報は、たとえ断片的であっても、この状況の謎を解き明かす重要な手掛かりになるかもしれない。
そして、そんな理性的な判断に加え、彼の内なる僅かな好奇心もまた、彼を突き動かしていた。
案の定、『見世物小屋』について尋ねられた少女は、その翡翠色の瞳を伏せ、みるみるうちに表情を暗くした。まるで、過去の嫌な出来事が鮮明に蘇ってきたかのようだ。しかし、亮に話すことを許可された、あるいは促されたことに対し、彼女は従順な性質が染み付いているようで、口を閉ざすということはなかった。
一度息を呑み、小さく震える声で、語り始めた。
「わたしのいた見世物小屋には……人間のお金持ちの人が、たくさん見に来ていました……」
少女の声は、過去の記憶を辿るにつれて、さらに小さく、掠れていく。
一拍、重い沈黙が流れた後、彼女は無理やりに言葉を紡ぎ出すように続けた。
「見世物小屋で、わたしと一緒に見世物になっていたのは……『手足を切り落とされた獣人』や、『腕が四本ある人間』など……異形と呼ばれる方々でした……」
語りながら、少女の瞳に、再び深い恐怖の色が宿っていくのが見えた。彼女の小さな体は小刻みに震えだし、額にはうっすらと冷や汗が滲んでいる。その痛ましい姿を見て、亮は、彼女が自身の想像を遥かに超える、過酷で凄惨な日々を生き抜いてきたことを、改めて確信した。
「その中で……わたしは……主に、『痛めつけられる対象』として、見世物になっていました……」
少女の声が震える。
「わたしは……獣人でも、人間でもない……『いびつな存在』だから……何をしても良い、と……そう、言われていました……」
言葉にするのも辛いのだろう。彼女は時折言葉を詰まらせながら、それでも亮の問いに答えようとしていた。
「その日の、見に来ていたお客さんによって、わたしにされることは変わりますが……大体は……石を投げられたり……鞭で叩かれたり……色んな暴力を振るわれることが、多かったです……」
少女が過去の出来事を語り終えた時、彼女の体は激しく震え、顔は青ざめていた。
亮は、そんな彼女の姿を見て、ある考えに至っていた。それは、信じられないことではあるが、彼女が、この世界の人間ではないのではないかという可能性だった。
(まるで、漫画やアニメみたいな話だけど……でも、あの洞窟の状況とか、この子の容姿とか……獣人とか)
亮は、頭の中で情報を整理しようとする。
(もしかして、この子は……別の世界から、この地球に、何らかの方法でやってきたんじゃないか……?)
だが、そんな突拍子もない考えは、『ありえない』と、理性は即座に否定する。だが、考えれば考えるほど、謎は深まるばかりで、現時点で彼が把握している全ての情報を頭の中でパズルのように組み合わせても、導き出される『答え』は、どうしても現実的にはありえないものばかりであった。
そもそも、こんな人里離れた山奥にある洞窟の、さらに一番奥の、あの場所に、衰弱しきった少女がたった一人でいること自体が、論理的にありえないことなのだ。ましてや、少女はかなり衰弱しており、自分の体力だけであの場所まで辿り着くことなど、物理的に不可能なはずだ。
そして、この少女は、洞窟の一番奥にある『牢屋のような場所』に入れられていた。
あの牢屋の鉄格子は、亮のような大人の男性が力を入れれば曲がる程度の強度しかなかったものの、彼が触れるまでは、全く無傷の状態でそこに存在していたのだ。鉄格子の中には、外に出るための出入り口は全くない。それらを考え合わせれば、鉄格子が無傷であった時点で、少女が鉄格子の方から自力で中に入った、ということはありえないという結論に至る。
それらの常識を逸脱した状況を加味して考えれば、彼女があの場所に、何らかの『物理法則を超えた現象』によって、違う世界から転移してきたと考えるのが、最も妥当な説明に思えてしまうのだ。たとえ、それが自分の知る世界の常識からすれば、全くありえないことであったとしても。それ以外に、これらの状況を説明できる『合理的な答え』が見つからなかった。
(くそ……考えても、考えても、よくわからないな……まるで、頭の中がぐちゃぐちゃだ……)
亮は、非現実的な謎に頭を悩ませながら、一旦思考を中断した。
(……まあ、いいや。難しいことは後で考えよう。それよりも、今は目の前の、この子を……少しでも、安心させてあげないと)
目の前で過去の恐怖に震える少女を、そのままにしておくことはできなかった。そう考えた亮は、彼女が少しでも心を落ち着けられるように、再びコミュニケーションを優先することにした。
「そっか……とても辛い、ところにいたんだね」
亮は、努めて優しい声で語りかけた。
「でも、もう安心していいよ。ここは、君がいた見世物小屋とは違う。ここには、君を傷つけるような存在は、誰もいないから」
そして、亮は、少女を安心させようと、にっこりと、精一杯の笑顔を見せて言った。
「というか……ここには、俺しかいないしね」
彼の言葉と笑顔が、僅かでも安心感を与えたのだろうか。ほんのわずかだが、少女の体の震えが治まったように見えた。
少女は、俯き、床を見つめていた顔を、再び恐る恐るといった様子で亮に向けた。そして、小さく口を開いた。
「あの……あなた様は……一体……?」
(あなた様、って……)
少女が、亮に対して使った呼び方に、彼は若干の戸惑いを覚えた。それは、彼の日常生活ではまず聞くことのない、敬意や畏怖を示すような、古風な呼び方だった。
しかし、少女が語った過酷な過去を思えば、彼女のいた世界では、自分より立場の上の人間や、自分を支配する存在に対しては、絶対に逆らってはならない主人のようなものとして見なければ生きていけなかったのかもしれない。そう考えると、この『あなた様』という呼び方も、彼女の過去の境遇が染み付いた結果なのだろうと、亮は推測した。
「俺はね……」
亮は、戸惑いを顔に出さないように努めながら、優しく答えた。
「根村 亮っていうんだ。この家に、一人で暮らしてる……えっと、仕事とかは特にしてないから……まあ、無職かな」
亮が自己紹介を終えると、少女は彼の名前を復唱した。
「……ねむら……りょう……さま……?」
(いやいや、様付けって……!)
予想はしていたものの、やはり自分の名前に『様』を付けられるのは、どうにも落ち着かない。彼は苦笑いを浮かべた。
「うん、そう。苗字が根村で、名前が亮ね」
亮は、もう一度、ゆっくりと自分の名前を説明した。この先、彼女との間には、言葉の壁以上に、様々な『文化や価値観の壁』が存在するのかもしれない。そう予感しつつも、亮は、目の前の小さな存在との、奇妙な交流を続けていた。




