第05話 少女を連れて家へ
亮は、気を失った少女をまるで壊れ物を扱うかのように、慎重に抱きかかえたまま浴室へと向かった。
本当は、少女が目を覚ましてからゆっくりと状況を説明し、同意を得てから風呂に入れようと考えていたが、あまりにも少女の体が長年の汚れでひどく、彼女から放たれる匂いも彼の鼻を麻痺させるほど強烈だったため、やむを得ず、この例外的な状況下では、彼女の意思を確認するよりも先に体を清潔にすることが最優先だと判断し、先に風呂へ連れて行くことを決意したのだ。
「ごめんよ。ちょっと……その、汚れが、どうしても気になっちゃって。お風呂、連れて行かせてもらうね」
当然ながら、気を失っている少女から返事が返ってくるはずもない。彼の言葉は、少女にではなく、自分自身に言い聞かせるような、完全に独り言だった。
それでも、何も言わずに無言で風呂へ連れて行くのは、亮なりのせめてもの配慮だった。少女への罪悪感を少しでも和らげたかったのかもしれない。
今回、少女を連れて向かったのは、開放的な露天風呂ではなく、シャワーが設置されている内湯のある浴室の方だ。
ドアを開けると、そこにはヒノキの香りが微かに、しかし確かに漂う、清潔感に満ちた空間が広がっていた。
壁や天井にはふんだんに、良質な木材が使用されており、無機質なタイル貼りの浴室とは異なり、温かみのある雰囲気を醸し出している。浴室暖房も完備されているため、山奥の家特有の冬場のあの骨まで凍りつくような寒さとは無縁だ。
もっとも、初夏が近いこの季節であれば、暖房をつける必要など全くないのだが。
亮は、少女を冷たい床に直接寝かせることをためらい、ヒノキの香りがやさしく立ち込める浴室の片隅──湯気がほんのりと舞う静かな空間に設置されたヒノキ材のベンチへと、そっと横たえさせた。触れれば壊れてしまいそうな、そんな儚さを宿した少女の身体。亮の指先には、自然と余計な力が入らなかった。
シャワーの蛇口を捻ると、管の奥から音を立てて流れ出す水が、次第に温もりを帯びてゆく。湯気がほのかに立ち上る中、熱すぎず、冷たすぎず──少女の繊細な肌にも優しい、ちょうどよい温度を見計らって、亮はようやく動き出した。
まるで赤子に触れるようにおそるおそる、少女の髪へと指を伸ばす。その髪は、長らく手入れをされてこなかったのだろう。ほこりと脂にまみれ、所々でひどく絡まり、指がまったく通らない。絡まりのひとつひとつに、少女が過ごしてきた過酷な時間が滲んでいるようだった。
まずは毛先にぬるま湯をそっと掛け、汚れを浮かすように、ゆっくりとほぐしていく。
シャンプーを泡立てた手で、優しく、けれど確実に髪の奥深くにこびりついた汚れを根気強く落としていく。泡が流れていくたび、少女の髪は少しずつ本来の柔らかさと光沢を取り戻していった。
亮は何度も、丁寧に洗っては流すという動作を繰り返した。ぬるま湯の中をすくう指先に、気の遠くなるほどの思いが込められていた。髪がようやく綺麗になると次は身体だ。見た目にも分かるほど汚れきった肌は、まるで幾重にも重なった埃の膜に覆われているかのようだった。
(……ちょっと、ごめん)
亮はそっと目を伏せ、少女の身体を覆っていた、ボロ布と呼ぶにも憚られるような汚れた布を脱がせる。そのまま、すぐに清潔なフェイスタオルを身体に掛け、視線を逸らす。触れてはならないもの、見てはならないものを守るための、亮なりの礼儀だった。
それからは、いかに彼女の身体を直視せずに洗うか、必死で頭を働かせながらの作業だった。濡らしたタオルで撫でるように、そして汚れが落ちるたびに新しい面へと替えていく。肌の下に刻まれた細かな擦り傷やあざの数々に胸が締めつけられた。
全身の汚れをようやく洗い流し終えたときには、すでに亮の額には細かな汗が滲んでいた。
脱衣所へ少女を連れていき、今度は髪を乾かす番だ。ドライヤーの風が直接肌に当たらないよう、角度と距離を慎重に調節しながら、時間をかけてふわりふわりと乾かしていく。少女の髪がふんわりと空気を含み、ようやく人らしい姿に近づいていくその過程は、どこか壊れた人形に命を吹き込む儀式のようでもあった。
乾かし終えた髪にそっと指を通したあと、亮は手元にあった中で最も小さく、そして最も清潔な、何かの景品で当たったと思われる新品の白い上下のスウェットを取り出し、まるで壊れ物を扱うような手つきで少女に着せた。
そして今──少女は亮の部屋の、ふかふかの布団の上に寝かされている。まるで宝物でも包み込むかのように、大切そうに、そっと。
少女はその間、一度も目を覚ますことはなかった。今もなお、小さな胸を上下させながら、スースーと、時折詰まるような、それでもどこか幼さを感じさせる寝息を立てて眠っている。
ときおり、顔をかすかにしかめては、小さく身じろぎし──まるで何かから逃れるようにうなされることもあった。だが、それでも彼女の意識は深い眠りの底から戻ってはこなかった。
「本当に……この子、一体何なんだろうな……?」
亮は、眠る少女の顔を見つめながら、独り言を呟く。
「あの耳……あの髪の色……どう見ても、日本人じゃないよな。見た目的には」
苦痛に歪むような表情を浮かべながら、それでも眠り続ける少女を見ていて、亮は、ふと、衝動に駆られるように、その小さな頭を、まるで愛しい存在を慈しむかのように、優しく、そっと撫でてあげた。
すると、不思議なことに、それまでどこか強張っていた少女の表情は、まるで氷が溶けるように和らぎ、それまで何度も繰り返していた、苦しそうなうめき声も止み、穏やかな寝息を立て始めた。
「……宝くじに当選したこともそうだけど、本当に俺の人生、この数ヶ月で、まるでジェットコースターみたいに、ありえないことばっかり起きてる気がするな……」
亮は、自分の身に降りかかっている、あまりにも非現実的な出来事を思い返し、自嘲気味に呟いた。
「まあ……考えても仕方ないか。今は、この子のことで頭がいっぱいだし……」
そう、まるで自分に言い聞かせるように呟くと、亮は、自らも眠りにつくために、隣の部屋にあるリビングの、少し硬めのソファーへと向かった。
「今日はなんか、すごく疲れたな。肉体的な疲労、というよりも心労、かな……?仕事をしていた時以来の、どっと押し寄せる疲れだ……今日はもう、何も考えずに、ぐっすり寝よう……」
亮は、リビングに持ち込んだ毛布で自らの体を雑に覆うと、全身の力を抜き、ソファーへと横になった。そして、五分と立たずに、深い深い眠りについたのだった。




