第21話 初めての飛行機
芳醇な余韻を残す一杯の珈琲を飲み終え、亮と心春は静かな古民家カフェを後にした。去り際、マスターが心春にだけ見せた穏やかな微笑みは、彼女にとって『外の世界』が必ずしも敵意に満ちた場所ではないことを教える、無言の激励のようだった。
再び車を走らせ、山を下り、市街地を抜けていく。やがて、平坦な土地に広がる地方空港の姿が見えてきた。
「さあ、着いたよ。ここが空港だ」
車を停め、亮が声をかけると、心春は緊張と期待が入り混じった表情で窓の外を見つめた。東北の地方空港ということもあり、利用客の姿はまばらで、喧騒とは程遠い。しかし、心春にとってはこれまでの人生で見たこともない巨大な建造物であり、鉄の塊が空を飛ぶための聖域のように見えた。
車を降り、トランクから荷物を取り出す。亮は心春の小さな手をしっかりと握り、建物の入り口へと向かった。
「大丈夫。俺のそばを離れないでね」
「はい、りょうくん」
ぎこちないながらも名前を呼び、心春は亮の歩幅に合わせて懸命に歩く。麦わら帽子を深くかぶり、耳を隠してはいるものの、彼女の存在感は周囲の視線を惹きつけずにはいなかった。透き通るような白金の髪が風に揺れ、宝石のように輝く翡翠の瞳が不安げに揺れる。すれ違う人々は、そのあまりに浮世離れした美しさに、思わず歩みを止めて振り返る。
(やっぱり、帽子をかぶっていても隠しきれない華があるよなあ……)
亮はそんな周囲の視線から守るように、さりげなく心春を自分の方へと引き寄せた。
チェックインを済ませ、手荷物検査という『関門』を無事に通り抜ける。心春は金属探知機のゲートをくぐる際、心臓が口から飛び出しそうなほど緊張していたが、亮が先に通り抜けて笑顔で手招きするのを見て、意を決して飛び込んだ。何も起きなかったことに安堵し、彼女は胸を撫で下ろす。
待合室の窓から、駐機場の飛行機が目の前に現れると、心春は感嘆の声を漏らした。
「りょうくん、あれが……時速九百キロの……」
「そうだよ。近くで見ると、もっと大きく感じるだろう」
機内へと案内されると、亮はあらかじめ予約しておいた窓際の席に心春を座らせた。初めて座る航空機の座席の感触、シートベルトの独特な締め付け。すべてが彼女にとって未知の体験だった。
やがて、巨大なエンジンが咆哮を上げ、機体が滑走路を猛然と走り出す。背中を座席に押し付けられるような強烈な重力に、心春は思わず亮の腕をぎゅっと掴んだ。
「怖いかい?」
「……少しだけ。でも、不思議な気分です。地面が離れていくのがわかります」
ふわり、と浮遊感が体を包んだ瞬間、窓の外の景色が劇的に変化した。建物が豆粒のようになり、田畑がパッチワークの模様へと変わっていく。そして機体は白い雲の層を突き抜け、果てしなく続く青空の世界へと躍り出た。
「わあ……っ」
心春は窓に顔を近づけ、夢中になって外を眺めた。眼下に広がるのは、太陽の光を反射して輝く雲の海だ。それはまるで、神話の世界に迷い込んだかのような神々しい光景だった。
「すごく綺麗……。りょうくん、見てください。雲が、綿菓子みたいです」
「そうだね。あの上を歩けそうな気がするだろう」
空の旅は一時間余り。心春は片時も窓の外から目を離さず、空の色が刻一刻と変わる様子をその瞳に焼き付けていた。
大阪の伊丹空港に降り立ったとき、心春を待っていたのは、東北の山奥とは明らかに異なる、熱を帯びた空気と独特の匂いだった。
「やっぱりこっちは少し暑いな。今日はもう遅いから、すぐに宿へ行こうか」
空港からほど近い場所に位置する、静謐な佇まいの高級旅館。亮が選んだのは、都会の喧騒を忘れさせるような、豊かな緑に囲まれた隠れ家的な宿だった。
「いらっしゃいませ」
着物姿の仲居さんに案内され、畳の香りが心地よい客室へと入る。心春は、スリッパを脱いで畳の上を歩く感触に懐かしさを感じたのか、少しだけ表情を和らげた。
夕食は部屋に運ばれてきた。地元の旬の食材をふんだんに使った懐石料理だ。
「おいしいです、これ……」
心春は、丁寧に盛り付けられた一品一品を、慈しむように口に運ぶ。出汁の優しい味わいが、旅の疲れを解きほぐしていくようだった。
食事が終わると、亮は部屋に設えられた客室露天風呂の支度を整えた。
「心春、お風呂に入ろうか。今日は客室に専用のお風呂がついているから、誰の目も気にしなくていいよ」
以前は水に浸かることさえ恐怖を感じていた心春だったが、亮との日々の生活の中で、今では温泉を『心地よいもの』として受け入れられるようになっていた。
戸を開けると、夜風が火照った肌を撫でる。湯船からは白い湯気が立ち上り、月明かりを反射して水面が揺れていた。
二人は静かに湯船に身を沈める。
「……はあ……」
心春の口から、無意識に溜息が漏れた。温かい湯が体の芯まで浸透し、硬くなっていた筋肉が解けていく。
「温泉、気持ちいいね」
「はい。前まではあんなに怖かったのに、不思議です。温かい水が、私を優しく包んでくれているみたいで」
心春は、お湯を両手ですくい上げ、自らの肩にかける。その仕草には、かつて見世物小屋で受けた傷跡を隠すような悲壮感はなく、ただ今の幸せを噛み締めるような穏やかさがあった。
「明日からは、大阪の街を歩くことになる。今日はゆっくり休んで、体力を回復させよう」
「はい、りょうくん」
風呂から上がり、浴衣に着替えた二人は、しばらくの間、部屋のテレビを眺めて過ごした。画面の中で賑やかに笑う人々、鮮やかな色彩。心春にとってはそれさえも娯楽というよりは、新しい世界の断片を集める作業のようだった。
亮の隣で座椅子に身を預けていた心春だったが、やがてその頭がこっくりと揺れ始めた。翡翠の瞳は眠気に抗えず、小さな手で何度も目をこすっている。
「眠いのかい」
「……いえ、まだ……大丈夫……です……」
そう言いながらも、次の瞬間にはまた船を漕いでいる。亮は思わず口元を綻ばせ、立ち上がった。
「無理しなくていいよ。明日は朝からたくさん歩くからね。今日はもう寝よう」
仲居さんが敷いてくれた真っ白な布団は、ふかふかとしていて見るからに寝心地が良そうだった。亮に促されるまま、心春は布団の中へと潜り込む。
「おやすみなさい、りょうくん」
枕元に寄り添う亮に、心春は消え入りそうな声で告げた。その表情は、信頼する者の隣で眠れる安堵感に満ち溢れている。
「おやすみ、心春」
亮が部屋の明かりを落とすと、窓から差し込む淡い月光が、心春の寝顔を優しく照らした。
明日は大阪観光の初日。この少女の目に、賑やかな都会の景色はどう映るのだろうか。亮は心春の規則正しい寝息を聞きながら、静かに目を閉じた。二人の新しい旅は、まだ始まったばかりだった。




