第20話 静かな森のカフェ
店の前の駐車場かどうかもわからないようなスペースに車を止め、車から降りると、店の扉が静かに開く。そこに立っていたのは、作務衣姿の店主の男性だった。
「いらっしゃい」
小さくも温かい声がかけられる。その声は、森の静けさに溶け込むように、耳に心地よかった。
亮は、しっかりと帽子をかぶせた状態の心春の小さな手を引きながら、店主に向かって小さく頭を下げる。心春の体から伝わる微かな緊張を、亮の手は感じ取っていた。
「マスター、お久しぶりです」
マスターは、静かな笑みを浮かべて「どうぞ」と短く歓迎の言葉を述べた。その眼差しは、心春の珍しい容姿に一切の疑問も好奇心も抱いていないように見えた。
お店の中は、古き良き古民家をリノベーションした、洗練された空間が広がっている。土間には囲炉裏が残されていたり、木の質感が感じられる格子や、庭の景色を借景する小窓、むき出しの柱や梁、すべてが計算され尽くした建物だ。
中に置かれた家具や小物類も、ミニマリズムを感じさせる、無駄を省き、空間へと溶け込むものばかりだった。太陽の光が差し込む店内は、埃もほとんど舞っておらず、店主が丁寧にお店の中を清掃していることが、空気の澄み方から想像できた。
そして店内は、BGMも一切流れておらず、そこにある音は、自然が奏でる音だけだった。風の音や木のざわめき、小鳥のさえずり、虫の声。そして、壁にかけられた時計の針が「カチ、カチ」と進む音だけが、静寂の中で際立って響いていた。
「いつものかな」
マスターが静かに問いかけてくる。寡黙なマスターは、必要以上に声をかけてくることはない。この店は静寂を愛し、静寂を楽しむというコンセプトが、マスターの一挙手一投足までこだわり抜かれていた。だからこそ、少々容姿が珍しい心春がいたとしても、マスターは気に留めない。そこにいるのは、ただ一人の人間、それ以下でもそれ以上でもないのだ。
「いつものを二人分でお願いします」
「少々お待ち下さいね」
カラカラと豆を計量する乾いた音だけが響く。そして数十秒後、マスターが「こちらへどうぞ」と、店の角へと案内する。そこには使い込まれた石臼が置かれていた。
「心春もおいで」
「はい」
初めて亮以外の人と会ったことにより、心春は少し緊張している様子だったが、亮に手を引かれれば問題なく動くことができた。それは、亮への絶対的な信頼から来るものだった。
亮は、そんな心春を奥の石臼の前に座らせると、彼のその隣に座る。マスターからコーヒー豆を受け取った亮は、心春の目の前の石臼の穴に、少量のコーヒー豆を入れた。
「よく見ててね」
石臼を二周回し、コーヒー豆がゴリゴリと心地よい摩擦音を立てて粉砕される。その瞬間、周囲には香ばしいコーヒーの香りが濃密に漂ってきた。それは、心春がかつて「これでいい」と感じた、心安らぐ香りだった。
「こんな感じでコーヒー豆を少し入れたら、ここを二回回す。それを豆がなくなるまでやってみて。とってもいい香りがするから、香りも楽しんでね」
「は、はい」
亮は、初めてこの店に来た時にマスターが教えてくれた通りのことを心春に告げる。心春の翡翠色の瞳は、石臼の動きと、その後に広がる香りに夢中になっていた。
それからは二人とも石臼の前で、ゴリゴリとコーヒー豆を挽いていく。静寂の中で、その生命を削り出すような摩擦の音だけが、穏やかに響いていた。
心春は先ほどの緊張が嘘のように消え去り、無邪気な笑顔で石臼を回している。教えられた通りに、二粒入れては二回転回し、器用な手つきでコーヒー豆を挽いていた。その集中力は、まるで繊細な作業を楽しむ職人のようだった。
そんな様子をほのぼのとした表情で眺めていると、ふと顔を上げた心春と目が合った。
「心春、楽しいかい」
「はい、とっても楽しいです。コーヒーの豆がこんなに可愛い見た目をしていることを知れたり、豆を挽いた時の感触や匂いがこんなに素晴らしいものだと知れたのがとっても嬉しいです」
心春の純粋な感動が込められた回答に、カウンターで様子を伺っていたマスターが僅かに頷いているのが視界の隅に入った。寡黙で静かなマスターにしては、珍しい反応だ。
「そっか、それは良かった。連れてきた甲斐があったよ」
亮としても、心春が心から楽しんでいる姿を見るのは深い幸せを感じる。それに、自分が好きなことを大切な人と共有できるというのは、非常に有意義な時間となるものだ。
そんなこんなで豆を挽き終わり、頃合いを見計らってやってきたマスターへ、挽いたコーヒー豆が入った小瓶を渡す。するとマスターは静かに「少し待っててね」と言って、カウンターへ戻っていった。
心春と二人、掘りごたつのようなテーブル席へと向かう。店内には、自然が生み出す音以外の音が全くしない。その研ぎ澄まされた静寂を楽しみながら待っていると、待ちに待ったコーヒーが運ばれてきた。
ほんのりと湯気が上がり、香り高いコーヒーがマグカップに入れられ、木の机の上に置かれた。
「ごゆっくり」
マスターのそのたった一言には、全ての想いが込められていると亮は感じた。この店の中の静寂、そしてコーヒーの香り、コーヒーの味、この店で感じられるすべてをゆっくりと味わい、過ごしてほしいという深く穏やかな願いだ。
「ありがとうございます」
亮もまた、静かに返すと、早速マグカップに手を伸ばす。
そして、優しい香りを鼻の近くで深く堪能してから、ゆっくりと一口、口に含む。その瞬間訪れる、芳醇な香りとほのかな苦味。雑味が全くない透き通るようなコーヒーの味に、亮は心底ホッとした息を吐いた。
そんな幸せそうな姿の亮を観察していた心春は、彼と全く同じ所作でマグカップに手を伸ばし、コーヒーを飲む。
すると、帽子の中で耳がぴょんと立ち、麦わら帽子がわずかに揺れた。
亮の家で飲んだコーヒーも美味しかったが、ここでのコーヒーはまた違う種類の美味しさが感じられたからだ。まだ、その繊細な違いをすべてうまく言語化できない心春だったが、彼女の穏やかで、満たされた表情が全てを物語っていた。
「とっても、おいしいです」
心春は、自然とマスターの方を向いてそう言っていた。人見知りの心春が、自ら声を上げたのだ。その小さな、しかし大きな変化に亮は驚きを隠せなかったが、マスターは穏やかな笑顔を浮かべて、「ありがとうございます」と答えていた。




