第02話 宝くじが当たりました
一方、肌に纏わりつくじめじめとした地下牢の冷気と、魂胆まで侵す腐敗した悪臭に閉ざされ、筆舌に尽くしがたい過酷な運命に投げ出されている少女が住まう世界とは文字通り光年にも隔たる、眩いばかりの光に満ちた別の世界。
そこにある地球の片隅、ごくありふれた、何の変哲もないアパートの一室で、一人の青年が、まさに人生最大の幸福の絶頂に達していた。しかし、その幸福は、彼の抱える孤独を、かえって際立たせるものとなる。
男の一人暮らしとしては珍しいほどに、綺麗に整頓された、どこか生活感が希薄な部屋の片隅で、彼はスマートフォンの冷たい画面を凝視していた。
その体は、信じがたい光景に全身を硬直させ、まるで自らの肉体から意識が遊離してしまったかのように、現実感のないまま小さく、しかし確かに震えている。
その青年こそ、『根村 亮』。
社会に出て四年目となる、市内のごく普通の中小企業の工場で、埃と油にまみれて、誰とも深く関わることなく働く、孤独を宿した二十二歳の青年。彼の人生は、特筆すべきこともなく、ただ淡々と過ぎていく日常だった。
亮は、僅かに汗ばんだ指先が辿るままにスマートフォンの画面に映し出された、三日前に何気なく『どうせ当たるはずがないだろう』と、ほとんど期待せずに放置していたメールのURLから、恐る恐る、しかし抗いがたい力に吸い寄せられるように、公式の宝くじサイトへアクセスしていた。
心臓が早鐘を打ち、鼓動が耳鳴りのように響く中、震える慣れない手つきでマイページを開き、購入履歴へと進む。
視線が吸い寄せられた結果確認画面には、金色の箔が散りばめられたかのように煌びやかな文字で『一等当選おめでとうございます』という、あまりにも現実離れした祝福の言葉が、その画面の中で躍っていた。
その信じがたい文字列を、亮は何度も、何度も、まるで悪夢から覚めようと必死にもがくかのように、あるいはこれが現実であることを確認しようと、食い入るように読み返していた。
脳裏には、『これは目の錯覚ではないか?』、『いや、巧妙に作られた、本物そっくりの詐欺サイトに違いない』という疑念が、嵐のように荒々しく駆け巡る。
この現実を、一人で受け止めきれないという戸惑いが、彼の思考を混乱させる。しかし、その度に、彼は震える指で画面をスクロールし、公式サイトのロゴやデザイン、記載されている連絡先、運営会社の情報などを、一文字たりとも見落とすまいと、必死に確認し直した。
誰かに確認してもらうこともできず、ただ一人で。
そして、その確認作業は、残念なほどに、一つの事実だけを突きつける。これが紛れもない『本物の宝くじサイト』であること。目の前の結果が、偽りない『紛れもない現実』であること。彼は、その事実を嫌というほど、孤独なアパートの一室で一人受け止めなければならなかった。
さらにメールには、『当選金の振り込みは三日後の三月十日~』と、事務的な文章で淡々と明記されているだけだった。
これがもし、夢でも、巧妙に仕組まれた詐欺でもないのならば、登録している彼の銀行口座に、本日、彼の平凡で、誰とも分かち合うことのない孤独な日常とは、想像を絶する、まさに天文学的な数字である十二億円という当選金が、遅滞なく、紛れもない現実のものとして振り込まれるはずだった。
その途方もない金額の大きさが、誰ともその衝撃を共有できない彼の孤独をかえって強調しているかのようだった。喜びを叫びたい衝動と、それを伝える相手がいない現実が、彼の胸を締め付ける。
「ちょい待てよ……マジで……?うっそだろ……?」
口からかすかに漏れた独り言は、現実を受け入れきれない亮の混乱と、期待と恐怖が入り混じった乾いた震えを含んでいた。どうせ当たるわけないと、宝くじの確認メールなどゴミ箱直行が当たり前だった彼の日常。それゆえに、『まさか、本当に……?』という、信じがたい驚きが、彼の全身を駆け巡る。
沸騰しそうな思考を、彼は必死に立て直そうとする。だが、一人でこの状況を処理するには、あまりにも情報が大きすぎた。それでも、確認しなければならない。
彼は、震える手で、再びスマートフォンを操作する。今度は、普段は残高を見るのが怖くて、あるいは、孤独な節約生活のために頻繁には開かない銀行口座のアプリを起動した。
冷や汗がじんわりと滲んだ震える手で、スマートフォンの画面に指を置き、生体認証である指紋認証を試みる。緊張で指先が滑り、何度か失敗した後、ようやく『認証完了』の文字がひっそりと表示され、口座残高画面が開かれた。
そこに映し出されていたのは、社会人生活でコツコツと、時に血の滲むような努力で貯めた『九十万円』という、彼にとっての全財産ともいえる、見慣れた貯蓄額を示す数字。
しかし、その後に続く桁数は、彼のそれまでの平凡で孤独な人生の尺度を遥かに超えていた。九十万の後に続くゼロの列が、まるで遥か彼方の銀河のように遠く霞んで見え、『十二』という数字が、宇宙から飛来した巨大な隕石のように、彼の小さな世界に衝突してきたかのように、異様な輝きを放って表示されている。
「おいおい……まじかよ……一、十、百、千、万、十万、百万、一千万、一億、十億……うっそだろ。やべえ……やっべえってこれ……」
乾いた喉から搾り出すような、掠れた震え声で、彼はまるで初めて数字を習う幼い子供のように、画面の桁数を指で追いながら確認する。
百万円、一千万円、一億円、そして、信じがたい十二億円。口座に記されたこの揺るぎない決定的な現実が亮を非日常の浮遊感と混乱から、有無を言わさず、物理的に現実の世界へ引き戻した。
これは疑いようのない、嘘でも詐欺でも夢でもない、彼の孤独な人生に、唐突に突きつけられた紛れもない現実なのだ。
胸の奥底から、まるで長い間、誰にも見せることなく抑えつけられていた感情のダムが決壊したかのように、喜び、興奮、安堵、そしてある種の途方もない茫然自失が混じり合った、名状しがたい感情の奔流が、一気にこみあげてくる。
その制御不能な感情の奔流に、彼の脳が名前を付ける猶予すらないまま、亮は衝動のままに、この一人だけの衝撃を世界に知らしめるかのように、自らの存在を天に向かって証明するかのように、両手を天に突き上げ、アパート中に響き渡るかのような『咆哮』で一言──
「よっしゃああああああああああっ!!」
──とだけ、全身から迸る歓喜の叫び声を張り上げた。
その声が部屋の壁を揺らし、天井に反響し、建物の躯体全体を物理的に震わせた、まさにその刹那。隣の部屋の住民から、あまりに突然で、あまりに常軌を逸した声の大きさに対する、怒りにも似た、しかし一切の言葉を含まない無言の抗議を込めた、鈍く重い『ドスン!』という『壁パン』を喰らったのだった。
一人で喜びを爆発させた結果が、他者からの『無言の拒絶』という形で返ってくる。彼の孤独が、ここでも影を落とす。
「おっと、騒ぎすぎたな……」
亮は肩を竦めながら、しかしその表情には、抑制しきれない、心からの笑みが浮かんでいた。他者からの反応があっても、この喜びだけは誰にも奪えない。
「でもまあ、いいか。今なら……そうだな、この壁パンすらも……俺の新しい人生の門出を祝う、最高のファンファーレにすら聞こえるな」
(これから……何しよう……?何でも……何でもできるんだ……)
彼の脳裏には、無限の可能性が光のように広がっていた。だが、その可能性を、誰と分かち合うのだろうか。誰に話すのだろうか。その問いが、彼の胸に『微かな影』を落とす。
そして翌日。
亮は、まるで地面に足が着いていないかのように軽やかなスキップ混じりの足取りで会社へと赴き、人事部のドアを迷いなく開き、担当者の目の前で高らかに辞表を提出し、四年勤めた工場での孤独な仕事を辞めたことは、もはや言うまでもない。
その日が、彼の人生における決定的な一歩であった。




