第19話 旅行の準備
大阪への旅行を決めて、その準備に取り掛かってから四日が過ぎた頃。心春に対する外の世界のルールの説明も一段落ついたところで、亮は心春へささやかなプレゼントを渡すことにした。
今回は、完全に亮の独断と偏見によって選ばれた服だ。だが、彼はこの先の旅路で、心春自身が自由に服を選ぶという新たな喜びを経験できるよう、大阪で彼女に合う衣服店を探し、心春に好きな服を選んでもらうというイベントを、密かに心の中で企画している。
「心春、ちょっといいかな?」
亮は、通販サイトから届いたダンボール箱を抱え、リビングで大人しく、絵本を眺めていた心春の元へと向かうと、心春は、亮が抱える大きな箱を不思議そうに見つめていた。
「はい、りょうさ……りょうくん、大丈夫です」
大阪へ行った時の練習のために、亮は心春に『亮様』と呼ぶことを禁止し、『亮くん』と呼ばせている。まだまだ慣れない様子の心春は、『りょう様』と言いかけてから慌てて言い直すという、可愛らしいやり取りを何度も続けていた。
彼女が頑張って「りょうくん」と言おうとする姿は、亮の胸をくすぐる。つい、何度も声をかけてしまうのだが、それは亮の中だけの密かな楽しみである。
「大阪へ行く時に着ていく服が届いたから、着てみてくれるかな?」
「お洋服、ですか?」
心なしか、心春は嬉しそうな表情を見せている。その輝きに、亮も思わず頬が緩んだ。
(やっぱり心春も女の子だもんな。洋服は好きだよね)
亮は、そんな当たり前の事実にしみじみと感動しながら、段ボール用のセラミックカッターで箱を慎重に開梱していく。
そして、中から丁寧に包装された包みを取り出すと、そこから水色と白の縞模様のソックスと、ふんわりとした水色のスカート、それに清涼感のある白のオフショルダーのトップスが出てきた。
一つずつ丁寧に取り出し、タグなどを外してから、亮は心春の目の前へと置いていく。
「はい。俺が勝手に選んだからもしかしたら気に入らないかもしれないけど、とりあえず着てみてくれるかな?」
心春は、亮の言葉に答えず、じっと目の前に置かれた真新しい服を見つめていた。その翡翠色の瞳は、喜びの光で満ちている。やがて、彼女はゆっくりと顔を上げた。その表情は、いつもよりも明るく、そして幸せそうな笑顔に満ちていた。
「心春、嬉しいです。りょう様が……あっ!……りょうくんが、選んでくれた服の方が、嬉しいです」
そう言って、彼女は両手で新しい服をぎゅっと抱きしめる。まるで、大切な宝物を、この腕で二度と離さないと誓うかのように。その愛おしむような仕草に、亮の心もまた温かくなった。
「喜んでくれてよかった。実は靴も買ってあって、それも届いてるから持ってくるね。その間に着替えててくれると嬉しいな」
そう言い残して、亮はダンボールが置かれている玄関へと向かって行った。
一人残された心春は、その場で自分が今着ている、白いワンピースを脱いで、心臓がドクドクと喜びで高鳴るのを感じながら、早速新しくもらった服へと着替えていく。それは、彼女の心が踊り出すような、至福の時間だった。
亮がもう一つのダンボールを持って部屋に戻ってくる頃には、すでに着替えを終えた心春が、そこに立っていた。彼女の姿は、まるで生まれ変わったかのように、生き生きとしている。
「おー!よく似合ってるね!それじゃあ、仕上げにこの靴を履いてみようか」
亮は、慣れた手つきでダンボールを開梱し、中から光沢のある黒い革製のローファーを取り出した。いつもはスニーカーやサンダルを履いている心春にとって、この靴は物珍しかったのだろう。その翡翠色の瞳を輝かせ、まるで新しい宝石を見つけたかのように、興味津々でじっと眺めていた。
「この椅子に座って履いてごらん?」
亮が近くにあった木製の椅子を心春の前に置き、着席を促すと、心春は嬉しそうに椅子へと腰を下ろした。
「この靴は靴紐もないから、立ったままでも履きやすいんだけど、一応座って履こうね。はい、どうぞ」
亮が、二つのローファーを心春の足元に丁寧に並べて置くと、心春は早速、左足からローファーの中へとそっと足を差し入れた。サイズもぴったりだったようで、彼女の小さな足は、軽く押し込めばすっぽりとおさまった。新しい革の匂いが、かすかに鼻腔をくすぐる。
そして、心春はローファーに覆われた足を、うっとりとした表情で眺めている。その満ち足りた表情は、見ている亮にさえ、純粋な喜びという気持ちを強く伝えてきた。まるで、そのローファーが、彼女の新しい世界への第一歩を象徴しているかのように、彼女の心を躍らせているのだ。
「かわいい……」
心春は、まるで夢見るようにそう小さくつぶやくと、すぐそばに立って見守る亮へと視線を向けた。
「りょうくん、心春は今、幸せです」
光輝く翡翠色の瞳が、亮をまっすぐに見つめてくる。出会った頃とは、別人だと見紛うほどに明るい表情をするようになった心春は、最近では笑顔も自然なものになっている。今もまた、心の底からの嬉しさを隠すことなく笑っていた。
「うん。それならよかった。思った通りよく似合ってるね。とっても可愛いよ、心春」
亮がそう告げると、心春は感謝と照れが混じったように、少しだけ頭を前に傾ける。そして、上目遣いで亮を見つめた。それは、まるで何かをねだる、子猫のような愛らしい仕草だった。彼は一瞬、心春の真意を考えるが、すぐに答えが浮かんでくる。
(これは撫でてほしい合図か……っ!)
亮は、心春の仕草に心の中でくすぐったい衝動を感じながら、その柔らかな髪に手を伸ばし、優しく撫でてあげた。温かい手の重みを感じた心春は、満足そうに、さらに深く笑顔を浮かべていた。二人の間に流れる時間は、言葉のいらない、静かな幸福に満ちていた。
◆◇◆◇◆◇
大阪旅行の準備が始まってから、心春との人間社会の勉強やお出かけ用の服を見繕ってから、さらに三日が過ぎた。そして今日、二人はついに大阪へ旅立つ日を迎えた。
亮の信条は、『時は金なり』だ。そのため、彼は移動手段に、時間を最低限にするものを選ぶことを常としている。今回の主要な移動手段もまた、民間人が選択できる中でも最速を誇る航空機だ。大阪までの飛行時間は一時間と少し。新幹線での移動と比べても、その時間は三分の一から四分の一で済む。
まずは、空港まで自家用車で向かう。
亮は、革製のローファーを履いた心春に合わせるように歩みながら、旅行用のリュックサックなどの荷物を車のトランクに積み込んだ。そして、心春と共に車の中へと入る。初めての車に困惑する助手席の心春へ、亮は優しくシートベルトを締めてあげた。シートベルトが彼女の細い体をそっと包む。
「これから空港に向かうからね。飛行機、前に映像で見せたから覚えてるよね?」
事前の勉強の際に、車や飛行機、その他の公共交通手段については、心春に映像とともに教えてある。心春は、その正確な知識を頭の中に持っている。
「はい。時速約九百キロで飛行する乗り物です!」
「う、うん。そうだね。よく覚えてるね」
若干、その覚え方が堅苦しいものの、しっかりと知識を記憶している心春に、亮は満足そうに微笑んだ。
「さて、まずは空港まで車で行くからね。途中の景色とかで気になったものがあったら、遠慮なく声をかけてね」
「はい。わかりましたっ!」
心なしか、心春の声のトーンも高く、弾むような楽しげな様子が伝わってくる。その喜びを隣に乗せたまま、亮は車のエンジンを始動させた。ハイブリッド車特有の静かな発進音が、早朝の森の中にわずかに響かせながら、車は滑るように走り出した。
しばらくは、道の悪い曲がりくねった山道を下るため、同じ景色が続いた。辺りを覆う濃い緑の匂いと、湿った土の香りだけが、五感を刺激する。しかし、しばらくすると、ぽつらぽつらと民家や畑などが姿を現し始め、景色が変わり始めた。それは、外界との接触が始まることの、小さなサインだった。
(まだ、離陸時間までは結構あるからな。どこか寄り道して行こうかな?)
車を走らせながら、亮はそんなことを考えていた。心春と二人で寄り道をする、それは何とも甘い響きだった。どんなところへ連れて行っても、どんなことを教えてあげても、心春は笑顔で、とても楽しそうに過ごしてくれる。そんな彼女の純粋な笑顔を見ることは、亮にとっての何よりの癒やしでもあった。
(……うーん、……あっ!そうだ!あのカフェだ!)
まるで稲妻のように閃き、亮の頭の中に浮かんだのは、都会へと続く道の途中にある、森の中のカフェだった。今の家に引っ越してくる前に、通りすがりに見つけた小さな古民家のカフェがある。車もまばらにしか通らないような道の途中にあるため、人も少ないだろうと考え、以前に寄ったら、非常に良い雰囲気と極上のコーヒーが提供され、すっかり虜となり、たまに顔を出していたのだ。そのカフェの中は静寂が心地よく支配する、雰囲気もよく、コーヒーの美味しい素敵な場所で、亮のお気に入りだった。
「心春は、コーヒー好きかな?」
亮は、窓の外を嬉しそうに眺める心春の横顔に、ふと言葉を投げかける。
「コーヒー、ですか?」
振り向いた心春が、薄く微笑みながら首をかしげる。その仕草は、以前よりもずっと感情豊かになっていた。
「うん。コーヒー。ほら、あの何度か飲んでる黒くて苦い飲み物だよ」
心春は少しだけ考えるような素振りを見せてから、ピコンと耳を小さく震わせる。コーヒーが何なのかを思い出したのだ。そしてその味と香りを思い出し、にっこりと笑って頷いた。
「コーヒー、心春は好きです」
「そうなんだ。どんなところが好きなの?」
少し難しい質問だったかな、と亮は反省しながらも返事を待っていると、心春は静かに語り始めた。
「コーヒーの香りを嗅いだ瞬間、胸の奥が『これがいい』って思うんです。苦いのに、温かい。飲むとホッとするのに、頭は冴えていく。……う、うまく言えないです……」
「な、なんか深いね……」
亮は、予想していたのとは違う深みのある回答に、思わず浅い返事しかできなかった。心春の持つ、独特の感受性に驚きを隠せない。
「ま、まあ、とりあえずコーヒーがすごく美味しいお店があるから、少し寄り道して行こうか。きっと心春も気に入ると思うよ」
「は、はい!楽しみです!」
それから車を走らせること二十分。進行方向の先に見えてきたのは、小さな看板と、ポツンと道のそばに建てられた、森の風景に馴染む古民家だった。




