第18話 お買い物に行こう
九月も中頃を過ぎた頃、山の中で過ごす日々はだんだんと涼しくなり、秋の訪れを予感させていた。そんな穏やかで充実した日々を、亮は心春と共に過ごしていた。
元々、一人で過ごすことや、人が少ない場所にいるのが好きな亮にとって、この山奥にある自分だけの和風邸宅は、まさに最高の環境だった。だが、人間というものはわがままで、欲深い生き物である。人が少なく、穏やかに過ごせる環境にずっと身を置いていると、今度は逆に人のいる喧騒を求めてしまうものだ。
ここに引っ越してきて、数ヶ月が経つ。その間、亮は心春と共に過ごす以外は、ほとんど人と関わりを持つことなく過ごしてきた。亮もまた、無意識のうちにあの街中の喧騒を求めていたのだろう。
「人混み、嫌いだったんだけどな……」
いつもより少し早く目が覚めた亮は、久しぶりに一人での入浴を楽しんでいた。湯に浸かり、目を閉じると、様々な考えが頭を巡る。それは、まるで脳の回路がインプットではなく、アウトプットに変わっているかのような感覚だった。
どこかの自己啓発本に書いてあったことをぼんやりと思い出しながらも、彼は自らの心の変化に驚いていた。まさか、自分が人混みに行きたいと思う日が来るなんて、以前は考えたこともなかったからだ。
まだまだ残暑の厳しい朝であっても、ひんやりとした朝の空気と、熱い湯の温度が心地よい。露天風呂で大きく息を吐き出すと、白い湯気がふわりと空に舞い上がる。
「心春と一緒に、買い物とかしてみたいかも」
亮は、ふとそんなことを思った。思えば、心春とは一度もこの山から出たことがなかった。というのも、彼女は『獣の耳』を持っているため、迂闊に外に出るわけにはいかないという理由があったからだ。
しかし、今の世の中、『コスプレ』という文化が根付いている。それなりに大きな都会に行くのであれば、そこまで警戒しなくても良いのではないか、という考えが彼の脳裏に浮かんだ。
「東京とか大阪とか……あの辺だったら目立たなそうかな?」
東京にも大阪にも、多くの人が集まっている。そして、どちらもアニメの聖地のような街があるため、心春の耳も、万が一見られたとしても『コスプレ』で通すには問題なさそうに思えた。
「……よし!心春の服を買うがてら、大阪にでも行ってみるか!実は俺も大阪は行ったことないしね」
そうして、思い立ったが吉日。亮は、露天風呂に浸かりながら、早速『心春との大阪旅行のプラン』を練り始めるのだった。
露天風呂から上がり、軽く涼んでいると、心春がトテトテと、小さな足音を立ててリビングにやってくる。どうやら、目を覚まして、亮がいるところへやってきたのだろう。最近の心春は、目が覚めるとすぐに、亮の元までやってくるのが『日課』となっていた。
(お、今日も来たな……!そして、座るのは……!)
亮は、わざと電子書籍を読んでいて気づかないふりをして、ソファの上に座って待っていると、心春は彼の膝と膝の間に、ちょこんと座った。彼女の小さな背中が、亮の太ももに、ぴたりとくっつく。
(ふふ、やっぱりここに座ったか)
どうやら、この場所は心春にとって、亮の最も近くにいられる特等席であるようだ。心春は、顔と上半身だけをくるりと後ろに向けて、亮の顔を見つめると、小さいながらもはっきりとした声で言った。
「りょう様、おはようございます」
「うん、おはよう」
亮は、柔らかな笑みを返してから、心春の少しだけ寝癖のついた髪を優しく撫でてあげる。そうすると、彼女は控えめに、けれども幸せそうに微笑む。その笑顔は、亮の心を満たしていく。最近になって、さらに笑顔が増えてきた心春に、亮の心は安堵していた。
「昨日も、よく眠れたかな?」
「はい。でも少しだけ……さむかったです……」
ふいと顔を前に向けてから、心春は言った。まるで、その言葉を告げている表情を、亮に見られないようにしているかのように。
(……?なんだろう?寒い?エアコンの設定が低すぎたかな?)
心春が使用している元々は亮の部屋である部屋は、エアコンの温度設定が二十五度だ。決して寒すぎるということはないはずだが、人によっては感じ方も異なるので、一概には言えない。
「そっか、今も寒い?」
そう言って、亮は再度彼女の頭を撫でてあげた。心春は小さく首を左右に振り、背中を亮に預けるように、もっと寄りかかった。
「今は、あったかいです」
「ふふふ、そうだろう、そうだろう」
亮は、心春の言葉に満面の笑みで応じると、そのまま両腕で、優しく、しかし確かな力で心春を抱き寄せた。心春もまた、小さな両手で亮の腕をギュッと掴んで引き寄せている。言葉はなくとも、二人の間には温かな信頼と愛情が、春の陽だまりのように確かに通い合っていた。
(最近の心春は、だいぶ俺になついてくれた感じがするな。めちゃくちゃ可愛い……)
一方通行だった愛情ではなく、『相互通行の気持ち』へと変化していく幸福な過渡期。互いの温もりを肌で感じられる喜びが、亮の心を満たしていく。それは、乾ききった大地に、慈雨が降り注ぐような感覚だった。
「心春、来週、俺と一緒に出かけようか」
ほんのわずかな静寂が訪れたタイミングで、亮はそう提案した。今朝、露天風呂で考えていた『大阪への旅行』についての話だ。
心春に、この外の世界を知ってもらい、これから暮らしていく世界のことを少しでも好きになってほしい。そして、二人で様々なことを経験して、日々の生活をもっと充実させたい。
そんな純粋な気持ちからの提案だった。彼が内心で感じている人恋しさというのも確かにあったが、それはあくまでもきっかけに過ぎない。何よりも大事なのは、心春と二人で過ごす新たな体験と、温かい日々だった。
心春は、亮の言葉に、顔と上半身をもう一度亮の方へ向け、そして少しだけ首を傾げた。
「お出かけ、ですか?朝のお散歩に行きますか?」
「ううん。今回のお出かけはね。森の中じゃなくて、もっと遠くの場所に行くんだ」
「遠くの場所……?」
亮の言葉を聞いた途端、心春のふわふわな耳が、ペタリと、不安げに伏せてしまう。それは、『自分はどこか遠い場所に捨てられてしまうのではないか』という、彼女の心に巣食う根深い不安から来るものだった。
彼女が生きてきた見世物小屋では、用済みになった『不要な奴隷』たちは、その場で処分されるか、あるいはどこか遠くの、二度と戻れない場所へと連れて行かれるかの、どちらかだった。それを見てきた心春は、亮の言葉を、無意識のうちに『自分もまた捨てられるのではないか』という恐怖に変換してしまったのだ。
(……なにか不安なのかな?)
そんな心春の様子を見て、亮はすぐに気づいた。最近は、心春が不安になると『獣の耳を伏せる』ことを彼は知っているので、言葉にせずとも、彼女の心の状態がなんとなく分かるようになっていたのだ。
「大丈夫だよ。俺はずっと心春と一緒にいるから。安心していいんだよ?」
心春が不安に思うのは、『孤独に関するもの』が多い。そう感じていた亮は、彼女の心の奥底に優しく語りかけるように、声をかけた。その声は、ひび割れた心を、癒していくように温かかった。
「それなら、大丈夫……です」
亮の言葉に、心春の張り詰めていた緊張の糸がフワリと解けた。花が咲くように微笑みながら、心春は信頼に満ちた瞳で、亮をまっすぐに見つめた。不安が解消されたのか、伏せていた耳も元の位置にピンと戻っていた。
「よし。それじゃあ、出発は一週間後の月曜日にしよう。それまで、外の世界のルールとかを教えてあげるからね」
「はい。よろしくお願いします」
こうして、亮は大阪へ行くための物理的な準備と、人混みや街の中へ行くための事前の確認事項やルール、そして何よりも心春の正体がバレないための方法などを考えるための期間として、一週間を設けたのだった。
◆◇◆◇◆◇
それからの三日間は、心春に対して、人が多くいる町での行動に対する『最低限のルール』を教えるために費やされた。大阪への旅立ちまで、残された時間はわずかだ。
「まず一つ目。基本的に帽子は取らないこと」
亮はそう言いながら、インターネットでいくつか購入しておいた帽子の中から、小さな花があしらわれた麦わら帽子を、心春に優しくかぶせてあげた。彼女の白い髪と桃色の髪を、優しく覆う麦わら帽子の色は、彼女によく似合っていた。
「うん。よく似合ってるよ。可愛いね」
「あ、ありがとうございます……」
心春は、亮の言葉に少しだけ頬を染めた。帽子を気に入ったようで、亮が手鏡を渡すと、心春は食い入るように、鏡に映る新しい自分を見つめている。
「心春の耳は、ちょっと目立つからね。もし帽子を取っているところを誰かに見られたりして何か聞かれた場合は、『コスプレです』って答えてね」
手鏡をテーブルの上に置いた心春は、聞いたことのない言葉に小首をかしげた。
「こすぷれ、ですか?」
「うん。コスプレ。これを見てごらん」
亮はそう言って、スマートフォンの画面を心春に向ける。画面には、猫耳や尻尾のアクセサリーをつけて、笑顔でコスプレを楽しむ人々の写真が映し出されていた。
「りょう様……!この人たちは、私と同じ獣人と人間のハーフなのですか?」
心春は驚いたような表情を浮かべながら、亮に問いかける。自分と同じような特徴を持つ者たちが、明るい表情で写真に写っている光景が、彼女にとっては不思議でたまらないのだろう。ましてや、元の世界で忌み嫌われていたはずの、人の姿に獣の特徴を併せ持つ人々が、悲しむどころか笑顔でいることが、彼女の常識を覆していた。
「ううん。違うよ。この人たちはみんな人間だよ。こういう耳とか尻尾の道具をつけているだけなんだ」
亮は画面を切り替え、獣の耳や尻尾のアクセサリーが売られている通販サイトの画面を見せる。心春は、そのカラフルな道具の数々を、またも食い入るように見つめていた。
「日本では、こういう風に仮装して遊ぶ文化があるんだ。だから、もし心春の耳が見られて何か聞かれたとしても、『コスプレだよ』って言えば、大丈夫だからね。わかったかな?」
「はい。理解しました。もし、そういう場面になったら『コスプレ』と言います」
心春は、亮の言葉を一言一句逃さないように、しっかりと頷いた。彼女の表情は、初めて見る日本の文化に、好奇心と、かすかな期待を抱いているようだった。
「うん。ありがとう。次はね、どこかへ行く時は、必ず俺と手をつないでいくこと」
心春は、こくりと小さく頷く。その小さな手は、すでに亮の手を求めているかのようだった。
「はい。手を繋ぎます」
「よし。次は、外では『亮様』って呼ぶのは禁止。『亮くん』って呼ぶこと」
亮の言葉に、心春は目を丸くした。
「あ、あの、何故でしょうか?」
先ほどまで素直にうなずいていた心春だったが、この言葉には、やはり質問を返してきた。彼女にとって、『亮様』という呼び方は、亮に対する敬意と、唯一無二の存在への、大切な呼び方となっていたのだ。
(やっぱり、ここが引っかかるか……)
亮としては、今回の旅行で『くん』などの呼び方をすんなり受け入れてもらい、外だけじゃなく、いずれはいつでも『様』をつけないで呼ぶようにしたい、という密かな狙いがあったのだ。
「前にも言ったけど、俺は心春のご主人様じゃないからね。だからわざわざ『様』ってつけなくてもいいんだよ」
「ですが……」
心春は、まだ亮の言葉に納得はできていないようで、煮え切らない様子だ。その表情には、亮への敬愛と、そして『長年の習慣』が混じり合っていた。
「とりあえず、旅行中は『様』付けで呼ばれると目立っちゃうから、とりあえず言うことを聞いて、『くん』付けで俺の名前を呼んでね。わかったかな?」
亮が優しさこそあるが、少しだけ強い口調で言うと、心春も観念したのか、渋々といった様子ではあるが、小さく頷いてくれた。
「わ、わかりました……」
「よし。それじゃあ練習ね。はい、呼んでみて」
亮がそう促すと、心春は気恥ずかしさからか、一度うつむいてしまった。だが、すぐに顔を上げ、彼の顔を不安げに上目遣いで見つめると、小さな声で呟いた。
「……りょうくん」
その声は、まるで春風が運ぶ花びらの音のように、微かに亮の鼓膜を震わせた。
「う、うん。よくできました」
亮は、心春の小さな成長に喜びを感じつつも、心の中で密かに葛藤していた。
(やばい、なんか『くん』付けで呼ばれると、くすぐったいな……)
自分で呼ばせておいても、その良い意味で馴れ馴れしい響きは、亮にとって『なんとなくむずがゆい感じ』がした。しかし、それは決して嫌な感情ではなかった。むしろ、二人の距離が、また一歩縮まったような、そんな『温かい感情』に包まれていたのだった。




