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俺の孤独な人生に光をくれたのは、12億円ではなく、山奥の洞窟で見つけた異世界獣耳少女でした。  作者: ウィースキィ
第02章 都会の喧騒と、心に巣食う孤独

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第17話 好きの共有


 まだまだ暑い日が続く、日本のうだるような夏の時期。


 亮と心春の距離は、季節の移ろいとともに徐々に、しかし順調に近づいていた。


 毎日の散歩をともに過ごすことはもちろん、散歩後のシャワー、そして食卓を囲む温かい食事。一日の終わりには、二人で風呂へと入る。そんな当たり前の日常を重ねるうちに、心春の亮に対する恐怖心は、少しずつ薄まっているようだった。


 そもそも、亮に『心春』という名前を与えられたあの日から、彼女の態度は春の雪解けのように、柔らかく変化していった。『幸せ』という言葉の意味の一端を知り、亮がこれまでの彼女を痛めつけてきた者たちとは違う人間であることも知った彼女は、自らもまた、過去の殻を破り、変わろうとしているのだろう。


 亮は、そんな心春の内面的な変化を肌で感じ取りながら過ごす日々を、彼自身にとっても得難い、充実した時間だと感じていた。彼の孤独もまた、少しずつ満たされていた。


 そんなある日の夜のこと。


 今日は、心春にとって小さな、しかし大きな挑戦の日だった。


「さあ、心春。今日は、あそこに入ってみようか」


 亮がそう言うと、心春のふわふわとした可愛らしい獣の耳が、ペタリと、まるで不安を訴えるかのように伏せてしまう。その翡翠色の瞳には、期待と、それを上回る微かな怯えが宿っていた。


「は、はい……」


 だいぶ風呂の水や温かい湯には慣れてきた心春ではあったが、未だ浴槽いっぱいに張られた湯に、全身を浸すという行為には、根源的な恐怖を伴うらしい。全身が湯に包まれる感覚が、彼女の過去の記憶を刺激するのかもしれない。


 しかし、温泉をこよなく愛する亮には、なんとしてでもこの極上の心地よさを心春と共有したいという切なる思いがあった。だからこそ、彼は時間をかけて、心春が少しずつ水に慣れるよう、内湯の浴槽で辛抱強く練習を重ねていたのだ。


 そして今日、ついに、二人は初めての露天風呂へと足を踏み入れた。


 体に大きなバスタオルをしっかりと巻きつけた状態で、心春は小さな小幅でトテトテと亮の後ろをついていく。亮は腰にハンドタオルを巻いただけの姿で、彼女の小さな手を引く、導き手となっていた。


 脱衣所から露天風呂へと繋がる引き戸をガラリと開けて外へ出ると、真夏とはいえ、夜の闇はほんの少しだけひんやりとした空気を、優しく肌にまとわせる。それは、日中の熱気を忘れさせるような、心地よい涼しさだった。


 周囲には、静かな森のざわめきと、夜の闇を彩る虫たちの鳴き声が響き渡り、まるで自然が奏でるシンフォニーのように、風情あふれる音が空間に満ちていた。その音色が、彼女の恐怖を少しだけ和らげる。


「お外、涼しくて気持ちいいでしょ」


 亮が後ろを振り返り、未だ緊張気味の心春に優しく声をかけると、彼女は言葉を返す代わりに、目の前に広がる露天風呂の、あまりに美しい景観に完全に目を奪われているようだった。その翡翠色の瞳は、輝きを増していく。


 竹の塀の向こう側には、深く豊かな森が広がり、昼間であれば、まさに絶景と呼ぶにふさわしい露天風呂は、浴槽の上の一部を覆う優美な屋根や、ひと休み用の温もりあるウッドデッキで木の質感を味わいつつも、浴槽そのものは野趣あふれる巨大な岩風呂となっている。


 夜になると、絶景こそ見えなくなるが、露天風呂内の小さな庭園の所々に設置された灯籠が、柔らかく幻想的な光を演出し、その空間全体を幽玄の美で包み込んでいた。


 ほんの数秒の沈黙の間を開けて、心春は小さく、しかし確かな意思を込めて頷いた。


「はい。この場所は……とっても綺麗です」


 灯籠の柔らかい光を浴びて、心春の翡翠色の瞳がキラキラと、宝石のように輝いて見えた。そして何よりも、その瞳の奥に彼女自身の心からの笑顔がそこにあったことに、亮は心の底から安堵していた。


(よし、あんまり怯えてなさそうだな)


 亮は、心春の表情が、彼の見立て通りであることに満足しながらも、話を続けた。


「ここは露天風呂って言うんだけど、俺がすごく好きな場所なんだ。だから、心春とも一緒に行きたいなって思っててさ」


 亮の素直な言葉に、心春は小首を傾げながら問いかけてきた。その瞳には、純粋な疑問が浮かんでいる。


「りょう様の好きな場所……そんな大切な場所に、どうしてわたしと……?」


 亮の言葉に、彼女がこれまで生きてきた過酷な環境がそうさせる、素朴な疑問が滲んでいた。大切な場所へ案内してくれた亮に対する感謝とは裏腹に、『なぜ自分が』という、自己を卑下する感情が見え隠れする。


(まだ少し、自分を卑下して考えるところは治らないか……)


 そんな彼女のなかなか抜けきらない考え方に、亮はほんのわずかだけ胸を痛めた。


 しかし、ここで変な誤解を招くのは避けたい。彼は、素直な気持ちを伝えることが、彼女自身のためになると考え、思ったことをそのまま口にした。


「俺が心春のことが好きで、大切だと思ってるからだよ。大切な人と一緒に大切な場所に行くことは、俺にとってとても嬉しいことだからね」


 そう言って、亮は心春の柔らかな頭を優しく撫でてあげた。すると心春は、不思議そうな顔で亮の顔をじっと見つめてくる。彼女の翡翠色の瞳には、亮の言葉の意味を理解しようとする、懸命な光が宿っていた。


 心春の中では、まだ誰か他人に対する好意や、大切であるということへの言葉の意味に対する実感が薄いため、亮の言葉をうまく理解ができていないのだ。それでも、彼女の心の奥底では、亮から向けられる愛情という名の感情が、温かな気持ちとなって、じんわりと心の中に満たされていく感覚は確かに感じられていた。


 しかし、それを論理的に、あるいは感情としてうまく理解できるようになるには、まだ少しの時間が必要なのだ。


「……そ、それじゃあ、お風呂の入り方を説明するね」


 亮は、自分が素直な気持ちを真正面から伝えたことに、意外にも気恥ずかしさを感じた。その照れを隠すように、彼は話題を変え、話を続けた。


「湯船に入る前には、この桶を使って『かけ湯』をします。理由は、体を洗い流すのと同時に、熱いお湯の温度に体を慣らすためだね」


 亮は説明をしながら、実際に木の桶を使って、浴槽からお湯をすくい、自身の体へとゆっくりと、しかし確実にかけていく手本を見せた。桶から流れ落ちる湯が、彼の肌を濡らし、湯気と共に温泉の湯の香りがふわりと舞い上がる。


「そうしたらタオルを取って、ゆっくりお湯の中に入ります」


 心春に背を向けるようにして、腰に巻いたタオルを外した亮は、広々とした岩の浴槽の中へと、ゆっくりと足を踏み入れた。そして、じわじわと体を沈め、湯が肩まで浸かると、まるで心の奥底から湧き出てくるような、少しため息にも似た息を長く吐き出した。


「はあ……!めちゃくちゃ気持ちいい……!」


 その声は、少し大げさにも見えるが、亮が一人で温泉に入っている時も、大体こんな感じである。


 温泉というのは、一番最初に肩まで浸かる瞬間に、体の奥底から自然と出てくるこの『一つの吐息』こそが、至福の喜びなのである。彼の表情は、完全に蕩けるような幸せに満ちていた。


 そんな彼の姿をじっと見ていた心春も、亮があまりにも幸せそうな表情を見せるので、その未知の感情に少し気になり始めている様子だった。彼女の翡翠色の瞳は、亮の顔から離れない。


「心春も、俺が今やったみたいにやってみてごらん」


 亮に促されると、心春は小さな手で、傍らに置かれた木の桶を手に取った。水に対する根源的な恐怖心が強かった彼女の行動にしては、積極性が感じられて、亮は少し意外に思った。


 恐る恐るといった形で浴槽のお湯をすくい上げ、自らの体へと、ゆっくりと、しかし確実にかけていく心春。その一連の動作には、恐怖と好奇心が入り混じっていた。温かい湯が肌を伝うたび、彼女の小さな肩がビクリと震える。それでも、亮が側にいてくれるという安心感が、彼女を支えていた。


「大丈夫、心春。ゆっくりでいいからね」


 亮は、湯船に浸かったまま、穏やかな声で心春に語りかけた。その声は、まるで優しい子守唄のように、彼女の緊張を少しずつ解きほぐしていく。心春は、亮の言葉に促されるように、もう一度、そしてもう一度と、かけ湯を続けた。やがて、彼女の肌には、うっすらと湯気がまとわりつき、浴槽のお湯に、彼女の心も体も少しずつ慣れていく。


 そして、体に巻いたタオルを外すと、意を決したように、心春は小さな足をゆっくりと、湯船の中へと踏み入れた。


 足の指先から、くるぶし、膝へと、温かい湯がじわじわと彼女の体を包み込んでいく。その度に、彼女の翡翠色の瞳が大きく見開かれ、呼吸がわずかに詰まる。見世物小屋での冷たい水とは全く異なる、とろけるような温かさが、彼女の皮膚から侵入し、体の芯へと広がっていった。


 亮は、そんな心春の様子をじっと見守っていた。彼女が、水への恐怖を乗り越えようとしている、その小さな勇気を、彼は静かに応援していたのだ。


 心春は、亮が手本を見せたように、ゆっくりと、しかし確実に体を沈めていく。そして、ついに湯が彼女の肩まで達した時、心春の体からふわりと力が抜けた。


「……あ……」


 心春の口から漏れたのは、言葉にならない、しかし確かな感情を伴う小さなため息だった。


 その瞬間、張り詰めていた恐怖が、温かい湯の中に溶け出して消えていくような感覚が、彼女の全身を駆け巡った。それは、凍てついた心を、太陽の光が包み込むような、あるいは硬く閉ざされた蕾が、静かに花開くような、そんな至福の感覚だった。


 心春は、亮の隣で、湯船に浸かったまま、深い呼吸を一つした。湯の柔らかな感触が、彼女の疲れた体を優しく癒していく。森のざわめきと虫の鳴き声が、遠くで心地よいBGMのように聞こえてくる。


(……気持ちいい……)




挿絵(By みてみん)




 心春の心に、初めて『気持ちいい』という感覚が、明確な言葉として浮かび上がった。それは、見世物小屋で痛めつけられる中で、常に感じていた『苦痛や恐怖』とは、あまりにもかけ離れた、純粋な幸福の感覚だった。彼女の表情は、まるで無垢な子供のように、穏やかな笑みを浮かべ、湯の温かさに身を委ねている。


「どうかな?露天風呂、いいでしょ?」


 心春の柔らかな、そして至福に満ちた幸せそうな表情を見て、亮は確信をもって問いかけるように声をかけた。彼女が露天風呂を心底気に入ってくれたという自信があったのだ。


 そして案の定、露天風呂が持つ抗いがたい魔力に心奪われた心春は、わずかに呆けたような表情を浮かべながら、小さく、しかし深く頷いた。その瞳は、まだ湯の熱気を宿しているかのようだった。


「……はい。とっても気持ちがいいです。これが、りょう様の大切な場所……」


 心春の言葉に、亮は、誰かと一緒に大切な場所や瞬間を共有することが、これほどまでに心を満たしてくれるのだという事を改めて知り、彼の心は温かいもので満たされていく。


「うん。そうだね。心春と一緒に来れて、俺も本当に嬉しいよ」


「心春も……」


 ささやくような小さな声で心春は口を開くと、亮の広々とした肩に、自らの小さな頭をくっつけるようにして、ぴたりと寄り添ってきた。その柔らかな重みが、亮の肩にじんわりと伝わる。


「嬉しい……です……」


 その言葉は、亮の耳に届くか届かないかの、ごく小さな吐息のようだったが、その中に込められた心春の純粋な喜びは、確かに亮の心に響いた。


 その後、二人はいっさい言葉を交わすことなく、静かに露天風呂から眺められる満天の星空を見上げながら、心ゆくまで至福の湯浴みを楽しんだ。


 夜空に瞬く無数の星々は、二人の間に芽生えた小さくも確かな絆を、静かに見守っているかのようだった。


 そして入浴後──


 湯上がりでさっぱりとした気分になった二人は、丁寧に髪を乾かし、清潔な部屋着に着替えてリビングへと来ていた。亮は、この風呂上がりの瞬間にこそ、彼にとってのとっておきのルーティンがあったので、それを心春へ紹介しようと彼女を連れてきたのだ。


「心春、もう一つ、最高の瞬間を教えてあげる」


 亮の言葉に、心春は湯気でほんのり桃色に染まった頬をかすかに火照らせ、わずかに汗のにじむ額をタオルで拭いながら、小首を傾げた。その翡翠色の瞳には、次は何が始まるのだろうという、純粋な期待が宿っている。


「最高の瞬間、ですか?」


「そう、最高の瞬間だよ」


 真夏の昼間、ただでさえ暑い一日を過ごし、体は若干、水分不足に陥っている。それに輪をかけるように、露天風呂での入浴で大量に失われた水分。つまり、心春の体は今、全力で水分を求めている状態なのだ。


 この状態で飲むキンと冷えた飲み物は、普段飲む飲み物の何十倍も美味しく感じる。それは、現代に生きる人間なら誰でも知っている普遍の真理だった。


 しかし、亮には、その中でも一番のお気に入りの飲み物があった。それは──


「これを飲むのです!」


 亮は、自信満々のドヤ顔で冷蔵庫から取り出した二本のペットボトルを、心春の目の前に差し出した。そのペットボトルは、余計な装飾のないラベルレスタイプで、中身は透明な液体がきらきらと満たされている。


「これは……?」


 心春は、興味津々といった様子で、亮が差し出す透明な液体を見つめる。


「これはね、レモン炭酸水です!」


 亮は、大したことではない飲み物を、あえて非常に大したことであるかのように、声を弾ませて言った。その表情は、まるで最高の宝物を差し出すかのように輝いている。


「これはもはや言葉で説明する必要はないね。とりあえず飲んでみよう」


 亮は、念のため、事前に心春が炭酸飲料を飲めることは確認済みだった。以前、亮が彼女に黒くて甘い炭酸飲料を与えたところ、心春はそれを非常に気に入っていたので、炭酸が苦手ということはありえないことは確認済みだ。


 亮は、心春のペットボトルの蓋を『プシュッ』と、心地よい音を立てて開けてあげると、彼女に手渡した。そして、自分の分も蓋を開け、亮は飲む準備を整える。


「さー、心春、ゴクゴクっと飲んでみよう」


 亮に促されるがままに、心春はペットボトルに口をつけ、ゴクゴクと、小さな喉を鳴らした。それと同時に、亮もまた、冷たいレモン炭酸水を勢いよく、一気に飲み込んでいた。


 レモン炭酸水を飲んだその瞬間、心春の獣の耳がピクリと跳ねた。そして、驚いたような表情とともに、喉を駆け巡る爽やかなシュワシュワとした感触と、鼻腔を抜ける清々しいレモンの香り、そして冷たい飲料が、熱くなった体を内側から満たしていくような感覚。それら全てが、心春に一斉に襲いかかった。彼女の翡翠色の瞳は、驚きと、そして新たな発見の光で輝く。


「どう?最高じゃない?」


 亮が、満足げな表情で心春に問いかけると、心春は、瞳を輝かせながら、すこし興奮気味に答えた。


「……はい!とっても、美味しいです!」


 それは、彼女が経験したことのない、新しい種類の幸せの味だった。


 小さな幸せ、そして小さな喜びの積み重ねこそが、人生を彩っていく。そして、亮と心春、二人の人生もまた、それぞれが一人では決して味わうことのできなかった温かい幸せを噛み締めながら、今日もまた、穏やかで温かな日常を過ごしているのであった。


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