第15話 向き合う覚悟
少女の後を追いかけた亮が、自身の部屋の引き戸を静かに開けると、少女はすでにベッドの上、毛布の中に小さく潜り込んでいた。
毛布の上からでも、その小さな体が激しく震えているのがはっきりと分かる。そして、静かな部屋に響くすすり泣く声と、ぐすぐすと鼻をすする音。その様子は、はたから見ても、言葉にできないほど深い悲しみがあったことが痛いほど伝わってくる。
亮は、少女のその痛ましい姿に困惑しながらも、彼女に寄り添うように、そっと、すぐそばまで歩み寄った。
「一体、どうしたんだい……?なんで、そんなに泣いてるの?それに……最近、ご飯も食べないし……」
亮が優しく問いかけても、毛布の中の少女から何の反応もない。ただ彼女の、抑えきれないすすり泣く音だけが、静寂に包まれた部屋へ虚しく響くだけだった。
亮は、その少女の様子から無理に話させても逆効果だろうと考え、無言のまま、少女がくるまっている毛布のすぐ横にそっと腰を下ろし、ただ静かに待つことにした。少しでも彼女の心が落ち着いてくれれば、きっと話を聞かせてくれるだろう、と考えたのだ。
それから、体感では十分ほどの、短くも、長くも感じられる時間が過ぎた。少女のだんだんと小さくなっていくすすり泣く声が、やがて耳には全く聞こえなくなり、聞こえるのは、深い呼吸音だけとなった。
亮は、眠ってしまったのかと思い、ゆっくりと、そっと毛布の端をめくった。すると、毛布の中で、大きな翡翠色の瞳を開けていた少女と不意に目があった。
彼女の瞳の周りは、赤く、腫れ上がったようになっている。部屋に飛び込んでから、ずっと、それこそ亮が追いかけてくる間も、ずっと泣き続けていたのだろう。顔には、涙の跡と、拭いきれなかった少しの鼻水もついていた。その痛々しい姿に、亮の心は締め付けられる。
「……どうして、そんなに泣いていたんだい……?」
亮は、努めて優しく、穏やかな声で語りかけた。そして、自身のポケットから綺麗なハンカチを取り出し、少女の赤くなった目の周りと、鼻のあたりをそっと拭いてあげた。
もちろん、亮が手を伸ばした瞬間、少女の体は『ビクリ!』と反射的に震わせた。その顔には、一瞬、『過去の恐怖』が色濃く浮かび上がる。
しかし、亮は今日は、もう遠慮するつもりはなかった。彼女のこの悲しみ、そして行動には、何か必ず理由があるはずだ。それを知るためには、今のままでは彼女の怯えに配慮して距離を取りすぎていたのかもしれないと、彼は考えていた。
なにか根拠があるわけではないが、今を逃せば手遅れになるような、そんな焦りにも似た思いが、彼の胸の内で渦巻いていたのだ。今までの『配慮』が、かえって彼女を追い詰めていたのかもしれない。そういった自己への反省も、彼の心を過っていた。
「起き上がれるかな?」
亮は、少女と真正面から向き合って話をする必要性を感じていた。そのため、少女の小さな体に触れ、優しく、ゆっくりと体を起こした。
亮と向き合ったその瞬間。少女の大きな目から、またも、止めどなく涙がこぼれ落ちた。ポロポロと、その涙はまるで透明な宝石のように美しくも見える。しかし、その輝きは悲しみに満ちており、冷たい軌跡を描いて、少女の熱を持った頬を伝う。
(また泣いちゃったか……)
亮は、少女の止まらない涙に、少しだけ気が引けつつも、今日はもう、引き下がるわけにはいかないと、『覚悟を決めて』少女と向き合った。
「ねえ、ちゃんとお話ししてほしいな。君がどうして、最近ご飯を食べないのか。そして……どうして、今そんなに悲しいのか……」
亮の真剣で、まっすぐなまなざしが、少女の瞳を捉える。少女にも、亮のその切実な真剣さが伝わったのだろうか。彼女は、袖で、目元をゴシゴシと乱暴に拭いながら、言葉を発しようと、一生懸命に、しかしうまく言葉にならず、もどかしそうに努力しているように見えた。
亮は待った。少女が、たとえゆっくりでも、言葉に詰まっても、彼女自身の本当の気持ちを、言葉で表せるまで、じっと、辛抱強く待った。
それから、体感ではさらに十分ほどが過ぎた。二人の間の沈黙の時間は、亮にとっては長いようで、しかし過ぎてしまえば短い時間だったが、その張り詰めたような静寂を破ったのは、少女のか細く、今にも消え入りそうな震える声だった。
「あの……りょう様は……どうして……わたしに、優しくしてくれるのですか……?」
少女は、震える声で、言葉を途切れ途切れながら、亮に問いかけた。
その小さな手は、膝の上でぎゅっと、強く握られており、その拳が、感情の高まりと共に微かに震えている。頭部にある獣の耳は、恐怖と不安から、ペタンと力なく伏せられている。
そして、ぎゅっと、硬く閉じられた瞳が、彼女が今この瞬間の、核心的な問いかけのために、どれほど大きな勇気を振り絞ったかを示していた。
(……優しくする理由?なんで、そんなこと知りたいんだろう……?)
少女からの、予想外の問いかけに、亮は一瞬困惑した。そして、彼の頭の中で、二つの疑問が急速に結びつこうとしていた。
(……もしかして、その『優しくする理由』と、この子が『急にご飯を食べなくなった理由』が、何か、決定的な関係があるのだろうか……?)
様々な考えが頭を嵐のように駆け巡るが、今は思考を整理している場合ではない。目の前にいる、怯え、涙する少女と真摯に向き合うことが、何よりも先決だ。
亮は、自分が今、最も伝えなければならないと思っていることを、言葉にしようと必死に考え、言葉として、絞り出すように吐き出した。
「俺はね……」
亮は、少女の瞳をまっすぐに見つめた。
「君の、『ご主人様』になりたいわけじゃないんだ」
少女にとって彼の言葉は、予想だにしない衝撃的な発言だったのだろうか。それとも、彼の言葉の意味が、少女にとって全く理解できなかったのだろうか。少女の顔は、先ほどの悲しみから一転、『驚き』の色で満ちていた。その大きな瞳が、さらに大きく見開かれる。
「ご主人様……じゃ、ない……?」
少女は、亮の言葉を反芻するように、戸惑いを声に乗せた。
「うん。そうだよ」
亮は、もう一度、はっきりと、しかし優しさを込めて少女に告げる。この前提は、これから二人が共に生きていく上で、非常に重要となる、何よりも譲れない『基盤』となることだからだ。彼は、彼女を支配するつもりは、全くないのだから。
「で、でも……」
少女は、まだ亮の言葉が信じられない、といった様子で、その小さな手を『ギュッと』握りしめた。そして、再び過去の恐怖に囚われたように、震える声で、亮の優しさの理由を語り始める。
「りょう様が、わたしに優しくしてくれるのは……その……わたしのことを……食べる……ためかと……」
「……ん?……え?」
少女の口から、まるで予想だにしない、そして信じがたい言葉が発せられた瞬間、亮は激しく動揺した。彼の頭は、一瞬真っ白になる。全くの予想外。そして、その『食べる』という言葉の意味が、少女の文脈で何を指しているのかすら、亮には一瞬、理解ができなかった。彼の知っている『食べる』とは、あまりにもかけ離れた響きだったからだ。
(『食べる』って、一体どういう意味だ……?)
亮は、必死に、少女の言葉の本当の意味を、自身の頭の中で理解しようとした。『食べる』という言葉から、彼の知る現代日本の常識で連想されるのは、俗語としての『性的な意味での食べる』と、通常の食べ物などに使用する、『食事としての食べる』の二種類だけだった。
(これは、どっちの意味なんだ……?いやいや、どっちにしても、俺はそんなつもり、微塵もないけども……!)
亮が、少女の言葉の真意に激しく悩んでいると、少女は、過去の恐怖に突き動かされるように、言葉を続けて、震える声で口を開いた。
「わたしの体を……きれいにして……美味しいご飯で、太らせて……その……『食べちゃう』のかなって……」
少女は、亮の困惑など気付かぬ様子で、過去の、彼女にとって『最も恐ろしい記憶』を語り始めた。そして、その悲痛な告白の最後に、彼女の『誤解の根拠』を付け加える。
「だって……昔……見世物小屋で獣人の人が、生きたまま食べられてたから……」
少女の瞳には、過去の凄惨な光景がありありと映し出されているかのようだった。辛い過去の記憶が、再び少女の頭の中を埋め尽くしたのだろう。彼女の瞳から、またしても大粒の涙が、止めどなく、ポロポロと溢れてくる。
その小さな体は、恐怖に震え、もうすぐ来るであろう未来に対して、絶望の淵に立たされている。それは、まるで今まさに、死刑を宣告されたかのような、あまりにも痛ましい、怯えきった姿だった。
そんな、少女の筆舌に尽くしがたい、悲惨な過去と、そこから生まれた『根深い誤解』、そして今、目の前で震える、彼女の怯えきった姿に、亮の心は締め付けられるような、鋭い、耐え難い痛みを感じた。言葉にならない感情が、彼の胸を満たす。悲しみ、怒り、この子を何としても守りたいという、強い衝動。
そして、亮は、考えるよりも早く、その衝動に突き動かされるように、目の前で震える少女の小さな体を、強く、しかし優しく、抱き寄せていた。
壊れやすい宝物を扱うかのような、細心の注意と、深い愛情を込めて。彼の腕の中に収まった少女の体から伝わる、小刻みな震えと、抗い難い温もり。その震えは、彼女が今、この瞬間も、確かに生きていることの証であり、亮の心に、強い安堵と、そして何としてもこの命を守らねばならないという『責任感』を刻み込んだ。
しかし、その小さな体と心は、未だ過去の『恐怖と、深い絶望』に支配されている。
「大丈夫。そんなことは、絶対にしないよ」
亮は、少女の耳元で、その切実な思いを込めて、短く、そして力強く言葉を紡いだ。今、この瞬間だけは、飾り立てた難しい言葉や、複雑な説明は必要なかった。少女に一番伝わるのは、偽りのない、簡潔で分かりやすい『真実の言葉』だと、亮は本能的に感じられたのだ。
亮の腕の中で、ひっそりと泣き続ける少女。抱きしめてみると、彼女の体は、見た目以上に小さく感じられた。その儚く、しかし確かに存在する小さな存在に、亮は抗いがたい愛おしさを感じ、空いている手で、少女の頭を優しく、何度も何度も撫でた。その手つきは、まるで幼子をあやす親のようで、亮自身の心も、その柔らかさに癒されていくようだった。
自分は敵じゃない。彼は心の中で、その思いを繰り返す。『君に危害を加えるつもりはない』。そんな、言葉にならない亮の決意と、温かい思いが、抱きしめる腕の力強さや、頭を撫でる手を通して、少女に伝わるようにと願いながら、彼は優しく抱きしめ、その頭を撫で続けた。
そんな中、彼の腕の中で、少女が掠れるような声で、言葉を紡いだ。
「どうして……どうしてですか……?わたしは、こんなに醜い存在なのに……どうして……りょう様は……?」
胸の中で少女が言う。その声は、小さく、今にも消え入りそうにか細かったが、亮の耳には、まるで魂の叫びのように、痛切に届いた。
少女には、亮が自分に与えてくれる『優しさ』が、一体何なのか、全く理解ができなかったのだ。今まで生きてきた、過酷な人生で、彼女は一度たりとも、本当の意味で優しくされたことがなかった。
言葉としての優しさの意味は、見世物小屋で人間たちの言葉を覚える中で、知識としては知っている。しかし、本物の意味で、心が深く感じる優しさというものを、彼女は『知らない』のだ。だから、亮の優しさに触れるたび、彼女の心はひどく困惑し、混乱していた。
少女の切実な問いかけに対し、亮は一度「そうだなあ」と呟き、自問自答するように考えた。
なぜ、自分は、この傷つき怯える少女に、これほどまでに優しくしたいと思うのだろうか。自らの心の内にある、最も純粋な本音を、さらけ出す時が来たのだと、彼は感じた。彼女に『本当の気持ち』を届けるためには、取り繕った言葉では、きっと伝わらない。そう思ったからだ。
自らの心の奥深くを覗き込みながら、自分がなぜ少女にこれほどまで優しくするのかを、しっかりと、言葉にできるようにと考え抜く。そして、出てきた答えは、一見『何とも利己的なもの』であった。
「一番は、君に、この世界で幸せになってもらいたいと、心から思ってるからかな」
亮は、抱きしめたまま、少女に語りかけた。
「もちろん……俺自身が、一人で感じていた『寂しさを紛らわせたい』っていう気持ちも、正直あるかもしれないけどね」
自らの『利己的な側面』も、隠さずに認める。それでも、彼の言葉には、少女への深い思いやりと、真実の響きがあった。そして、たとえそれが利己的な動機を含んでいたとしても、それでも彼は、この少女と共にありたいと、心から強く思ったのだ。
「しあわせ……?わたし、そんなの……わかりません……」
亮の言葉に含まれる『幸せ』という概念が、少女には理解できなかったのだろう。その純粋な戸惑いを声に乗せて、少女は答えた。彼女にとって『幸せ』とは、あまりにも遠い、非現実的な言葉だった。
「そうだね。今は、まだ、そうかもしれないね」
亮は、少女の反応を受け止め、優しく応えた。
「今は、別にそれでいいんだ。焦る必要なんて、何もないんだから」
彼は、抱きしめる腕に、さらに温もりを込めた。
「大丈夫だよ。俺と一緒に、ここで、一緒に過ごしていれば……きっと、そのうち、わかるようになるからさ」
彼の優しい言葉に、そして包み込むような体の温もりに触れて、少女の心の中には、未だかつて、一度も感じたことのない、新しい温かさが、じんわりと芽生え始めていた。
それは、とても温かく、そして心地が良い。だが、同時に、それが全く感じたことのない感覚だからこそ、少しだけ、恐ろしさも伴っていた。
様々な感情が、まるで嵐のように、少女の小さな胸の中で激しく渦巻く。混乱、戸惑い、そして、微かな希望。
でも、亮の確かな温もりと、心臓の音、そして優しい言葉に包まれて、だんだんと、心が安心していくのを感じていた。自分が、あの恐ろしい見世物小屋ではなく、『亮という、温かい存在の腕の中にいること』を、少女はゆっくりと認識する。
そうすると、体の震えは、次第に落ち着いていき、今ではもう、完全に止まっていた。
『とくとくと』──。亮の、規則正しい心臓の音が、少女の獣の耳を通して、彼の胸に密着している部分から、はっきりと、耳の奥に届く。それは、優しく、そして力強い、生命の音。その響きが、少女の張り詰めていた気持ちを、さらに、さらに、穏やかに落ち着かせていった。恐怖や絶望の音ではない。生きていることの、確かな音だ。
亮は、少女が落ち着いたのを感じ取り、未だ優しく抱きしめたまま、そっと、しかし明確に問いかけた。
「……落ち着いたかな?」
彼の問いかけに、少女は小さくても、はっきりと答えた。
「……はい」
亮の両手が、少女の小さな肩に優しく触れ、ゆっくりと、二人の体を離していく。亮の腕の中から解放された少女。彼女の真っ赤に泣き腫らした目。その深く、しかし今は落ち着きを取り戻した翡翠色の瞳が、亮の黒い瞳を、じっと見つめる。
二人の間に流れる空気は、先ほどとは明らかに変わっていた。
「良かった」
亮は、安堵の微笑みを浮かべた。
「これからは、少しずつでいいから、ゆっくりと、この世界の暮らしに慣れていこう」
亮は、少女の瞳をまっすぐに見つめ、その未来への願いを込めて、改めて言葉を紡いだ。
「俺は、君に……この世界での『普通の生活』を教えてあげるよ」
彼にとっての『普通』。それは、異世界の見世物小屋で、人間以下の扱いを受け、名すら与えられなかった少女にとって、想像もできなかった、遠く霞むような、そして手の届かない『幸せ』そのものだった。その言葉には、亮の優しさ、そして彼女の過去を乗り越えてほしいという、切なる願いが込められている。
少女は、そんな亮の言葉を聞いて、自身の心の中で、少しだけ、しかし、確かに、決定的な心境の変化が訪れたのを、はっきりと感じていた。
つい先ほどまで、亮を、自分を拘束し、いつか食べるかもしれない『新たな主人』としか見ていなかった。だが、今、彼の温かい言葉と、包み込むような『優しさ』に触れて、亮への認識が、主人ではない、『全く別の何か』という、新たな見方に変わっている。
その変化は、彼女にとって、希望への扉が僅かに開いたような感覚だった。
その『何か』が一体何なのかまでは、今の少女には、まだ分からない。幼い彼女の心と、限られた経験では、それを明確な言葉で定義することはできない。
だが、普通も、幸せも、何一つ知らず、ただ絶望の淵にいた少女にとって、この亮への認識の変化。そして、普通の生活という、あまりにも眩しく、希望に満ちた、亮からの約束。
それは、彼女の長い絶望の闇から、一歩、そしてもう一歩と、光差す世界へと抜け出すための、あまりにも大きく、そして確かな、『希望への第一歩』となったのだった。
温かい空気が二人の間を流れる中、亮は、ふと、思いついたように口を開いた。
「そうだ。あのね……君の名前、考えたんだ」
「なまえ……?」
亮の言葉に、少女は、未だ涙の跡が残る頬を気にすることもなく、きょとんとした表情で首をかしげた。彼女にとって『名前』という言葉は、知識としては知っていても、自分自身と結びつく概念ではなかったからだ。
「そう。名前だよ」
亮は、優しく確認するように言った。
「この世界で、『普通の生活』を送るためには、誰かに名前で呼ばれることが必要だからね」
そう言って、亮は、少女の小さな頭にそっと、迷いなく手を伸ばした。先ほどまで泣いていたこともあり、少女は少しだけ驚いた様子を見せたが、彼の優しい抱擁とその言葉に触れたばかりだからか、いつものように反射的な恐怖や、怯えに支配されることはなかった。
彼女は、亮の温かい手に、自身の頭を為すがままに、安心したように撫でられる。亮の手のひらから伝わる温もりが、彼女の心をさらに落ち着かせていく。
亮は、少女の柔らかい髪と耳の感触を楽しみながら、ゆっくりと、しかし確かな響きをもって、その『新しい名前』を告げた。
「君の名前は──こはる」
亮は、一度言葉を区切り、名前に込めた意味を説明した。
「『心』という字に、君と出会った季節の『春』と書いて……『心春』だよ」
「こはる……わたしの、名前……?」
少女は、その響きを確かめるように、亮から贈られたばかりの真新しい『名前』を、小さな唇で、そっと口にした。その翡翠色の瞳には、まだ深い驚きが宿っている。自分自身に『名前』というものが存在することへの、信じられないほどの純粋な驚きが。
「うん。そうだよ」
亮は、心春の目を見て、優しく、そして揺るぎない確信をもって頷いた。彼の言葉は、彼女の存在を肯定し、その新しい名前を確かなものとして世界に刻み込むようだった。
「今日から君は……『心春』だ」
亮がその名を告げた時、それまで『少女』でしかなかった存在は、『心春』という『唯一無二の個』として、確かに誕生した。そして、その瞬間──彼女の頬を、一筋の温かな雫が伝った。
(あれ……?わたし、の、なみだ……?)
優しく、そして確かな温もりを伝える亮の手が、彼女の頭を撫でる。その手のひらのぬくもりを感じながら、心春は自身の変化に驚いていた。今まで知らなかった感情が、彼女の心の奥底から呼び起こした涙に、彼女自身が戸惑っていたのだ。
(涙って……悲しいだけじゃなくて……嬉しいときにも、でるんだ……)
頬を伝う涙は、決して冷たくはなかった。むしろ、じんわりと広がる温かな感触を伴って、彼女の瞳からどんどんと、止めどなく溢れていく。それは、彼女の心が初めて感じる喜びによって、満たされていく証だった。
「どうしたの?また悲しくなっちゃった?」
亮が心配そうに、心春の顔を覗き込むように視線を合わせ、頭を撫でる手の力をさらに優しくする。
すると、心春は無言で、しかしはっきりと首を横に振った。
「りょう様、わたし……こはるは今、きっと──」
生まれて初めて、心春の顔に心からの、曇りのない笑顔が浮かんだ瞬間だった。それは、花が綻ぶように、純粋で、見る者の心を打つ笑顔だ。
「──『しあわせ』です」
その言葉が、その笑顔が、亮の胸に温かい光を灯した。そして、まだ見ぬ幸せという世界を垣間見た心春は、亮の優しさによって温かさに満たされる胸を感じながら、初めて出会った感情の輝きを、その震える声に乗せて、亮に伝えたのだった。
「そっか。うん。良かった」
亮は、心から安堵した。『心春』という名が、彼女にとっての『幸福の始まり』となったことに。
「これから、もっともっと幸せになろうね。心春」
「……はい、りょう様」
心春の声は、もはや怯えも悲しみも含まれていなかった。ただ、亮への確かな信頼と、未来への微かな期待だけが込められていた。
亮が名付けた『心春』という名には、彼の深い願いが込められている。春は、厳しく長い冬の寒さを乗り越え、新しい生命が、力強く一斉に芽吹く、希望に満ちた季節だ。
『心春』という名前には、暗く絶望的な冬のような過去を経て、春の訪れのように、彼女の心にも常に新しい喜びや希望がもたらされ、生き生きとした、輝かしい人生を送ってほしいという、亮の切なる願いが込められていたのだ。
そして、春に咲く色とりどりの花々のように、彼女の人生が、悲しみだけでなく、様々な色彩で満ちた、豊かな幸せになりますようにと、亮は心から願っていた。これは、名付け親である亮から少女への、彼の優しさの象徴とも言える、最初の、そして最も大切な贈り物だった。
心春──。この新しい名前が与えられ、彼女が初めての幸せを感じた瞬間、物語は、ここからゆっくりと、しかし、確かに、大きく動き始める。過去の絶望から解き放たれ、心春という新しい名前と自己を得た少女と、彼女に普通の幸せを与えたいと願う青年、亮。
二人の温かで、穏やかな未来に向かっていく物語の新しい扉は、今、まさに、静かに開かれたのだった。




