第14話 誤解とすれ違い
亮が、少女に名前がないことを知り、『俺が名前をつけてあげる』と宣言した日から、ちょうど三日が経過した。
この間、亮は、せっかく少女に新しい名前をつけてあげるのだからと、安易な思いつきでの命名を避け、真剣に、そして熟考を重ねていた。
名前は、その存在を定義する、この世界では極めて重要なものだ。彼女の過去を踏まえ、未来への願いを込めた、最良の名前を見つけ出そうと、彼は様々な資料を紐解いていた。
しかし、その亮が名前を考える間、当の少女には、とある、亮にとって理解しがたい変化が密かに訪れていた。というのも彼女は、亮が以前、愛おしさのあまりに零した『食べちゃいたいぐらい可愛い』という発言を文字通り受け止め、深く誤解してしまったのだ。
見世物小屋での、あの忌まわしい記憶が、彼女の心を縛り付けている。自分が食べられるためにこそ、今、この優しい環境に置かれ、亮に優しくされているのだと、彼女は悲しく勘違いしていた。
そして、その『悲しい誤解』から生まれた行動。彼女は、今の平和で、温かい、そしていつか必ず終わると信じ込んでいる『この夢のような時間』が、少しでも長く続いてほしいと考えた。そうすれば、あの、恐ろしい結末を少しでも先延ばしにできるのではないか、と。
そのために彼女が選択した方法は、亮が提供する『食事をあまり取らなくなる』ことだった。そうすれば、自分が太ることはなく、美味しくなくなって、結果として食べられる時期が遠ざかるだろう、と考えたのだ。
だが、少女がそんな、自身の『悲しい論理と切実な願い』を、亮に自ら伝えるはずもなかった。
言葉による意思表示に慣れていないこと、そして何よりも、亮を主人と見なしている彼女にとって、食事を拒否するという行為は、『主人への反抗』に等しい。
だから、亮にとっては、少女が急に食事の量を極端に減らしたという、全く理由が分からず、理解しがたい現象が起きているようにしか見えていない。
夕食の時間。亮は、少女が残した食事の皿を眺めながら、深く、深く、頭を悩ませていた。美味しそうに食べてくれる彼女の顔を見るのが、亮にとっては何よりの喜びだったからだ。
「……なんでだろう?急に、ご飯食べなくなっちゃったな……」
彼女のために心を込めて作った料理が、ほとんど手付かずで残されている。その光景が、亮の心を重くする。
「毎回……毎回きっちり、五口分だけ食べてるんだよな……なんでだ……?」
彼は、残された料理の量を改めて確認し、その奇妙な『規則性』に首を傾げた。まるで、食べること自体を拒否しているわけではないが、何か特定の理由があって、それ以上の量を食べられない、あるいは食べてはいけないと、彼女自身が決めているかのようだった。
観察しても、少女の様子はいつもと変わらない。特に具合が悪いような素振りを見せているわけでもなく、顔色も悪くない。心配した彼が熱を測ったりした時も、体温は通常通りであり、特に異常は見られなかった。
だからこそ、亮は余計に理由が分からず、どうすれば良いのかも分からず、ただただ頭を悩ませているのだ。
食事を少量だけ食べた後、すぐに亮の部屋に戻ってしまった少女は、相変わらず部屋の中では、窓の外を眺めているだけだ。
そこについても、亮が観察する限り、特に目立った変化はないように見える。しかし、亮には見えていない。彼女の心の奥底で、あの忌まわしい記憶と、亮の優しさが歪んだ形で結びつき、どれほどの悲しみと恐怖が渦巻いているのかを。
「マジで……よくわからないな……」
亮の口から漏れたその言葉は、少女の行動に対する純粋な困惑と、彼女の抱える問題の根深さを示唆していた。
彼はまだ知らない。彼の何気ない愛おしさからの言葉が、少女の心をどれほど深く傷つけ、悲しい誤解を生んでいるのかを。
◆◇◆◇◆◇
少女が、亮には理由の分からないまま不自然に小食になってから、合計で五日が過ぎた。
その間も、少女の様子は相変わらずだった。食事の時以外は、彼の部屋で、ただじっと窓の外を眺めて過ごしている。体調が悪そうな素振りもなく、熱もない。
亮が観察する限り、彼女の心と体に目立った異常は見られない。しかし、彼は、たまに少女の小さな体の中から発せられる、『微かな音』に気がついていた。
ある時、少女が部屋で一人、静かに座っている様子を伺うために、亮がこっそりと、自身の部屋の入り口の引き戸をほんの少しだけ開けて中を覗いていた時のことだ。耳を澄ますと、部屋の静寂の中、少女のお腹が「グー」っと、まるで可愛らしく鳴く小動物のように音を立てて鳴るのを聞いたのだ。
その様子から、亮は一つの『仮説』を立てた。少女は、お腹は減っているにも関わらず、何か理由があって、わざと食事を摂っていないのではないか、と。
彼はその仮説に基づき、彼女が少食になった原因を改めて頭の中で探ってみた。しかし、いくら考えてみても、彼女の行動が説明できるような思い当たる理由は全くなかったため、亮は思考を一旦放棄し、次に『別の手段』に出ることを決意した。
その手段は、いたって簡単、かつ単純なものだ。論理で原因が分からないならば、身体的な欲求に直接訴えかける。つまり、亮は、少女が我慢できなくなるような、あまりにも美味しそうな匂いと見た目の料理を作り、その『抗えない食欲』の力で、再び彼女に食事を摂らせようと考えたのだ。
「ふふふ。こうなったら……食欲との我慢比べ勝負だぜ」
亮は、キッチンで一人、密かに変な闘志を燃やした。彼の『食欲作戦』が、今、始まろうとしていた。
その日の夕方。まだ日差しが西の空に傾き始めた頃、亮の姿は、広々としたキッチンの中心にあった。
午前中に、この作戦のために意気込んで買い物を済ませており、食材はふんだんに用意してある。今回は、彼の財力──金に物を言わせて、この世の『高級食材』ばかりを厳選して集めてきたのだ。
肉であれば、例えば百グラム一万五千円もする、高級なシャトーブリアン。その他にも、彩り豊かな旬の野菜、港から直送されたばかりの新鮮な海鮮物など、様々な種類が、彼の腕にかかる時を待っている。
亮は、それらの見るからに美味しそうな高級食材を一つ一つ丁寧に調理するつもりだ。そして、ただ調理した料理を少女に出すだけでなく、その調理をしている状況にも少女自身に立ち会って見てもらい、食材が変化していく様子や立ち上る香りすらも武器にする算段だった。そうすることで、彼女の眠っている食欲を強制的に呼び覚ます作戦だ。
それらの準備も整ったので、少女が最もお腹を空かしているであろう時間帯を見計らい、亮は少女を呼びに、自身の部屋へと向かった。そして、少し戸惑っている様子の少女の手を優しく引き、彼女を伴ってキッチンへとやってきた。
広々とした、最新型のシステムキッチンは、ピカピカに綺麗に整理整頓されており、作業台の上には余計なものは何一つ置かれていない。だが、必要な調理器具や調味料は、全て収納の中に収まっており、どんな料理でも作ることができる。料理に困ることは一切ない、機能的で美しい空間だ。
初めて足を踏み入れたであろう、この見慣れない場所に戸惑いを見せる少女の視線に、亮は姿勢をすこし低くして、自身の視線を合わせた。そして、彼女を安心させようと、優しく諭すように言った。
「さあ、着いたよ。ここで、今から美味しいご飯作るから。君は、そこでよく見ててね」
少女は、亮の言葉に頷き、彼の示す場所へと移動した。
その表情は、心なしか、いつもよりも怯えているように見える。おそらく、なぜここに連れてこられたのか分からず不安を感じているのだろう。
しかし、今の亮の目には、そんな少女の微かな怯えはほとんど映っていない。彼の視線の先にあるのは、少女を惹きつけるであろう目の前の高級食材の数々。そして何よりも、何としても、この子に美味しいご飯を、お腹いっぱい食べてもらいたいという、一点に燃え盛る、彼の純粋な熱意だけ。
なので亮は、すぐに調理に取りかかった。メニューは、少女がご飯を食べなくなった日から、密かにいくつか考え抜いていたものの一つで、その中でも今回は、少女を何としても惹きつけるため、手に入れた高級食材をふんだんに使用した、『特製ビーフカレー』を作る予定だ。
彼が今回のメニューをカレーに決めた理由は、いくつかある。まず、単純な理由は、子供は皆、カレーが好きだという亮の個人的な偏見だ。
しかし、その偏見には、過去の経験からくる確信めいたものがある。大体の子供は、あの甘くてスパイシーな香りと、複雑な味の組み合わせが大好きだ。だからこそ、その子供が好きな、普遍的な美味しさを持つカレーを、今回手に入れた高級食材を使用して、とびきり美味しく作って、少女に振る舞おうと考えたのだ。
それに、料理の経験がそこまで豊富ではない彼でも、カレーであれば、手順通りに進めればそれなりに美味しく作ることは可能だという、彼の現実的な計算もあった。
亮は、まずはレシピの確認から入った。スマートフォンを片手に、カレーのレシピが載ったサイトを何度も、何度も見返しながら、手順のおさらいだ。画面を指でなぞりながら、心の中で手順を反芻する。
(なになに……まずは、肉や野菜など、好みの具材を一口大に切る、か)
彼は、切れ味の良い包丁と、清潔なまな板を用意した。キッチン台の上には、今回のカレーに使用する、厳選された材料が横に準備されている。今回のカレーは、彩り豊かな夏野菜をふんだんに使用し、メインのお肉には、あの最高級シャトーブリアンを使用する。
亮は、その美しい霜降りの肉塊を見て、内心僅かに興奮していた。
(個人的にも、シャトーブリアンほどの高級なお肉がゴロゴロと入ったカレーなんて、正直、一度は食べてみたいんだよな……!)
そんな、食いしん坊な一面も覗かせながら、彼は手際よく材料をお手頃なサイズに切り分けていく。野菜を刻む小気味よい音、肉を切る鈍い音だけが、キッチンの静寂を破る。
材料を切り分け終えた亮は、次に大きな鍋をコンロにかけ、油を熱し、切り分けた具材を投入して炒め始めた。ジュウ、という音と共に、肉と野菜が焼ける香ばしい香りが、キッチンの中に、一気に充満する。鼻腔をくすぐるその匂いは、亮自身の食欲をも刺激するほど魅力的な香りだった。
(うん、うん、いい匂いだな……。焦げ付かないように、注意しないと……)
彼は、木べらで具材を炒めながら、チラリと、作業台の横に立って静かに見守っている少女の様子を伺った。
彼女は、小さな両手をまるで何かに耐えるかのようにお腹の位置に置いて、亮の手元、そして具材が炒められる様をじっと、真剣な眼差しで見ていた。その瞳には、好奇心と、そしてどこか不安の色が混じっているように見える。
(あ、今、お腹鳴ったな……)
再び、少女のお腹から聞こえる『グーっ』という可愛らしい音に、亮は内心ほっこりしながらも、調理を続けた。やはり、少女は空腹なのだという確信が、彼の料理への熱意をさらに掻き立てる。
ある程度具材を炒め終わると、今度は鍋に水を加え、火にかけていく。湯気が立ち上り、沸騰したら、表面に浮かんできたアクを丁寧に、お玉ですくい取っていく。そして、ここからは具材が柔らかくなるまで煮込む工程だ。コトコトと、鍋の中で具材が煮込まれる微かな音が響く。
煮込まれていく具材たちからは、先ほどの香ばしい香りとは打って変わり、ふんわりと、どこか柔らかさを感じさせる、素材そのものの優しい香りが漂ってくる。
少女もまた、鼻を小さく、ひくひくと動かしながら、その香りを堪能しているようにも見えた。相変わらず、彼女の小さな両手はお腹に添えられており、時折、お腹の可愛らしい音が聞こえてくる。
(やっぱり、お腹は空いてるんだよな……なのに、なんで食べないのかな……)
少女の様子から、彼女がお腹を空かせていることは明白だ。しかし、その事実が突きつけられるということは、少女が頑なに食事をしない理由という、謎が深まることでもあるが、いくら考えても答えは出てこないので、今はその考えを振り切ることにした。
(まずは、目の前の料理を完成させることに集中しよう)
ある程度煮込みが終了したので、今度は火を止めて、カレールーをパキパキと割り入れ、鍋の中でゆっくりと溶かしていく。カレールーに関しても、今回は市販のものではあるが、その中でもそれなりに値段がする、かつインターネット上で調べたレビューで最上位に来ていたものを選んでいる。最高の食材には、最高のルーを合わせたいというこだわりだ。
(我ながらミーハーな考え方だが、まあ、うまければいいだろう)
亮は、内心で苦笑いしながら、カレールーが完全に溶けてほぼカレーとなったものを、再び弱火で煮込み、混ぜていく。鍋の中の液体が、次第にとろみをつけてきたので、そろそろ完成だ。部屋中に広がる、スパイシーで食欲をそそる香りが、彼と少女の鼻腔をくすぐる。
「よし、完成!」
亮は、達成感に満ちた声で宣言した。
それから、ちょうど炊き上がった、湯気立つ艶やかな白米を、白く丸いシンプルな皿に適量盛り付け、その上に、煮込まれた夏野菜と、あのシャトーブリアンのお肉が、文字通りゴロゴロと入ったカレーを、惜しみなくかけていく。
湯気と共に、さらに強いカレーの香りが立ち上るなか、仕上げに、彩りとして、中央にとろけるチーズを乗せれば、見た目にも美味しそうな、特製カレーの完成だ。
完成したカレーから立ち上る、食欲をそそるスパイシーな香りが、キッチンの空間に充満する。その香りに誘われるように、亮自身のお腹も『グーグー』と大きな音を立てて鳴っていたが、自分の分は後回しにして、少女の分のカレーだけ準備した亮は、カレーがよそわれた皿を片手に持って、もう片方の手で少女の手を取る。
「さあ、ご飯できたから、いつもの場所に行こうね」
彼は、まだ少し戸惑っているようだった少女を、小上がりへと導きながら優しく声をかけた。しかし、少女の視線は、すでに亮の言葉ではなく、彼の手の中にあるカレーに釘付けになっている。その大きな瞳は、食欲と期待に輝いているように見えた。
亮は、そんな少女の手を優しく引き、リビングの小上がりへ到着すると、少女をいつもの席である座椅子に座らせ、目の前の木製ローテーブルの上に、湯気立つカレーがよそられた白い皿をそっと置いた。
「はい、どうぞ。とっても美味しい、カレーという食べ物だよ」
亮は、少女がこの食べ物に馴染みがないことを思い出し、改めて説明を加えた。
いつもなら、食事が少女の前に置かれたら、彼女に気を遣わせないように少し離れた席に移動する亮だったが、今日は違う。『食欲作戦』の成否を確認するため、彼は離れずに、その場で少女の様子をじっと見守ることにした。
すると、少女は、カレーを目の前にしたにも関わらず、亮には普段あまり見せないような、複雑な表情をしていた。
それは、嬉しいような、でも嬉しくないような、悲しいような、驚いているような、そしてどこか焦っているような──いくつもの感情が混ざり合った、まさに何とも形容しがたい表情だ。
亮には、その中でも特に焦っているという感情が強く表れているように見えた。その小さな顔には、食べたいという純粋な欲求と、それを抑えつけようとするかのような、見えない葛藤が滲んでいる。
少女は、何度かちらりと亮の方を、その大きな瞳で伺いながらも、目の前に置かれたカレーには強く興味津々の様子だった。
スパイシーで甘い香りが、彼女の鼻腔をくすぐる。彼女は、お腹を小さな両手でそっとさすりながら、小さくぐるぐると音を立てているお腹を、まるで何とか抑えつけようとしているかのように見える。食べたい、でも食べられない。その葛藤が、彼女の全身から滲み出ている。
「ほら、大丈夫だよ。遠慮しないで、もう食べていいんだよ」
亮が、少女の葛藤に気づいたわけではないが、優しく食べることを促した瞬間、彼の言葉に後押しされ、少女はゆっくりとした、ややぎこちない手付きで、テーブルに置かれたスプーンを手に取った。そして、湯気立つカレーを一口分すくい、恐る恐るといった様子で口へと運んだ。
口の中にカレーを運んだ瞬間、少女の顔色が、一気に、劇的に一変した。驚きの表情が最も強く表れているが、その大きな瞳の奥には、抗えない喜びが宿っているようにも見える。それほどまでに、あの特製カレーは、彼女にとって想像を絶するほど美味しかったのだろう。
一口、また一口と、彼女は二口目、三口目と、次々と、しかしどこか急ぐかのようにカレーを口に運んでいく。その食べる速さは、飢えと、そして目の前の美味しさへの純粋な欲求に突き動かされているかのようだった。
亮は、少女の食べる様子を見て安堵した。
(甘口で作ったから、辛さも大丈夫そうだな)
少女の味覚に配慮した今回のカレーは甘口だった。さらに言えば、途中、煮込んでいる時に味見をしたので、味そのものに問題がないことは分かっていた。亮の『食欲作戦』の唯一残された問題といえば、少女がいつも通り五口目以降も食べるかどうかだ。彼女が自らに課しているらしい、あの不可解な『五口』という壁。
少女が四口目、そして五口目を口にした。亮は、固唾を飲んでその瞬間を見守る。運命の瞬間が、息をのむような静けさの中で近づいてくる。そして──少女の手が、スプーンを持ったまま、ピタリと止まった。
(やっぱり、ダメか……?)
亮が、内心がっかりとし、思わずため息をつきかけた、まさにその瞬間だった。目の前の少女は、まるで激しい葛藤に苛まれているかのように、一度顔を上げ、亮の方をちらりと見た。その瞳には、食べたいという願いと、それを拒否する過去の記憶、そして目の前の主人への恐怖が入り混じっているが、少女は意を決したように、震える手で六口目をスプーンですくい、口に運んだ。
一度五口目の壁を越えると、少女はもぐもぐと、咀嚼する音を立てながら、その後もひたすらカレーを口に運び続けた。しかし、五口目を過ぎた辺りから、亮には見て取れた。あれほど輝いていた少女の顔から、幸せの色が、嘘のように消え失せ、代わりになんだかとても悲しそうな表情をしながら、彼女がカレーを食べているのだ。
さらに、その大きな瞳は、次第に潤み始めている。美味しくても、食べることが彼女にとって『悲しい行為』であることを、その表情は雄弁に物語っていた。
少女は、終始無言のままだった。ただひたすらにスプーンを動かし続け、ついには、白い皿の上に残ったカレーを、文字通り全て、きれいに平らげてしまった。
それは、亮の『食欲作戦』としては大成功であり、喜ばしいことのはずだ。しかし、彼の目の前で起きていたのは、そんな単純な成功ではなかった。少女は、皿を空にした後、なぜか、大粒の涙を、ポロポロと、止めどなく流していたのだ。その小さな体は、感情の波に揺られているかのように、微かに震えている。
「えっ……どうしたの?もしかして、美味しくなかった?」
亮は、少女の予想外の反応に困惑し、慌てて声をかけた。なぜ泣いているのか、理由が全く分からなかった。少女は、亮の問いかけに、首を『ふるふる』と横に振った。美味しさは、どうやら理由ではないらしい。
「じゃあ……じゃあ、何か、嫌なことでもあったのかな……?」
亮は、さらに困惑を深めながら尋ねた。しかし彼の言葉に、少女は亮から視線を外し、涙を流したまま、うつむいてしまい、途中、何か言葉を発しようと口を開きかけるが、結局何も言えなかった。
そして、少女にしては珍しいほど、早い足取りで、まるで何かから逃れるかのように、亮の部屋へと駆け出すようにして、戻って行ってしまった。
彼女の小さな背中が、あっという間に引き戸の向こうに消える。残されたのは、空になったカレー皿と、少女の落とした涙の跡、そして困惑する亮だけだ。
一人取り残された亮は、少女が残した空の皿と、そこに落ちた彼女の涙の跡を見つめながら、ただ立ち尽くしていた。
「ますます、訳が分からないな……」
なぜ、あれほど美味しそうに食べていたのに、泣いていたのか。なぜ、何も言わずに逃げるように部屋に戻ってしまったのか。彼には理由が全く分からなかった。
だが、亮の直感──あるいは、少女への強い思いがそうさせたのか、『なんか、今、あの子を放っておいちゃいけない気がする』という、言葉にはできない強い『衝動』に駆られた。
彼女の流した涙には、きっと何か重要な意味がある。それを知らなければ、彼女の心に寄り添うことはできない。そう思った彼は、少女の残した皿をそのままに、衝動に突き動かされるように、少女の後を追いかけて、自身の部屋へと向かったのだった。
彼女の抱える秘密、そして涙の理由を、今すぐ知りたいと強く願いながら。




