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俺の孤独な人生に光をくれたのは、12億円ではなく、山奥の洞窟で見つけた異世界獣耳少女でした。  作者: ウィースキィ
第01章 名もなき獣の少女と、独りの億万長者

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第13話 やさしさの意味


 五月も中盤に差し掛かった頃。新緑が陽光を浴びて眩しく輝く、穏やかな朝。


 少女は今日も一人、自身の部屋で窓の外に広がる森を、ただ静かに眺めていた。差し込む朝日は、彼女の肌を優しく撫で、温かい空気が部屋を満たしている。


 深い静寂が支配する朝の時間。少女は、ふと、微かに獣の耳をぴくりと動かし、意識を集中させるように耳を澄ませた。


 すると遠くから、まるでささやき声のように聞こえてくるのは、風に揺れる森の木々が奏でる、ざわめきの音。そのすぐ近くにあるであろう小川の、絶え間なく流れる澄んだせせらぎ。


 そして、この家で眠っている、まだ目覚める気配のない新たな主、亮の、規則正しく穏やかな寝息だ。


 少女の耳は、彼女の頭部に四つ備わっている。頭の横についているのは、人間と同じ見た目をした人間の耳。こちらの耳でも、もちろん音を聞き取ることができる。だが、その頭のてっぺんに、ピンと立てるように生えた、獣人としての特徴である尖った獣の耳の方が、より遠い場所の音も驚くほど正確に聞き分けることができるのだ。


 それは、彼女が持つ、この世界では類稀なる聴覚を意味していた。


 だからこそ、彼女は窓の外を、ただぼんやりと眺めているだけでも、とても穏やかで、楽しい気持ちになれた。いつもどんな時も、優しく、穏やかな時間が流れ続ける森の中の音。


 それは、かつて自分が閉じ込められていた、暗く、じめじめとした地下牢で、耳にしていた音とは、全く違うものだった。


 地下牢では、聞こえてくるのは他の部屋に閉じ込められている奴隷たちの呻き声や、見世物にされる者たちがお仕置きをされている時の、叩きつけるような音や、断末魔の悲鳴。


 そして、地下の住人など意にも介さず、上で見世物が開催されている時の、悪意に満ちた観客の人々の下品な歓声。そんな耳障りで、心を蝕む音ばかりが跋扈し、彼女の耳を、そして心を常に苛んでいたのだ。


 だが、今、少女の耳を満たすのは、過去の壮絶な日々では到底考えられなかった、平和な音ばかりだ。自分がなぜここにいるのか。この新しい主が、一体何者なのか。気になることは山ほどあったが、彼女はそれらを探ろうとは、決して考えなかった。


 それは、少女が今まで生きてきた人生の中で、染み付いている、諦めに近い習慣のようなものだった。目の前にある『ありのままの今』を受け入れ、それにただ身を委ねて過ごすこと。それが、最も苦痛を感じにくい生き方であると、かつての壮絶な日々を通して、少女は痛いほど学んでいたのだ。


 未来を夢見れば、必ず現実が、その暗く、残酷な姿を、ありありと突きつけてくる。希望を抱けば、その分だけ絶望も深くなる。だからこそ、未来を夢見てはいけない。今この場にある、手の届く現実のみを受け入れるしかない。それが、彼女が生き抜くために身につけた、悲しい諦観だった。


 それでも、あの日の夜──亮と出会う直前、彼女は地下牢の片隅で、ほんの少しだけ夢を見たのだ。『どうか、こんな私にも、平和な日々が、穏やかな日々が、いつか訪れればいいのにな』と、誰にともなく、心の中で静かに願ったのだ。


 そして、次に目を覚ました時、彼女は、あの冷たくじめじめした地下牢ではなく、この温かく清潔な家の中にいた。そこには、清潔な部屋、着心地の良い清潔な衣服、今まで出会ったどんな人間よりも、優しく、温かく接してくれる、新たな主がいた。


「どうして……りょう様は……このような醜い存在であるわたしに、こんなにも優しくしてくれるのかな……」


 少女は、窓の外の木々に目を向けたまま、掠れるような声で静かに呟いた。そして、自分自身の胸にそっと手を当てる。



挿絵(By みてみん)



 温かい掌の感触を感じながら、彼女は、この新しい主である亮のことを、深く、深く考えた。すると、胸の奥に、今まで経験したことのない、不思議で『温かい何か』が、じんわりと広がっていくのを感じた。それは、ひどく心地よく、彼女の胸の鼓動を、少しだけ早くさせる。


 しかし、その温かい感情が彼女の心を満たし始めた瞬間、すぐに少女の思考は、悪い方向へと、自然と進んでしまう。彼女が今まで生きてきた環境が、どんな時でも、どんな場所でも、そうさせてしまうのだ。


 彼女の頭の中には、『自分のような存在が、幸せになることなど、決してありえない』という、過去の痛ましい経験によって刷り込まれた、深い絶望感が蔓延していた。


 俯き、しゅん、と下がり、力なく伏せた獣の耳。少女は、頭の中をよぎる『亮が優しくしてくれる本当の理由』を考える。その思考の行き着く先に、彼女の心は、どうしようもなく悲しくなってしまう。


「きっと……わたし……『食べられちゃう』んだ……」


 少女は、今までに感じたことのない亮からの『優しさ』に対する、自分なりの『理由付け』を見つけ出した。それは、異世界で生きてきた彼女にとって、醜く、役立たずな存在に与えられる『唯一の価値』。悲しいほどに純粋で、そして恐ろしいほどの真実を含んだ、彼女自身の結論だった。


 さらに少女は、昔、見世物小屋で自分の出番を裏方で待っている時に、決して忘れられない光景を目にしたことがあった。それは、自分と同じように見世物とされる獣人と思われる者が、まるで生贄のように、体を『くまなく、とても綺麗に洗われ』、そしてその後、『生きたまま』、観衆の目の前で食い殺されていく姿だった。


 そして、その時の観客が発していた言葉も、鮮明に、耳の奥に焼き付くように覚えている。観衆は、興奮と期待に目を輝かせ、あるいは不満げに、こう言っていたのだ。


『なんだ、肉が全然ないじゃないか!もっと太らせろよ!』


『ちっ、肉の匂いが悪いな。せめて、一ヶ月は清潔な環境で過ごさせてからにしろ!』


『そうだ、そうだ!そうじゃないと全然美味しくないじゃないか!金払ってるんだぞ!』


 その観客たちが、人間だったのか、それとも獣人だったのか、そこまでは少女には分からなかった。しかし、彼らは、見るからにすごく楽しそうに、そんな悪意に満ちた文句を見世物小屋の主人に言い放っていたのだ。


 それらの忌まわしい記憶が、今、少女の脳裏にありありと蘇る。そして、その記憶を、今、自分が置かれているこの家での環境に照らし合わせると、なぜか不思議なぐらい、完璧に合致するのだ。


 亮と出会ってからというもの、少女は毎日、体を清潔に保つためと称して、あの『水のある部屋(お風呂)』に連れて行かれる。そこで、石鹸を使い、すみずみまで綺麗に体を洗われる。排泄の際も、『清潔な部屋(トイレ)』で、常に体を綺麗にすることを『命令』されている。


 さらに、与えられるご飯は、今まで食べたことのないほどとても美味しいが、少女の頭には、あの観客たちの言葉がこだまする。きっとそれは、自分を『太らせて、より美味しく食べるため』なのだと、少女は固く、固く信じ込んでいた。


(ずっと、このまま過ごせれば……いいのにな……)


 少女は、あの地下牢での経験から、『未来を夢見てはならない』と、己に強く言い聞かせてきた。希望を抱けば、その分だけ絶望は深まる。だからこそ、今ある現実だけを受け入れる。それが、彼女が生き抜くための、悲しい『哲学』だった。


 しかし、その考え方を変えてしまうほどに、今の生活は少女にとって、夢のような、温かい生活なのだ。あの『優しい主』、あの『清潔で、安全な家』、そして、『美味しい食事』。この奇跡のような日々を、この先の未来もずっと過ごしていきたいと、彼女は、その強い決意に反して、抗い難く願ってしまっていた。


 そんな葛藤を胸に秘めていると、少女の獣の耳に、かすかな『物音』が飛び込んできた。それは、リビングで眠っていた『亮が、目を覚まし、行動を開始した音』だ。きっと、朝食の準備に取り掛かるのだろう。


 ピクリと、少女の体が反射的に震えた。そして、恐怖と、わずかな諦めを滲ませながら、少女はもぞもぞと、布団の中へと深く潜り込む。


 亮が起きてからする行動は、まず、この部屋の様子を見に来ることだと、ここで過ごす日々で学んでいたからだ。だから、少女は必死に眠ったふりをする。そうすれば、彼は部屋に入りもせず、彼女を起こそうともせず、そのまま家の外へ、出かけて行ってしまうことを知っていた。


 本当はもっと、彼の近くにいたい。優しくしてほしい。誰かと一緒に、温かい空間を共有したい。誰かの『ぬくもり』を、肌で感じたい。そんな、人間らしい感情が、彼女の心の奥底には、確かに存在するのだ。


 そして、今の主である彼は、彼女が今まで出会ったどんな存在よりも、優しく、温かく接してくれる。


 しかし、その優しさは、きっと自分を『食べるため』なのだと、自分のような存在が『幸せになることなどありえない』のだと、そう言い聞かせ、少女は今日も一日、希望と絶望の狭間で、彼女の心は、今日もまた、深い闇に沈んでいく。




◆◇◆◇◆◇




 それから、さらに一週間という時間が過ぎ去り、五月も終盤に差し掛かっていた。日差しはどんどんと夏へと近づくにつれ、その強度を増し、それに伴って気温も高くなっている。


 家の位置が山奥という立地的な利点もあり、平野部に比べれば遥かに涼しい環境ではあるが、それでも初夏の訪れを思わせる湿気を帯びた熱気が、徐々にその存在感を増していっていた。


 朝早く、まだ空気が澄んでいるうちに起床し、日課である朝の散歩を済ませて家に戻ってきた亮は、リビングのソファーに深く身を沈め、電子書籍リーダーを片手に、静かに読書にふけていた。


 今日、彼が読み進めている本は、『心理学の入門書』だ。彼は、少女との心の距離がなかなか縮まらないことに、密かに頭を悩ませていた。


 どうすれば、もっと彼女と打ち解け、心の底から仲良くなれるのか。その答えを、科学的なアプローチである心理学の力を応用して見つけ出そうと考えていたのだ。


「うーん。距離を縮める方法、か……」


 彼は、ページを捲りながら、小さく唸った。今日までに何冊かの心理学に関する本を読んできたが、どれも書かれている内容は大体同じようなものであった。


 他人との心の距離を効果的に縮める方法として、最も基本的なのは、接触頻度を増やすこと。これは有名な『ザイオンス効果』と呼ばれるものであり、単純接触が増えることで、相手に対する好感度も自然と高まるという、実証された心理現象だ。


 他にも、『共通点を見つける』、『相手の話を傾聴する』、『心を開いて相談を持ちかける』、『自己開示をする』、『たわいもない雑談を交わす』、など様々な方法がある。それらの一覧を眺めていた時に、亮はある項目に目が留まり、はっと、あることに気がついた。


「名前を呼ぶ……なになに、会話の中で相手の名前を頻繁に呼ぶことが、親近感を高める上で効果的……?」


 亮は、電子書籍の画面を凝視した。彼の頭の中で、一つの大きな『衝撃』が走る。


「……そういえば、あの子の名前って……何なんだろう……?やばい、全然気にしたことなかった……!」


 その時、彼は初めて、自分が少女の『名前を知らない』という、あまりにも当たり前で、そして決定的な事実に気づいたのだった。


「あの子、一度も名乗ったことないもんな……。いや、俺も全然聞かなかったしな……」


 亮は、自身の手のひらを見つめながら、小さく呟いた。


「名前、か……。すごく身近で、当たり前のことだから、あんまり気がつかなかったけど……確かに、名前で呼ぶのって、大事だよな……」


 これまで、少女の名前に意識的に興味を持っていなかった自分を、ほんの少しだけ責めながらも、亮は少女に『名前を聞く』という、新たな、しかし極めて重要な決意を固める。


「よし。とりあえず、あの子に名前聞いてみよう」


 思い立ったら即行動。それは、彼の数少ない長所の一つでもあった。亮は、その理念のもと、リビングのソファーから立ち上がり、廊下の人感センサーで淡い光が灯る道を通り、少女が一人で過ごしている自身の部屋へと向かった。


 引き戸に手をかけ、軋まないようゆっくりと横に滑らせて開ける。部屋の中を覗くと、少女はまだ布団の中にいた。いつもなら、彼女が眠っている時は、そっとそのままにしておくのだが、今日は違う。今日は『名前を聞く』という、明確な目的を達成するべく、亮はもう少しだけ踏み込んでみようと考えていた。


 そろりそろりと、抜き足差し足で、音を立てないように少女の眠る布団へと近づく。彼女を起こしてしまわないよう、細心の注意を払いながら、布団のすぐ近くまで寄ると、彼はその場に静かに座り込んだ。目の前には、柔らかな毛布から、僅かに半分ほど顔を出し、その頭頂部から『大きな獣の耳』だけを覗かせた、少女の可愛らしい寝顔が見える。


 その無垢で愛らしいビジュアルを見ていると、彼の心の中には、ふつふつと、とある感情が首をもたげ始めた。それは、少女の愛らしい、獣の耳のついた頭を、優しく、そっと撫でてみたいという、抗い難い衝動であった。


(眠ってるし、いいかな……?)


 亮は、目の前の少女の安らかな寝顔を見つめながら、迷いと期待が入り混じった心情で、そう心の中で呟いた。


 目覚めている状態の少女は、亮が物理的な距離を近づけようとすると、途端に恐怖で体を震わせたり、怯えから耳を伏せてしまったりするため、なかなか意識的な『物理的接触』を試みることはできていなかった。


 それこそ、毎日のお風呂で、彼女の体を洗う際に触れることはできるが、それ以外の場面で、そういった『スキンシップ』を取る機会は、これまで皆無だったのだ。


 心理学の本にも、『適度なボディタッチ』は、相手との心の距離を縮める上で非常に効果があると書かれていた。亮も、今後は少女の様子を見ながら、少しずつでもその頻度を増やしていきたいと考えている。


 しかし、彼女の根深いトラウマと怯えを考慮すると、起きている間にそれを試みるのは、なかなか難しいと判断してもいた。


 だからこそ、今、この瞬間は、亮にとって『絶好のチャンス』だったのである。


(よ、よし。……ちょっとだけ、撫でちゃおう)


 亮は、意を決して、恐る恐るゆっくりと右手を伸ばした。


 そして、毛布から覗く少女の純白と淡い桃色に彩られた髪とふわふわとした獣の耳』にそっと触れる。


 指先に伝わるのは、柔らかな毛並みの感触と、『じんわりと温かい、彼女の体温』。その温かさが、亮の指先から腕、そして心臓へとゆっくりと伝播していくかのように、彼の心の中も、少しずつ温かくなっていくような感覚がした。


 誰かとの『肌を寄せ合う触れ合い』──それは、彼がこれまで『意図的に避けてきた』ことでもあった。誰かと親密な関係になってしまえば、いつか別れる時が来た際に、その分だけ深く、辛い思いをすることになる。それならば、最初から親密な関係を築かなければいい。そんな『言い訳』を心の拠り所にして、亮はこれまで『自分一人で』過ごしてきたのだ。

 

 だが、やはり『誰かとの触れ合い』というのは、人間が『本能として求める』ものなのだと、亮は今、確信していた。少女と出会ってからというもの、彼の頭の中には、いかに少女と仲良くなるかという、ただそればかりが、まるで水車の如く、絶え間なく頭の中を巡っていたのだ。


 今も、少女の頭をそっと撫でることによって、心の中に不思議と温かく、そして確かな愛おしさがこみ上げてくる。今まで想像を絶するような辛い思いをしてきた目の前の少女が、心から安らぎ、笑顔で日々を過ごせるのなら、それこそが、自分にとって何よりも素敵なことではないかと、彼は心からそう思ったのだ。


「……食べちゃいたいぐらい可愛いっていうのは、こういう感情なのかな」


 ふと、抑えきれない『愛おしさ』が溢れ出すことによって、無意識のうちに言葉が彼の口から滑り落ちた。無意識に出てきた言葉ではあったのだが、発言の後に冷静に考えてみると、可愛い対象を『食べたい』とは、随分と『猟奇的な表現』だなと、彼は小さく、自嘲気味に笑った。


(赤ちゃんとか、ペットとか見た時に、たまに今みたいなこと言う人いるけど、よくよく考えると結構怖いこと言ってるよな、これ……)


 亮は、少女の頭を撫で続けながら、その言葉の『意味』が気になり、空いた片手でスマートフォンを操作した。彼の指が素早く画面を滑り、検索ワードを打ち込む。


(『食べちゃいたいぐらい可愛い』の意味は……あ、あった)


 スマートフォンの画面に映し出されたのは、『キュートアグレッション』という、見慣れない言葉だった。


 そこには、『可愛いという感情に圧倒され、それを制御できない時に現れる、衝動的な行動や感情の現象』だと書かれていた。さらに読み進めると、『可愛さの刺激によって、脳が過剰に反応してドーパミンが分泌され、そのドーパミンが、通常攻撃的な時に分泌されるものだから、脳内で感情の混線が起きている』、といった興味深い解説が続いている。


(ふーん。なるほどね)


 亮は、再び視線を目の前の少女へと戻した。確かに、彼女を見ていると、抗いがたい『可愛い』という感情がこみ上げ、同時に『強く抱きしめたい』とか、『その可愛さを独り占めしたい』とか、そういった衝動的な気持ちが、顔を出すような気がした。


(ま、俺は理性的だから、そんな衝動に駆られても……実際にそんなことしないけどね)


 亮は、自らに言い聞かせるように、心の中でそっと呟いた。


 その後もしばらく少女の頭を撫で続けていると、もぞもぞと、布団の中で小さな体が動いた。そして、柔らかな毛布の中から、少女がゆっくりと、顔をのぞかせた。


「あ、ごめんね。起こしちゃったかな……?」


 亮の謝罪の言葉に、少女は瞬きを一つ。


「いえ、その、りょう様、おはようございます」


 少女は、寝起きにしては、どこか意識がはっきりとしており、その表情には、心なしか怯えの色が滲んでいるようにも見える。その様子を察し、やはり『身体的な距離』をこれ以上縮めるのは、まだ少女にとって心の準備ができていないのではないかと亮は考え、そっと、彼女の頭から手を離した。


「うん。おはよう。よく眠れた?」


「はい。とてもよく眠れました」


 少女は、亮の問いかけに、控えめながらもはっきりと答えた。


「そっか。ならよかった」


「はい……」


 短い言葉を交わした後、二人の間に『気まずい沈黙』が訪れた。亮は、起きたらすぐに少女の名前を聞こうと考えていたのだが、いざ会話が始まってしまうと、その切り出し方が分からず、なかなか聞き出せない。


(くそ、俺の『意気地なし』……!えーい、ままよ!)


 亮は、心の中で自分を叱咤し、『勢いだけで』言葉を発した。


「えっと、君の名前って……何て言うのかな?」


 もはや勢いだけで発言をした亮だったが、一度口に出してしまえば、『なんてことはない』。後は、少女の答えを待つだけだ。しかし、少女は亮の問いかけに、首を傾げるばかりで、どこかキョトンとした、幼い表情のまま、ゆっくりと口を開いた。


「……わたしに、名前は、ございません」


 その、亮が思っていた答えとは全く違う言葉に、彼は一瞬、戸惑いを覚えた。しかし、少女がこれまで生きてきた『過酷な日々』を考えると、名前がないという事実も、あながちありえないことではないと、亮は妙に納得ができた。


「そっか、名前ないのか……」


 少しだけ考えた後、ふと、亮の頭の中に『閃き』がよぎった。


「じゃあ、俺が君に名前をつけてあげるよ。いくつか案が決まったら、また相談するね」


 亮は、そう言い残すと、少女の返事も聞かずに、どこか『興奮した様子』で、部屋を後にしたのだった。


「なまえ……?」


 残された少女は、彼が出て行った引き戸を、ただじっと呆然と眺めながら、状況がまるで飲み込めないまま、まん丸く目を点にするしかなかった。しかし、それよりも強く彼女の心を支配していたのは、先ほど寝たふりをしていた際に、亮が頭を撫でてくれていた時の、あの『耳慣れない発言』だった。


 ──『食べちゃいたいくらい』。


 彼は、確かにそう言ったのだ。そしてそれは、先週、少女がこの家で亮に優しくされる『本当の理由』を、あの忌まわしい地下牢の記憶と照らし合わせ、自分なりに『悲しく結論付けた内容』に、あまりにも恐ろしいほどに合致していたのだ。


(ああ、やっぱり……!)


 だから少女は、その『絶望的な真実』に深く、深く、悲しい気持ちに支配され、瞳から『熱い雫』が溢れ出した。その涙は、止めどなく頬を伝い、顎の先からぽたぽたと布団へと落ちていく。


「やっぱり……食べられちゃうんだ……」


 亮が、少女に与える『新しい名前』をウキウキと楽しげに考えている間、少女は、布団の中でぐすぐすと鼻をすすりながら、恐ろしい『勘違いをしたまま』、ただただ一人、静かに涙するのだった。


 その小さな体は、拭いきれない過去の恐怖と、今、目の前にある、偽りだと信じ込んでしまった『優しさ』の板挟みになり、まるで『嵐の中の小舟』のように震えていた。

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