第12話 少女との距離
少女を保護してから、あっという間に一週間が経過した。この間、亮は根気強く、少女がこの日本で過ごすために必要な、様々な基本的なことを、一つ一つ時間をかけて教えてきた。
トイレの使い方に始まり、水道の捻り方、洗面台の使い方、そして清潔を保つための風呂の入り方など、日常生活を送る上で必要最低限のことについては、一通り説明と実践が終了している。
時間をかけて、根気強く向き合ったこともあり、特にトイレの使い方に関しては、今では少女は一人で滞りなく、一連の動作を行えるようになっていた。
そして、トイレと密接に紐づく内容として、トイレにある手洗い場や、洗面台の使用方法についても十分に理解し、自立して使用できるレベルに達していると言えた。
しかし、亮の心には、僅かな寂しさが影を落としていた。それは、生活に必要な技術を習得していく少女に対し、亮と少女の間の心の距離は、未だ縮まることはなかったという事実だ。
少女はあくまでも亮のことを、見世物小屋時代に刷り込まれた価値観そのままに、『絶対服従すべき主人』であると考えているらしい。そのため、彼女自身から、亮に何かを話しかけてくるようなことは、一切なかった。
少女が、亮に対して自分から言葉を発するタイミングがあるとすれば、それは、自分の行動が、主人である亮の迷惑に繋がってしまう可能性があると、彼女自身が判断した場合に限られる。
例えば、最近の出来事で言えば、『トイレに行きたい』という生理的欲求が生じた際、彼女は、家の中でそれを済ませてしまえば、家の中を汚してしまうことになる。
それは、主人である亮に対する『迷惑行為』に他ならない。だからこそ、どうしようもなくなり、恐る恐る、許可を求めるように亮に声をかける、といった具合である。
亮としては、もっと少女と対等な立場で、たわいもない会話やコミュニケーションを増やしていきたいと切に願っている。
しかし、無理に少女との距離を詰めようとすれば、彼女は困惑し、見るからに怯える様子を見せるため、亮は少女の心を傷つけまいと、なかなかそれ以上の距離を縮めるための行動に踏み出せずにいたのだった。
そんなある日の夜、時間は午後八時を回っていた。
亮が、すでに終わった夕食の片付けをキッチンで進めていると、視界の端に少女がリビングの小上がりから静かに立ち上がり、亮の部屋へと戻って行く姿が映った。
「また、部屋に行っちゃったか……」
亮は、自然と独り言をつぶやいた。
このところ、少女は、亮に食事のために呼ばれる時以外は、ずっと亮の部屋にたった一人でいることが多かった。
初めて目を覚ました場所が、あの洞窟奥の牢屋ではなく、この彼の部屋であったため、彼女にとっては、あの部屋こそが自分がいるべき場所であり、見世物小屋にいた時で言うところの、暗くじめじめとした地下牢のような、閉鎖された安心できる空間という感覚なのだろう。
自分がいるべき場所はあそこにしかない。それ以外の場所、つまりリビングやキッチンなどに行くのは、主人である亮に呼ばれた時か、その主人から許可をされた、トイレに行く時だけ。それ以外の時間は、ずっと同じ部屋にいることが当たり前。
亮は、少女の行動様式から、そんな悲しい考えが彼女の中に根深く染み付いているのだろうと推測していた。
二日ほど前の夜、亮は部屋に一人でいる少女が、一体何をしているのか気になり、こっそりと様子を見に行ったことがある。彼女に気づかれないように、廊下を忍び足で部屋に近づき、引き戸をほんの少しだけ開けて中を覗いてみたその時、亮が見た光景は、彼の胸を締め付けるような痛みをもたらす。
少女は、あの新しい家で、何一つ娯楽や時間つぶしの手段を知らないのだ。彼が電気の付け方や、新しい家電の使い方を教えていたものの、彼女は部屋の電気もつけず、窓から差し込む僅かな月明かりだけを頼りに、床の上に体育座りで小さく丸まり、ただひたすらに窓の外の『月や星』を、あるいは昼間であれば移り変わる木々の緑や空の色を、ぼんやりと眺めているだけだったのだ。
それ以外の時間は、文字通り彼女は何もしていなかった。
(何か、楽しいこととか、時間を潰せることとか、教えてあげたいけど……)
亮は、洗い終わった食器を布巾で拭きながら考えた。
(あんまり急に、色々やらせようとすると、また驚かせちゃうしな……どうしたもんかな……)
亮は、心の底から少女と本当の意味で仲良くなりたかった。彼女の心を開き、心の底から笑顔で、たわいもない会話を交わし、一緒に美味しいものを食べ、楽しいことをして、そして、共に人生を歩んでいく。そんな未来が訪れることを、彼は切に願っていた。
それは、宝くじ当選という劇的な変化があっても、未だ拭えずにいた、孤独な自分の人生に、あの少女という新たな光が、不意に差し込んできた、そんな気持ちになっていたからだ。
元々、人付き合いが苦手で、人と顔を合わせるのが好きではなく、自ら進んで孤独を選ぶような性格だった彼が、今では自分よりも遥かに孤独で、過酷な世界に生きてきた少女を目の前にして、進んで彼女と関わり合いを持ちたいと強く思っている。
そんな劇的な変化が、彼の内面には起こっていた。そして、彼自身もその変化に気がついており、自分自身でも驚いていたのだ。
「まあ、焦らず……だよな……時間は、たっぷりあるんだし……」
洗い終わった食器を、布巾で水気を丁寧に拭き取りながら、亮はぼんやりと、しかし自分に言い聞かせるように呟いた。少女との距離を縮める道のりは、まだ遠いかもしれない。だが、焦る必要はない。彼は、少女が心を開いてくれるその日まで、根気強く、そして優しく寄り添い続けることを、改めて心に誓ったのだった。
その後、夕食の片付けを終えた亮は、リビングのソファーに深く腰掛けた。そしてノートパソコンを開き、動画投稿サイトで作業用BGMとしてジャズミュージックを再生する。部屋に静かに流れ始めた、アルトサックスのけだるい音色。彼は一人、急須でそば茶を入れ、湯呑みに注がれる琥珀色の液体から立ち上る香りを楽しみながら、一息ついていた。
本当は、熱いコーヒーでも飲んで、心身共にシャキッとしたい気分だった。だが、日頃から睡眠の質を何よりも大切にしている彼は、午後十二時以降のカフェイン摂取を厳しく控えている。そのため、夜に安心して飲めるのは、カフェインの少ないそば茶のような飲み物ばかりだった。
「はぁ……そば茶、うまいなあ」
湯呑みを両手で包み込み、その温かさを感じながら、彼はぼんやりと呟いた。温かい飲み物が、冷えがちな心をほんの少し溶かしてくれるようだった。
「……でも、こうして一人で飲んでると……なんか、むなしくなるな……」
彼は、湯気を見つめながら独り言を続けた。特に、同じ屋根の下に、もう一人、人がいるにも関わらず、自分はこうして『一人で』時間を過ごしているという事実が、その虚しさをなおさら際立たせていた。
物理的な距離もさることながら、少女との間にはまだ、過去のトラウマや染み付いた価値観という、大きな、目に見えない壁があり、まだまだ心の底から打ち解けることはできていない。少し感傷的になりながらも、湯呑みの熱いそば茶が、冷えた心にじんわりと染み入るようだった。
「ふう……八時半か……そろそろ、お風呂の時間だな」
そんな感傷に浸っていた彼だったが、ふと視線をスマートウォッチに移し、表示された時間を確認すると、その表情が少しだけ、しかし確かに明るくなるのを感じた。
それは、彼にとって数少ない、少女とのコミュニケーションの時間が、もうすぐ始まるという予感からだった。少女に出会った二日目から、食事の時間以外で、彼と少女の間に生まれた唯一の交流の時間。それが、『お風呂の時間』だったのだ。
何でも、少女は水が苦手らしい。
初めて彼女にお風呂の使い方を説明するために内湯へ連れて行った際、浴槽になみなみと張られた大量の湯を見るなり、彼女は顔色を失い、激しく体を震わせ、まるで身を守るかのようにおびえてうずくまってしまっていた。
始め、その姿は、湯船に入れられるのを極端に嫌がる『猫』のようにも見えた。だが、彼女の怯え方は、そんな動物的な怯え方とは明らかに違っていた。それは、まるで過去に水で溺れたり、水によってひどく苦しい思いをしてしまった、深いトラウマがあるかのような、見る者を凍りつかせるほどの恐怖だった。
亮が、少女の怯え方があまりにも尋常ではないため、その理由を優しく尋ねたところ、彼女は震える声で、見世物小屋にいた際の壮絶な体験を語り始めた。
少女が観客の前で、観客が期待するような面白い、あるいは過剰な『反応』をできなかった時、見世物小屋の主人から『お仕置き』として、大きなたらいになみなみと張られた冷たい水の中に、顔を無理やり、何度も、何度も突っ込まされたのだという。呼吸ができなくなり、気を失うまで、それが繰り返されたらしい。
その凄惨な経験から、彼女は水そのものを見るだけで、反射的に深い恐怖を抱くようになったという。そんな壮絶な話を聞いてしまえば、亮はお風呂の入り方だけを教えて、後は一人で入っていいよとは、とても言えなかった。
怯え、水を極端に嫌がる少女を、毎日無理にお風呂に入れるというのは、亮の心にとって、心苦しいことだった。だが、衛生面を考えれば、体を清潔に保たせないわけにはいかない。
それに、少しずつでも水に慣れてもらい、トラウマを克服してほしいという願いもあった。だからこそ、お風呂に入る時は必ず亮が同行し、お風呂という場所が、彼女にとって危険な場所ではなく、むしろ一日の疲れを癒やし、心を安らげる素敵な場所であることを教えるために、毎日付き添っているのだ。
「ふう、それじゃあ……行くか」
亮は、飲み終えた湯呑みを置き、ソファーから立ち上がった。
お風呂の時間が近づき、彼の表情は、先ほどの感傷的な色合いから、少しだけ明るくなっている。それは、下心などでは断じてない。ただ純粋に、言葉は少なくても、少女とのコミュニケーションが取れる時間であることに、彼自身が喜びを感じているからだった。
彼は、通販サイトで購入した、あの少女用の下着と可愛いパジャマを手に取った。そして、それらを抱え、少女がいる、今は彼女の部屋となっている自身の部屋へと、足を進めた。
温かい光が足元を柔らかく照らす、人感センサーにより自動的に淡い電球色の間接照明が灯る廊下を、亮は静かに歩いていた。昼間の明るい印象とは異なり、夜の廊下はどこか落ち着いた、しかし僅かに神秘的な雰囲気を漂わせている。その廊下の突き当たりにある、自身の部屋の引き戸にたどり着くと、亮は小さく二度軽くノックをしてから、そっと引き戸を開けた。
部屋の中にいた少女は、亮が予想した通り、いつも通り窓際のフローリングに体育座りで小さく丸まり、窓の外に広がる真っ暗な夜空に浮かぶ月や星々を、じっと見上げていた。部屋の電気はつけられておらず、月明かりだけが、彼女の白い顔を淡く照らしている。
亮が部屋に入ってきた気配に気づくと、彼女の視線は、空からゆっくりと彼の方へと向けられた。
その翡翠色の瞳に宿る光は、昼間に外の景色を見ていた時の輝きとは異なっていた。亮に向ける視線には、警戒の色はないものの、まだわずかに、しかし確かに残る、他人に対する根深い恐怖心が覗いているのが見て取れる。それは、彼女の過去が刻み込んだ、拭いきれない傷跡だった。
そんな少女との間に横たわる、この物理的な距離以上に大きな壁を感じながらも、亮はめげなかった。少女とのコミュニケーションを深めたいという一心で、彼は極力、優しい笑顔を浮かべ、少女に対して声をかける。
「そろそろ、お風呂の時間だよ。今日もまた、一緒に行こうね」
『お風呂』というワードが出た瞬間、少女の頭部にある獣の耳が、『ピクリ』と小さく動いたのが見えた。その僅かな反応に、亮の胸は締め付けられる。
やはり、あの壮絶な経験が、まだ彼女の中に深く根を張っているのだろう。大量の水を目の前にした時の、肌が粟立ち、体が震えだすほどの恐怖は、一番最初の頃と比べれば、いくらかマシになってきてはいる。しかし、それでも、未だ浴槽になみなみと張られた大量の水を目の前にすると、少女の顔からは血の気が失せ、見る見るうちに恐怖に染まるのだ。
それでも、どんなに怖くても、少女は亮の言うことには逆らわない。過去に刷り込まれた、絶対的な主従関係。今の彼女にとって、亮こそがその関係性における『主』であり、亮がその関係性を望むか、望まないかに関わらず、彼女にとっては彼に『従うことこそが全て』なのだ。
亮の言葉を受け、少女はゆっくりと、やや気が引ける様子を全身に滲ませながら、窓際から亮の目の前へと歩み寄ってきた。その小さな背中や、俯きがちな様子は、まるで、これから親にお仕置きされる前の子供のように見えて、亮の心は少しだけ、チクリと痛んだ。
「大丈夫だよ。怖いことは何もないからね。お風呂は、怖くない場所だよ」
亮は、少女の顔を見つめながら、励ますように優しく言葉をかけた。そんな言葉をかけたところで、少女の中に深く根付いた恐怖が、瞬時に消えるわけではない。それは亮も理解している。それでも、何か声をかけてあげなければいられない。亮にそう思わせるほど、今の少女はか弱く、そしてその怯えている様子が、亮には痛ましく、可哀想に見えたのだった。
亮の優しい言葉に対し、少女は小さくコクリと頷いた。そして、亮を見上げることもなく、控えめに、彼の目の前で小さな手を、そっと差し伸べた。
(……やっぱり、手は繋いで欲しいのか)
亮は、差し出された少女の小さな手を見て、内心穏やかな驚きを感じた。少女が『手を引かれること』を望むのは、お風呂に連れて行かれる時だけだ。それは、二日目のお風呂に行く際、廊下の途中で少女が水への恐怖のあまり立ち止まって動けなくなってしまった時に、亮が優しく彼女の小さな手を取り、『大丈夫だよ』と声をかけながら、ゆっくりと脱衣所まで連れて行った出来事から始まっている。
それ以来、お風呂に行くタイミングでは、必ず彼女の方から、遠慮がちに手を差し伸べてくるようになったのだ。
(まあ、これも……この子にとっての、コミュニケーションの第一歩ってことにしておくか)
亮は、そう考えた。まだ言葉での積極的な交流は難しいが、こうして身体的な接触を求めるのは、少女が亮に対して、少しずつではあるが心を開き始めている、あるいは安心感を求めているという証拠なのかもしれない。
少女との心の通ったコミュニケーションが取れるようになるならば、手を繋ぐことなど、亮にとっては、決してまんざらでもないことだった。むしろ、温かい彼女の手の温もりが、彼の孤独をほんの少し癒やしてくれるようにも感じていた。
亮は、差し出された少女の小さく、しかし確かな温もりを持つ手を優しく取り、繋いだ。二人の手に、互いの体温が伝わる。そして、亮が先導するように、二人はゆっくりと歩きながら、お風呂場へと続く脱衣所へと向かったのだった。
彼らの間には、水への恐怖による少女の緊張感と、それに寄り添う亮の優しさ、そして、手をつなぐことによって生まれた、微かな安心感と温かさが流れていた。
脱衣所へと続く引き戸に手をかけ、亮は静かにそれを横に滑らせた。引き戸が開くと同時に、人感センサーが反応し、脱衣所の中央や壁に設置された照明が、電球色の柔らかな間接照明となって空間を照らし出す。それは、わずかに薄暗く、それでいて暗くはない、入浴前の心身を落ち着かせるのに最適な、絶妙な光の加減が演出された空間だ。室内には、建材として惜しみなく使用されたヒノキの香りが、微かに、しかし心地よく香っている。
脱衣所は、まるで高級旅館のそれさながらの設備が整えられている。整理整頓された棚には、タオルや着替えを収納するためのいくつかの籠が綺麗に並べられている。広々とした洗面台には、大きな鏡が据え付けられ、その横には、歯ブラシや綿棒、基礎化粧品といった必要なアメニティが、これもまた綺麗に整理整頓されて準備されている。その全てが、この家の住人が、心ゆくまでリラックスできる空間を提供するために選ばれ、配置されていた。
亮は、手をつないだ少女と共に、その清潔で温かみのある脱衣所の中へと足を踏み入れた。
「それじゃあ、背中を向けて、服を脱いでもらってもいいかな」
「……はい」
言葉に従い、少女は静かに背を向けた。三日前に手元に届いたばかりの、白一色のシンプルなワンピース。その布地を丁寧に捲り、彼女はそっと身を包んでいたそれを脱ぎはじめる。
亮が背を向けさせたのは、少女の羞恥を和らげるための配慮と、彼女の身体が露わになる瞬間を、彼自身の視界から外すためだ。そういう小さな配慮が何よりも大切だと亮は考えていた。衣擦れの音がかすかに響く中、少女の背中があらわになるや否や、亮は迷いなく手元の大きなバスタオルを広げ、彼女の華奢な身体をふわりと包んだ。
「よし。それじゃあ、お風呂に行こうか」
彼は、少女の小さな肩にそっと手を添え、お風呂場への出入り口である内湯への扉へと歩を進めた。扉を押し開いた先には、脱衣所と同じく、柔らかな電球色の灯りに照らされた、木の温もりが溢れる空間が広がっていた。
ヒノキ材が惜しみなくふんだんに使われた浴室は、まるで人里離れた山奥にひっそりと佇む、『隠れ湯』を思わせる、静かで落ち着いた佇まいだ。広々とした浴槽の中には、源泉掛け流しの温泉ではなく、少女のために丁寧に温度調整され、沸かされた湯が静かに湛えられている。浴槽の表面からは、白い蒸気がゆらゆらと立ち上り、浴室の空気中には、その湯気とともに、仄かな、しかし心地よい香りが漂っていた。
この家には、露天風呂に温泉が引かれているが、この内湯は亮のこだわりのひとつで、あえて沸かし湯専用にしている。というのも、沸かし湯であれば、様々な『入浴剤』を自由に使用できるからだ。
今日もまた、そのひとつである柑橘系の爽やかな香りの入浴剤が使われている。湯気と共に広がるその爽やかな香りが、空間に優しく満ちていた。ヒノキの清々しい香りと混ざり合い、鼻腔をくすぐるその芳香は、まるで心までも洗い流してくれるような心地よさだった。
亮は、浴室に入ると、少女を洗い場の前に連れて行った。
「ここに座ってね」
亮が示す場所に、少女はおずおずと床に腰を下ろした。洗い場に置かれた小さな椅子ではなく、冷たいタイル敷きの床に直接座るその仕草に、亮は彼女の見世物小屋での生活が、まだ彼女の体に染み付いていることを感じ取った。そして、彼女の細い肩が、見えない恐怖にかすかに震えているのが見て取れた。
──水への恐怖。
それは、見世物小屋での壮絶な懲罰が、彼女の中に深く根強く残る記憶の棘となって刺さっている証だ。特に、顔に水が触れることを、彼女は極端に怖がっていた。亮は、少女の震えと、硬く引き結ばれた口元を見て、胸が締め付けられるのを感じた。
「大丈夫だよ。怖かったら、目を閉じてて大丈夫だからね。無理しないでね」
亮が少女の顔を見つめ、優しい声で語りかけると、彼の言葉に、少女はぎゅっと目を閉じた。まるで、これから水に触れることへの恐怖から、あるいは過去の辛い記憶から、自分自身の心と体を守ろうとするかのように。
亮はその様子に気づき、彼女にこれ以上刺激を与えぬよう、できるだけ穏やかに、そして慎重に洗い場に設置されたシャワーを手に取った。湯温をぬるめに調整し、まずは少女の頭部、髪にそっと、そっと優しく湯をかけて、髪を濡らしていく。
少女の髪は、ある部分を境に純白から桃色へと移り変わる淡いグラデーションを描いており、そのあまりの美しさは、まるで夜明け前の空をそのまま切り取ってきたかのようだった。
見世物小屋にいた頃は、汚れ、絡み合い、傷んでいたその髪も、この一週間、亮が毎日丁寧に洗い、通販サイトで購入した、成分の良い少し高級なシャンプーとトリートメントを使用し続けたおかげで、見違えるように艶を取り戻している。
指を滑らせれば、するりと、一切引っかかることなく通る、信じられないほどの柔らかさだ。ふと、亮は、その繊細で、しかし生き生きとした髪の美しさに、思わず息をのんだ。
泡立ちのよい、自身も愛用している高級シャンプーを手に取り、泡立ててから、そっと彼女の頭に乗せる。シャンプーの泡はすぐにふわりと、そしてきめ細やかに広がり、まるで真っ白な雲のようにこもこもと膨らんでいく。亮は、少女の頭皮を傷つけぬよう、力を込めすぎぬよう、指の腹で優しく、髪全体を撫でるように洗っていく。
シャンプーをされている間も、少女は依然として目を閉じたままだった。表情は、緊張から眉間に薄くシワを寄せながらも、その中に、以前のような亮に対する明確な拒絶の色はなかった。ただひたすらに、亮のされるがままになっている。
それは、彼女の従順さゆえか、あるいは、亮の手の温かさと丁寧さに、少しずつ心を許し始めているからか。亮は、少女の頭を洗いながら、そのどちらかを見極めようとしていた。
「はい、シャンプーは終わりだよ。それじゃあ……流すからね」
亮は、シャンプーを終えると、再びシャワーを手にし、泡をゆっくりと、時間をかけて洗い流していく。温かい湯が少女の髪を伝い、白い泡が一つ、また一つと消えていくたびに、亮の胸の中に淡く、温かい感情が灯るのを感じた。
ほんの少しだけ、この子との距離が縮まったのかもしれない。
湯気が満ちる浴室の中、泡が完全に洗い流された後も、少女の表情はまだ少し硬いままだった。しかし、亮には確かに感じられる。その硬さの中に、彼という存在に対する、かすかな信頼の芽が、確かに生まれ始めているような気がしたのだ。
それは、まだ小さな、見つけにくい芽ではあるが、亮にとっては、何よりも大切な希望の光だった。




