第11話 はじめてのお部屋
その日のお昼、十三時を少し回った頃。亮は、小上がりの座椅子に腰掛け、電子書籍の画面を眺めながら、穏やかな時間を過ごしていた。隣では、少女が同じように小上がりの座椅子に座り、窓の外に広がる鮮やかな新緑の森をじっと見つめている。
穏やかな時間、とはいうものの、少女は特に何かをするわけではない。ただ、その翡翠色の瞳に森の緑を映し込み、何時間見ていても飽きないかのように、同じ景色をじっと、瞬きもせずに眺めているだけであった。
窓から差し込む柔らかな陽の光が、彼女の純白と桃色の髪を優しく照らし出している。時折、森の木々から姿を見せる小鳥などを目で追う仕草を見せながら、彼女はただひたすらに静かに過ごしている。その姿はまるで絵画のように静かで美しかった。
亮は、そんな穏やかな時間を過ごしている少女を邪魔してはいけないと考え、声をかけることはしなかった。
リビングにあるソファーに移動し、深く腰掛けたまま、自身の趣味である電子書籍での読書を続けた。
元々読書は趣味であり、会社員時代から年間五十冊程度は本を読む習慣があった。以前であれば、仕事を卒なくこなすためのノウハウを得るためのビジネス本ばかりを読んでいたが、今は仕事をしていないため、健康に関する本や心理学など、これからの自分の人生や、目の前の少女との生活に役立ちそうなものを選んで読書に励んでいた。
穏やかな昼下がり。窓からは、生ぬるく、しかし心地よい柔らかな風が部屋の中に流れ込んでくる。
読み始めてみたら、意外と面白かった心理学の本に集中し、その世界にすっかり没頭していた亮の元に、ずっと沈黙を保っていた少女が、まるで気配を消すように、控えめに、そっと歩み寄ってくる。
亮は、読書に集中しすぎて、少女が近づいてきたその気配に全く気づいていなかった。電子書籍の画面を見つめたまま、文字の世界に意識を囚われている。そんな彼に対し、三歩ほど後ろに下がった安全な状態で、どこかもじもじとした様子の少女は、まるで消え入りそうな声で、亮に声をかけた。
「あの……すみません……りょう様……」
まさか、あの少女の方から、自分に声をかけてくるとは思ってもいなかった亮は、『ビクリ!』と小さく体をはねらせた。驚きに目を見開き、驚愕した表情で少女を見つめる。
「うわっ!び、びっくりした……!あ、ごめん、ごめん。どうしたの?」
亮が驚いたことに、少女はまたしても、反射的に目を伏せ、耳をペタンと伏せ、見るからに怯えた様子を見せたので、亮は、彼女を怖がらせてしまったことに内心で慌てた。
怯えながらも少女は口を開いたものの、なかなか本題を切り出せないようで、言葉を詰まらせている。亮は、気が気ではなかったが、そんな少女を急かすようなことはせず、静かに、しかし心配そうに待っていた。
(一体、どうしたんだろう?何か、急用があったのか?)
しばらくの間、「えっと……」、「あの……」といった、短い言葉をポツラ、ポツラと漏らしては、言いたいことがうまく言葉にならず、言葉を詰まらせる少女だった。だが、亮が根気強く待っていることを感じ取ったのだろうか。彼女は意を決したように、ついに伝えたいことを、震える声で口にした。
「あの……あの、少しだけ……お外に、出たいのですが……」
「え?外に?外って……何か、外で用事があるのかな?」
少女からの、あまりにも突然で、そして予想外の申し出に、亮は反射的に聞き返してしまった。言葉の意味自体は理解できたが、なぜこの少女が突然外に出たがるのか、その理由が全く分からなかったのだ。
というのも、これが、少女が初めて、自らの願望や、やりたいことを、亮に対して伝えてきた、初めての瞬間だったからだ。そのことへの驚きと、そしてやりたいことの意味がいまいち伝わってこないことへの戸惑いが、亮の頭の中で渦巻いた。
(外に出て、何をしたいんだ……?)
亮は、少女の意図が分からず、内心首を傾げた。しかも少女の様子は、いかにも不自然だった。
いつもの亮に対する怯えた様子は持ち合わせているものの、その怯え方が、昨日初めて話した時と同じぐらいの強い怯えを見せているのだ。
そして、言葉を詰まらせながら、もじもじとした仕草をしている。その『怯え』と『もじもじとした仕草』が亮には全く合致せず、強い違和感となっていた。彼女の言動に、何か別の意味が隠されているのではないか、と亮は疑ったのだ。
少女は、亮の言葉に、再びそこで言葉を詰まらせた。どうやら、自分の『したいこと』を亮にうまく伝えることができないらしい。
今までの彼女が、自分の意思を表に出すことを徹底的に抑圧されてきた過酷な日々を考えれば、こうして自分の願望を口にし、それを説明することが、彼女にとってどれほど困難なことであるか。亮はそれを理解した。
そこで亮は、これ以上急かさずに、根気強く待つことを決意した。彼女が、たとえ時間がかかっても、言葉に詰まっても、自分の『意思』を、自分の『言葉』で、亮にしっかりと伝えられるようになること。
その日が来るまで、彼はただひたすらに、少女が自らの力で言葉を紡ぎ出すのを、優しく、そして根気強く待ってあげようと思ったのだ。
それは、彼女がこの世界で生きていく上で、最も重要となる自分の意思を持つことの第一歩を、亮が支えてあげたかったからだった。
またもほんの少しの沈黙を置いて、少女は意を決したように顔を上げ、亮の目を、助けを求めるかのように怯える翡翠色の瞳で見つめた。そして、震える、まるで消え入りそうな、細い声で、何かを告げた。
「あの……その……お外で……えっと……は……は、排尿、を……したい、のですが……」
「ん……?はいにょ……?」
亮は、少女の言葉が、咄嗟には理解できなかった。少したどたどしい、遠慮がちな言い方であったため、聞き取りにくかったのもあったが、それに加えて、『排尿』という言葉自体が、彼の普段の日常生活ではあまり使わない、医学的あるいは専門的な表現であったため、一回で意味を認識することができなかったのだ。
(この子、一体何を言っているんだ……?『はいにょ』……?『はいにょ』って、なんだ……?)
言葉の意味が分からず、亮は困惑した。しかし、言葉にならない少女の言いたいことを理解しようと、亮は少女の姿を注意深く観察することにした。
まず、少女はとてつもなく怯えているように見える。しかし、これの原因については、亮にも何となく察しがついた。
今まで、見世物小屋という閉鎖された環境で、絶対的な主従関係に縛られて生きてきた彼女にとって、今の『主』とも言える亮に対して、何か自分の『個人的な意見や要求』を伝える、というのは、彼女にとって想像を絶するほど勇気のいる行動なのだろう。
それこそ、見世物小屋にいた時、同じようなことをすれば、すぐに容赦ない暴行を受けたり、もっと酷い目に遭わされてきたという過去があるのだと、亮は容易に推察できた。
そんな怯えている様子を除けば、少女の様子に変化がある点といえば、その内股で、もじもじとしている仕草である。これは、彼女と出会ってから、亮が一度たりとも見たことのない仕草だった。亮は、そこに何か『重要なヒント』があると考えた。
(なーんか……もじもじしてるんだよな……落ち着きがないっていうか……)
亮は、自分の経験や知識を総動員して、その仕草の意味を考えた。
(もじもじ……ん?内股で……もじもじ……もしかして……!)
その瞬間、亮の頭の中で、バラバラだった情報が一つに繋がり、閃きと共に、疑問が解消された。そして、一つの確実な答えが導き出される。目の前で、亮への恐怖と、自分の欲求の板挟みになり、怯えながらもじもじとしている少女は、『トイレに行きたい』のだ、と。
彼女がいた異世界の文化に、現代の日本でいう『トイレ』という概念や、それを指す言葉がなかったと仮定すれば、彼の日常会話ではあまり一般的ではない『排尿』という表現を使ったことも、合点がいく。彼女にとっては、それが自身の生理現象を説明するための、精一杯の言葉だったのだろう。
「あ、ああ!なるほど!『排尿』ね!ごめんごめん、一瞬分からなかったよ」
亮は、理解できたことに安堵し、そして少女を戸惑わせてしまったことに謝罪した。
「わかったよ。大丈夫。俺の家には、排尿するための、専用の部屋があるから。そこに案内するね」
亮が、『排尿するための部屋』という言葉で、日本のトイレの存在を伝えた瞬間、それまで亮への恐怖と自分の欲求の間で揺れ動いていた少女の表情が、一転し、困惑したものへと変わった。その困惑は、恐怖とは全く異なる種類のものだ。それは、自分が全く知らないことを知らされた時の純粋な戸惑いだった。
「排尿するための……お部屋、ですか……?」
少女は、亮の言葉の意味を測りかねるように、問い返した。
「うん、そう。専用の部屋があるの。すごく綺麗で、快適な部屋だよ」
続けて亮は、少女を安心させようと付け加えた。
「使い方を、まず最初に教えてあげるから、俺と一緒についてきてくれるかな?」
「は、はい……かしこまりました……」
少女は、まだ困惑した表情を浮かべながらも、従順に了承した。その様子を見て、亮は、ある恐ろしい事実に気がついた。考えても見れば、少女をあの洞窟からこの家に連れてきてから、もう丸一日が経過している。彼女は、この間、一度もトイレに行っていないのだ。そう考えると、もしかすると、彼女は、ずっと尿意や便意を我慢していた可能性もある。
トイレに行きたければ、誰かに許可を得て、専用の部屋であるトイレを借りて、そこで用を足すのが当たり前。そんな、現代日本人にとっては、あまりにも当たり前すぎる認識が、彼女には全く適用されていないという事実を、亮は今更ながらに、改めて、そして痛烈に認識した。
(……くそっ。なんで、こんな簡単なことに、気づかなかったんだ……?)
自身の至らなさを、痛感しながら、亮は胸が締め付けられる思いだった。
少女は、排泄という最も基本的な生理現象さえも、誰かに許可を得なければできない、あるいは、そもそも『トイレ』という概念を知らない環境で生きてきたのかもしれない。その悲しい可能性に、亮の心は押し潰されそうになった。
亮は、これ以上少女に我慢させられないと、自責の念を抱きながら、少女を伴ってトイレへと向かった。
廊下を数歩進むと、すぐにトイレへと繋がる引き戸が現れる。亮がその引き戸を『スーッ』と静かに引くと、中に現れたのは、広々とした、畳三畳ほどの空間だった。そして、彼の存在を感知したのだろう。最新型の便器の蓋が、『カコッ』という機械音と共に、自動で立ち上がった。
室内の照明は、直接的な眩しさはなく、壁の上部などに設置された間接照明によって、淡く、柔らかな光で照らされている。そこに設置されているのは、流線型のデザインが美しい最新型の、タンクレスのウォシュレット付き便器だ。
壁紙は、温かみのあるクリーム色で統一され、足元の床に関しては、大理石のような滑らかな光沢を持つタイルが敷き詰められている。全体的に、清潔感とモダンさが融合した空間だ。
壁の一面には、全身を映せる大きな鏡が設置され、その下には、小物やタオルを置くのに活用できる台がある。その上には、手を洗うための小さな手洗い場が設けられ、その横にはトイレットペーパーホルダー、そして、温水洗浄の操作などを行うためのタッチパネルが設置されていた。
それは、異世界から来た少女にとって、見るもの全てが、驚きに満ちた未知の機械と理解不能な道具で満たされた空間だろう。亮は、そんな驚きに満ちた空間の中で、少女に、この世界の最も基本的な、そしてプライベートな場所の使い方を教えようとしていた。
「ここがね、排尿とか、排便とかをするための部屋だよ」
亮は、流線型の美しい便器を指差しながら説明する。自分もまだ数回しか使ったことのない、この真新しい、そしてどこかおしゃれな空間を紹介しながら、彼はこの世界における『排泄』という行為の当たり前の常識を、少女が理解できるように、できるだけ噛み砕いた言葉で伝えていく。
「俺は、ここを『トイレ』って呼んでるんだ。人によっては『お手洗い』って言う人もいるけど、まあ、どっちでも意味は通じるかな。だから、今度から、排尿とか、排便とか、したくなったら……誰かに許可を取る必要はないんだ。この部屋は、君が自由に、好きな時に使っていいんだよ」
亮は、少女が少しでも安心できるように、語りかける言葉に優しさを込めた。
「勝手に使用するのに気が引けるなら、トイレに行くとか、お手洗いに行くっていう言い方で、俺に教えてくれれば大丈夫だからね」
少女は、亮の言葉の一つ一つに、しっかりと耳を傾けている。だが、それ以上に、彼女の注意を引いているのは、目の前に広がる見たこともない、未知の空間に対する、圧倒的な驚きらしい。
滑らかな光沢を放つ大理石のような床、温かみのあるクリーム色の壁紙、そして、未来の機械かと見紛うばかりの便器。その大きな翡翠色の瞳は、驚きに見開かれ、パチクリ、パチクリと瞬きを繰り返している。その瞳には、亮の言葉の意味を理解しようとする知性と、目の前の光景を受け止めきれない困惑が同時に宿っている。
「えっと、この部屋について、詳しい説明はまた今度ゆっくりするとして……とりあえず、まずは使ってみようか」
亮は、少女の驚きを和らげようと、一旦説明を切り上げた。
「ほら、そこの椅子みたいなところに、試しに座ってみてもらえるかな?」
彼は、自動で立ち上がった便座を指差しながら、少女に優しく指示を出した。
少女は、亮の言葉の意味を理解し、コクリ、と小さく頷いて、恐る恐るといった様子で便座に近づき、言われた通りに、その滑らかな座面に腰を下ろした。少し温かい初めての座面の感触に、驚きから僅かに体が揺れていた。
「そうそう、そんな感じ。上手だよ」
亮は、少女の従順な行動に安堵し、褒めるように言った。
「そのまま、体を楽にしていいからね」
亮は、少女が便座に座ったのを確認すると、次の行動を促した。排泄という、人間にとって最もプライベートな行為を、彼女自身が行えるように促す。
「そしたら、えっと……ズボンを下ろしてから、ここで排尿して大丈夫だよ。排便したくなっても、同じように、ここでして大丈夫だからね」
そして、少女のプライバシーに最大限配慮するため、亮は一時的にこの空間から退室することを告げた。
「一旦、俺は外に出てるから。終わったら、そのままの状態で、動かずに一回俺を呼んでくれるかな?『終わりました』って」
「は、はい……わかり、ました……」
少女は、まだ戸惑っているようだったが、亮の言葉に抵抗することなく、従順に了承した。
亮は、少女を一人にする不安を感じつつも、彼女の自主性を促すために、すぐにトイレを出て、引き戸を静かに閉めた。引き戸が閉まる音だけが、広い家の中に響く。
廊下で数分待っていると、静寂を破り、引き戸の向こう側から、少女の遠慮がちで、しかし亮に呼びかける確かな意志を含んだ声が聞こえてきた。
「りょう様……あの……その……終わりました……」
「あ、うん、わかったよ」
亮は、少女の声に安堵し、すぐに返事をした。そして、再びトイレの中に入ることを告げる。
「今、ちょっと中に入るからね」
再びトイレの中に入ると、亮は、少女が一人で行った排泄の後、次にすべき行動を、一つずつ丁寧に教え始めた。
「えっとね。まずは、排尿でも、排便でも、同じなんだけど、終わったらね、どうしても汚れちゃうから、そのままじゃダメなんだ」
亮は、日本の最新トイレの、異世界にはないであろう最も象徴的な機能に触れた。
「この『ウォシュレット』っていう、すごい機能があるんだ」
彼の声には、自身が初めて使った時の『衝撃と感動』を、少女にも伝えたいという、密かな思いが込められている。
「これを使うとね、排泄で汚れた部分をすごく綺麗に、お湯で洗い流せるんだよ」
亮は、タッチパネルの前に立ち、説明を続けた。
「まず、排便した場合なんだけど、こっちのボタンを押すとね……」
亮が『おしり』のボタンを押すと、便器の奥から僅かな機械的な動作音がした後、滑らかなノズルが静かに伸びてくる。そして、人の肌に優しい、適温に温められたお湯が、『ピュー』という微かな音と共に飛び出し、少女の肌に触れた。
突然の出来事と、予想外の場所からの『温かいお湯の接触』に、便座に座っていた少女の体は、『ビクリ!』と大きく、反射的に震わせた。その瞳に、驚きと、そして僅かな恐怖が宿る。
「あ!びっくりしたよね、ごめん!」
亮は、少女の驚きにすぐに気づき、慌てて声をかけた。
「大丈夫。もう一回このボタンを押すと、今のお湯は止まるからね。えっと、これが排便した後に、お尻を綺麗に洗い流す感じだね」
亮は、少女の顔色を伺いながら、優しく語りかけた。
「俺の言ってる意味、伝わったかな?」
少女は、まだ少し驚きの余韻は残っているようだったが、亮の言葉の意味を理解したのだろう。こくり、と小さく頷いた。
「はい……手順と意味は、理解いたしました……」
「うん、良かった」
亮は安堵のため息をついた。理解してくれたことへの喜びが、彼の表情に滲む。
「じゃあ、今度は、排尿した時なんだけど。排尿の時は、この、こっちのボタンを使うとお湯が出るよ」
亮は、『ビデ』のボタンを指差した。
「またお湯が出るからね?」
次は事前に確認し、少女が頷いてからボタンを押す。先ほどと同じように、僅かな機械的な動作音がした後にお湯が少女に触れる。ピクリと体を震わせた少女だったが、初回ほどの驚きはないように見えた。
「洗い流し終わったら、またここのボタンを押すと、お湯が止まるからね。どちらの場合も、同じように綺麗に洗い流せるんだよ」
そして、お湯で綺麗に洗い流した後にするべき、もう一つのステップを説明した。
「最後に、この台にある紙を使うんだ」
亮は、壁に取り付けられたトイレットペーパーホルダーから、白いペーパーを引っ張り出し、優しく巻き取る動作をしてみせた。紙がホルダーから引き出される、サラサラという微かな音が響く。
「こうやって、ペーパーを巻き取って……お湯で濡れている部分を、優しく、トントンと拭き取ったら、椅子の中にそのまま捨てて、ズボンを履いて、これで終わり」
巻き取ったトイレットペーパーを、少女の小さな手に、そっと手渡した。彼女の手のひらに乗せられた、柔らかい紙の感触。そして、彼女の顔を見ながら、少しだけ不安げに尋ねる。
「これで、一人で、できるかな?」
少女は、亮の言葉に、小さく、しかし確かな意思をもって、コクリ、と頷いた。その大きな瞳には、新しい知識を得たことへの理解と、そして亮への感謝が宿っているように見えた。
「そっか。良かった」
亮は、その返事と表情を見て、心から安心した。彼女が、少しずつこの世界に順応しようとしていることが嬉しかったのだ。
その後、彼は少女に一人で最後までやらせてみることにし、彼女を緊張させないようにと、再びトイレを出ていくことを告げる。
「それじゃあ、俺は外で待ってるね。終わったら出てきてね」
亮がトイレの引き戸に手をかけ、外へ出ようと振り返った、まさにその時。少女が、亮の背中に向かって、掠れた、しかし心のこもった声で、感謝の言葉を口にした。
「は、はい……りょう様……あの……このような、穢らわしい、何も知らぬわたしに……こんなにも丁寧に、お手洗いというものを教えていただき……誠に……誠に、ありがとうございました……」
少女の口から出た、『このような穢らわしい、何も知らぬわたしに』という、自分自身を卑下する言葉を聞いて、亮の胸はまたしても鋭く締め付けられた。
(穢らわしいって……)
彼は声にならない声で、内心で呟いた。彼女の言葉遣い一つ一つに、見世物小屋での、人間以下の扱いを受けてきた過酷な経験が、あまりにも深く染み付いていることを改めて感じ、亮は言いようのない悲しい気持ちになった。
それは、彼女の言葉そのものよりも、その言葉の裏に隠された、彼女の心の傷の深さ、そして自己肯定感の欠如に対する、痛ましいほどの悲しみだった。
しかし、亮は、その悲しさを顔には出さなかった。少女を安心させるように、無理やりにでも優しい微笑みを浮かべ、そして、彼の心の中で、ある『強い決意』を新たにした。
少女が、あの見世物小屋で失ってしまった人間らしさ、そして自己肯定感を少しずつ取り戻し、『普通の子』として、笑顔で生きていけるように、自分が、全身全霊で寄り添って、アシストしてあげるしかないと。
その決意を胸に、亮はトイレを後にしたのだった。




