第10話 繋がりの温かさ
亮が少女を伴って足を踏み入れたのは、広々としたLDKのリビング空間だった。この部屋は、全体的に和の要素が色濃く反映されているが、床は温かみのある木目のフローリング仕上げとなっており、重厚になりすぎないモダンな印象を与える洗練された空間となっていた。
家具も、亮が厳選した必要最低限のものしか置かれていないため、全体的に物は非常に少なく、空間にゆとりがある。建物本来の持つ、木の質感や光の陰影といった良さを最大限に際立たせることができている、まさに引き算の美学とも言える美しい仕上がりだった。
リビングの奥、窓際の一角にある小上がりに関しては、フローリングとは異なり、完全に畳敷きの和室の仕様となっていた。
一段高くなったその空間は、亮がのんびりと読書をしたり、景色を眺めたりと、自分一人で心穏やかな時間を過ごす時の彼の憩いの場ともなっているお気に入りの場所だ。
亮は、慣れない様子で彼の三歩後ろをついてくる少女をその小上がりへと連れて行った。小上がりの中心には、温かみのある木製のローテーブルが置かれ、その両側には、座り心地の良さそうな和風座椅子と座布団が二つずつ設置されている。
亮は、その片側の座椅子に少女を促し、自分は障子の前に立った。
そして、少女に部屋からの景色を見せてあげようと、そっと、音を立てないように障子を開けた。その向こうには、大きな窓が据え付けられている。
窓を開けると、春と夏の間の、生命力に満ちた、柔らかな空気が、微かな森の香りと共に部屋の中に流れ込んできた。外からの新鮮な空気に触れ、亮の心に纏わりついていた、朝の憂鬱や苛立ちが、少しだけふわりと軽くなるのを感じた。
窓際で、彼は小さく、しかし意識的に深く深呼吸をした。そして、先ほどまでの不安定な気持ちを振り切るかのように、ため息と共に、大きく息を吐いた。
「ふう……今日も、いい天気だな……」
つい、いつもの癖で、誰もいない空間に向かって独り言をつぶやいてしまった。
しまった、と、隣に少女がいることを思い出し、亮は少し気恥ずかしげに、彼女の方へと振り返った。すると、少女もまた、窓の外に広がる新緑の、絵画のように美しい森を、食い入るように眺めている最中だった。窓からの光を反射して、彼女の新緑のように美しい翡翠色の瞳がまるで宝石のようにわずかに、そして確かに輝いている。
少女の瞳に映る世界は、亮にとっては見慣れた風景だが、彼女にとっては全く違うものだろう。それは彼女が今まで見てきたあの暗く、じめじめとして、悪意に満ちた地下牢や見世物小屋の世界とは、一線を画す、あまりにも美しく、そして優しい世界だった。
それこそ、かつて見世物小屋に来た客が、うっかり落としていったという、あの一枚の紙切れに描かれていた、美しく優しい世界を、現実のものとして思わせるような光景だ。
(なんだろう……)
亮は、その光景を目にして、ふと、自分自身の心の変化に気がついた。
(この子が、こんなにも……嬉しそうな顔をしていると、俺もすごく嬉しい気がする……)
それは、彼が久しく感じていなかった、他者との繋がりによって生まれる喜びだった。相手を喜ばせてあげたい。そして、相手が喜んでいる姿を見ていると自分も楽しい。誰かと共に時間を過ごし、感情を共有すると、心がじんわりと満たされる感覚がある。
人との付き合いが苦手で、意識的に人間関係を避けていた彼にとって、その感覚は非常に懐かしく、そして、凍てついていた心が温まるものだった。
「よし。じゃあ、ご飯用意するから、ちょっと待っててね」
少女の喜ぶ顔を見て、亮の気分は一新した。先ほどまで彼の心を支配していた、ドロドロとしたネガティブな感情は、まるで朝霧が晴れるかのように消え去っていった。
彼は、足取りも軽やかに、弾むような足取りでキッチンへ向かう。昨日と同じように、ガラス製のマグカップに橙色の野菜ジュースを注ぎ、シェイカーにプロテイン粉末と牛乳を入れ、リズミカルにシェイクしていく。
朝食の準備を進めながら、亮は今日のメニューについて考えていた。
(昨日一日、飲み物とかバナナとかで、少しはあの子の胃袋も慣れてきたかな……?今日は、もう少し固形の食べ物を増やしてみるか)
少女の痩せ細った体を配慮しながらも、彼女が美味しそうに物を食べる姿を想像すると、亮は、もう一品、固形の食べ物をメニューに加えることを考えた。
(何を食べさせようかな……まだ朝だし、まあ、バナナは食べさせるとして……あとは、サラダとか?野菜は体にいいしな。それに、彩りもいいし……あとは、タンパク質も必要だよな……)
亮は、冷蔵庫の中を物色した。現在の冷蔵庫の中にある食べ物は、野菜、サラダチキン、くるみ、ヨーグルト、バナナ、納豆、そしていくつかの冷凍食品であった。
(よし。まずは、軽めに、サラダとサラダチキン、かな)
彼は早速、野菜室から数種類の野菜を取り出し、少女が食べやすいように、小さく、そして柔らかくなるように丁寧にカットしていく。
今回のサラダは、レタスと玉ねぎというシンプルな組み合わせだ。そして、冷蔵庫からストックしてあったサラダチキンを取り出し、こちらも少女が口にしやすいように、一センチ角ほどの四角形にカットしていく。
最後に、冷蔵庫に常備してある市販の和風ドレッシングをかければ完成だ。
「よし、できた!」
完成した色鮮やかなサラダを入れた皿と、野菜ジュースが入ったマグカップ、チョコレート味のプロテインが入ったシェイカー、そしてカットされたバナナののった皿をお盆の上に丁寧に載せた。
そして、それを手に、再び小上がりに座っている少女の元へと、朝食を配膳する。
コトリと、小さく、部屋の静寂によく響く音を立てて、目の前に置かれたお盆の中身を、少女は大きな瞳を輝かせて、興味津々といった様子で眺めていた。
色とりどりの野菜や、初めて見るであろうサラダチキンに、彼女の好奇心は刺激されているようだった。しかし、その溢れ出しそうな感情を、極力抑えようと注意深く気をつけていることが、亮には見て取れた。
それは、亮の推測だが、彼女がいた見世物小屋では、感情を表に出せば、それを面白がった悪意のある人間によって、さらに傷つけられてきたのだろう。
だからこそ、彼女は、嬉しいことや悲しいこと、あるいは興味といった大きな感情を見せることを、生存戦略として極力避けるように自然と訓練されてきたように見えた。その悲しい現実を思い、亮の心は再び締め付けられた。
「はい、これが今朝のご飯ね。あのこれ、フォークって言うんだけど、使えるかな?もし、こっちの、お箸が使えれば、お箸でもいいんだけど……多分、難しいよね?」
少女がかつていた世界で、どのような食文化があり、どのような道具が使われていたのか、亮には全く分からない。だからこそ、彼はフォークと箸の二種類を、念のため用意していたのだ。
少女は、目の前に差し出された見慣れない二種類の道具を、大きな翡翠色の瞳で困惑した表情で見つめた。そして、すぐに亮へと助けを求めるように視線を向けた。
「りょう様……申し訳、ございません。わたしは……この二つの、どうぐ……つかいかたを、しりません……」
少女は、自信なさげに、そして少しだけ怯えるように言った。彼女の頭部にある、柔らかくふわふわした見た目の獣の耳が、不安そうにペタンと伏せられた。
(そっか……やっぱり、そうだよな……)
亮の胸に、再び締め付けられるような感覚が襲いかかった。目の前で、フォークや箸といった、人間にとって当たり前の食事の道具の使い方すら知らず、それを告げるだけでこんなにも怯えてしまう。
あまりにもか弱く、守ってあげたくなる少女。そんな彼女を見ていると、亮の中に強い、強い庇護欲がこみ上げてくるのを感じた。それは、あの洞窟で彼女を見つけた時以上の、切実な感情だった。
「大丈夫だよ。気にしなくていいんだ」
亮は、努めて明るい声で言った。
「じゃあ、使い方を教えてあげるね。えっと……」
彼は一瞬躊躇したが、少女の学習のために、物理的に近づく必要があった。
(念のため、前置きをしておこう)
「これから、ちょっと君に近づくけど……怖がらないでね?」
優しい言葉で前置きをした上で、亮は少女のすぐ後ろへと、ゆっくりと移動した。そして、正座している少女の背後から、そっと両手を前に伸ばし、彼女の小さな、骨ばった手を取った。
案の定、亮が触れた瞬間、少女は体を『ビクリ』と小さく震わせた。しかし、事前に亮が声をかけていたおかげで、以前のような、強い驚きや、パニックに近い恐怖は感じていないように見えた。彼女は震えながらも、亮の手の動きに意識を集中しているようだった。
「えっとね。まずはフォーク。これは、こういう風に持って……そうそう」
亮は少女の小さな右手にフォークを持たせ、その上から自分の手を優しく被せるようにして、正しい持ち方を教えた。彼女の細く、か弱い指が、硬いフォークの柄を握る感触が伝わってくる。
「そして、食べ物を、こうやって刺したり、掬ったりして……」
亮は、一度少女の手を離し、実際にサラダのレタスや、一センチ角に切ったサラダチキンをフォークで刺して、ゆっくりと少女の口元に運んであげる。
「……はい。こっち向いて。アーン。口開けて、食べてごらん?」
「は、はい……」
亮の言葉に促され、少女は恐る恐る口を開けた。一口サイズのサラダチキンが、彼女の口の中へ入る。
「……はむ」
小さな咀嚼音と共に、彼女は小さく呟いた。
(今、『はむ』って言ったよな……?くっそ……か、可愛いなっ!)
亮は、少女の予想外の、あまりにも可愛らしい反応に、心の中で悶絶した。顔には出さないように努めたが、口元は自然と緩んでいる。
「美味しい?」
亮が尋ねると、少女は亮の顔を見上げ、こくこくと、まるで雛鳥のように頭を動かした。そして、少し間を置いてから、答えた。
「……おいしい、です……」
その声は小さかったが、感謝と、そして純粋な喜びが込められているように聞こえた。
「そっか。よかった」
亮は、心の底から安堵し、そして少女の愛らしい仕草や言葉に、ほんの少し、胸がときめくのを感じていた。
続いて亮は、箸の持ち方を伝授することにした。
「次は、こっちの道具ね。お箸って言うんだ。これは、フォークよりもちょっと難しくて……」
彼は、一度少女の手からフォークを離し、自分自身で箸を持ってみせた。
「まずは、俺が持ってみるから、同じように持ってみてくれるかな?こんな感じなんだけど、持てるかな?」
亮が極力分かりやすくなるように、ゆっくりと、一本ずつ箸を持つ様子を見せる。
少女は、真剣な表情で亮の手元をじっと見つめていた。そして、言われた通りに、震える指で箸を手に取った。
「は、はい……持て、ました……」
少女は、少しぎこちなかったが、驚くべきことに、見よう見まねで箸を持っていた。その器用さに、亮は内心感心した。
「おっ、すごい!いい感じだね。そしたらね、今度は、こうやって指を動かして……」
今度は、またフォークの時と同じように、亮は少女の手に自分の手を重ねながら、実際に箸を動かして食べ物をつかむ方法を教えていく。
彼女の小さく、あまりにもか細い指先だったが、触れていると、確かに温かい温もりを感じる。それは、彼女が過酷な状況を生き抜いてきた証であり、亮に彼女が今、ここに生きていることを強く感じさせる手だった。
亮が丁寧に指導すること数分。少女は、目覚ましい速さで箸の使い方を習得していった。最初はぎこちなかった指の動きが、次第に滑らかになっていく。すぐに、器用にも箸を使ってサラダの小さな野菜をつまんで食べることができるようになっていた。
今では、一センチ角の小さなサラダチキンさえも、しっかりと箸の先でつまんで、狙いを定めたかのように口の中へ運ぶことができる。
(すごいな、この子……本当に物覚えがいいし、飲み込みが早い。それに、すごく器用だ……)
亮は、少女の驚異的な学習能力に、改めて感心していた。同時に、彼女が本来持っているであろう、潜在的な能力の高さを感じ取っていた。
「よし。もう、一人で食べられるね」
亮がそう言うと、少女は嬉しそうに、そして心なしか表情が明るくなったように見えた。その証拠に、彼女の口角が、僅かに、しかし確かに上がっている。
「はい。りょう様、ありがとうございました」
亮は、少女の感謝の言葉と、その表情の変化に、温かい気持ちになった彼は笑顔で、「どういたしまして」と答えた。
そして、少女が一人でゆっくりと食事をできるように、そして、彼の存在によってこれ以上緊張させないようにと、小上がりから出て、少し離れたリビングのソファーへと腰かける。
ソファーからチラリと視線だけを少女に向けると、彼女はもう亮を恐れていないようだった。その表情は柔らかく、見るからに美味しそうに、サラダや野菜ジュース、バナナを、誰に遠慮することもなく、静かに味わっていた。
その姿に、亮は再び、深い安堵と、そして言いようのない幸福感を感じていたのだった。




