第01話 孤独な少女
濡れた布が、張り付くように肌を這う。それは、薄暗い地下室の、冷たい石壁や剥き出しの土くれから絶え間なく這い上がり、呼吸するたびに、その重く淀んだ空気が肺腑の奥深くまで染み込むような冷気だった。
地下の底から這い上がるようなその寒さは、生きた心地を根こそぎ奪い去るかのような、耐え難い、全身に粘りつく苦痛となって、一人の小さな少女の体を蝕んでいる。
地下牢を満たすのは、鼻腔を容赦なく抉るような強烈な悪臭。それは、地面に染み込んだ腐敗した汚泥が発する死の匂いと、何日も換気されずに澱み続け、まるで魂胆まで侵食するような湿った空気が混じり合った、まさに吐き気を催す耐え難い臭気だった。
この閉鎖され、忘れ去られたかのような地下牢は、あらゆる生命の営みを拒絶するかのように重苦しく、そして絶望的な沈黙に満たされている。聞こえるのは、遠くから聞こえる時折のうめき声だけだ。
天井の遥か上。埃と蜘蛛の巣が幾重にも、まるで諦めのように張られた小さな通気口から、遠い世界の忘れ形見のように、一筋の心もとない灰色の光が、辛うじて弱々しく差し込んでいる。
その頼りない光は、この地の底のような絶望の淵で揺れる、風前の灯火にも似た、か細い偽りの希望のようにも映り、かえって少女の心を抉った。
足元に転がるのは、青白い黴がびっしりと醜く覆いつくした、まるで岩塊のように乾ききったパンだ。噛み砕こうとすれば、その硬さに歯が欠けそうなほどで、黴の湿った匂いが鼻腔にまとわりつき、不快感を増幅させる。
傍らには、見るも無残に形を崩し、蛆が湧きそうな、ねっとりとした異臭を放つ芋の残骸が、黒ずみ、泥にまみれて横たわる。
そして、指先を浸せば痺れるほどに凍えるような冷たさを湛えた、底の見えない真っ黒な泥水。飲めば金属のような嫌な味がし、喉を焼くような感覚をもたらす。
それらが、この地の底の牢獄における、少女が飢えと渇きを凌ぐための、惨めなまでの生きるための糧の全てだった。文字通りの最低限以下の、絶望的な状況だ。
そんな、希望の欠片すら見えない圧倒的な絶望的な状況の只中で、一人の少女が、まるで世界からその存在を消し去るかのように、痛ましいほど小さく身体を丸め、未来への可能性を悉く、無慈悲に奪われた恐怖に、その幼い身を内側から蝕まれながら、震え、打ち震えていた。
彼女は、その存在自体がこの世の理から決定的に外れたかのような、『異形』と見做される容貌を持っていた。
頭部には、雪の精の産毛のように繊細で柔らかな純白の髪が、地下室の僅かな光を吸い込むように、儚く輝き、その純粋な白さの中に隠れるようにして、朝日に照らされた桃の花弁のような淡い桃色の髪が、ひっそりと覗く。その二色の髪は、この暗闇の中では、不気味なほど際立って見えた。
そして、その二色の髪の間からは、獲物を捉える獣の如く『鋭く尖った耳』と、丸みを帯びた人間特有の『愛らしい耳』という、明らかに異なる二つの形の耳が、不自然に同時に生えていた。
彼女の瞳は、深く研磨された宝石のように、底知れぬ透明感を宿した神秘的な翡翠色。その輝きは、この暗く汚れた絶望の世界にはあまりに不釣り合いに美しく、かえって少女の置かれた状況の悲惨さを際立たせ、見る者に痛々しさを増していた。
彼女は、岩のような頑強な体躯と獣の如き相貌を持つ獣人と、滑らかな肌を持つ人間という、血を混ぜ合わせるべからざる二つの種族の忌むべき血潮を受け継ぎ、その『誰からも忌み嫌われる狭間』で生まれた存在だった。
獣人たちは、彼女の持つ、その獣人離れした雪のように白く、華奢で体毛の全くない異質な姿を、自分たちとは相容れない、忌々しい存在として、露骨に疎んじ、心底から蔑んだ。彼らの視線は、獲物を見るそれではなく、汚物を見るかのような冷酷さと嫌悪に満ちていた。
一方、獣の耳を持たない人間たちは、彼女が持つ、頭頂部に生えた『紛れもない獣の特徴』を古来より伝わる凶事の兆候として本能的に恐れ、徹底的に忌避した。彼らは彼女に近づこうとはせず、ただ遠巻きに、呪詛のような言葉を投げつけるばかりだった。
どちらの世界にも完全に居場所を見つけることのできない、あまりにも中途半端で、哀れな存在。
それは、人間からも、獣人からも、等しく石や罵声、あるいは物理的な痛みを、存在そのものに対する根源的な迫害として浴びせられるような、この世界にただ一人、絶望的な孤独を強いられる、あまりにも悲劇的な宿命を意味していた。
名すら与えられなかった彼女は、この世に生を受けて、すぐに、誰にも何の後ろめたさもなく、まるで道端の石ころを捨てるかのように、無情にも、ただ捨てられた。
しかし、図らずも、彼女の中に流れる獣人の持つ驚異的なまでの生命力を本能的に受け継いでいたからか、まだほんの幼子であった彼女は、筆舌に尽くしがたい過酷な環境を、奇跡的に生き延びた。
言葉を話すことのない、野生の獣たちだけを、唯一の友として、彼女は荒れ果てた森を彷徨い歩いた。まるで一匹の、怯えた仔獣のように、飢えと、刺すような寒さに耐えながら、泥水をすすり、根や木の実をかじって生き抜き、ただ生存本能だけで成長した。
そしてある日、彼女の持つ、世にも稀有な、異様な見た目に、下卑た欲望の光を宿した人間の見世物小屋の主人が目をつけた。
彼は、彼女を人間としてではなく、金儲けのためだけの、哀れな道具として捕らえた。特別な、そして忌み嫌われる容貌を持つ彼女は、まさに恰好の、そして哀れな見世物だったのだ。
見世物小屋に連れてこられてからは、太く冷たい鉄の鎖に繋がれ、衆目の好奇と嘲弄の目に晒され、心無い嘲笑や罵声を、ゴミのように浴びせられる日々が始まった。
時には、観客を満足させられないという理由だけで、理不尽に打たれ、殴られ、その体には生傷が絶えなかった。そして夜には、この冷たくじめじめとした地下の牢に、獣のように放り込まれる。
そんな、人間以下の扱いを受ける日々が始まって、はや数年という長い時間が過ぎ去った。
歪な形ではあったが、見世物小屋という場所で、彼女は否応なしに人間との接触を持つようになった。そこで彼女は、彼らが発する『言葉』を、まるで光の欠片を拾い集めるように、一つずつ、根気強く覚えていった。
言葉は、世界を理解するための『強力な道具』だ。その道具を、彼女が手に入れた時、それまで漠然と感じていた胸の内の得体の知れない不安や、夜ごとうなされる『悪夢の正体』が何であるかを明確に、そしてあまりにも残酷なまでに理解し始めてしまった。
そして、自分が囚われている、過酷で、理不尽で、そして逃れようのない現実を、まざまざと、嫌というほど認識するようになり、それは同時に、彼女に決して逃れることのできない、底なしの深い、深い絶望をもたらした。
無知であった頃の方が、どれほど幸せだっただろうか。
言葉による理解を得たが故に、先の見えない、希望のない日々に心を擦り減らし、未来に一筋の光さえ見出せない彼女は、ただひたすらに、その消え入りそうな、か細い声で、誰にともなく『願いを紡ぐ』。
それは、ある日、見世物小屋へ来た、身なりの良い裕福そうな客が、うっかり落としていった『一枚の紙切れ』に描かれていた絵──温かい陽の光が降り注ぎ、人々が『心からの笑顔』で、互いに優しく言葉を交わしながら暮らす、あまりにも眩しい、優しい世界の片鱗。
その絵を見たあの日から、彼女の胸の奥底に、切なくも、しかし確かに宿った、ただ一つの、儚い願いだった。
「いつか、いつかわたしにも……あの絵のような、温かい場所が……穏やかな日々が……」
掠れ、今にも途切れそうな、震える声が湿った地下室の暗闇に、むなしく寂しく木霊する。
その声が、まるで、吹き消される蝋燭の火のように、重苦しい暗闇に、音もなく、しかし確実に吸い込まれて消え去った瞬間、彼女の意識は、その小さな体と共に、抗うこともできず、深い深い闇の中へと、沈んでいった。
飢えと寒さ、そして絶望が支配する、終わりなき闇へ。




