第7話 片割れの心
ゆっくり起き上がったとき、ずき、と心臓に痛みが走る。
「……っ」
はさみが刺さったままなんじゃないか、と一瞬思ったけれど、当然そこには何もない。
ベッドから下りると、ふと鏡が目に入った。
小さく震える手で頬に触れる。
自分でも分かるくらいに顔色が悪く、唇も真っ白だった。
どんどん辛くなっていく。
『幸せ者だな』
向坂くんの冷ややかな声が耳の奥でこだまする。
そのたび、心にひびが入った。
何とか支度を整えると、重たい身体を引きずるみたいにして家を出た。
ひとりでは味気なくなった学校までの道が、今日は一段と色褪せて見える。
校門を潜り、昇降口へ入った。
教室に着いたら、まず蒼くんに“昨日”のことを伝えよう。
そんなことを考えながらすのこに上がったとき、ふいに目眩がした。
(あ、れ……)
目の前が霞んで、周囲の音がくぐもる。
そのまま意識が遠のいていった。
ふっ、と力が抜ける────。
目が覚めたとき、斑点のような模様の広がる白い天井が視界に飛び込んできた。
消毒液みたいなにおいが、つんと鼻先を掠める。
(ここ、どこ……?)
「気づいたか?」
突然降ってきた声に驚いて見やると、向坂くんがいた。
ベッドの傍らの椅子に腰かけて、悠々と腕を組んでいる。
「こ、向坂くん……!?」
まずい、どうしよう。
このまま殺されたら────。
とっさにそんな恐怖心が湧き、わたしは布団を握り締めながら起き上がろうとした。
けれど、冷静な彼に阻まれる。
「おい、いきなり動くな」
上から肩を押さえられ、身動きが取れなくなる。
「おまえさ、昇降口で倒れたんだよ。で、ここ保健室な。センセーは会議だとかでいねぇけど」
そう言われてあたりを軽く見回した。
カーテンが引かれていたものの、隙間から室内の様子を窺える。
「もしかして、向坂くんが運んでくれたの?」
思わずそう尋ねると、どこか歯切れの悪い答えが返ってくる。
「……まあ、な」
わたしが大人しくなったためか、彼は手を離して椅子に座り直した。
本当に向坂くんが運んでくれたんだ。
まさか彼が助けてくれるなんて、と驚いてしまう。
背負ってくれたのかな。横抱きにしてくれたのかな。
重くなかったかな……。
緊迫した現実を忘れて、暢気にもそんなことが気にかかった。
「ご、ごめんね、迷惑かけて。ありがとう」
いまさらながら、彼と普通に話せていることに気がついて戸惑った。
逃げられない状況なのに。
助けも期待できないのに。
「別に。……つか、大丈夫かよ? 相当具合悪そうだな」
案ずるような眼差しを注がれて、さらに困惑してしまう。
(本当、どうしちゃったの……?)
いつもの向坂くんと様子がちがう。
いや、これが本来の彼であるはずなのだけれど。
“昨日”までの向坂くんなら、この状況でわたしに手をかけないわけがないのに。
本気で心配してくれているのだろうか。
(……急にどうして?)
「平気……って言いたいところだけど」
戸惑いながら、曖昧な笑顔を浮かべる。
「強がる余裕もねぇか」
おもむろに向坂くんが立ち上がる。
カーテンの向こう側に消えたかと思うと、ほどなくして甘く華やかな香りが漂ってくる。
こちらへ戻ってきた彼は、手にしていた紙コップを差し出してくれた。
そっと身体を起こして受け取る。
「ありがとう。これって、ジャスミンティー?」
「ああ、いつも置いてある。勝手に飲んでいいって」
そんな先生の気遣いがあるなんて知らなかった。
思えば、入学してから保健室を使うのは初めてだ。
「詳しいんだね、向坂くん」
「前はよくサボりに来てたからな。センセーの話長ぇから、最近は行かなくなったけど」
彼はそう言いながら再び椅子に腰を下ろした。
────不思議と心地いい。
あたたかいジャスミンティーの温度が染みて、指先から緊張がほどけていく。
おかしいな。
わたしと彼の間には深い溝が刻まれたはずだったのに。
今日を繰り返すほど、わたしたちの距離も離れていったのに。
いまはお互いに、ループや殺しのことなんて忘れてしまったみたい。
何だかすごくほっとしていた。
(本当に向坂くんだ……)
ひたすら探し求めて、その幻影を追っていた。
こく、とジャスミンティーを飲む。
甘い香りと爽やかな風味に、いくらか気分も落ち着いた。
「……なあ。何でそんなに弱ってんだ?」
「それは……」
正直に答えるべきかどうか迷った。
今日の向坂くんはループについて触れてこないから。
それがもし、わたしへの殺意が和らいだからなのだとしたら、その話を持ち出すと逆効果だろう。
煽ることになるかもしれない。
それとも、記憶に関する疑惑を確信へと昇華させるためにそんな態度をとっているのだろうか。
優しいふりをしていれば、ばかなわたしは騙されるから。
簡単に利用できるから。
そのことは、向坂くんが誰より知っているだろう。
どこか冷静な思考は澄んでいた。
“昨日”のわたしが記憶を持っていたことは、鋭い向坂くんなら勘づいているはずだ。
「────ねぇ、向坂くん」
深く呼吸をしてから、意を決して口を開く。
「わたし、分かってるよ。今日これから起こること」
このまま騙されたふりをしていれば、もう少しだけ向坂くんに甘えていられただろう。
あれほど焦がれた彼の優しさに、再び触れていられた。
けれど、わたしは自ら壊すことにした。
このささやかな幸せは所詮、かりそめに過ぎないから。
向坂くんの本性は散々目の当たりにしてきた。
どす黒く染まったその心が、たとえば“昨日”のたったあれだけの言葉が響いて塗り変わるなんて、そんな都合のいい話あるはずがない。
「…………」
彼は唖然としたようにわたしを見つめ、しばらく黙り込んでいた。
「やっぱおまえ、覚えて……」
その声は彷徨うみたいに不安定で、困惑が滲み出ている。
「……どこまで分かってんの?」
「向坂くんがわたしを殺すことと、死ぬたびに今日がループしてること」
結局、誤魔化すことなく正直に答えた。
「腕時計が記憶に関係ないことも分かってる。でも、わたしは何度か今日を覚えてた」
記憶が邪魔になるから殺す、という選択肢を与えないように先んじてそう言っておく。
「何で?」
「分かんないけど、忘れなかったの」
さすがに嘘をついた。
その方法が自殺だと明かせば、何がなんでも阻んでくるだろう。
そうしたら、また明日が遠のいてしまう。
「……それで、わたしね。実は死ぬたびに身体がしんどくなってるんだ」
いまだって止まない不調は、どんどんわたしを蝕んでいく。
頭痛の鳴り響く頭がぼんやりしてきた。
さすがに驚いたらしく、向坂くんの瞳が揺らいだ。
このことは彼も知らなかったみたいだ。
「……うそだろ」
その声にどこかショックを受けたような色が混じっているように思えたのは、わたしの願望から来る気のせいだろうか。
そもそもわたしを案じてくれているのではなく、ループにリミットがあることが悲しいのだろうか。
「このままだと、そのうち本当に死んじゃうと思う。だから────」
そのとき、ふいに目眩がした。
何だか意識がぼんやりしていたのは気のせいじゃなかったみたいだ。
視界が揺れて力が抜けていく。
紙コップが手から滑り落ち、こぼれたジャスミンティーが白い布団に染み込んだ。
(何、これ……)
今朝と同じように、また、繰り返す死の弊害に見舞われたのかと思った。
でも、ちがった。
漂う甘い香りが、その可能性を示唆している。
(入れられてたんだ、何か……)
理人のときにも同じようなことがあって殺されかけた。
それなのに、どうして油断していたのだろう。
(……ばかだ、わたし。本当に)
向坂くんの優しさに惑わされないよう、気をつけていたつもりだった。
けれど、すっかり信じきっていたんだ。
目先の希望を追いかけて、足元を見ていなかった。
「……っ」
ふら、と身体が傾いて枕に沈み込む。
もう耐えられない。
襲いかかってくる強い睡魔が、いまにもわたしを飲み込もうとしている。
ふっ、と目を閉じると音が遠のいていく。
「……ちょっとは警戒しろよ、ばか」
完全に意識を手放す直前、そんな呟きが聞こえたような気がした。
ふと目が覚めたとき、まず真っ先に自分の両手が見えた。
「……!」
頭をもたげてみると、手首と足首がそれぞれ黒いガムテープでぐるぐる巻きにされ、まとめ上げられていた。
(何これ?)
どうにか起き上がり、その場に座った。
得体の知れない恐怖心が背中を滑り落ちていく。
少なくとも、保健室で盛られた薬が毒じゃなくてよかった。
「ここ、は……」
恐る恐る周囲を見回した。
どこかの家の一室のようだった。
黒や紺という配色やインテリアから、男の子の部屋だと分かる。
ベッドの上に服が連なっていたり、机の上にプリントが散らかっていたりする割には、床にも家具にも埃ひとつ落ちていない。
石鹸みたいないい香りがした。
(向坂くんの部屋……?)
そのとき、ドアが開いた。
反射的にそちらを向いて身を硬くする。
「……起きたか。案外長いこと効いてたな、あの薬」
そう言いながら、彼は後ろ手でドアを閉めた。
その視線を追うと、枕元にあるデジタル時計が目に入った。
その表示は11時24分。
どうやら3時間近く意識を失っていたようだ。
「何のつもり……?」
怯んでいるのを悟られないよう精一杯睨みつけるけれど、彼はぜんぶ見透かしたように笑う。
「本気で分かんねぇの?」
ペティナイフ片手に歩み寄ってくると、わたしの前に屈んだ。
「何回も言ってるだろ。俺の目的はひとつだけだ」
「……わたしを殺すこと?」
「なんだ、よく分かってんじゃん」
片方の口角を持ち上げた彼を見て心が重くなる。
(戻っちゃった……。残忍な向坂くんに)
分かり合えると信じていたのはわたしだけ。
彼はきっと、最初からこんなふうに騙し討ちのようなことをするつもりだった。
こんなところに閉じ込められていたら、いくら叫んでも蒼くんには届かない。
だからこそ向坂くんはわたしを攫ったのだろうけれど。
ここなら誰にも邪魔されることなく殺せる。
泣きそうになって、噛み締めた唇が震えた。
目の前の現実を拒絶しようとするほど、リアリティが増していく。
「何で、こんなこと……。どうしてここまでするの……?」
声が震えてしまう。
この期に及んで、まだ希望に縋ろうとしている。
「好きだから。……おまえの苦しむ顔と死んでく姿」
向坂くんは淡々と迷わずそう答えた。
その答えは、彼の中ではずっと決まっていたものなのだろう。
「……っ」
浮かんだ涙がこぼれ落ちた。
────理人のときみたく、正面から話せば新たな面が見えてくるかもしれない。
向坂くんの気を変えられるかもしれない。
そう期待していた。
信じていた。
けれど、彼は一切揺らがなかった。
何度殺されても、彼を嫌いになれない自分の気持ちが苦しい。
本当に、わたしを殺すためだけに今日を繰り返しているんだ。
「……泣くなよ」
小さく言った彼は、少しだけ困っているように見えた。
「頼むから」
その手が伸びてきて、思わず身を縮めた。
また首を絞められるのかと思った。
けれど、ちがった。
向坂くんは親指でわたしの頬を拭ってくれた。
悲しいくらい優しくてあたたかい温もりが残る。
戸惑いながらその瞳を見つめれば、向坂くんの顔に暗い影が差した。
少しは残っているのかもしれない。罪悪感というものが。
「…………」
おもむろに立ち上がった向坂くんはベッドに腰かける。
どうやらいますぐ殺す気はないみたいだ。
(でも、どうしたら)
両手足を拘束されている上、向坂くんに監視されている。
この状況で逃げることなんてできない。
(隙を見て誰かに連絡……)
そう思ったけれど、当然のことながらスマホは取り上げられているみたいだ。
ポケットに重みがない。
「警察呼ぼうとしても無駄だぞ。捕まる前に殺すから」
「……!」
「あいつの助けも期待できねぇな」
確かにわたしは蒼くんの連絡先を知らないし、交換するようなことがあっても、以前のループでそうだったみたいに巻き戻るごとに消える。
そもそも彼と会っていない今日、交換したことがあったとしても連絡先が残っているはずがない。
そこまで計算した上で、保健室でずっと付き添ってくれていたのかな。
蒼くんと接触させないために。
わたしが倒れたのは、彼にとってまたとないラッキーな偶然だったんだ。
「……どうしていますぐ殺さないの?」
ふと疑問が口をついた。
彼にとって、完璧にわたしを殺す手筈は整っているはずだ。
邪魔者もいなければ、わたしの抵抗もない。
それなのに、どうしていま生かされているのだろう。
「あ? 死に急ぐなよ。別にいつ殺そうが俺の勝手だろ」
向坂くんは手の中のペティナイフを眺め、もったいぶるように言った。
漠然とした違和感を覚える。
まるで何かを待っているみたい。
時間稼ぎでもしているような。
何にしても、それならちょうどよかった。
この状況から唯一逃れる手段が、わたしにはある。
少し考えてから、慎重に口を開いた。
「ねぇ、お手洗い貸してくれない……? 少しでいいから、これほどいて」
両手足のガムテープを指し示す。
そういう生理現象が理由なら、無視もできないはず。
けれど、向坂くんは懐疑的な眼差しを向けてきた。
「逃げようってのか?」
「ちがう……! 信用できないなら、ドアの前にいてくれていいから」
必死で訴えかけた。
ひとまず拘束を抜け出さないと、自ら命を絶つこともできない。
「……分かったよ」
渋々ではあったけれど頷いてくれた。
足首のテープを断ち切ると「立て」とひとこと。
差し伸べられた彼の手を取り、わたしは言われた通りにそろそろと立ち上がった。
「手、離すなよ。目瞑ったままついてこい。俺の言葉破ったら殺す」
淡々と脅迫され、小さく頷く。
ふいに歯向かわれないため、そして間取りを把握されないための措置だろう。
徹底している。まったく信用されていない。
目を閉じて向坂くんの手を握り締めた。
こんな状況じゃなければ、なんて思うのは何度目だろう。
────彼の先導でたどり着いたお手洗いの中へ入ると、素早く鍵を閉めた。
(窓は……)
あるにはあるけれど、身体が通るほどの余裕はない。
やっぱり、ここから逃げるのは無理だ。
“今日”そのものから逃げるしかない。
壁に取りつけられた収納スペースの戸を開けた。
洗剤や掃除用具、トイレットペーパーのストックが入っている。
中から洗剤のひとつを手に取った。
“酸性”という文字が目に入る。
(リセットしなきゃ……)
洗剤のキャップを回して外した。
ツン、と刺すようなにおいが鼻を刺激する。
気を落ち着けるように息をつくと、意を決して口をつける。
それから一気にあおった。
「……っ」
酸っぱいような苦いような、とにかく有害だと分かる液体を流し込む。
舌が痺れて、喉が焼けていく気がした。
込み上げる吐き気をこらえていると、内臓まで熱く爛れていく。
手が震え、洗剤の容器を取り落とした。
中身はもう空だ。
「う……っ」
ぐらりと傾いた身体が床に倒れ込んだ。
「花宮……? おい、花宮!」
慌てたような彼の声が、ドアの向こうからぼんやりと聞こえてくる。
開かない取っ手を捻る音や、ドアを叩く音が遠くに響いた。
でも、もう手遅れだ。
向坂くんには殺させない。
◇
「うぅ……っ!」
目が覚めた瞬間、慌てて起き上がった。
ひりつくような喉元を押さえ、顔を歪める。
ベッドサイドの小さなテーブルに置いてあった水を手に取り、勢いよく口に流し込んだ。
何だか喉がからからだ。
猛烈に気分が悪い。
あんな死に方をしたのだから、当然なのかもしれないけれど。
(まずい……)
そう感じるのはさすがに気のせいだったけれど、洗剤のあの味はしばらく忘れられないだろう。
「わたし……」
小さく震える両手を見下ろした。
割れるように頭が痛くて、身体は熱っぽいのに冷えきっている。
すぐそこまで迫ってきている死の気配にぞくりとした。
わたしの命はもう本当に残りわずかなのだろう。
不思議とそれが分かる。
死ねるのはあと2回……いや、1回?
分からないけれど、とにかく猶予なんてない。
状況はまだ何ひとつとしてよくなっていないのに、嫌でも見えてきたリミットがわたしを焦らせる。
「どうすればいいの……?」
これ以上はどうにもならないのかもしれない。
もう限界なのかもしれない。
何とかしようって覚悟も、頑張り方も、間違っているのかもしれない。
『好きだから。……おまえの苦しむ顔と死んでく姿』
いっそのこと、嫌いになってしまいたい。
心の底から憎むことができたらどんなにいいだろう。
向坂くんを好きな気持ちごと、殺してくれたらいいのに。
そうしたら────。
『菜乃ちゃんか仁くんか、どっちかが死なない限りループは終わらない』
その選択を、迷うこともないのに。
学校に着くと、足早に教室へ向かった。
いまはとにかく、蒼くんと会って話したい。
“昨日”は一度も会えなかったから、きっと心配してくれているはず。
教室の中には既にその姿があった。
友だちと談笑していたものの、わたしと目が合うとどこか遠慮がちに歩み寄ってくる。
「大丈夫?」
何だか、肩から力が抜けた。
ほっとした。
蒼くんの優しい眼差しがあたたかく沁みる。
「いまにも死にそうな顔してる」
強がったり否定したりすることはできなかった。
実際、わたしは死にかけている。
(だけど、何か……おかしい)
「大丈夫なわけないか。急に理人くんがあんなことになっちゃって」
一瞬、呼吸を忘れた。
「え……?」
「でも無理しないでよ? 菜乃ちゃんまで倒れたら大変だし」
眉を下げつつ柔らかく笑う彼に動揺を隠せない。
このやり取りはもう、何度か繰り返した。
5月7日、彼は決まってそう声をかけてくれるから。
(でも……ということは────)
蒼くんはいま、記憶をなくしているんだ。
わたしの身に起きていることも、向坂くんの殺意も、何度か一緒に過ごした今日のことも、もう覚えていない。
そう認識した途端、急速に心細くなった。
崖から真っ逆さまに突き落とされたみたいだ。
「ごめん……」
慌てて背を向けると自分の席に向かう。
蒼くんに頼るべきではない、という神さまからのお告げなのかもしれない。
何だか“昨日”一日で色々と失った気分だ。
「待って。何かあったの?」
腕を掴まれて足が止まる。
振りほどこうと思えば簡単にできるほどの力。
わたしは唇を噛み締めた。
そうでもしないと、弱い気持ちがあふれそうになる。
「…………」
これがきっと、最後の機会なのだろう。
蒼くんを信じるかどうか、ループに巻き込むかどうかを決めるための。
本音を言えば、もう一度その手を借りたい。
いま頼れるのは、彼しかいない。
けれど、ループに巻き込むということは少なからず蒼くんの運命も変えてしまうことになる。
それに、もしループが終わったとしても、向坂くんみたいに豹変しないとは限らない。
死が身近になったせいで向坂くんの猟奇性が目覚めたのだとしたら、蒼くんにだって同じリスクはある。
(でも……)
『だから俺もできることをしたいだけ。答えになってるか分かんないけど、それだけだよ』
あの言葉が本心なら────。
「蒼くん……」
わたしはそっと振り向いて、その手を握った。
「助けて」
彼を信じる。
それ以外の選択肢なんてない。
以前と同じように裏庭へ出ると、何もかもを包み隠さず伝えた。
当たり前だけれど、蒼くんはかなり衝撃を受けたようだった。
「死に返るループ……」
だけど、真に迫るわたしの様子に気圧されたのか、すべてを事実として受け入れてくれたみたいだ。
記憶を失わないためには自殺が必要だということまで話せば、彼は心底困惑したように眉を寄せる。
「じゃあ俺、何で“昨日”……」
蒼くんの声は揺らいでいた。
「……ごめん、菜乃ちゃん。本当にごめんね」
「あ、謝らないで。蒼くんは何も悪くないよ」
そもそもわたしが自殺を強要する権利なんてないし、そんなことするはずもない。
「でも」
「……仕方ないよ。“昨日”は会えなかったから」
逆の立場だったら、きっとわたしも同じ選択をする。
相手を救うための自殺を受け入れられるのは、巻き戻るという前提があるからだ。
“昨日”の蒼くんは、わたしや向坂くんの生死が分からなかった。知りようがなかった。
もしループが終わっていたら、自殺は本当の死を意味する。
そんな不確かな状況では、誰でも絶対に怖気づく。
「決めた。俺、今日はもう菜乃ちゃんから離れない」
「え?」
「ずっと見守ってる。死ななければそれでいいし、もし死んじゃうようなら俺も一緒に死ぬ」
彼は優しくわたしの手を取って握った。
「大丈夫。もうひとりぼっちになんてしないからね」
いまの状況で、それ以上に心強くて嬉しい言葉はなかった。
彼を信じてよかった。
頼ってよかった。
教室へ戻ると、わたしも蒼くんも戸枠のところで思わず足を止める。
「向坂くん……」
彼が悠然とわたしの机の上に座っていたのだ。
“昨日”をあんなふうに終わらせたから、腹を立てているのかもしれない。
恐る恐る歩み寄ると、蒼くんが庇ってくれるように前に出た。
「何か用? 仁くん」
そう声をかけられるまで、彼はどこか上の空だった。
「……あ? おまえにはねぇよ」
蒼くんをあしらって机から下りると、そのままわたしの手首を掴んだ。
「来い。話がある」
有無を言わせず引っ張っていこうとする彼に慌てる。
「ま、待って……」
「ちょっと。そんな勝手なこと許さないから」
何とかその場に留まろうと足に力を込めると、同時に蒼くんが反対側の手を掴んで止めてくれる。
「おまえの許可なんかいらねぇだろ」
「もしかして、俺がいたらできない話? なら、なおさらこの手は離せない」
一切怯むことなく言ってのけた。
相当な覚悟があるのだと思う。
一緒に死ぬ、という言葉の重みが増す。
「…………」
うっとうしそうに目を細める向坂くん。
かなり機嫌が悪そうだった。
そんな彼とふたりきりになるのは、あまりに危険すぎる。
もう何度も死ねないのだ。
いままでよりもっと慎重にならないと。
「……だったらおまえも来れば? その代わり口挟むなよ。ひとことでも喋ったら殺す」
ふたりで向坂くんについて歩くと、いつものところで足を止めた。
屋上前の階段。
何だか久しぶりに思える。
振り向いた彼はややあって、硬い声で尋ねてくる。
「……おまえさ、何で自殺すんの?」
心臓が音を立てた。
さすがに訝しんで当然だろう。
彼の目の前でわたしは何度も自分を殺した。
なぜかと言えば“記憶を失わないため”だけれど、そうとは絶対に言えない。
自衛の手段がなくなってしまう。
「……向坂くんに殺されたくないから」
わたしは言った。
完璧な答えではないけれど、間違ってもいない。
「俺に……?」
どこか意表を突かれたような反応だった。
やはり新たな記憶の法則があることは知っていても、それが何なのかまでは知らないみたいだ。
「……んだよ、それ」
いっそう不機嫌になった彼が声を低める。
「死ぬのは嫌じゃねぇのかよ。諦めたのか?」
彼が何に怒っているのか、わたしには分からなかった。
「意味、分かんないよ……。どうしてそんなこと向坂くんが言うの?」
わたしが死ぬきっかけは彼が作っているのに。
そもそも彼が殺そうとしなければ、わたしが死ぬ必要もなくなるのに。
「死にたいわけない。諦めたくもないよ、ぜんぶ」
泣きそうになって、唇を噛み締めた。
向坂くんは口をつぐんだまま何も言わない。
場に重たい沈黙が落ちる。
「……行こう」
ややあって、ふいに蒼くんの手が背中に触れた。
あらゆる感情を抑え込んだような、静かな声色で促されて、彼ともどもきびすを返す。
いまの状態で向坂くんと建設的な話し合いなんてできない。
気持ちも追いつかないし、隠していることが多すぎる。
そのくせ、肝心なことは聞けないでいる。
────怖いから。
何が殺意のトリガーになるか分からない。
何より、ただでさえ自信がなくなったのに、これ以上信じられなくなることが恐ろしい。
そうしたら、揺らいでしまう。
目的も、スタンスも、結末に抗う覚悟も。
「花宮」
階段を下りていこうとした足が、ぴたりと反射的に止まる。
「……悪ぃ」
一拍置いて告げられた思わぬ言葉に息をのむ。
まさか謝られるとは思わなかった。
(でも、何が……?)
わたしを殺すこと?
それに対して罪悪感があるのだろうか。
「大丈夫、なのか? 身体の調子」
動揺を隠せないわたしの視線が彷徨う。
(また、前の向坂くんみたい……)
不器用ながら、優しい。
一見冷たく見えるのに、その実、思いやりに満ちていて。
────本当に?
保健室のときみたいに騙し討ちでもしようとしているのかもしれない。
わたしが自殺を繰り返すせいで、自分の目的を果たせないから。
これは本物の優しさなのだろうか。
そもそもこれまでに一度でも、本気で心配してくれていたことがあったのかな。
(信じていいの……?)
惑わされたくない。
傷つくのも絶望するのももう十分だ。
(でも、もしかしたら────)
「菜乃ちゃん」
振り向きかけたわたしを蒼くんが制した。
咎めるような表情を浮かべている。
「騙されないで。こっち見て」
そう言うと、手を引いて階段を下りていく。
決して強い力じゃないのに、圧を感じてほどけない。
「……っ」
それでも、つい振り返ってしまった。
わたしの目に映った向坂くんは、どこか寂しげに見えた。
1階までの階段の途中で、重たい足が止まる。
信じたい思いや彼への期待と、研ぎ澄まされた警戒心の間でわたしは板挟みになっていた。
「菜乃ちゃんさ、気持ちは分かるけど絆されちゃだめだよ」
彼の目には、わたしが向坂くんに丸め込まれそうになっているように映ったのだろう。
そんなことない、とは言い返せなかった。
実のところはそうだったかもしれないから。
見たいように見ていただけだ。
「……ごめん」
うつむきながら細い声で謝ると、蒼くんは困ったような顔をする。
記憶をなくしても、この言葉は求めていないみたいだ。
(わたし、どうしたらいいのかな……)
────以前の向坂くんを取り戻したい、と思っていた。
ちゃんと向き合えば結末は変えられると思っていた。
(そう信じることは、間違いだったのかな)
諦めない、諦めたくない、って覚悟はただの意地だったのかもしれない。
本当は最初から、選択肢はふたつしかなかったのに、ありもしない希望を信じて、ただ決断を先延ばしにしていただけだったのかもしれない。
逃げずに立ち向かえば、残酷な運命にも打ち勝てると思っていた。
けれど、そんなのは願望から来るまやかしだった。
最後の選択を避けるための言い訳に過ぎない。
命は残りわずか。
結末を決めなければいけないと、分かっているけれど。
「もう、やだ……。逃げたい」
消え入りそうな声で呟く。
もうたくさんだ。
殺されるのも、死ぬのも。
痛いのも、苦しいのも、絶望するのも、裏切られるのも、騙されるのも、傷つくのも。
「────じゃあ、一緒に逃げよっか」
蒼くんは柔らかい声音で言った。
目が合うとふんわり微笑み返されて、手を差し伸べられる。
「ふたりでどっか遠くに行こうよ。死も追いつけないようなところに」
浮かんだ涙がこぼれると、視界に光の粒が散った。
「どこ……?」
「分かんないけど、とにかくここを離れる。仁くんから遠ざかれば殺されないでしょ。そしたら明日が来る」
はっとした。
どうしていままで気づかなかったのだろう。
そもそもわたしが命を落とさなければ、今日がループすることもないんだ。
頬を拭って彼に頷く。
「……行こう、蒼くん」
そのてのひらに手を重ねると、しっかりと握り締めてくれた。
あれこれ考えるのは“明日”になってからでいい。
とにかく、死ぬ気で今日を生き延びるんだ。
最寄り駅まで来ると、片道切符を買って電車に飛び乗った。
行けるところまで、とにかく遠くを目指す逃避行。
「疲れてない?」
「平気。……ちょっと楽しいかも」
それほど混んでいない電車の中、蒼くんと並んで揺られる。
「よかった。俺も楽しいよ、菜乃ちゃんといると」
彼は相変わらず柔和な笑みで、慈しむような眼差しを注いでくれる。
「……蒼くんって、そういう曖昧なことばっかり」
「え、何か言ったっけ?」
「“一昨日”ね」
そう返すと、彼は悔しそうに苦く笑った。
彼の中にそのときの記憶はもう残っていない。
「うわ、何て言ったんだろ。告白までしちゃってたらどうしよう」
口元を覆う彼を見ていると、“一昨日”のそれが本当に冗談だったのかどうか分からなくなってくる。
────電車の揺れと穏やかな静寂で、ふわりと意識が宙に浮かびそうになる。
「眠いなら俺の肩貸すよ」
小さくあくびすると、すかさずそう言ってくれた。
本当によく見てくれている。
「────ありがとう、蒼くん」
以前は十分だと言われたけれど、いまの彼なら受け取ってくれるだろうか。
伝えないとわたしの気が済まない。
何度伝えても足りない。
「ん、寝る?」
「ううん。ぜんぶに感謝してるの。助けてくれたことにも、いまこうして隣にいてくれてることにも」
わずかに目を見張った蒼くんは、一拍置いて表情を和らげる。
「それ言うなら俺の方」
「え?」
「理人くんに殺されて、仁くんにも殺されて。頼りにしてた人たちに次々裏切られても、俺にぜんぶ打ち明けてくれた」
優しい声で紡がれる言葉のひとつひとつが浸透してくる。
「きっと、怖かったよね。それでも……信じてくれてありがとう」
いったい、どこまで優しいんだろう。
蒼くんといると、羽毛に触れている気分になる。
最初はただ、ひとりぼっちが辛かっただけだった。
誰かに縋りたかった。
喪失感と絶望を、先の見えない非現実の不安を、紛らわせてくれる誰かを求めていただけだったかもしれない。
でも、誰でもよかったわけじゃない。
いまなら確かに言える。
閉じ込められたのが“今日”でよかった。
────しばらくして、スマホを眺めていた蒼くんがふと声を上げる。
「わ、近くで通り魔だって。犯人は現在も逃走中……」
ニュース記事でも目にしたのだろう。
ざわ、と胸が騒いだ。
(向坂くんとは関係ない……よね?)
終点で電車を降りた。
普段まったく足を運ばないような場所だし、きっと向坂くんもここまでは来ないだろう。
来られないはずだ。
わたしの行き先として考えつくとは思えない。
「何か食べる? 早めの昼ご飯とか」
「大丈夫、あんまりお腹すいてない。あ、でも蒼くんが何か食べたいなら……」
「ううん、俺もいい。適当に歩こ」
やんわりと笑った彼に促され、足を踏み出す。
「時間帯も時間帯だし、何か静かだね。ちょうどよかった」
周囲を見回しつつ、彼が言う。
平日の午前10時半過ぎ。
車通りも人通りもわずかで、あたりは閑散としていた。
向こう側から歩いてくる人影がひとつ見えるくらい。
「……っ」
ふいに、ずきん、と頭に痛みが鳴り響いた。
つい足を止めて額を押さえる。
(何か……)
脳裏に不鮮明な映像がよぎった。
誰かの手を握りながら、この道を歩いているわたし。
どういうことなんだろう。
ここへは初めて来たはずなのに。
(どうして? 誰なの?)
もしかして、失ったはずの今日の記憶なのだろうか。
────“その人”の不安を体現するみたいに、強く手を握り締められていた。
一方のわたしはよく分からずに、引かれるがままに歩いている。
困惑に耐えきれず、足を止めた。
その手を振りほどいて理由を尋ねようと口を開く。
その瞬間、上から何かが降ってきた。
厚い鉄の板のようなものだ、といまなら分かったけれど、記憶の中のわたしはそのまま押し潰されてまう。
真っ赤な血が翻った。
おののいたように息をのむ。
「……ちゃん、菜乃ちゃん。大丈夫?」
はたと我に返ると、頭の中の靄が晴れて意識が現実へ引き戻される。
心臓がばくばくと激しく脈打ち、冷や汗が滲んでいた。
「あ、蒼くん。わたし、いま……」
死んだ。
────この場所で。
夢でも妄想でもないとしたら、やっぱり記憶だ。
こんなふうにして、失ったはずの記憶の欠片を思い出すことは以前にも何度かあった。
頭痛を伴いながら、わたしに未来の可能性を見せてくる。
わたしは一度、ここで死んでいるんだ。
あれが今日の出来事なら、また同じ目に遭って命を落とす可能性がある。
恐る恐る顔を上げた。
数メートル先に工事現場があった。
作業中ではないみたいだけれど、クレーンに吊られた鉄板が風に揺れている。
(あれだ……)
背筋がぞくりとした。
いま、あの記憶を取り戻せなかったら、同じところで死んでいたにちがいない。
強く蒼くんの腕を掴むと、彼は驚いたように目を見張る。
「どうしたの」
「ここ、通りたくない……」
震える声で告げた。
指先に力が込もる。
不思議がるように少し黙り込んだ彼は、だけどあえてあれこれ尋ねてきたりはしなかった。
「分かった。じゃあ道変えよっか」
そのとき、ガシャァン! というけたたましい騒音と甲高い音が響き渡った。
地面が鳴るような轟音が、足から全身に伝わってくる。
「びっくりした……」
蒼くんが振り返った。
わたしも息をのんでそちらを見やる。
先ほど目にした大きな鉄板が落下したのだった。
それを吊るしていたロープがなぜか切れている。
まるで誰かがぷっつりと切断したみたいに綺麗な切り口だった。
(ありえない……)
作為的な何かを感じる。
蒼くんはそれとわたしを見比べ、やがて言った。
「……もしかして、予知したの?」
当たらずも遠からず、だった。
一度経験したことがあるから、知っていただけなのだけれど。
向坂くんから離れても、死の気配は至るところに潜んでいるのだと思い知る。
「わたしにもよく分からないんだけど、さっき急に記憶が────」
そこまで言ったとき、すぐ横に音もなく先ほどの人影が迫っていた。
ふっと翳って、反射的に顔を上げる。
「菜乃ちゃん……!!」
驚いたような蒼くんの声が聞こえたと同時に、腹部に強い痛みが走った。
見下ろすと腹部から血があふれていて、制服に赤黒い染みが広がっていく。
その中心に包丁が突き立てられていた。
目の前の見知らぬ男が、にたりと笑って引き抜く。
『わ、近くで通り魔だって。犯人は現在も逃走中……』
ふいに、電車の中で蒼くんが言っていたことが蘇った。
(まさか、この人が……?)
ふら、とたたらを踏んだ。
呼吸が震える。
「蒼、くん……」
助けて────。
「……っ」
衝撃が遅れてやってきて、身体に感覚が戻った。
熱い。痛い。
激痛が現実感を訴えて止まず、がく、と膝から崩れ落ちる。
「おまえ……っ!」
愕然としていた蒼くんは我に返ると、勢いよく男に掴みかかる。
男が包丁をでたらめに振った。
切っ先が蒼くんの腕を掠める。
「う……」
彼は顔を歪め、傷を押さえた。
思ったより深そうで、ぼたぼたとあふれる鮮血が止まらない。
「蒼くん……!」
だめだ、このままじゃ。
彼まで殺されてしまう。
「逃げて!」
「でも────」
「いいから……っ」
こんな緊迫した状況で自分の身に危機が迫ってもなお、わたしを気にかけてくれるなんて。
その事実があるだけでも十分だ。
今日、また“死”に追いつかれて負けてしまっても。
“明日”、また蒼くんがすべてを忘れてしまっても。
彼は惜しむような詫びるような視線を残し、地面を蹴って駆け出す。
しかし、男は彼を追っていった。
人を殺すことへの凄まじい執念にぎらついた目は、常軌を逸している。
ぐい、と襟を掴まれた蒼くんが地面に引き倒された。
すかさず馬乗りになった男が、包丁を振り上げる。
「だめ! やめて……!」
叫ぶたび、傷口が疼いた。
どろ、と血があふれていくのが分かる。
当たり前だけれど、わたしの言葉は男に届かなかった。
獲物と見なした蒼くん以外のすべてを無視している。
意識の外側にあって、男にとっては“ないもの”に等しいのだろう。
身代わりにすらなれない。
それなら、蒼くんが手遅れになる前に早く────。
「……っ」
わたしは渾身の力を込めて舌を噛んだ。
鉄の味が広がって気持ちが悪い。
ちぎれるような鋭い痛みを気力でねじ伏せ、強く歯を立てる。
(蒼くん……)
今日のことは忘れてくれていい。
こんな結末、むしろ忘れた方がいい。
だから、どうか死なないで。
無事でいて。
お願い、間に合って────。
◇
────夢を見ていた。
繰り返す日々の中で失ったはずの、遠い幸せな記憶。
『俺は諦めねぇからな。花宮がどう思おうと』
記憶をなくして信じられなくなったわたしが拒絶しても、彼は守ろうとしてくれた。
『……頑張ってるよ、おまえは』
前を向くきっかけをくれた。
『うまくやるんだろ? だったら、俺も遠慮しない』
理人に殺される結末を変えようともがくわたしと、一緒に戦ってくれた。
『言えんじゃん、ちゃんと』
わたしがひとりで立ち向かった結果も、ちゃんと認めてくれた。
いつも、支えてくれていた。
優しくて、勇気と自信をくれる向坂くん。
わたしの中では、それこそが彼だ。
それだけが、わたしの好きになった彼だ。
知らないうちに涙を流していた。
目を覚ますと濡れたこめかみを拭う。
やっぱり、彼のすべてが嘘だったなんて思えない。
このループにも、彼がわたしを殺すのにも、まだ知らない理由がある。
何度裏切られても結局その考えを捨てきれなかったのは、少なからず“昨日”の向坂くんに違和感を覚えたからだ。
その前にも一度、態度が変わった。
保健室でのことだ。
それから少しずつ、変化が現れ始めた。
あのときは演技をしているのだと思っていた。
自身の“目的”を果たすために、優しいふりをして騙そうとしているのかと。
だけど、その結論じゃ何だか腑に落ちない。
────たとえば、その目的がわたしから情報を引き出すことだったら。
そもそも彼にはそんな必要がない。
だって、わたしを殺せればそれでいいのだから。
わたしが何を見ようと、何を聞こうと、何を知ろうと、殺してしまえばリセットできる。
ループの中では、殺す側にいる向坂くんの方が優位な立場にあって、ただ殺したいだけなら駆け引きもいらない。
だから、そのための情報も相対的に必要ないのだ。
けれど、思えばあの日は違和感だらけだった。
睡眠薬入りのジャスミンティーをわたしに飲ませ、攫って部屋に監禁したところまでは理解できる。
でも、そこからが妙だった。
ただ殺すことだけが狙いなら、その段階で殺してしまえばよかっただけだ。
(……やっぱり、おかしい)
考えれば考えるほど、向坂くんの行動に別の意図が隠されているような気がする。
目を閉じたわたしは息をついた。
鉛のように身体が重く、心臓の拍動も鈍い。
蓄積する苦痛が着実に命を削っていく。
(……決めた)
きっと、これが最後の今日だ。
向坂くんを信じる自分を、信じることにする。
────支度を整えると、家を出て学校への道を歩き出す。
何度ゆすいでも、まだ口の中に濃い鉄の味が残っている気がした。
教室へ入ると、真っ先に蒼くんを捜す。
わたしが死んだあと、どうなったのだろう?
彼は無事だったかな。
どちらにしても記憶をなくしていたら、またいちからぜんぶ説明しよう。
助けて、なんて言わない。
でも彼にはすべて伝えておくべきだと思う。
けれど、まだ教室内に蒼くんの姿はなかった。
いつもなら、というか本来の今日なら、既に来ているはずなのだけれど。
「菜乃ちゃん!」
ふいに背後から腕を引かれた。
振り返ると、複雑な表情を浮かべた蒼くんが立っていた。
「よかった。……まだ“今日”があって」
その口ぶりからして、ループのことは覚えているみたいだ。
でも、どうして?
「どうして覚えてるの……?」
わたしの自殺は間に合わず、彼は殺されたのだろうか。
それでも記憶は残るの?
相手が向坂くんじゃないから?
「……あのあと、自分で死んだからだよ」
その言葉をどういう感情で受け止めればいいのか分からず、とっさに何も言えなかった。
「あいつ、何か急に我に返ったんだ。そしたら、それまで全然ひとけもなかったのに、いつの間にか騒ぎになってて」
それに怯んだ男が、包丁を放り捨てて逃亡した。
蒼くんはそれを使ってその場で自殺したらしい。
「けど、どう考えても不自然だよね?」
「そう、だね……」
明らかに奇妙だと言わざるを得ない。
クレーンのロープにしたってそうだし、通り魔の男にしたってそうだ。
「わたしが死んだから……?」
ふと、思いついた憶測を口にする。
「どういうこと?」
「このループは……必ずわたしが死ぬようにできてるのかも」
とても偶然とは思えないから。
ロープがあんなふうに切れたことも、逃げ先で通り魔に遭遇して襲われたことも。
向坂くんから逃げても、死からは結局逃げきれなかった。
「……そんなことない。絶対、どっかに助かる道があるって」
彼はゆるりと首を振って、真剣な表情で言った。
「蒼くん」
「諦めないでよ。逃げてもだめなら、俺も一緒に戦うから。だから────」
「蒼くん、聞いて」
ゆらゆらと不安気に揺れるその双眸を、まっすぐに捉えた。
「わたし、もう次はないの」
「え……?」
「身体が重くて痛くて、すごく苦しい……。限界なんだって自分で分かる。わたしが次に死ぬときは、本当にお別れ」
はっきり言葉にすると、自分でも気が引き締まる。
蒼くんは、信じられない、と言いたげに目を見張った。
それから拒むように首を左右に振る。
「嫌だ。お願いだから死なないでよ」
「わたしも死にたくなんてないよ。だから今日、精一杯あがこうと思うの」
「じゃあ、仁くんを────」
そう言いかけた蒼くんに、首を横に振った。
向坂くんを殺すつもりもない。
彼を殺すか自分が死ぬか、というループの真理とも言える選択はしない。
「どうするの……?」
「もう一度、向坂くんと話してみる。“昨日”はちゃんと話せなかったけど、今度は逃げない」
蒼くんは表情を曇らせた。
言いたいことは分かる。
もうあとがないと分かりきっている状況で、彼に会いにいくのがどれほど危険かはわたしも承知している。
だけど、向坂くんの真意を知るにはやっぱり真正面から向き合うしかない。
ただ怯えながら、わずかな希望に縋っていた以前とはちがう。
わたしの言葉はちゃんと届く。
いくらかそう確信できるくらいに、強い覚悟があった。
ややあって、蒼くんは吹っ切れたように固い意思の宿る表情をたたえた。
そこに迷いは見られない。
「俺にできることない?」
寄り添いながらもわたしの選択を尊重してくれる彼に感謝しつつ、やわく微笑んだ。
「見守ってて欲しいな。どんな結末を迎えても」
たとえ、わたしが死ぬことになっても。
あるいはもっと残酷な結末に変わっても。
「……分かった」
どんなふうにこじれても、もうやり直すことはできないけれど。
「ありがとう、蒼くん。いままでのことぜんぶ」
どんな未来が待っていても、彼には生きていて欲しい。
こんなループの犠牲になんてならないで欲しい。
そして、今日が終わっても、できることなら忘れないでいてくれたらいいな。
繰り返した「5月7日」の中で一緒に過ごした時間を。
わたしがどれほど救われたか、ということを。
蒼くんは眉根に力を込めた。
「俺────」
ためらうような声色だった。
その先に続く言葉を待ったけれど、結局口をつぐんでしまう。
「何でもない。明日、言うね」
「……うん、分かった」
わたしも笑みを浮かべたものの、うまく笑えている自信がなかった。
明日を信じていないわけじゃないけれど、どうしたってそこには死の気配が漂っているから。
不確かな未来には、臆病になってしまう。
────でも、進むしかない。
(……大丈夫)
結末を変えることは不可能じゃない。
あとは自分次第だ。
昼休みになると、階段を上って向坂くんに会いにいくことにした。
最後の踊り場で足を止め、屋上前の階段を見上げる。
思った通り、変わらず彼はそこにいた。
けれど、何だか様子がおかしい。
自身の膝に腕を置き、うなだれるように突っ伏していた。
「向坂、くん……?」
いつもの強気な彼じゃない。
そのせいか、張り詰めた警戒心がほどけていく。
はっと顔を上げた彼は、わたしを認めると瞳を揺らがせた。
「花宮……」
やっぱり、おかしい。
“昨日”からずっとこんな調子だ。
演技なんかじゃない。悪意も見えない。
(何かを隠してる……?)
ひとまず、ここであれこれ話すのは得策じゃないように思えた。
いま、向坂くんの感情は不安定だ。
ひと目見てそれが分かるくらい、動揺を隠せていない。
わたしは一度、深く息を吸った。
「向坂くん。今日、一緒に帰ろう」
彼はかなり意外そうに目を見張った。
当たり前の反応だ。
記憶の有無に関わらず、わたしがこんなことを言ったのは初めてだから。
「おまえ……」
戸惑うように何かを言いかけ、やめた。
「……どうせ覚えてんだろ? どういうつもりだよ。俺、おまえを殺すんだぞ」
「分かってる。最終的にどうするかは向坂くんが決めてくれていいよ」
不思議と、すんなり言葉が出てきた。
先ほどまで痛いくらい鳴り響いていた心音も、気づけばいつも通りにおさまっている。
「ただ、ちゃんと話したいの。最後だから」
そう伝えると、惑うような黒々とした瞳に捕まった。
つい、視線を落とす。
逃げるようにきびすを返して一方的に告げた。
「……じゃあ、また放課後にね」
「おい────」
彼の声にも振り向かず、階段を駆け下りていく。
一歩、また一歩と着地のたびに視界が揺れた。
目眩も頭痛も止まない。
少しずつ蝕まれていった身体が、悲鳴を上げているのが分かる。
こんな状態でよく生きているものだ、と我ながら思った。
生ける屍も同然だ。
「菜乃ちゃん……」
教室の前で蒼くんに声をかけられた。
どうやら待っていてくれたみたいだ。
「とりあえず、放課後までは生きられそう」
肩をすくめて笑ってみせると、彼は「よかった」と心底ほっとしたように表情を緩める。
「身体は大丈夫? 顔色が────」
「死にそう、かな?」
「……そんなこと言わないでよ。冗談でも」
咎めるような蒼くんに「ごめん」と苦く笑っておく。
真剣に心配してくれている彼には悪いけれど、そうでもしていないと、深刻に思い詰めそうになってしまう。
「大丈夫だから。何かあったら俺が守る、絶対」
蒼くんは強く言いきった。
覚悟を決めたような、固い意思が覗く眼差しだった。
「……うん、信じてる」
帰りのホームルームを終えて、立ち上がると鞄を肩にかけた。
すぐに教室を出て、B組の前に立つ。
ちょうどホームルームが終わったところで、ふと数人の女の子たちと目が合った。
(あ……)
わたしのことを積極的に“灰かぶり姫”と呼んだり、裏庭に呼び出して意地悪をしてきたりしたのは彼女たちだ。
けれど、理人が亡くなってからはぱったりと止んだ。
いまも彼の死を嘆き悲しんでいるからわたしに構う余裕がないのか、あるいは“王子”がいなくなって興味が失せたのか。
どちらにしても、もうあんな目に遭うことはないと思う。
『理人が好きなら、正々堂々そう言ったらいいじゃん……! わたしに八つ当たりしてないで、その労力を別のことに使いなよ!』
あのとき、わたしはちゃんと言えた。
仮に同じように追い詰められたって、もう一度頑張れる。
それくらいの勇気と自信を、いまなら持ち合わせている。
ふい、と彼女たちから目を逸らした。
もう何も怖くなんてない。
「花宮」
どこか硬い声で呼ばれ、リュックを背負った向坂くんが気だるげに歩み寄ってきた。
「向坂くん」
なぜか、勝手に淡い笑みが浮かんだ。
「……おまえさ、怖くねぇの? 俺のこと」
「そう思ってたんだけどね、いまは平気」
不思議と感情は凪いでいる。
どことなく、彼には殺されない気がしていた。
薄々感じ始めていたその予感は、向坂くんと直接話して強まっていった。
彼には殺意なんてない。
“昨日”、通り魔であるあの男の身勝手かつ残忍な殺意を目の当たりにしたとき、本物だ、と思った。
誰かを本気で殺そうとしている人には、いくら叫んだって届かないのだ。
けれど、思えば向坂くんはちがっていた。
だからこそ、ここ数回の今日、わたしは彼を出し抜けた。
────学校を出て歩いていくと、広い川にさしかかった。
いつもは通らない道を遠回りをして、ただ時間に身を委ねている。
明日を望んでいるのに、今日が終わるのが惜しくて。
おさまらない不調のせいで自ずと足が遅くなる。
それでも彼は、急かしたり苛立ったりすることなく、当然のように合わせてくれていた。
(ほら……やっぱり優しい)
ここにいるのは紛れもなく、わたしの好きになった向坂くんだ。
そう意識した途端、胸が締めつけられた。
「……っ」
橋の上で足が止まる。
ぽろ、と膨らんだ涙がこぼれ落ちる。
わたしの震える呼吸に気がつき、彼が窺うようにこちらを見た。
「……身体、そんなに辛ぇのか?」
「ううん……」
彼を見上げ、揺れる視界におさめる。
「嬉しいの。いま、すごく……。向坂くんが、向坂くんで」
ふと、その目に戸惑いの色が浮かんだ。
「俺────」
ここに来て、その態度に迷いが見えた。
紡ぎかけた言葉の先が続かない。
惑うような沈黙が落ちると、そのうちに涙が止まって息苦しさが抜けていく。
夕日が街を溶かし、川の水面にきらきらと光の粒が散っていた。
「向坂くん。……わたしね、もう次はないんだ」
思ったよりも落ち着いて言えた。
彼が息をのむ気配があった。
「分かってるの。ループを終わらせるには、わたしか向坂くんが死ななきゃならないってことも」
「…………」
「でも、手遅れになる前にどうしても伝えたいことがあって────」
声が寂しげな空に吸い込まれていく。
緊張も躊躇も、とうに一切捨て去っていた。
「わたし、向坂くんが好き」
ひと息で言いきった。
次の瞬間、信じられないことにわたしは彼の腕の中におさまっていた。
(え……?)
突然抱きすくめられ、混乱に明け暮れる。
頬に触れる髪がくすぐったい。
回された腕は力強いのに優しい。
背中に添えられた手も、触れたところすべてがあたたかかった。
「向坂、くん……?」
「……ごめんな、菜乃」
その声は弱々しく掠れ、なおさら戸惑うばかりだった。
それでも、初めて名前で呼ばれたことに心臓が音を立てる。
何だか切なくて、無性に苦しい。
やがて腕をほどいた向坂くんは、静かに言葉を繋ぐ。
「ぜんぶ話す。本当のこと」