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狂愛メランコリー  作者: 花乃衣 桃々
◆第1章 狂愛メランコリー
3/8

第3話 ノイズ


「いや、ぁ……っ!」


 全身が鈍痛(どんつう)(うず)いて飛び起きた。

 身体がちぎれるように、潰されるように痛い。


 ため息をついて頭を抱える。

 痛いのは、記憶が見せる錯覚。気のせいだ。


「……覚えてる。よかった」


 ────“昨日”、あれから無我夢中で理人から逃げたけれど、踏切に飛び込んでしまったわたしは電車に()ねられて死んだ。


『菜乃!』


 追ってきた理人の焦ったような声と、けたたましい警報音。

 我に返ったときには頭が真っ白になって動けなかった。


(向坂くん……)


 メッセージアプリを立ち上げるも、友だちとして登録しているアカウント一覧の中に、彼の名前はない。


(あ……そっか)


 巻き戻ったから、消えてしまったのだ。


 ────ひとつの憶測が事実に変わる。


 理人に直接手を下されなくても、わたしが死にさえすれば時間は巻き戻るのだ。


 ループのトリガーは、わたしの死。


 急いで支度を整えると、腕時計を巻きながら家を飛び出す。


 無性に、向坂くんに会いたい。


 これ以上は、ひとりで考えたくない。

 何だか心細くてたまらない。




 昇降口で靴を履き替え、あたりを見回してみるけれど彼の姿はない。


 わたしは階段を上っていき、いつもの場所で待っていることにした。


 しばらくして、ひとつの足音が近づいてくる。


「おまえは────」


 最後の踊り場で足を止めた向坂くんが、上段にいるわたしを認めて目を見張る。


「向坂くん。わたしのこと覚えてる……?」


 緊張しながら返答を待っていると、やがて静かに彼は言う。


「……いや」


 悲しいけれど、以前ほどの落胆はなかった。


 今朝、昇降口に姿がなかった時点で何となく察していた。


「でも、何か見たことあるな。あ、三澄の彼女だ?」


 階段を上りながら言い、腰を下ろした向坂くんは言葉を繋ぐ。


「ん? さっき、覚えてるかって聞いたか? ……俺らって知り合いだったっけ?」


 眉を寄せる彼の隣に、そっと座り直した。


「……わたし、花宮菜乃。理人とは幼なじみだけど、彼女じゃないよ」


 堂々として意思の強そうな黒い瞳を覗き込みながら、懸命に紡ぐ。


「向坂くん。わたしの話、聞いてくれないかな……?」


 ────記憶にある、3回分のループについてかいつまんで話した。


「……俺も殺されてんのか」


 それは、いまの彼が知らない世界線での出来事だ。


 信じがたいはずだけれど、険しい面持ちで立ち上がると手すりから下を覗く。

 踊り場の方を見ているのだろう。


 “前々回”、わたしたちが殺された場所だ。

 ばらばらに割れた鏡は、何事もなかったみたいに壁におさまっている。


「そんで巻き戻ったそのときは、俺もぜんぶ覚えてたんだな」


「……そう。どんな法則があるのかなって考えてて」


「んー……」


 顎に手を当てた向坂くんは「あ」とひらめいたように声を上げる。


「タイミングとか」


「タイミング?」


「花宮が死んだら巻き戻るんだろ? だったら、おまえが死ぬのと同時に死んだ奴は記憶を失わない、とかさ」


 ないとは言いきれない可能性だった。


 わたしが覚えている限りでは、向坂くんが記憶を保てたのは1回きりだったけれど、そのときは確かに同じタイミングで死んだ。


 それ以前にもループしたことがあるのなら、そのときはどうだったのだろう。


 向坂くんだけが覚えていてわたしは忘れてしまった、というパターンもあったかもしれない。

 それなら、いまの説は破綻(はたん)する。


「…………」


 だけど、だめだ。


 記憶を呼び起こそうにも、まったくもって思い出せない。


 “前回”みたいなデジャヴを味わうことがあったり、この3日間より過去の出来事なら難なく思い出せたりするのに。


「試してみようか?」


「なに言ってるの! 絶対だめだよ!」


 慌ててそう言った。


 答えを得る上ではそれがいいのかもしれない。

 けれど、いくら巻き戻るとはいえ、自分の命を粗末にしすぎだ。


「でもよ、(らち)明かねぇだろ。三澄だって分かってねぇんだろ? これじゃずっと憶測のままだ」


「でも……」


 だからって気軽に試せるものじゃない。


 次に巻き戻ったときには、わたしもすべて忘れているかもしれないんだ。


 向坂くんのことも、理人の危険性も、覚えていられる保証はどこにもない。

 そしたら、何もかもが振り出しに戻る。


「……やっぱりだめだよ」


 忘れないでいられた今回を、大事にするべきだ。


 向坂くんにも、死ぬなんて言わないで欲しい。

 そんな選択をして欲しくない。


「ほかの可能性も考えてみよう」


「ほかっつってもなぁ……」


「たとえば……何か、特別なアイテムがあるのかも」


 ひとまず彼の気を逸らすべく口にした適当な推測だったけれど、意外なことに向坂くんが「それだ」と食いついた。


「えっ」


「記憶を失わずにいられる“何か”があるんだって。それを持ったまま死ねば、生き返っても忘れねぇ」


「それは……」


 どうだろう。

 何かそれらしいものを持っていたかな。


 わたしの記憶に残っている“最初の結末”は、帰り道に殺されるというものだった。


 そのとき身につけていたのは制服で、いまと変わらない。

 持ちものも普段通りの通学時の荷物。


 その次の結末は、向坂くんとともに階段の踊り場で殺された。


 格好も持ちものも同じで、特別なものなんて何も持っていなかった。


 向坂くんはどうだろう?

 尋ねようとして思い直した。彼は覚えていない。


「……ねぇ、向坂くんって何を持ち歩いてるの?」


「何、ってほどのもんもねぇけど」


 彼の制服のポケットから出てきたのはスマホと飴の包み紙だけだった。


 ほとんど空だというリュックには、教材以外はペンケースと財布、イヤホンが入っていた。


 きっと、殺されたあの日も同じようなものだったはずだ。

 やはり特別なものなんて何もない。


「んー、じゃあちがうのか。ま、俺とおまえじゃ持ちものも全然ちがうだろうしな」


「そうだね……。性別も性格もちがうし、共通点なんて────」


 困ったように髪に触れたとき、ふいにその左手を勢いよく掴まれた。


 驚いて向坂くんを見やると、彼自身も戸惑ったように瞳を揺らがせている。


「こ、向坂くん……? なに?」


「……これ」


 その視線をたどって、“これ”が腕時計を指していることに気がつく。


 淡いピンク色のベルトで、文字盤にきらきらとしたストーンが埋め込まれた腕時計。


 いつかの誕生日に理人がくれたもので、高校に上がってからは毎日身につけるのが習慣になっていた。


 向坂くんはそれを見つめたまま硬い声で呟く。


「見たことある、気がする」


 そう珍しいデザインではないけれど、わたしを知らなかった彼に見覚えがあるというのは確かに妙な話だった。


「……そのときは確か、ガラスにヒビが入ってて。針が逆に回ってたんだよ」


「え……?」


「けど、そんなのいつ見たんだ? わけ分かんねぇ」


 いま左手首にある腕時計にヒビは入っていないし、針も普通に回っている。


 向坂くん自身が戸惑っている通り、わたしにもどういうことなのか分からない。


 ────だけど、その感覚はわたしも味わったことがある。


 駅前にできたというケーキ屋の話。

 きっと、同じだ。


「それ、記憶かも」


「……前のループの?」


「そう! だから……たぶん、この腕時計が記憶の鍵なんだと思う」


「マジかよ」


 わたしの中で憶測はもう確信に変わっていた。

 覚えていられたときはすべて、これを身につけていたから。


 向坂くんの既視感はきっと、殺される間際の記憶なのだろう。


「腕時計をつけたまま死ねば、忘れない……」


「…………」


 理人に対する唯一のささやかな抵抗だ。


 確かめるように呟いたとき、立ち上がった向坂くんが手すりにもたれかかる。


「で? 動機は何か分かってんの?」


 それはどうにか“前回”掴むことができた。

 胸が締めつけられるような感覚にうつむきながら、小さな声で答える。


「理人は、わたしを好きだって……」


 言わば、歪んだ恋愛感情。


 それが、理人がどうしてわたしを殺すのか、という問いへの答えだった。


『……だって、ありえないでしょ。僕以外を好きになるなんて』


『え……』


『そんなの、許さない』


 あの(たぎ)るようで冷酷な瞳を思い返すと、背筋がぞくりと冷える。


 わたしの理人への“好き”と、理人のわたしへの“好き”。

 その齟齬(そご)が、方向性や種類のちがいが、わたしたちの歯車を狂わせたんだ。


 理人の中では、わたしはとっくに“幼なじみ”なんかじゃなくなっていた。


「なるほどな。まあ、独占欲が行き過ぎてるあいつのことだし、いまさら驚かねぇけど」


(でも、じゃあ────)


 彼の想いに応えれば、殺されずに済むのかな。

 だけど、そうしたらわたしの心はどうなるんだろう。


 行くあてもなく彷徨った想いを、どこに追いやって理人と接すればいいの?


「どうすればいいのかな……」


「……別に、いいんじゃね」


 ふと、向坂くんが投げやりに言った。

 よそを向いていた顔を戻してわたしを見下ろす。


「え……」


「それで殺されずに済むなら、付き合えば?」


 いままでの彼からは想像もつかないような冷たい言葉と態度だった。


 信じられない気持ちで彼を凝視する。


「あいつなら大事にしてくれんだろ。みんな言ってんじゃん、優しい“王子サマ”って」


 何よりもまずショックだった。

 心の中に落ちたインクが、じわ、と黒い染みを作っていく。


 思わず弱々しく立ち上がり、(すが)るような眼差しを向ける。


「何でそんなこと言うの……? 前は────」


「前なんて俺、知らねぇし」


 完全に突き放されて、言葉を失う。


 ここまでの話を踏まえても、どうしてそんなことが言えるのだろう。


 それ以前に、向坂くんにだけはそんなこと言われたくなかった。


「……っ」


 つい歪めた顔を髪で隠すようにうつむき、わたしは階段を駆け下りていった。


 滲んだ視界がゆらゆら揺れる。


 急に、どうしてだろう。

 つい先ほどまで、親身に話を聞いてくれていたのに。


 傷ついた心に不安が充満して、押し潰されそうになる。

 悲しんだり腹を立てたりする気力も湧かない。


 とてつもない孤独感に、飲み込まれていく。




     ◆




 彼女の足音が消えると、淡々と階段を下りた。

 鏡のある踊り場を過ぎると、潜む人影に声をかける。


「……これで満足か?」


 壁を背に立っていた理人は、ゆったりと微笑んで首を傾げた。


「何の話?」


 余裕を崩さなかったものの、内心の苛立ちが垣間(かいま)見える。


 話を聞かれていたかもしれない。

 焦ったものの、表には出さないよう努める。


 散々勝手な行動に出ておいて、涼しげな態度の理人を目の当たりにしていると、感情が(くすぶ)ってうんざりした。


「……おまえの本性には吐き気がする」


 エゴを優先し、自分の理想のためだけに菜乃を殺害しているという事実。


 彼女を独占するために、あえて孤立するよう仕向けているという汚さ。


 以前、わざわざ人前で必要以上に菜乃に構うところを仁も目にしたことがある。

 だからこそ恋人だと思ったわけだけれど。


 彼女を目の(かたき)にしている女子たちの反感を煽ること請け合いだろう。


(だから、友だちいねぇんだろ?)


 だから、ひとりぼっちなのだ。


 菜乃が人間関係を構築していくことを理人がとことん妨害して、ひとりになるよう仕向けているから。


 周りを固めて、選択肢を奪って、孤独な彼女に自分だけが寄り添っていたいのだろう。


 そうすることで、菜乃を自分に依存させている。


「縛りつけられてる花宮が可哀想だ」


 は、と息をつくように理人は笑う。


「どこが? 僕の想いは純愛だよ」


「ただの自己満足だろうが」


 ここまで独りよがりで凶暴な“純愛”があってたまるか、と思った。明らかに度が過ぎている。


 怯まず返すと、悠然と瞬いた理人が笑みを消す。

 うっとうしそうに目を細めた。


「……これ以上関わるなら、きみのこと()殺すよ」


 菜乃を殺すことはもはや前提のようだ。

 既にこの世界線のことは諦めているのかもしれない。


 けれど、そういう脅しなら話は単純だ。

 ただ、自分が菜乃に近づかなければ、距離を置けばいいだけ。


 どんな形であれ、こじれてしまうのなら────。


「……言われなくてもな。巻き込まれて迷惑なんだよ」


 冷たく言い残すと背を向ける。


 関わらないことで、彼女を救えるのだろうか。

 いまはそう信じるしかない。




     ◇




 昼休みになると、理人が姿を現した。


 殺しの動機を知ってから会うのは初めてで、何だかどう接するべきか迷ってしまう。


「菜乃」


 彼は彼で、いままでと何ら変わらない態度だった。


「お昼、一緒に食べよう」


「えっ」


(あ、しまった)


 慌てて口元を覆う。

 理人が今日クラス委員の集まりに行くことは、本来ならまだ知らないはずなのに。


「……嫌だった?」


「あ、ううん。ちがうの」


 不安気に眉を下げる理人に、慌てて首を横に振る。


「よかった。集まりがあるから、それが終わってからになるけど」


 ほっとした。特に疑われてはいないようだ。


(また、鎌をかけたわけじゃないよね?)


 今朝のことがあって“前回”よりも圧倒的に冷静ではなかった。


 いまのわたしに、理人と駆け引きをする気力なんてない。


「分かった、待ってるね」


「ありがとう」


 理人はどこか嬉しそうに柔らかく笑った。

 今回の彼は、随分と余裕そうだ。


 少なくとも、意図と記憶を持って動いているのは間違いない。


 教室を出ていく彼を見送ると、深く重たいため息をついた。


(向坂くん……)


 正直、一番気がかりなのは彼のことだ。

 どうしてあんなふうに態度が急変してしまったのだろう。


 わたしに残ったのは、理人との虚構(きょこう)の日々だけ。


 彼に殺されるまでの秒読みは、既に始まっている。


(……嫌だな、もう。疲れちゃった)


 ────こんな世界なら、いらない。

 ループに閉じ込められてから、初めて諦めたくなった。


 向坂くんを失った上、理人の顔色を窺いながら、望まない関係を受け入れなくちゃならないのかな。


 もし、それで生き延びてループから抜け出せたとしても、その先は辛く苦しいだけだ。


(そっか……)


 いま、初めて自覚した。

 わたしはただ死にたくないだけじゃなかった。


 “変えたい”と強く思った。

 残酷な結末と、それを取り巻くわたしたちの関係性。


 決して交わらない理人の想いとわたしの想いを、押し殺さなくてもたどり着けるハッピーエンドを願っている。


(やっぱり、諦められない)


 これまでで一番辛い3日間になったとしても。


 これまで知らなかったことを知っているのだから、取れる選択肢の幅も広がったはずだ。


 図らずもないがしろにしていた理人の気持ちに、まずは真剣に向き合ってみよう。




     ◇




 余裕を持って支度を整え、朝食を済ませると門の前で理人を待った。


 曲がり角から姿を現した彼は、既に準備を終えていたわたしを見るなり一瞬表情を硬くした。


「……菜乃」


 記憶を有していた過去のわたしと重ねているにちがいない。

 理人はいつを思い出しているのだろう。


「おはよう」


 わたしは笑ってみせた。

 抑え込むまでもなく、恐怖心は湧いてこない。


 目を逸らさないと決めたのだ。理人から、そして現実から。


「……おはよう」


 珍しく、彼の笑顔がぎこちない。

 吹っ切れたからか、むしろわたしには余裕が生まれていた。


 今回は、駆け引きも腹の探り合いもするつもりはない。


「今日はお昼一緒に食べられる?」


 分かっているけれど、あえて尋ねた。


「うん、もちろん。いつも通り菜乃のとこ行くね」


 予想通りの返答に笑い返して頷いた。


 風がそよいで、一拍、沈黙が流れる。


「菜乃は……」


 ふと、不安気な声色で切り出した理人が足を止める。

 立ち止まって振り向くと、揺らぐ双眸(そうぼう)に捕まる。


「僕が怖くないの?」


 驚いてしまう。

 今回の彼は意外なことにストレートだった。


 まったく怖くない、と言えば嘘になるけれど、いまはそれほど抵抗感がない。


「……怖いよ、ちょっとだけね」


 そう苦笑すると、理人は少し驚いたように、あるいは気圧(けお)されたように目を見張った。


「でも、それ以上に知りたいの。理人のこと、もっとちゃんと」


「僕のこと……?」


「うん、そう。長いこと一緒に過ごしてきたけど、まだ知らないことがいっぱいあるなぁって気づいて」


 それは、理人に殺されるたびに思っていたことだった。


 いつも最期に、わたしの知らない顔をする彼。

 そこに含まれていたのは、わたしの知らない彼の想い。


 だからこそ今回は、そのすべてを知ってから殺されたいと思うのだ。


「じゃあさ……明日、僕の家においでよ」


 どきりとした。さすがに怯んでしまう。


 “明日”と指定したことにも、逃げ場のない理人の家という場所にも。

 萎んでいたはずの恐怖心がじわじわと膨らんでいく。


 怖い。けれど、知りたい。

 知らなくちゃいけない。逃げたくない。


「……いいの? 行きたい」


 そう答えると、彼は穏やかに微笑んだ。


「よかった、じゃあ明日の放課後だね。楽しみだな」


 理人の家なんて、いつ以来だろう。

 小学4年生のときが最後だっただろうか。


 何だか懐かしくなって、ふと尋ねる。


「伯母さん、元気?」


「元気だよ。でも、仕事があるから明日は会えないと思うけど」


「そっか……。残念、久しぶりに会いたかったなぁ」


「伝えておくよ。きっと喜ぶ」


 そう言う理人も嬉しそうに笑った。

 伯母さんとの仲は、昔から変わらないみたいだ。


『菜乃ちゃん、いらっしゃい』


 彼の母親代わりとなった伯母さんは、遊びにいくといつもそんなふうに笑顔で迎えてくれた。


 明るくて華やかな雰囲気ながら親しみやすくて、優しくて、少しだけ強引な人だった。


『今日もかわいいわね。大きくなったら理人と結婚で決まり! ね?』


 わたしのこともとても大事に扱ってくれたけれど、口を開けばそう言っていた気がする。

 甘酸っぱい思い出に思わず苦笑した。


 会えないのは残念だけれど、わたしが殺される凄惨(せいさん)な現場に居合わせないで済むのなら、その方がいい。




 部屋のカーテンを閉める。

 窓の外はとっぷりと夜に浸かっていた。


 今日は一度も、あの場所には近づかなかった。


 なるべく向坂くんのことを頭から追い出して、理人とのことに集中しようと思った。


 そうして、改めて気がついた────理人の優しさに。


『ついてるよ、ここ』


 一緒に昼食をとった昼休み、そう笑いながら彼はわたしの唇の端を拭ってくれた。


 靴を履き替えるときには、差し伸べた手を当たり前のように貸してくれる。

 道を歩くときには、必ず外側を歩いて歩調を合わせてくれる。


 挙げればきりがないほど、本当に優しかった。


 いつだってそうなのだけれど、その優しさはわたしが幼なじみだからだと思っていた。


 でも、その気持ちを知ってからは、それだけじゃないのだと自覚するのに十分すぎるほど甘くて、意識がまるごと傾いた。


(わたし、すごく理人に大事にされてた)


 自分が卑屈(ひくつ)になっていただけで、とっくに理人の“お姫さま”になっていたんだ。


 いままでずっと、無意識のうちに取りこぼしてきた“好き”の欠片を、ひとつひとつ丁寧に拾い上げたいと思った。


 たとえ応えられなくても、ちゃんと向き合いたい。




     ◇




 放課後まではあっという間だった。


 4月30日────つい、今日の日付を何度も確かめてしまう。

 いまのところはそれくらい平穏だ。


 理人と帰路について、いつもとちがう道を歩く。

 彼の家に近づいていく。


「誘っておいて何だけど、別に何もないからね?」


 少しだけ照れくさそうな理人に、小さく笑ってしまう。


「あるよ、理人の家にはいろんな思い出が。この道だって、既に懐かしいよ」


「それは確かにそうだね。菜乃とふたりで歩くのは久しぶりだな」


 そのうち、白いレンガ造りの小さな一軒家が見えてくる。


 洋風の造りと手入れの行き届いた庭がかわいらしくて、昔は「お城みたい」なんてはしゃいでいた。


 お洒落な鉄製の門を潜ると、ふと庭の花壇が目に入った。


 スイートピーはもう咲いていなかったけれど、別の花々が風に揺れている。


「……花壇は、いまも理人が?」


「うん、基本的には」


「そっか、綺麗だね。スイートピーの咲く頃に来たかったなぁ」


「また来なよ」


 理人は何でもないことのように言い、鍵を開けて玄関のドアを引いた。


(“また”……か)


 このループする3日間を抜け出さないことには、永遠に訪れない。


 それ以前に今日、わたしは紛れもなく彼の手によって殺されるのに。


「……そうだね。お邪魔します」


 曖昧に笑うと、玄関の中へ入った。


 ふわりといいにおいがする。

 紅茶みたいに甘くて懐かしい、理人のにおいだ。


「先に僕の部屋行ってて。飲みもの持ってくよ」


「あ、ううん。手伝う」


 彼の家はリビングとキッチンがひとつの空間にある。


 理人に続いてキッチンに回ると、彼の取り出したカップとお茶の入った魔法瓶をトレーに載せる。


「林檎でも切ろうか」


 テーブルの上に置いてあったバスケットに、赤く()れた林檎が重なっている。


「じゃあ、お願い」


 そう答えると、微笑んだ彼は引き出しから包丁を取り出した。


 リビングに進んだわたしは、何気なく部屋を見回す。


「昔に戻ったみたい」


「そうだね」


 理人が木製のまな板の上に林檎を置いた。


「覚えてる? 伯母さん、わたしが来るといつも────」


「“大きくなったら結婚”……ってやつ?」


 先んじて言うと、こと、と彼は静かに包丁を置く。

 カウンターの向こうにいるわたしをまっすぐに見つめた。


「僕は本気だよ」


 レースのカーテン越しに窓から射し込む柔らかい光で、理人の髪が透き通っていた。


 その眼差しは真剣そのもので、少しも揺らがない。


「いまもそう思ってる」


 かち、こち、と秒針が時を刻み込む音だけが場を支配する。

 わたしは理人から目を逸らせなくなった。


「菜乃」


 キッチンから出てきた彼は、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。


 心臓がどきどきした。

 鼓動が速まって、何だか胸が苦しい。


「好きだよ」


 ────分かっていた、はずだった。


 それなのに、理人の焼き菓子みたいな甘い声に心が揺さぶられる。


 愛おしげな眼差しはいつもと同じで、それだけに悟る。


 いつもいつも、理人はわたしに伝えてくれていたんだ。

 あふれんばかりの好きだって想いを。


「理人……」


 背中に手を添えられ、そのまま引き寄せられる。

 ふわりと包み込むように抱き締められた。


「小さい頃からずっと好きだった。僕には菜乃しかいないんだ」


 ぎゅう、と抱きすくめられる。

 熱っぽくて、それでいて切なげな声色。


(わたし、知らなかったよ……)


 こんなにも強く想われていたなんて。


 自分の無神経さが申し訳なくて心苦しい。


 幼なじみだという認識は、わたしが傷つかないための予防線だったんだ。

 そのせいで彼の気持ちにも気づけなかった。


 ────でも。


(やっぱり、わたしは……)


 理人とは、幼なじみなんだ。

 彼のような“好き”には、どうしたって変化しない。


「……ごめん、理人。わたし────」


「だからさ、菜乃」


 彼は遮って言う。

 ばっと離れると、勢いよくわたしの両肩を掴んだ。


「僕と一緒に死のう」


 一瞬、何を言われたのか分からなかった。


「え……?」


「この世界を終わらせるんだ」


 理人は嬉々として、再びカウンターの向こうへ回った。


 林檎のそばに置いていた包丁を手に取り、こちら側へ戻ってくる。


「ちょっと、待って」


「分かってるよ。菜乃は僕の想いに応えられないんでしょ? あいつが好きだから」


 足がすくむ。心臓が嫌なふうに収縮している。

 強張った頬から血の気が引いていくのが分かった。


「今回のきみはいい子だったね。僕に嘘をつかなかった」


「理人……」


「でも、僕に何されたか覚えていながら、ここへのこのこついてきたんでしょ?」


 彼が包丁の刃を指先でなぞった。


「諦めたってこと? それとも、僕に殺されることを望んでるの?」


「そんなわけない……!」


「へぇ、そう。じゃあどうして?」


 理人は首を傾げる。

 色も温度もないその瞳を見るのは、何度目だろう。


「……ここへ来れば、わたしの知らない理人のことが分かると思って」


「ああ、それ口実じゃなかったんだ?」


 彼は冷たくせせら笑う。


 期待したわたしが浅はかだった。


 ちゃんと話せば分かってもらえるかも、なんて。

 わたしの口から本心を告げれば伝わるかも、なんて。


 わたしの理人に対する気持ち、向坂くんへの想い、理人に頼らず“頑張りたい”って覚悟────。


「理人に分かって欲しかった」


 じわ、と涙が滲んだ。

 いまの彼に届くはずがないのに。


「……分かってないのは菜乃の方だよ」


 短い沈黙が破られる。

 不興そうに低めた声が鼓膜を揺らす。


「わたしが、分かってない……?」


「そうでしょ? だって、菜乃は僕のものなんだから」


「何を……」


「僕さえいれば十分なのに、何で分かってくれないかなぁ。どうしてあいつを選ぶの? どうして、僕を好きになってくれないの?」


 彼は責めるように言い、眉頭に力を込めた。


「いつも。いつも……いつもいつもいつも!」


 すっかり気圧(けお)されたわたしの瞳は、きっと不安定に揺らいでいると思う。

 落ち着かない呼吸が震えた。


「こんなに菜乃のことが好きなのに」


 いまさら怖気(おじけ)づいてしまい、逃げるように一歩あとずさる。


「昔からずっと、僕は菜乃だけを見てきたんだよ。菜乃だけを想ってきた。ずっと隣にいるために、菜乃が僕だけを頼ってくれるように、いろんなことをした」


「どういう、意味……?」


 理人は包丁片手に柔らかく微笑む。


「でも、もうおしまい。今回の……いや、ここ数回のきみとはお別れだ」


 妙な言い方だった。

 まるで、次に目覚めたときには何も覚えていられないような────。


「!」


 はっと息をのんだ。

 もしかしたら、理人も記憶の法則に気づいたのかもしれない。


「大丈夫、ひとりぼっちにはしないよ。僕も一緒に死ぬから」


 わたしが死にさえすれば、理人が生きていても死んでいても関係ないのだろう。


「少しだけ我慢してね。一瞬で終わらせてあげるから」


「いや……っ」


 すくんだ足を必死で動かし、背を向けて駆け出そうとした。

 けれど、髪を掴まれてバランスを崩す。


 逃れるようにもがくうち、どす、と身体に熱い衝撃が走った。


 熱いのに、沈み込んだ冷たい金属の感触を感じる。

 その数秒後、思い出したように激痛が訪れた。


「逃げると辛いのが長引くよ?」


「ぅ、あ……っ」


 背中に突き立てられていた包丁が抜かれると、(ひるがえ)った血飛沫が壁に飛んだ。


 あふれた血が制服に染みを作り、床に血溜まりが広がる。

 力が抜けて、どさりと崩れ落ちた。


「……っ」


 痛い。

 痛い痛い痛い痛い……!


 ずきずき、じくじく、波動が響いていくように疼く。


(やだ、嫌だ。死にたくない……)


 逃げるように床を這った。

 屈んだ理人は、わたしを仰向けにして馬乗りになる。


「いいね、その表情(かお)。何度見ても飽きないよ」


 そう言ってわたしを見下ろす彼の顔は、恍惚(こうこつ)と酔いしれるようだった。


 べったりと血に濡れた手で頬を撫でられる。

 ぬる、と生あたたかくて気持ちが悪い。


「う……っ」


 呼吸が浅くなり、ひどく苦しかった。


 どろりと生ぬるい血が背中からあふれていくのが分かる。


「言い残したことがあるなら聞くよ、菜乃」


 視界が歪んで理人の顔がぼやける。

 もう、声も出せない。


(向坂くん……)


 何より怖いのは、殺されることそのものより、忘れてしまうことだ。


 怖くてたまらない。忘れたくない。

 つ、と涙が伝い落ちた。


「……ごめんね、意地悪だったね。いま、楽にしてあげる」


 わたしの涙を見た理人が包丁を振り上げたのが、ぼんやりと霞んで見えた。


(……何で、こうなっちゃうんだろう)


 どうして、うまくいかないんだろう。


 最初から、わたしたちにハッピーエンドなんてないのかもしれない。


 こんな苦しみが延々と続くなら、もういっそのこと────。


(ううん、だめ。やっぱり諦めたくない……)


 早く、巻き戻って。

 やり直させて。


 次は、次こそは失敗しない。




     ◆




 こと切れた菜乃を見下ろして、はっと立ち上がった。


 思わずあとずさる。

 握り締めていた包丁を、怯んだように放り捨てた。


「菜乃……」


 ()()、だ。


 血まみれの手で頭を抱える。

 また、同じことを繰り返した。


(これで、何度目だ……?)


 自分自身に嫌気がさすも、頭は冷静に澄んでいた。


 横たわっている菜乃の傍らに屈むと、左手をそっと掴む。


「!」


 ぴくりとその指先が動いた。


 まだ、生きている。

 意識はないし、もう助からないだろうけれど。


 腕時計を外すと、強く握り締める。


『ありがとう、大事にするね……!』


 2年前の彼女の誕生日にプレゼントとして渡したとき、心から嬉しそうに言ってくれた。


 ────幸せだったはずの記憶が、褪せてひび割れていく。

 世界が朽ちて、枯れていく。


 床に膝をつくと、再び包丁を手に取った。


「……また会おうね、菜乃」


 そっと、色を失った唇に口づけた。


 毒林檎を食べたあとなら、あるいは目覚めてくれただろうか。


(なんてね……)


 握り直した包丁を、迷わず自身の心臓に突き立てた。




     ◇




 ────長い長い、悪夢を見ていたような気がする。


 ふいにけたたましい音が聞こえた。


「ん……」


 夢から(うつつ)へ、意識が明瞭化していくと、それはアラームの音だと気がついた。


 何だか頭が痛い。

 鳴り響くアラームがそれを助長させる。


 画面をタップして停止すると、ロック画面を見た。

 4月28日。午前7時半。


(もう少し……)


 再びうつらうつらとしたとき、今度は着信音が鳴った。

 布団から手を伸ばして応答する。


『菜乃、おはよう。起きてる?』


「理人……。起きてるよ」


『どうせまだベッドにいるんでしょ』


 からかうように笑う理人。


 どうして分かったんだろう、なんて思いながらあくびをする。


「理人が来るまで寝てる……」


『だーめ。遅刻するよ? 僕もう家出たから、そろそろ準備して』


「はーい……」


 気のない返事を返しつつ通話を終えると、ごろんと寝返りをうった。


 ぼんやり眠たくて、うとうと目を閉じてしまう────。




「……の、菜乃」


「ん……?」


「起きて、菜乃」


 うっすら目を開けると、ベッドの傍らに理人が屈み込んでいた。


 夢の終わり頃に遠く聞こえた彼の声は、幻聴ではなかったみたいだ。

 はっと慌てて起き上がる。


「菜乃を起こしてっておばさんに頼まれたんだけど、ノックしても反応なくて……。勝手に入ってごめんね」


「う、ううん。わたしこそ二度寝しちゃって……」


「そうみたいだね。じゃあ、外で待ってるから」


 気恥ずかしいやら申し訳ないやらで慌てると、くすりと笑った彼が部屋を出ていく。


 大急ぎで準備を整えて、最後に腕時計をつけようとしたけれど見当たらなかった。


「あれ?」


 いつもは机の上に置いているそれが消えている。

 手近なところや制服のポケットなんかを探ってみたけれど、どこにもなかった。


 時間もないし、理人を待たせるのも忍びなくて、仕方なく一旦諦めると家を出た。


「待たせちゃってごめんね、理人!」


「全然大丈夫だよ。……むしろ、ちょうどよかった。確信もできたことだしね」


「え?」


「ううん、何でもない。行こうか」


 何だかいつもより嬉しそうに見えた。

 いいことでもあったのかな。


「そうだ。わたしの腕時計、見なかった?」


「……さあ? 知らないけど」


「そっか……。どうしよう、理人がくれたやつなのになくしちゃったかも」


「そんなの気にしないで。今年の誕生日にまた新しいの贈るから」


 落胆から気落ちするわたしに、微笑んだ彼が優しく言ってくれた。


「ありがとう……」


 やわく告げる。

 悲しいけれど諦めて、理人の言うように割りきるしかなさそうだ


 ────それから他愛もない会話を交わす傍ら、ふと今朝見た夢のことを思い出していた。


 はっきりとは覚えていないけれど、誰かに殺される悪夢だった。


 痛くて、苦しくて、あまりに生々しかったから忘れられない。


「どうかした?」


「あ、ううん。大丈夫」


 とっさに首を横に振っていて、そんな自分に困惑した。


 いつもだったら絶対、理人に話すはずなのに思い留まってしまった。


(理人じゃなくて、────くんに話して……)


 そこまで考えて、はっとした。

 ぴたりと足が止まる。


(誰……?)


 わたしはいま、誰のことを思い浮かべたのだろう。


 分からない。戸惑って、うろたえてしまう。

 確かに浮かんだのに、その名前も顔も思い出せない。


「菜乃?」


 顔を上げると、心配そうな表情の理人が振り返っていた。


「本当に大丈夫? 何か顔色悪いみたいだけど」


「え、あ、大丈夫! 全然平気だよ」


 このこともなぜか話す気にはなれなくて、曖昧に笑って誤魔化した。




「ごめん、菜乃。今日クラス委員の集まりがあるから、お昼先に食べてて」


 昼休み、わたしのもとへ来た理人は申し訳なさそうに言った。


 当たり前のように一緒に食べられると思っていたから、受けたショックを隠しきれない。


「そっか……。分かった」


「待ってて、すぐ戻ってくるから」


 ふわりと微笑み、優しく頭を撫でられる。


 周囲の女の子たちの視線が刺さったけれど、気づかないふりをして(もろ)い心を必死に守った。

 わたしには、理人さえいれば十分だ。


 ────彼を見送ると、机の上にランチバッグを置く。


「……っ」


 ずき、と頭痛がして、支えるように額を押さえた。


 頭の中に断片的な映像が流れ込んでくる。

 黒い(もや)がかかったみたいに不鮮明だ。


(なに……?)


 ひときわ目立つ赤い血溜まりが瞼の裏を焼く。


 疼く背中と、冷たい金属の感触。

 力が入らなくて、息が苦しくて、だんだん身体が動かなくなっていく絶望感。


「!」


 思い出した。

 これは、今朝見た夢だ。


「────花宮」


 ふいに呼びかけられて、はたと現実に返る。

 少しずつ頭痛の波が引いていった。


「あ……」


 見上げた先には、不良っぽい雰囲気の見知らぬ男子がいた。


 黒髪と、光るピアスと、意思の強そうな真っ黒な瞳。

 いまはそこに案ずるような色が滲んでいる。


(……何でだろう?)


 知らないはずなのに何だかすごくほっとして、身体の強張りがほどけていく。


「向坂くん」


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