第2話 綺想ノスタルジー
屋上へと続く階段を上ったけれど、いつもの場所に向坂くんの姿はなかった。
腕時計を見ると、本鈴まであと30分もある。
さすがにまだ来ていないのかもしれない。
3階へ下りてB組の教室を覗いてみるも、やはり彼の姿はなかった。
「見て、珍しくひとりだよ」
「とうとう王子に捨てられたのかな? “灰かぶり姫”は」
B組の教室内にいた女子数人が、わたしを見てささやき合った。
口元に浮かぶ意地悪な笑みと、嫌味にあふれたその声色から、あえて聞こえるように言っているのだと分かる。
「…………」
思わず一歩、あとずさった。
言い返すことはおろか、目を合わせることもできない。
何も悪いことなんてしていないのに、込み上げてきた後ろめたさがわたしの気を挫く。
逃げるようにもう一歩あとずさると、とん、と誰かの手が優しく両肩に添えられる。
「理人……」
「おはよう。今日はどうしたの?」
少し戸惑いを滲ませながらも、いつもの柔和な微笑みをたたえている。
「メッセージも未読だし、家に行ったら“もう出た”って言われて」
そういえば、そうだった。
通知で見ただけで、開くのも返信するのもすっかり忘れていた。
それどころじゃなかった。
漠然と存在を増していく違和感の全貌が掴めず、ただただ何かを恐れていて。
声が出なかった。
心臓がばくばくと高鳴って、冷えた指の先から全身が震える。
「……菜乃?」
血の気が引いていくのが分かる。
目の前にいる優しい理人が、夢の中の恐ろしい彼と重なって────。
「……っ」
とっさにきびすを返し、駆け出した。
「菜乃!」
驚いたように呼び止められるも、振り向かないで逃げる。
彼を振りきるように、懸命に廊下を駆け抜けた。
(何だろう、これ……?)
理人が現れたとき、いつもならすごくほっとするはずなのに。
「おわっ」
駆け下りた階段の踊り場で、ちょうど上ってきた誰かとぶつかりそうになる。
いまのわたしは、周りのことなんてまったく見えていなかった。
「ごめんなさい……っ」
慌てて謝ってそのまま通り過ぎようとしたものの、ふいに腕を掴まれた。
はっとして振り返る。
理人に追いつかれたのかと思ったけれど、幸い彼は追ってきていなかった。
「おい、大丈夫か? 泣いてんの?」
「向坂くん……!」
そう言われるまで、相手が彼だったことにも涙が浮かんでいたことにも気がつかなかった。
寒さにかじかんだようだった心が、ふわりとほどけていく。
何だかすごくほっとした。
「よかった、本当に。向坂くんのこと捜してたの。もう、何が何だか分かんなくて、わたし────」
「ちょっと待て。その前に……おまえ、誰?」
「え……?」
冗談を言っているとは思えなかった。
それくらいに真面目な表情をしていたし、何よりそんな無神経な冗談、彼が言うはずもない。
滲んでいた涙がみるみるおさまって、潮が引くみたいに体温が下がっていく。
「わたしだよ、花宮菜乃。忘れちゃったの……?」
そんなわけがない、と思いながらも訴えかけるようにその黒い双眸を覗き込む。
向坂くんは少し困惑したようにわたしを見返し、やがてゆっくりと首を左右に振った。
知らない、と言うように。
声をかけてくれたのは、わたしがあまりにもただならぬ雰囲気を醸し出していたからだったのかもしれない。
「…………」
開いた口が塞がらなかった。
揺らいだ瞳は瞬きすら忘れていた。
────ますます、わけが分からない。
向坂くんとは友だちになったはずだった。
わたしは確かに彼を知っている。
まさか、それも夢だったと言うの?
「何かよく分かんねぇけど、俺に用でもあんの?」
「……いい、大丈夫」
「なわけねぇだろ。行くぞ、場所変えようぜ」
流されるような形で連れていかれた先は、やはりあの階段だった。
(……ほら、知ってた)
わたしは確かにここで彼と出会ったはずなのだ。
「で、何か話でもあんの?」
話したいことはたくさんある、と思っていたのに、何から伝えればいいのか分からない。
知っているはずなのに知らない人みたいないまの向坂くんは、どのくらい真剣に向き合ってくれるんだろう。
「……わたし、夢を見てたの」
そう切り出すと、彼は「夢?」と繰り返した。
「その中では、わたしと向坂くんは友だちなの。わたし、理人に甘えてだめだめだったけど、向坂くんのお陰で“変わりたい”って思えた。頑張ってた。それで────」
勇気と自信と優しさをくれる彼のことを、好きになった。
このことは、さすがに言えないけれど。
「それで?」
「……理人に打ち明けたの、ぜんぶ。自分の気持ちとか覚悟とか。そしたら、わたし……彼に殺された」
はっきりと覚えている。
狂気じみた理人の微笑みと言葉。
『また、すぐに会えるから』
はっきりと残っている。
締め上げられた首や腕の痛みと息苦しさ。
「予知夢、なのかな……?」
わたしが彼に殺される結末を避けるために、神さまが見せてくれた“未来”なのかもしれない。
「…………」
しばらく沈黙が続いた。
いきなり見ず知らずの人にこんな突拍子もない話をされたら、当然困惑するだろう。
変な奴だと思われたかもしれない。
聞かれたからって、どうして正直に話しちゃったんだろう。
だんだんと後悔の感情がせめぎ合い始めると、長い長い静寂を彼は破った。
「────夢じゃねぇかも」
静かに言われた言葉を受け止めながらも、内心惑ってしまう。
「え……」
「何かあんじゃん、そういうの。死んだら時間が巻き戻る、みたいな。何つったっけ? “死に戻り”?」
その真剣さを測るように、わたしは彼の目を見た。
いずれにしてもそれは、わたしにはない発想だった。
「……わたしが死ぬと、殺される2日前にタイムリープするってこと?」
「ああ」
「そんなのありえるの? そんな、非現実的なこと────」
混乱を禁じ得ないでいる中、向坂くんは冷静な様子で段差に腰を下ろす。
「いや、分かんねぇけど。そう考えた方が色々と納得できんじゃね?」
予知夢ではなく、死に返るタイムリープ。
理人に殺されたのは夢じゃなくて、わたしが実際にこの身で経験したこと。
そう解釈すれば、今日抱いた違和感の数々に、確かに合点がいくかもしれない。
「殺されたんだ、本当に……」
呟いた声は小さく掠れた。
にわかには信じられない。
この不可思議なタイムリープも、理人に殺されたという事実も。
(────でも、どうして?)
どうして、あの理人がわたしを殺すんだろう。
いつだって支えてくれた、 ずっと味方でいてくれた、優しい理人がどうして?
「理由に心当たりねぇの?」
「……ない、分かんない」
ふるふると首を左右に振った。
“殺す”なんて、どう考えても普通じゃない。
そんな最悪の選択をさせるようなきっかけを、わたしが与えてしまったのだろうか。
「……まあ、とりあえずいまは教室戻れ。三澄に怪しまれるかもしんねぇし」
そうしたら、死を早めることになるかもしれない。
戸惑いと動揺をどうにか抑え込み、こくりと頷いた。
「昼休みにまた来るね」
「来れんの? あいつは?」
「理人は今日、クラス委員の集まりがあるから」
“前回”の彼は確かにそう言っていた。
時間が巻き戻ったのなら、今回だって同じはず。
向坂くんと別れると、足早に教室へ戻った。
彼がわたしの話を全面的に信じてくれたのかどうかは分からない。
どれほど真剣に受け止め、考えてくれたのかも分からない。
それでも、いまのわたしが頼れるのは向坂くんしかいない。
────まったく同じだった。
朝のホームルームも、授業の内容も、当てられる人も、出される問題とその答えも、それ以外も何から何まで。
既視感どころじゃない。
(本当に夢じゃなかったんだ)
2日前に巻き戻るということは、それだけの猶予があれば、結末を変えられるということなのだろうか。
休み時間、教科書やノートを片付けていると、誰かの手がそっと天板に載せられた。
「理人……」
未来を知ってしまったわたしは、彼の柔らかい笑みの奥に覗く、黒い影を探してしまう。
つい、怯えてしまう。
わたし、この人に殺されるんだ。
「菜乃、大丈夫?」
「え?」
「今日は何だか様子がちがうから」
どくん、と心臓が跳ねた。
(探られてる……?)
緊張と恐怖を必死に押しとどめ、曖昧に笑う。
「そうかな? ちょっと疲れてるのかも」
「無理しないで、僕を頼っていいんだよ」
「……ありがとう」
分からない。
わたし、うまく笑えてる? ちゃんと話せてる?
思い出そう。
以前までのわたしなら、理人に何て言うかな。
「そうだ、今日もお昼一緒に食べられる?」
意を決して口を開いた。
大丈夫、理人は断ってくれる。
そう思いながら尋ねるも、彼は嬉しそうに笑った。
「うん、もちろん」
(あれ……?)
おかしい。どうして?
今日は一緒に食べられない日のはずなのに。
思わず戸惑っていると、きょとんとした理人が首を傾げる。
「どうかした?」
「……ううん、何でもない」
思っていたのとちがって、ちぐはぐな展開になってしまった。
もやもやとしたものを抱えながら昼休みを迎える。
理人はどこか嬉しそうに、空いたわたしの前の席に座った。
「今日は遠回りして帰ろうか。駅前に新しくできたケーキ屋にでも寄らない?」
「……その、話」
思わず口をついてこぼれた。
“前回”の向坂くんと交わした会話がよぎる。
「その話、前にもしたことあったっけ……?」
窺うように尋ねると、理人の瞳が揺らいだ。
視線を彷徨わせてから「ああ……」と苦く笑う。
「ないかも」
本当に? 思わず食い下がりそうになって、慌てて飲み込む。
理人はこの“死に戻り”のことをどのくらい知っているんだろう。
わたしも知ったということは、隠した方がいいかもしれない。
彼にとって不都合なら、それだけで殺される理由になる。
「そう、だよね」
わたしは誤魔化すように笑う。
殺された理由が分からなくて、あらゆることにびくびくしてしまう。
一挙一動、一言一句が、彼の箍を外してしまうきっかけになったかもしれないのだ。
「あ、いたいた。三澄くん」
そのとき、教室の戸枠の方からそんな声がした。
ひとりの女子生徒が立っている。
「今日はクラス委員の集まりがあるって聞いてなかった?」
「ああ、忘れてた。いま行くよ、ごめんね」
理人は申し訳なさそうに苦笑しながら席を立った。
やはり、集まり自体は今日あったのだ。
「菜乃、ごめん。すぐ戻るからここで待ってて。どこにも行かないでね」
「う、うん……」
念押しするような彼に手を振り返し、姿が見えなくなるまで目で追った。
ひとりになると、深々と息をつく。
何だか、ものすごく疲れた。神経が摩耗する。
「…………」
“忘れてた”なんて、そんなわけがない。
完璧な理人に限ってありえない。
(わざと……?)
集まりを忘れたふりをして、あえてわたしと一緒にいようとしたのかもしれない。
“前回”はそんなことしなかったのに、どうしてなんだろう。
思い返してみる。
前の4月28日にあった出来事────。
わたしには中庭で食べることを勧めて、理人は集まりに向かった。
結果的にそれを無視したわたしは偶然、向坂くんに出会った。
(……もしかして)
わたしを、向坂くんと出会わせたくなかった?
────周囲の人や出来事すべてが夢と、いや、わたしの“前回”の記憶と同じように回っていく中で、ちがうことをする人がいた。
ひとりはわたし。それは、戸惑いと混乱に振り回されてのことだった。
その延長で、結果的に向坂くんとの出会いや彼の行動も変わった。
もうひとりは理人だ。
彼だけはわたしに関係なく、自分の意思で“前回”とちがう行動をあえて取っている。
(覚えてるんだ)
わたしを殺したことも、それに至るまでの経緯も。
理人の目的は、いったい何なのだろう。
(どこにも行くな、って言われたけど……)
箸と弁当箱を置くと、そっと立ち上がった。
理人が戻ってくる前に、向坂くんに会いにいかなきゃ。
「花宮」
屋上へと続く最後の踊り場へ踏み込んだ瞬間、上から向坂くんの声が降ってきた。
傍らには空になったパンの袋がある。
「ごめん、遅くなっちゃった」
「別にいいって」
ぶっきらぼうに言う彼に促され、わたしも段差に腰を下ろした。
「で、どう? 何か分かったか?」
「えっと……。たぶん、っていうか絶対、理人は知ってる。わたしが死んだら時間が戻ること」
殺される間際の彼の台詞からしても、それは間違いないはずだ。
「なるほどな。おまえみたいに記憶もあんの?」
「分かんない。でも、少なくとも“前回”のことは覚えてると思う。理人だけがちがうことをするの」
まるで、同じ結末になることを避けるように。
「少なくとも、って……。これが初めてじゃねぇってことか?」
「え」
「三澄に殺されたこと」
そんな言い方をしたのは、完全に無意識だった。
でも、言われてみればありえないことでもない。
「そうかも……」
わたしは“前回”以前にも、理人に殺されたことがあるのかもしれない。
今回の向坂くんみたいに、記憶を失っただけで。
「何がちがうんだろう? 何でわたしや理人は覚えてて、向坂くんは覚えてないんだろう」
「さあな。ま、でも三澄が覚えてんのは当然じゃねぇか? あいつが作り出した“ループ”なんだろ」
ふと、彼が身を乗り出す。
「あいつはサイコ野郎で、おまえを何度も殺すために3日間を繰り返してんだよ」
「うーん……」
何だか、わたしにはあまりしっくり来ない。
「理人がわたしを殺すのに、理由なんてないってこと?」
「いや、あるにはあるだろ。血が好きだとか殺しが好きだとか、サイコなりのイカれた理由が」
だけど、もしそうだとしたら、別に殺す相手がわたしじゃなくてもいいはずだ。
可能性のひとつとしてはありうるかもしれないものの、それですべてを説明できるほどの説得力はないように感じた。
何かほかに理由があるのだと思う。
いまは分からないけれど。
「……何にしても、わたしが死んだら巻き戻るんだね」
死んでも、死なない。
それは逆に言えば、何度苦痛を味わうことになっても逃げ道がないということ。
「そうだな。……ループのトリガーは、おまえが三澄に殺されることか、おまえの死そのものか」
「……っ」
いまになって、また息苦しくなった。
喉元がひりついて、頭が痛い。
あと、何度繰り返すのだろう。
「おい、大丈夫か」
「……う、ん。平気」
そう答えたものの、情けなくも全身が震えていた。
怖くてたまらない。
何度繰り返したって、死なんて慣れるものじゃない。
いったい、何が理人を狂わせるの?
何が世界を壊すきっかけになっているの?
「……嘘つけ。どこが平気なんだよ」
そう言った向坂くんの真剣な双眸に捕まる。
「心配すんな、おまえは死なねぇ」
死に返るから、という意味だろうか。
たとえ戻ってこられるとしても、一度は死の苦痛を味わわなければならないのに。
「色々探ってみようぜ。ループについても、三澄についても」
「……うん」
「けど、なるべくあいつとふたりきりになるなよ。あんまあからさまに避けるのはまずいだろうけど、気をつけろ」
やっぱり、向坂くんは優しかった。
記憶を失ってもそれは変わらない。
わたしの気持ちも、変わらなかった。
「諦めんなよ、花宮。抜け道は絶対ある」
こく、と頷いた。
状況が目に見えてよくなったわけではないのに、向坂くんが味方でいてくれるというだけで、少し希望が持てた。
死に戻るループだって、絶望なんかじゃない。
結末を変えるための、やり直しの機会だ。
「ありがとう、向坂くん」
6限目が終わると、すぐに理人が現れた。
「帰ろう、菜乃」
「うん」
いまのところ、大丈夫なはずだ。
昼休みも彼が戻ってくるより先に戻れたし、失態は演じていない。
向坂くんのことも伝えていないし、言うつもりもない。
(……あれ?)
はたと思いつく。
もしや、理人の箍が外れる一因は向坂くん……?
わたしと出会わせないように動いていたわけだし、彼が関係している可能性はある。
理人も向坂くんも、お互いをよく思っていないのかもしれない。
「何食べる? 菜乃はやっぱり、苺?」
昇降口で靴を履き替えながら、おもむろに彼が言う。
言っていた通り、どうやらケーキ屋に行く気でいるみたいだ。
どうしよう。
正直、できれば理人といたくない。
死ぬとしたら2日後だろうけれど、自分を殺した相手と楽しく過ごしていられるほど図太くはない。
その点、理人はすごいものだ。
わたしを殺しておいて、何事もなかったかのように平然と優しい笑顔を浮かべて。
そうも平気でいられるものなのだろうか。
「……菜乃? ぼんやりしてるけど大丈夫?」
「あ、うん」
誤魔化すように笑う。
今日、何度目のぎこちない笑顔だろう。
結末を知ってからは、とても以前のようには振る舞えない。
「でも、ごめん。今日はまっすぐ帰らない?」
「僕は全然いいけど。じゃあ、寄り道は明日にしようか。菜乃も疲れてるみたいだし」
ひっそりと小さく息をつく。
「うん、ありがとう」
理人に怪しまれないようにしないと。
彼がこういう態度を取るということは、わたしに記憶があることを知らないはずだから。
きっと、悟られないようにした方がいい。
「そっちのクラスはどう?」
「だいぶ慣れたよ」
「友だちできた?」
「うーん……。わたしには理人しかいないから」
慎重に言葉を選んだ。
“友だち”というワードに“前回”のことがよぎったのだ。
『知らなかった。菜乃にそんな子がいたんだ?』
あのとき、理人はかなり過剰な反応を見せていた。
『よかった。菜乃に悪い虫がついたら心配だからね』
わたしに友だちがいる、ということにそれほど驚いたのか、いま思えば言葉の端々に出ていたような気がする。
ショックや拒絶、苛立ちのようなものが。
────もしかしたら彼は、いつまでもわたしをその手に留めておきたいのかもしれない。
自意識過剰な勘違いでなければ、そうなんだと思う。
これまではずっと、自分が理人のお荷物になっていると思っていた。
でも、そうじゃなかったら?
それが、理人の本意だったら?
考えもしなかったけれど、気づかない方が幸せだったかもしれない。
何も知らずにいた方が、理人の甘さに素直に溺れていられた。
それなら、わたしも殺されずに済んだのだろうか。
「そっか。でも、落ち込まなくていいよ。菜乃には僕がいれば十分なんだから。そうでしょ?」
満足そうに彼は微笑む。
背筋がぞくりと冷えて、撫でられた頭の先から凍りついていくような気がした。
◆
【ごめん、理人!】
【今日までの課題忘れてたから先行ってるね】
そんな菜乃からのメッセージを受け、スマホを伏せた。
嫌な予感がする。
“今回”の彼女はどこか変だ。昨日といい、今日といい。
僕を見つめる眼差しに、何だか怯えているような気配があった。
“理人”と呼ぶかわいらしい声も、どことなく緊張したように硬かった。
「もしかして……」
以前にも一度だけ、こんなことがあった。
彼女は忘れているだろうけれど、あからさまに僕を避け続けた3日間があった。
菜乃は、最期にこう言った。
────“もう、殺されるのは嫌”。
そのときの彼女には記憶があったのだ。
僕に殺された、という記憶が。
(まさか、今回もそうなのか?)
以前より避け方がやんわりとしているから、ほんの違和感程度しか抱かなかった。
誰かの入れ知恵だろうか。
誰か、なんてあいつしかいないけれど。
「向坂……」
昨日、出会ってしまったのだろうか。
昼休みのあの一瞬、目を離しただけで?
ふたりを引き合わせないよう、限界まで菜乃を見張っていたのに。
(……ちがうか)
彼女に記憶があるのなら、向坂のことを既に知っていたはずだ。
“前回”の菜乃は、彼に恋をした。
僕を頼れなくなったなら、真っ先に助けを求める相手だろう。
「ああ、また失敗か……」
ネクタイを締めながら自嘲するように笑う。
どうして、うまくいかないんだろう。
「……まあ、いいや」
歯車が狂ったら、ぜんぶ壊してしまえばいい。
何度だってやり直せばいいんだ。
理想通りの世界で、菜乃が僕だけを見てくれるまで。
◇
玄関のドアを開けたわたしは息をのんだ。
「おはよう」
門前に理人がいたのだ。
「何で……」
「今日は少し早くに目が覚めたんだ。だから、ちょうどよかった」
彼を避けるために嘘のメッセージを送ったのに、墓穴を掘ってしまったのだろうか。
いや、そうじゃない。
絶対、わざとだ。
朝からわたしを監視するために、強引に時間を合わせたんだ。
それ以前の“確認”かもしれない。
わたしが嘘をついていないかどうか。
理人を出し抜いて、向坂くんに会いにいったりしないかどうか。
「……そうなんだ。それなら一緒に行けるね」
青ざめて震えた本心を隠すように、ほっとしたような笑顔を作ってみせる。
「昼も一緒に食べられるよ。今日は邪魔が入ることもない。帰りは寄り道できるし、楽しみだな」
「…………」
目眩がした。
理人の無邪気な横顔が、わたしの心に暗い影を落とす。
勘違いじゃなかった。
彼は本当にわたしを縛りつけていたいのだ。
片時も手放さず、自分の手元に閉じ込めておきたいのだ。
あるいは気づかれてしまったのかもしれない。
わたしにも“前回”の記憶がある、ということに。
理人は本当に、一瞬の隙も与えてくれなかった。
休み時間には必ずわたしのもとへ来て、時間ぎりぎりに戻っていく。
向坂くんとコンタクトが取れないまま、とうとう昼休みになってしまった。
機嫌のよさそうな理人は、柔らかく微笑みながらわたしの前の席に腰を下ろす。
「何か、嬉しそうだね」
思わず声をかけると、顔を上げた彼はとろけるほど甘く笑った。
「今日はうまくいってるから。僕の大事なものが奪われることなく……ね」
ふいにその顔に浮かんだ鋭い色を見逃さなかった。
(わたしを試してるの?)
理人も理人で、随分と大胆なものだ。
そんなことを言って、わたしが開き直って踏み込んだら、どうするつもりなのだろう。
素直に聞いたら教えてくれるのかな。
隠していることやわたしを殺す理由も、ぜんぶ。
(……なんて、そんなはずない)
彼は別に、機会をくれているわけじゃない。
わたしがどこまで知っているのか、探りたいだけ。
鈍感なふりをして、首を傾げてみせる。
「どういうこと?」
いつものわたしならそうするはずだから。
「何でもないよ。ただ、菜乃と一緒にいられて幸せだなってだけ」
「わたしも、理人といられて嬉しいよ」
分かっているのに、知らないふり。
お互いがそう腹の探り合いをして、核心には迫れないでいる。
きっと、先に聞いた方が負けなのだ。
◇
────4月30日。
これまでの通りなら、わたしが殺される日。
粛々と朝の支度を済ませると、かなり早めに家を出た。
理人に考えを読まれる可能性を考慮し、昨日のようなメッセージは送らないことにした。
もう、手段なんて選んでいられない。
“殺されるかもしれない状況”は、何がなんでも避けなければ。
「!」
昇降口に着くと、向坂くんの姿があった。
ポケットに両手を突っ込んで、ふてぶてしいほど堂々と立っている。
こんなに早い時間からいるなんて、と驚きながら駆け寄った。
「向坂くん」
「よ。いまんとこ無事みてぇだな」
もしかして、わたしを心配して早くから来てくれたのだろうか。
「……わたしの話、信じてくれたの?」
「じゃなきゃ一昨日の時点で付き合ってねぇよ」
ふあ、と向坂くんはあくびする。
嬉しかった。
不安や恐怖を塵のように吹き飛ばしてくれる彼の存在は、なんて心強いのだろう。
「三澄は?」
あの階段へと向かいながら、向坂くんが尋ねる。
「まだ来てないはず」
「大丈夫か? 昨日はだいぶ束縛されてただろ」
「あ……うん。バレちゃったんだと思う。わたしが“前回”を覚えてること」
階段を上りきると、ふたりして段差に腰を下ろした。
朝の白い光が小窓から射し込んでくる。
「監視してるってわけか」
向坂くんは思案顔で顎に手を当てる。
滞りなくわたしを殺すためには、わたしに記憶があることが理人にとっては不都合だ。
いまみたいに、殺されまい、と動くから。
下手な行動に出ないよう、見張っていたいのだろう。
「……なあ、どんなふうに殺されたんだ?」
そう尋ねられ、記憶をたどる。
「えっと、帰り道だった。話してたら急に理人に腕を掴まれて……何か、たぶんレンガで頭を殴られて」
「放課後か。まだ時間はあるな」
向坂くんはスマホで時刻を確認した。
わたしもつられるように腕時計に目をやると、8時4分を指している。
まだ予鈴も鳴っていない。
「……いや、猶予はねぇか。結局、ほとんど何も分からずじまいだ」
「うん……。色々考えたけど、ぜんぶ憶測」
記憶があっても、もともと知らないことは分かりようがない。
気づかされた。
わたしは理人と長い時間を一緒に過ごしてきたのに、彼のことを全然知らない。
「けどよ、だいたい相場は決まってんだろ」
そう言った彼を、窺うように見やる。
「ループを抜け出すには、何かしなきゃいけねぇんだ」
「何か、って……?」
「さあな。原因が分かればそれも分かんだろうけど」
死に返るループに陥った原因。
もしかしたら、それも忘れているのかもしれない。
────そのうち、予鈴が鳴った。
取り留めもない憶測を口にしては、不安がってしまうわたしを、彼はそのたびに励ましてくれた。
「じゃあ、また」
「ああ。できるだけ、前に殺されたときと同じ状況にならねぇようにな。俺もなるべく見張っとく」
「……ありがとう」
その優しさを噛み締めながら、階段を下りていった。
向坂くんは当たり前のように1限目をサボる気でいるようだ。
逆にいつなら授業に出ているのだろう。
彼のお陰で少し余裕を取り戻し、そんなことを考えながら踊り場にさしかかったとき、ふいに誰かの気配がした。
向坂くんじゃない。
彼はまだ、上にいる。
「菜乃」
ぞく、と背筋に悪寒が走る。
「理人……!?」
どうして?
何で、居場所が分かったの?
教室に姿のないわたしを捜していたのだとしても、わたしの行き先として考えつくとは思えない。
まさか“前回”の時点から、知っていたのだろうか。
それなら、向坂くんのことも────。
「今日も早いね、菜乃。何か用事でもあったのかな」
……怖い。
這うような恐怖が肌を撫で、芯から強張ってしまう。
理人が浮かべる笑みも声色も、ひどく冷淡に感じられる。
「え、と、ちがくて……」
「何がちがうの? 僕に隠しごとしてたこと? こそこそあいつと会ってたこと?」
見透かされていた。
向坂くんとの会話も聞かれてしまったかもしれない。
「理人……」
「もういいよ、何も言わなくて。こんなの、僕の知ってる菜乃じゃない」
彼の顔から表情が消えた。
端正な顔立ちに、普段の理人らしい優しい面影は微塵もない。
「終わらせようか、この世界も」
そう言った彼がもたげた手には、金属製のパイプがあった。
備品倉庫か、物置きと化している1階の階段横から持ち出したのだろう。
それを引きずりながら、一歩、二歩と歩み寄ってくる。
「ま、待って……。ちょっと待って、ちゃんと話そうよ!」
ちがう。“前回”とまったくちがう。
こんな展開、知らない。
逃れるように慎重にあとずさるも、とん、と背中に壁が当たる。
すぐに追い詰められてしまった。
「り、理人……聞いて」
「うるさい」
驚いて、思考も動きも止まってしまった。
彼のこんなに冷たくて低い声は初めて聞いた。
怒っているような、失望したような、いずれにしても吐き捨てるかのごとく両断される。
「おまえなんか菜乃じゃない。偽ものだ」
ふいに鉄パイプを構えた理人が踏み込んだ。
思いきり振り上げられ、目の前に迫ってくる。
「……っ」
反射的に身を縮めた。
先端がわたしの頭上を掠め、背後にある壁にぶつかった。
そこに取りつけられた全身鏡が、ガシャン! と、けたたましい音を立てて叩き割られる。
恐る恐る目を開けた。
きらめく破片の舞う様子が、まるでスローモーションのように見えた。
宝石の欠片が散っているみたいだ。
「理人……」
心臓がばくばくと激しく拍動する中、彼の瞳を見た。
わたしが映っているはずなのに、どこか遠くを見据えているような、空っぽの眼差しをしている。
そのとき、上から慌てたような足音が響いてきた。
靴底と段差の滑り止めが擦れる音がする。
「花宮!」
上段の方から現れた向坂くんが、驚いたようにそれぞれに目をやった。
迷わず歩み出ると、庇ってくれるようにわたしの前に立つ。
「向坂くん……」
渇ききった喉からこぼれた声は掠れた。
その大きな背中を見上げると、何だか泣きそうになった。
「何してんだよ」
「……どうせ、聞かなくても知ってるくせに」
再びパイプを振り上げる。
とっさの判断で彼に背を向けた向坂くんが、抱き締めるみたいにわたしに覆い被さった。
振り下ろされたパイプがその後頭部に直撃する。
「く……」
鮮血が花弁のように散った。
小さく呻いた彼は、がく、と膝から床に崩れ落ちる。
「向坂くん!」
割れた鏡の上に倒れ込んだ彼の肌に、無数の破片が噛みつく。
慌てて屈もうとしたけれど、それを阻むように理人に捕まった。
「……っ」
ガッ、と勢いよく首を掴まれ、だん、と背中を壁に押し当てられる。
「う、ぅ……」
鏡があった位置だ。
尖った破片があちこちに突き刺さり、鋭い痛みが走った。
じわ、と滲んだ血が垂れていくのが分かる。
「助け、て。やめて、理人……!」
縋るように彼を見上げ、首を絞めるその手を掴んだ。
片手だというのに、ぎりぎりと締め上げる力はやはりわたしの比じゃない。
「……黙れ」
いままでで一番、冷酷な表情をしていた。
わたしに“偽もの”と言い放ったことも併せて、今回のわたしに対しては、強い憎しみを抱いているようだ。
記憶を持っていながら、理人の求めるわたしじゃなくなったから?
「三澄……」
うつ伏せに倒れている向坂くんが、力なくも鋭く理人を睨みつける。
けれど、それが及ぶはずもなく、わたしの首はきつく締め上げられ続けた。
苦しい。圧迫されて突き刺さった爪が痛い。
視野が黒く狭まって、心臓の音がだんだんと鈍くなっていく。
理人が放るように離した。
力が入らなくなっていたわたしは、へたり込むようにして床に落ちる。
朦朧と鏡の破片の海へ沈み込んでいく。
「花宮……!」
焦ったような向坂くんの声が、遠くに霞んで聞こえた。
水面を揺蕩うようにゆっくりと、意識が遠ざかっていく。
わたしの命が尽きていく。
◆
菜乃の殺される瞬間を目の当たりに、衝撃と憤りを滲ませた。
本当はいますぐにでも掴みかかりたいくらいなのに、意思に反して身体が動かない。
後頭部からの出血が止まらず、既に意識の半分がおぼろげだ。
鉛のように重い腕を思わず彼女に伸ばす。
その左手首を掴むも、息を吹き返すことはなかった。
(花宮……)
彼女の腕時計の文字盤を覆うガラスにはヒビが入っていて、白く光を反射している。
時計の針がゆっくりと、反対向きに回り始めるのを見た。
「……次はきみの番」
振り上げられるパイプを、ぼんやりと眺める。
────ぐしゃ、と頭部の潰れた音がして、理人の白い頬が返り血で染まった。
◇
「いや……っ」
飛び起きたわたしは肩で息をしていた。
苦しい。
息ができない。
(……ちがう、気のせい)
意識して深い呼吸を繰り返すと、わずかに落ち着きを取り戻すことができた。
震える手でスマホを見ると、画面には“4月28日”と表示されている。
「戻ってる……」
理人に殺されるのは、夢ではなく確かに現実。
わたしは4月30日に殺され、死ぬと時間が巻き戻る。
理人に殺されるまでの3日間を繰り返しているのだ。
(向坂くん……)
何より心配なのは彼のことだった。
あのあと、彼も殺されてしまったのだろうか。
いますぐにでも会いたい。
校門を潜り、昇降口に入る。
慌てながら靴を履き替えたとき、わずかにすのこが沈んだ。
「……花宮」
はっと顔を上げると、神妙な面持ちの向坂くんが立っていた。
「向坂くん、いま……」
彼は確かに、わたしの名前を口にした。
“前回”とちがって、わたしを知っている?
まさか────。
「ああ、俺……覚えてる。おまえのことも、殺されたことも」
彼自身も戸惑いをあらわにしていた。
わたしは息をのんで目を見張る。
今回は、わたしにも向坂くんにも記憶があるようだ。
「……って、おい。何の涙だよ、また」
困惑気味に彼がうろたえた。
じわ、と滲んできたそれを指先で拭い、苦く笑う。
「ごめん。何か、ほっとして」
「……ったく。あー、くそ。頭痛ぇ……気がする」
向坂くんは険しい顔で頭を抱えた。
「あいつ、思いきり殴りやがって」
「もしかして、向坂くんも……?」
「ああ、殺された」
わたしが息絶える中、理人は彼まで手にかけていたようだ。
ループの発動には関係のない、向坂くんまで殺すなんて────。
“前回”の理人は、正気を失っていたように見えた。
結局、何が彼を豹変させたのか分からないまま、また今日に戻ってきてしまった。
「つか、殺されんのは放課後なんじゃなかったのかよ。日付は決まってても、時間は関係ねぇってことか?」
「色々、変化してるよね。記憶もそうだし」
どういう法則があるのだろう。
どうして、今回はわたしにも向坂くんにも記憶があるのだろう。
「俺も殺されたから覚えてんのか?」
「それだと……わたしの辻褄が合わない」
わたしは毎回殺されているけれど、記憶は保持しているときと失うときがある。
記憶を保っていられた“前回”と“前々回”の共通点は何だろう。
“前回”のわたしと向坂くんの共通点は何だろう。
「……おまえさ、今回どうすんの」
「え?」
「三澄と、どう接すんの?」
彼は窺うようにわたしの目を覗き込む。
「…………」
“前回”と同じなら、理人はわたしに記憶があることをまだ知らないはずだ。
同じ徹は踏まないようにしないと。
それなら、無難に従順でいた方がいいし、なるべく向坂くんとも接触しない方がいいのだろう。
けれど“前回”だって似たような心構えだった。それでも殺された。
わたしを分かりきっている理人のことは、きっと欺き通せない。
────だとしても。
「……うまくやる。何とか」
できるだけいつも通りでいる。
ただ、殺される覚悟ははじめからしておこう。
それはもう前提に、開き直るべきだ。
どうして、こんなことになったのか。
今回は“殺されないこと”よりも、探ることに重きを置く。
怯えてばかりじゃ、3日間に閉じ込められたまま同じ結末を迎えるだけ。
(大丈夫。……わたしは死なない)
唇の端を結び、自分を奮い立たせる。
諦めたくない。
「何か……変わったな、おまえ」
おもむろに向坂くんが口を開く。
「え?」
「いや、前はもっと────。あれ……?」
言いかけた先に言葉は続かなくて、不可解そうに首を傾げていた。
ふと、視線を流した彼が身を強張らせる。
それを追ったわたしも一瞬、呼吸を忘れた。
「理人……」
校門から昇降口へと向かってくる彼の姿が目に入ったのだ。
幸い、まだわたしたちには気づいていない。
ふいに、向坂くんに手を取られる。
「え……っ」
彼はそのまま手を引いて、理人から遠ざかるように足早に歩いた。
どこか既視感を覚える。
前にも、こんなことがあったような。
でも、いまはこの強引さを裏返したところにある優しさがはっきりと分かる。
渡り廊下で足を止め、手を離した彼はスマホを取り出した。
「交換」
端的に言われたものの、意図は分かった。
連絡先を交換しておこう、ということだ。
「でも、戻ったら消えちゃうよ。意味ないんじゃ……」
「そしたらまた交換すりゃいいだろ」
毅然と言ってくれた彼にいっそう想いを募らせながら、メッセージアプリ内でお互いにアカウントを追加しておく。
両手で包み込むようにスマホを握り締めた。
「……ありがとう」
────嬉しい。
じんわりと胸の内があたたかくなり、気づかないうちに表情が緩む。
これで、いつでも向坂くんと話せる。
そう思うと心強く感じられて、彼の気遣いに改めて感謝した。
お守りみたいだ。
「ああ、何かあったら言えよ。まあ……“前回”の最期みたいになるかもしんねぇけど、記憶保てるならそれはそれでいいだろ」
向坂くんは自身の髪をくしゃりとかき混ぜて言った。
「俺も忘れたくねぇしな」
わたしのせいで巻き込まれて、殺されるかもしれないのに、そんなことを言ってくれるなんて。
本当に、彼がいてくれてよかった。
「じゃ、また昼休みにいつもんとこで」
きびすを返した向坂くんの言葉に、驚いたわたしは思わず「えっ」と声を上げてしまった。
それは、理人への全面的な反抗にほかならない。
記憶があるのなら、わたしへの監視も相当厳しくなっているはず。
振り向いた彼は、それでも挑むような眼差しを注ぐ。
「うまくやるんだろ? だったら、俺も遠慮しない」
向坂くんと別れて教室前の廊下へ着くと、B組の教室を覗いてみる。
理人の席の周りには人の輪ができていた。
見慣れた光景だ。
いつだって、彼はみんなの王子さまで、灰かぶりのわたしとは住む世界がちがう。
なのに、どうして────。
「あ、菜乃」
わたしに気づくと、嬉しそうに顔を上げた。
輪から抜け出して歩み寄ってくる。
「……理人」
その瞬間、向けられる憎々しげで冷ややかな視線の数々。
嫉妬や羨望、どれもわたしを疎ましく思うものばかりだ。
いすくまるように身を硬くしてしまう。
いつも怖くていたたまれない。
「おはよう」
優しい微笑を注ぎながら、理人がわたしの髪に触れた。
「お、おはよ」
わたしたちのほかには、誰のことも意識にないような振る舞いだ。
何だろう。
いつもより少し、距離が近い気がする。
「慌ててたの? 跳ねてるよ」
確かに今朝は余裕がなかった。
時間にじゃなくて、精神的に。
「あ……ちょっと、寝坊しちゃって」
つい照れたように笑いながら、髪を押さえた。
言ってから後悔する。
理人は今日も迎えにきてくれたはずだ。
下手な嘘をつくと追及される。
隠さなきゃならないことがある、と言っているようなものだ。
「そっか、僕も今日は菜乃にメッセージや電話するの忘れてたからな……。ごめんね」
「え? ううん、全然。珍しいね、理人が忘れるなんて」
ということは、わたしの家にも寄らずに来たのかもしれない。
思わず言うと、理人は苦笑した。
「……そうかもね。色々あって、少し疲れてるみたい」
慈しむようにわたしの頭に手を添えて撫でる。
あまりに優しくて、錯覚してしまいそうになる。
彼の殺意や奇妙なループは幻だったのではないか、と。
そんなわけがないのに。
「それと、ごめんね。今日は一緒にお昼食べられなさそう」
意外だった。
“前回”のような小細工をするつもりはないみたいだ。
「そう、なんだ。……分かった」
どうしてなんだろう。
わたしを殺す彼の様子を見ていたら、否が応でも阻んできそうなものなのに。
常に監視し続けてもおかしくないのに。
「放課後は一緒に帰ろう」
理人は柔らかく笑むと、そっとわたしの手を取った。
今日はどうして、そんなに近いのだろう。
余裕の表れか、それとも、いまさら罪悪感でも感じているのかな。
「……うん」
何とか笑って見せたけれど、少しぎこちなくなったかもしれない。
理人に対する不安もそうだけれど、何より輪を作っている女の子たちの視線が突き刺さっていたたまれない。
────理人なら、そのことに気づいていてもおかしくないのに。
それがわたしの孤立を助長させてしまっているということにも。
「…………」
やんわりと手を引っ込める。
曖昧な笑顔を残し、自分の教室に戻った。
特に何事もなく昼休みを迎える。
今回の理人は、休み時間にも毎度会いにくるようなことはなかった。
それならそれで、いたずらに神経をすり減らさずに済むからいいのだけれど、逆に少し気味が悪い。
釈然としない気持ちを抱えながら階段を上っていった。
いつものところで向坂くんが待ってくれている。
(理人の罠じゃないよね……?)
あまりにもスムーズで、あまりにもわたしにとって都合がいい。
こんなにも簡単に向坂くんとコンタクトを取れるなんて。
少し間を空けて彼の隣に腰を下ろす。
「浮かない顔してんな。何かあったか?」
「ううん、むしろ何もないっていうか」
だからこそ、余計に不気味で胸騒ぎがする。
「……理人、どこまで覚えてるんだろう」
つい、そんな疑問が口をついてこぼれた。
「“前回”の記憶はあるんだろ、今回も」
「そうだよね」
だからこそ、あえて“前回”とちがう行動を取っていることは分かる。
だけど、それなら────。
「理人にとっても“前回”の結末は不本意だった、ってことなのかな?」
そうでなければ、わざわざ行動を変える必要なんてない。
理人も同じなのかもしれない。
あの救いようのない結末を、変えたいと思っている?
「……サイコ説は薄くなったな」
向坂くんがメロンパンを頬張りつつ言った。
「じゃあ、何のために────」
どうして、わたしは理人に殺されるのだろう。
結局、いつもそこで行き詰まった。
「……なあ、おまえと三澄って何なんだ?」
ふと向坂くんが頬杖をついた。
「わたしと、理人……?」
────初めて出会ったのは、小学校に上がった頃。
いまと同じように、理人は学校の人気者だった。
幼いながら、みんな彼の魅力に気がついていた。
その整った顔立ちは当時から人目を引いたし、子どもっぽさが全然なくて、性格も大人びたものだった。
女の子にも男の子にも紳士的で優しくて、勉強も運動も何でもできた。
完璧なのは、当時から変わらない。
そのときも誰かが言っていたのを覚えている。
童話の中の王子さまみたい、って。
最初はわたしも彼と接点なんてなくて、たまに廊下ですれ違えば勝手に見つめていたくらいだ。
もちろん恋心なんかじゃなくて、純粋な興味からだったと思う。
いつもみんなに囲まれて穏やかに微笑んでいる“王子さま”は、いったいどんな人なんだろう?
────そんな彼と親しくなるきっかけは、思わぬところで訪れた。
放課後、花壇に水やりをする理人を見かけたのだ。
珍しく取り巻きもいなくて、つい校門へ向かう足を止めてしまった。
「……お花、すきなの?」
彩る花々を眺める彼の横顔があまりにも綺麗で、気づいたら声をかけていた。
幻想的で、寂しそうに見えた。
「きみ、は……」
突然のことに驚いたように、彼は目を見張って振り向いた。
ランドセルを背負い直して理人に歩み寄る。
いまのわたしじゃ考えられないほど、そのときの方がずっと、強くて行動的だった。
「いいにおい。このお花、なんていうの?」
「……スイートピー」
理人が答えると、白や淡いピンクの花が風に揺れた。
そうなんだ、なんて答えながら屈んだわたしは花壇を眺めて深く息を吸う。
ふんわりと優しくて甘い香りが漂う。
「わたし、スイートピーが一番すき」
何気なく口にすると、理人はなぜかとても嬉しそうな顔をした。
綻ばせた表情は無邪気で、いつも見せるような大人びた笑顔とはちがっていた。
隣に屈んで「ぼくも」と言う。
「ぼくも、この花がすきなんだ」
先ほどとは一転、そう言う割にどこか儚げな微笑みだった。
「きれい……」
思わず呟く。
わたしは理人の横顔から目を逸らせなくなっていた。
「でしょ? このスイートピーは────」
「ちがう。理人くんが、きれい」
口をついて言葉が勝手にこぼれた。
理人はとても驚いた顔をして、戸惑うようにわたしを眺めていた。
色白で色素の薄い彼の瞳も、陽射しで茶色く透けたように見える髪も、消えてしまいそうなほど淡く見える。
「────ねぇ、名前なんていうの?」
「……はなみやなの」
そう答えると、白色のスイートピーを一輪摘んだ理人が立ち上がる。
すっとこちらに手を伸ばした。
わたしの髪に挿された花が、風に揺られて甘く香る。
「なのちゃん。かわいい名前」
理人は嬉しそうに笑った。
きらきらと光の粒が散っていそうなほど、眩しくて優しい笑顔だった。
────それから、わたしたちはよく話をするようになった。
時に放課後の花壇の前で。時にすれ違った廊下で。
いつしか親同士も仲よくなって、それぞれの家で遊ぶこともあった。
そのときは決まって“大きくなったら結婚”なんてはしゃがれていたっけ……。
中学校に上がってからも、変わらずそんな関係が続いた。
彼が“王子”と呼ばれ、たくさんの女の子に囲まれたり言い寄られたりすることも相変わらずだったけれど、小学校時代より多くなっていった。
放課後に呼び出されることも、靴箱に手紙が入っていることも、珍しいことじゃなかった。
────だけど。
「おはよう、菜乃」
彼はいつでも、わたしを邪険に扱ったりなおざりにしたりすることはなかった。
いつだったか、たまたま一緒に帰ったのをきっかけに、登下校をともにするようになった。
わたしにはずっと、不思議だった。
女の子なんてよりどりみどりであるはずの理人が、たったひとりの“特別”な存在も作らず、ただの幼なじみでしかないわたしのそばにいてくれることが。
けれど、学年が上がるにつれて周囲の風当たりは強くなっていった。
理人を想う女の子たちは、わたしという存在を許さなかった。
お荷物だ、負担だ、身のほど知らずだ、と散々な言われようで、果てについたあだ名は“灰かぶり姫”。
もちろん褒め言葉なんかじゃなくて、魔法にかかることすらできない地味なわたしを嘲っているだけ。
住む世界がちがう、という意味でしかない。
理人の手前、彼女たちの嫌がらせが大事になるようなことはなかったけれど、陰口は当たり前になってだんだん孤立していった。
周りからどんどん人がいなくなって、ひとりぼっちになったけれど、理人だけは変わらずわたしと接してくれた。
彼がそばにいてくれたお陰で、本当の意味でひとりぼっちになることはなかった。
でも、わたしは知らないうちにだめになっていった。
理人を失うのが怖くて、離れていくのが怖くて、彼に全体重をかけて寄りかかるようになったのだ。
理人がいないと、朝も起きられなくなった。
理人がいないと、どこにも行けなくなった。
理人の言葉以外は何も信じられなくて、すべてが雑音に思えた。
高校に上がっても、彼とわたしは世界線の異なる“王子”と“灰かぶり姫”だった。
周りからもそう見られたし、自分でもそう思っている。
幼なじみという関係ですら、わたしは理人に釣り合わない。
だから、特に悪化していった。
こんなことになるまで、わたしはひとりで起きたことも、ひとりで学校への道を歩いたこともなかった。
世界中の誰もが背を向けても、理人さえいてくれればよかった。
理人だけは、わたしを見捨てないでいてくれる。
そう、信じていた。
────いまは、とてもそんなふうには思えないけれど。
理人だけいればいい、なんて。
そんな彼に殺されるのに。
「ますます分かんねぇな。あいつがおまえを殺す理由」
「うん……」
彼の真意が分からなくて、うつむいてしまう。
「……三澄って、昔からあんななんだな」
淡々と言う向坂くんに頷く。
あんなふうに、優しくて大人びていて紳士的で、わたしじゃない誰かに向ける微笑みは、壁を画するようにどこか冷たい。
────そのわけを、わたしは知っている。
スイートピーを眺めていたときの、あの表情の意味も。
「……実はね。僕、ひとりぼっちなんだ」
中学2年のある秋の日、帰り道で彼は唐突に言った。
「え?」
どこが、ととっさに思った。
いつもあんなにたくさんの人の輪の中心にいるのに。
「…………」
理人はふと視線を落とした。
そのときの姿が、初めて出会った日の彼と重なる。
儚げで、寂しそうで、綺麗な横顔。
「……親がいないんだ」
すぐには受け止めきれなかった。
昔、彼の家へ遊びに行ったときは確かに大人の人がいたし、その言葉の重みも全然、現実感がなくて。
「僕の父さんは事故で、母さんは病気で亡くなってる。小学生になるより前の話」
決して明るい話ではないのに、理人は微笑んでいた。
悲しみが蘇らないように抑え込んでいるみたい。
「いまは伯母さんとふたりで暮らしてる」
「そう、だったの……」
ふさわしい言葉を見つけられず、相槌を打つと沈黙が落ちる。
────想像が及ぶ。
幼いながらに彼が大人びていたこと。
いつでも微笑みを絶やさなかったこと。
一番身近だった両親というよりどころを失って、伯母や周囲の人たちに見放されたくなかったんだ。
嫌われたくなかったんだ。幻滅されたくなかったんだ。
生きていくために、彼は“完璧”になったんだ。
ぎゅう、と心臓を鷲掴みされているかのように苦しくなった。
「……スイートピーは、母さんが好きだった」
てのひらに落ちた雪の結晶のような、小さな花びらのような、触れたら消えてしまいそうな儚い微笑。
出会ったときと同じ顔をしている。
その透明な表情の意味が分かった。スイートピーへの思い入れも。
「理人……」
はっと彼に色が戻る。
いつもの大人びた優しい微笑を浮かべた。
「ごめんね。何言ってるんだろう、僕────」
わたしは思わず、一歩踏み込む。
気づいたら彼を抱き締めていた。
溶けて消えてしまわないよう、そっと、慎重に触れる。
「……大丈夫。大丈夫だよ」
喉の奥が締めつけられ、声が震えそうになった。
滲んだ涙が落ちてこないよう、きゅっと唇を噛み締める。
「菜乃……」
「わたしがずっと、理人のそばにいる」
ただただ、潰れそうなくらい胸が苦しかった。
放っておけない、と思った。
「だから、そんな顔しないで」
そのときわたしが抱いていたのは、もしかしたら同情や哀れみといったとんだ傲慢な感情だったかもしれない。
だけど、告げた言葉に嘘はなかった。
背伸びをした笑みなんて浮かべなくていい。
等身大の理人でいい。
せめてわたしといるときだけは、ありのままでいてくれたらいい。
わたしは絶対に、ひとりぼっちになんてしないから。
「……ありがとう」
噛み締めるように言った理人は、どこか遠慮がちにわたしを抱き締め返した。
温もりが離れていかないか、確かめるみたいに不安そうで、わたしは“大丈夫”と何度も繰り返していた。
────その話はさすがに口にできなくて、自分の中だけに留めておくことにする。
思えば、いつの間にか立場が逆転していた。
最初はどちらかと言えば、理人の方がわたしを強く必要としていたのに。
いまはわたしの方が、彼がいないとだめになっている。
だけど、どちらにしても同じこと。
わたしも理人も、お互いの存在を求めていた。
お互いに依存していた。
幼なじみという関係性の中で立場のちがいに苦しんだりもしたけれど、“離れる”という選択肢はなかった。
彼の隣が窮屈になっても。
あの秋の日の約束がなくても。
「わたし、理人のこと好きだったんだなぁ」
しみじみと、思わず呟く。
「そうなのか?」
「うん……。でも、恋とはちがう。それだけははっきり分かる」
理人を慕っていた。彼の隣にいたかった。
でも、いま以上の“特別”を望んだことは一度もない。
「……ふーん。見かけより複雑な関係なんだな」
「そんなことないよ。幼なじみってだけ」
ゆるりと首を振って苦く笑う。
幼なじみってだけなのに、いつしかこじれてしまった。
「好きだった、か」
ぽつりと向坂くんが呟いた。
「……いまは、怖い」
彼に殺され続けるという現実も、わたしを殺す彼の表情も。
理人はどうして変わってしまったのだろう。
いったい、いつから変わっちゃったんだろう……?
放課後、鞄を肩にB組の教室を覗くと、すぐさま気づいた理人が歩み寄ってくる。
「……菜乃」
どこかほっとしているように見えた。
わたしは緩やかに微笑み返す。
過去を思い返したからか、いくらか理人への抵抗感が和らいでいた。
ふたり並んで帰路につくと、柔らかい風が頬を撫でる。
「スイートピー、今年は終わっちゃったかな」
わたしはそっと言った。
「え?」
「今日、思い出してたんだ。理人とのこと、色々」
「ああ……」
何気なく彼を見上げる。
どうやら、余裕がなさそうだ。
今回の理人はやはりどこかおかしい。
(……何かに、焦ってる?)
ややあって、彼が首を傾げる。
「何を思い出してたの?」
「えっと……初めて話したときのこととか、中学のときのこととか。昔のことだよ」
そう答えると、彼の表情の強張りがほどけていく。
「懐かしいな。……あのときの僕は空っぽだった」
自身のてのひらを見下ろし、そっと握り締める。
「寂しくて、何もかも手放したくなかった。触れるものぜんぶを繋ぎ止めておきたかった。……なのに、握るほど指の隙間からこぼれ落ちていった」
そう言うと、ふいに理人がわたしの手を取った。
「でもね、菜乃が隙間を埋めてくれた。菜乃がいてくれたから、いまの僕があるんだ」
ふんわりと色づいた花が開くように、彼は緩やかに微笑む。
「ありがとう、菜乃」
儚げな幼い横顔と、あの秋の日の温もりと、甘いスイートピーの香り。
頭の中でちらつき、混ざり合う。
割れた鏡の欠片が、ちぐはぐに光を反射し合うように。
「……ううん。わたしこそ」
両手で包み込むように握られた自分の手を見た。
いま、隙間を埋めてくれているのは、間違いなく理人の方だ。
────再び歩き出しても、彼は手を離さなかった。
こんなふうに手を繋いで歩くのなんて、いつ以来だろう?
何だか、ほどく気にはならない。
不思議と恐怖心も消えていて、それより懐かしむ気持ちが強まっていた。
(うまく、やれてるのかな?)
窺うように見上げれば、理人はどこか嬉しそうに見えた。
このままいけば、殺されずに済む……?
「あ、そういえば知ってる? 駅前にできたベーカリー」
ふと投げかけられた言葉に、わたしは眉を寄せて内心首を傾げた。
(ケーキ屋だったはずじゃ……?)
思わず尋ねかけて、すんでのところで飲み込んだ。
危なかった。
鎌をかけているのだ。
「……そんなのできたんだ。今度行きたいなぁ」
繕うように笑うものの、冷や汗が滲んだ。
触れたてのひらから動揺が伝わってしまわないか不安になる。
(まさか、これもそのためだったの……?)
過去を懐かしんだわけではなく、わたしの些細な反応を見逃さないために手を繋いだのかもしれない。
忘れたはずの恐怖心がかき立てられる。
もう、分からない。
どこまでが計算で、どこまでが本心なのだろう。
「ああ、ごめん。ケーキ屋だったかも」
ややあって苦笑した理人は、それでも泰然自若としたものだった。
やはり、わたしの反応を見ていたんだ。
つい怯んでしまうと、彼はふいに表情を消す。
じっとわたしを見つめたまま首を傾げる。
「────この話、前にもしなかった?」
どくん、と心臓が跳ねた。
図らずも身が硬くなる。
「してないよ……。初めて聞いた」
細い声で答える。震えないよう必死だった。
理人は満足そうににっこりと笑う。
「そっか。……それならよかった」
その言葉で悟った。
彼は記憶を確かめたかったんだ。
わたしが“前回”を覚えているのかどうかを。
◇
4月29日。
教室の前の廊下へ来ると、足を止めた理人がわたしを振り返る。
「じゃあ、またあとでね」
ぽん、と頭に手が置かれた。
温もりを感じる間もないまま離れ、すぐに背を向けられる。
(なに……?)
昨日はむしろ近すぎるくらいだったのに、今日は何だか遠く感じる。
突き放されているわけではないけれど、線を引かれているみたいだ。
(まさか、何かに気づかれた……?)
困惑を拭えず立ち尽くしていると、ふと数人の足音が近づいてきた。
「ねぇ、ちょっと来て」
いつの間にか、一様に不服そうな表情を浮かべる女の子たちに囲まれていた。
冷たい声色や蔑むような眼差しに晒され、萎縮してしまう。
促されるまま、わたしはついて歩いた。
「三澄くんに見られなかった?」
「大丈夫だって」
誰かのささやく声が耳に届く。
予感がないわけではなかった。
彼女たちは理人のことが好きなんだ。
そういえば、昨日の朝も彼のところにいたかもしれない。
こんなことは、初めてじゃない。
旧校舎の方へ続く渡り廊下を抜け、ひとけのない裏庭で足を止めた。
リーダー格の子が、腕を組んで高圧的にこちらを見下ろす。
「あんたさ、何なの? 昨日といい今日といい、三澄くんとベタベタして。あたしたちに見せつけてんの?」
こんなふうに目をつけられ、面と向かって謗られることは何度もあった。
気の弱いわたしは無視も反論もできず、ただ彼女たちの気が済むまで罵詈雑言を浴びるしかなかった。
黙って嵐が過ぎるのを待つしかなかった。
「彼女気取りかよ。身のほどわきまえろっつーの」
「マジでムカつくんだけど。わざわざあたしたちの前で、ってのが」
「本当、性格悪いぶりっ子だよねー」
意地悪な笑い声がこだまする。
なるべく、頭の中と心を空っぽにしようとした。
そうしなければ、悪意にまみれた言葉の数々に飲まれてしまう。
侵食されて、潰れてしまう。
「三澄くんも三澄くんだよね。何でこんな奴なんか……」
「騙されてんだって、可哀想に」
そう言った彼女の手が伸びてきた。
避ける間もなく突き飛ばされ、冷たい地面に倒れ込んでしまう。
「だからさ、うちらが目を覚まさせてあげないとじゃん。こいつは所詮、薄汚い“灰かぶり姫”なんだって」
彼女はローファーのつま先で思い切り地面を蹴った。
土埃が舞い、ばしゃ、とまともにかかる。
とっさに庇うように腕で覆ったけれど、あちこちにざらざらした黒い粒が飛んだ。
「……っ」
歯を食いしばって両手を握り締めた。
自分が悲しいのか、悔しいのか、怒っているのか分からない。
とにかく昂った感情が、きゅっと喉を締めつけてきて、視界がゆらりと揺れる。
「あれー? 泣いちゃう?」
「いいね、惨めで。超お似合いだよー」
彼女たちの笑い声が、きんきんと耳鳴りのように反響した。
『……頑張ってるよ、おまえは』
その合間で思い出す。
『うまくやるんだろ? だったら、俺も遠慮しない』
勇気と自信を、少しだけ────。
「……して」
気がつくと、唇の隙間から言葉がこぼれていた。
「は? 何て?」
「いい加減にして」
顔を上げ、決然と告げたわたしによほど驚いたのか、彼女たちが怯んだのが分かった。
この場にいる誰よりも自分が一番びっくりしていたけれど、押し潰された心から、勢いづいた言葉が飛び出していく。
「理人が好きなら、正々堂々そう言ったらいいじゃん……! わたしに八つ当たりしてないで、その労力を別のことに使いなよ!」
しん、と水を打ったような静寂が落ちる。
ばくばくと早鐘を打つ心臓が何だか熱い。
全力で走った直後みたいに苦しくて、肩で息をしていた。
それでも、もう怖くなんてなかった。
こんなの、死ぬことに比べたら全然なんてことない。
「何よ! 偉そうに────」
彼女がてのひらを振り上げた。
反射的に身を強張らせ、目を瞑る。
「……おい、もう黙れよ。うるせぇな」
はっとした。
目を開けて声のした方を見ると、渡り廊下に向坂くんが立っていた。
両手をポケットに突っ込み、苛立ったように険しい表情で歩んでくる。
「目障りだし耳障りなんだよ。さっさと消えろ」
威圧するように凄まれ、青ざめた彼女たちは逃げるように退散していった。
呆気にとられるわたしに手を差し伸べてくれる。
「大丈夫か?」
「……うん」
そっと彼に手を重ねると、その力を借りながら立ち上がる。
何だか放心してしまって言葉が出ない。
「あーあ、だいぶ汚れちまってんな」
向坂くんは土にまみれたわたしの制服を見て困ったように言う。
それから、ふと黙って手を伸ばすと、わたしの頬に触れた。
「わっ」
「……ん、取れた」
親指で土汚れを拭ってくれたみたいだ。
突然のことに、心音が加速していく。
態度も所作も荒っぽくて粗暴に見えるのに、触れた指先は労るように優しかった。
……向坂くんらしい。
「あ、ありがとう。助けてくれて」
揺れる感情をひた隠しにして告げる。
「いや、俺は何もしてねぇよ。おまえが頑張ったんだろ」
彼を捉えるわたしの瞳が、揺らいでいるのが自分でも分かった。
「言えんじゃん、ちゃんと」
そこから見られていたんだと分かって、少し恥ずかしくなる。
必死だったから、何を言ったのかもあまり定かじゃない。
「わたし、が……」
「ああ、よくやった」
向坂くんが口端を持ち上げて笑った。
いまになって、また視界が滲む。
振り絞った勇気が実を結び、少しだけ自信に繋がった気がする。
それは、紛れもなく向坂くんのお陰だ。
彼がいたから、彼の言葉があったから、わたしは頑張れた。
水道でハンカチを濡らし、スカートや肌についた土を拭っていく。
ブレザーは向坂くんがはたいてくれていた。
「しっかし大変だな。女子の嫉妬ってやつは」
「でも、仕方ないの。あれが、理人のそばにいる代償だったから」
苦く笑いながら言う。
これまでは、そう思ってずっと耐え忍んできた。
「……三澄は気づいてねぇの?」
ふいに真面目な顔になった向坂くんに尋ねられ、手を止めないまま答える。
「うーん、どうだろう。気づかれないように努力はしてたけど」
理人に余計な心配をかけたくなかった。
何より、それを理由に距離を置かれることになったらたまらない。
だから、わたしひとりが我慢すればいいのだと自分に言い聞かせてきた。
「……ふーん」
向坂くんは短く答え、再びブレザーをはたき出す。
「だからおまえ、友だちいねぇんだな」
がん、とショックで鉛が落ちてきた気がした。
何が“だから”に帰結したのかは分からないけれど、またしても向坂くんにそう言われるなんて。
「で、今日はどんな感じだ?」
わたしの心情などお構いなしに彼は続けた。
「……あ、理人のこと? 何ていうか、ちょっと変だなぁって思う。いつもと様子がちがってて」
「どんなふうに?」
「何か、大人しいっていうか。でも“前回”の記憶があるのは間違いないよ。それより前のことは分からないけど」
昨日の帰り道、それだけは確信した。
あの聞き方といい、鎌をかけてきたことといい、わたしを探っていたのは間違いない。
「なるほどな。早いとこ、記憶の法則掴みてぇとこだな」
向坂くんの言う通りだ。
記憶の残る人と失う人のちがいは何だろう。
理人はどこまで覚えているんだろう。
分からないことだらけだ。
(でも、たぶん……)
いまはまだ、理人もそれを掴めていない。
だから、いつもわたしの記憶を警戒しているんだ。
時間の問題かもしれないけれど、理人よりも先に答えにたどり着きたい。
◇
昼休みも放課後もなるべく理人の気に障らないような態度を心がけて、昨日はことさら慎重に接した。
そして迎えた4月30日。
今日、理人はどんな出方をするだろう。
それを確かめれば、もしかしたら彼の殺意のスイッチを入れるきっかけというものを見極められるかもしれない。
「おはよ」
「おはよう、菜乃」
門を出ると、彼の隣に並んでいつも通りの道を歩く。
既に何もかもが危険だ。
今日という日に突入したいま、時間帯に関係なく、もう常に安全ではなくなった。
「…………」
そっと理人の横顔を窺い見る。
(理人にとってのわたしって、何なんだろう……?)
お互いがお互いの一番の理解者であるはずだった。
少なくともこんなことになるまでは、わたしは幼なじみとして、ずっと彼のそばにいたいと思っていた。
あの秋の日の約束に囚われているわけではなく、それは純粋にわたしの意思だ。
(でも、だんだん分からなくなった)
理人が本当は何を思っているのか。何を望んでいるのか。
考えても考えても、わたしを殺す理由すら分からない。
「今日の放課後、どこか遊びにでも行く?」
にこやかに提案され、思わず安堵の息をついてしまう。
放課後ということは、わたしの命はそれまで保証されていると捉えてもいいかもしれない。
いや、ちがうだろうか。
これもまた、反応を窺っている……?
「えっと────」
“前回”は朝の時点で殺された。
その記憶があるのなら、いまの言葉を訝しむだろうと踏んで、また鎌をかけているのかも。
それなら、何て答えるのが正解なのだろう。
理人が望む答えは、何?
「…………」
つい、視線を彷徨わせた。
冷静さを失っていく。
「……分かんない……」
小さく消え入りそうな声で呟いた。
目眩がする。
足元が揺らぐような錯覚を覚える。
「分かんないよ。もう、やだ……」
声も心も震えてしまう。
理人と駆け引きなんて、いつまでもできるはずがなかったんだ。
足元も先も見えない真っ暗な闇の中に放り込まれたようだった。
一挙一動、一言一句が運命を左右した。
選択を誤れば、奈落の底へ落ちていく。
正解も分からず、答え合わせもなくて、わたしはずっと宙にぶら下がっているみたいだった。
もう、限界だ。
言葉のひとつひとつを深読みして、その都度最適解を模索しては、必死で尻尾を隠して。
実際にはとっくに追い詰められていたのに。
「……菜乃?」
困ったように眉を下げる理人。
(分かってるんだよ、もう。ぜんぶ演技なんでしょ……?)
わたしが本当はすべて覚えているということを、確信できる材料が欲しいだけ。
「もう、疲れちゃった……」
何てことないひとことでさえ、思惑があるのではないかと疑い続けて、精神をすり減らしながら接してきた。
どうして、こんなふうになっちゃったの?
昔を思い出すほど、理人との過去を顧みるほど、悲しくてたまらなくなる。
「……教えてよ。どうして、わたしを殺すの?」
どのみち、今日殺されるんだ。
開き直ってしまえば、いまさら右往左往することもない。
「…………」
理人の長い睫毛が揺れた。
重たげな沈黙を経て、やがて自嘲するかのように息をつく。
「……なんだ。やっぱり覚えてたんだ」
当然のことながら、彼にも記憶が残っていたようだ。
それには驚かない。
「どうして? どこまで覚えてる?」
「…………」
固く唇の端を結び、口をつぐんだまま見返す。
それを聞きたいのはこちらの方だ。
そして、理人にはなるべく情報を与えたくない。
惑わされ、利用されて、いいように殺されるのはもうごめんだ。
「……菜乃はさ、今回もあいつのことが好きなんでしょ」
想定外の言葉に、正直に反応してしまう。
頬より先に耳が熱くなった。
けれど、正確には“今回も”じゃない。
向坂くんを好きになった“前々回”の3日間から現在まで、記憶が途切れなかったから想いも続いているわけだ。
仮に忘れたとしても、きっと同じ気持ちを抱くのだろうけれど。
「────それが答えだよ」
そう言った彼が踏み込んできて、とっさに“前々回”の記憶が蘇った。
息が詰まったような錯覚を覚え、反射的にあとずさる。
「……っ」
理人の冷たい微笑に追い込まれていく。
「菜乃がいけないんだよ……?」
優しく責めるような声色だった。
そのふたつの感情が両立するんだ、とぞくりとする。
わたしを捉えて離さない眼差しは、狂ったように熱くて冷ややかだ。
「……だって、ありえないでしょ。僕以外を好きになるなんて」
「え……」
「そんなの、許さない」