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狂愛メランコリー  作者: 花乃衣 桃々
◆第1章 狂愛メランコリー
1/8

第1話 きみのためなら


 痛い。苦しい。息ができない。


 思いきり吸い込もうとしても、隙間風のように震える呼吸と(うめ)き声が漏れるばかり。


「……っ」


 視界は涙で滲み、すべての輪郭がぼやけた。


 “彼”の両手がわたしの首を強く締め上げている。


(なん、で……)


 どうしてわたし、殺されるの?

 どうして、彼が……?


「大丈夫。すぐ楽になるよ」


 彼が(いつく)しむように優しく微笑むと、すぅ、と視界の端から黒く染まっていく。


(やだ……。嫌だ、死にたくない)


 ────戻りたい。

 時間を巻き戻せたらいいのに。


 そして、やり直したい。

 彼に殺されないように────。


「“次”は失敗しないから」


 だんだん気が遠くなる中、そう言ったのがぼんやりと聞こえた。


(次……?)


 身体から力が抜けて、ふっと目を閉じる。


 彼の言葉の意味も分からないまま、わたしは意識を手放した。




     ◇




 ────4月28日。


 アラームより5分遅れて目を覚ますと、ベッドに寝転んだままあくびする。


「早く起きなきゃ……。理人(りひと)が来ちゃう」


 起きなければならないのは分かっているのに、つい再び瞼を閉じてしまいそうになる。


 そのとき、アラームではなく着信音が鳴った。


 寝ぼけ(まなこ)で“応答”をタップする。相手は見なくても分かる。


『おはよう、菜乃(なの)。迎えにいくからそろそろ起きて』


「……おはよう。今日もありがとう」


 よく世話を焼いてくれる、幼なじみの理人だ。


 彼は、ひとことで言えば“完璧”。

 何でもそつなくこなすし、性格も優しくて紳士的。その上、整った顔立ち。


 女の子たちが陰で“王子”なんて呼んでいるくらいだ。


 それでも、だめなわたしを見捨てることなく、一番近くにいてくれる彼は優しい。


 わたしはひとりじゃ何にもできないのに。




 支度を整えて家を出ると、門の向こう側に理人が待っていた。


「ごめん、お待たせ……!」


 慌てて駆け寄ると、柔らかい微笑みを返してくれる。


「大丈夫。ちゃんと起きられたみたいでよかった」


「理人のお陰だよ。危うく二度寝するところだった……」


 わたしがそんなだから、彼も世話を焼かざるを得ないのかもしれない。


 きっと、心配と迷惑をかけてしまっている。

 申し訳ない気持ちとありがたい気持ちが募った。


「そっちのクラスはどう? 友だちできた?」


「うーん……なかなか」


 眉を下げて苦く笑うと、図らずも心ごと沈んでしまう。


 ────桜も散り、そろそろ新しい環境にも慣れてきたかという時期。


 けれど、わたしにはまだ友だちと呼べるような間柄の子はいない。


 去年は理人と同じクラスだったからよかったものの、今年は離れてしまったからひとりぼっちだ。


 それに、そもそもわたしは女の子たちからあまりよく思われていないようで、なおさら難しい話だった。


「……そっか。僕のせいだよね、ごめん」


「ううん! 理人は何も悪くないよ」


 理人自身ではなく、わたしが“王子”のそばにいるせいだ。

 彼に頼りきりでいるわたしのせい。


 だけど、それでいい。

 わたしには彼さえいてくれれば十分だから。


 他愛もない話をしながら、学校へ着くと校門を潜る。


「ねぇ、今日も一緒にお昼食べていい?」


「あ……ごめん。そうしたいけど、今日はクラス委員の集まりがあるんだ」


 理人が申し訳なさそうに言った。


「そっか……」


「ばたばたしちゃうと思うから先に食べてて」


「……分かった」


 つい落胆を隠しきれないでいると、理人がくすりと笑う。


 そのとき、ふいに背後から腕を掴まれた。


「!」


 驚きながらも反射的に振り返ると、見慣れない男子が立っていた。


 耳につけたピアスや着崩した制服から、不良っぽい印象を受ける。


 怒っているような険しい表情に、どこか驚きが入り混じっていた。


「あの……?」


 心臓がばくばくと強く打つ中、思わず先に声をかける。

 正直、何だか怖くて気持ちが怯んでいた。


「おまえ、無事だったのか」


「え?」


 困惑してしまう。

 いったい何の話だろう。


「何か用かな? 向坂(こうさか)くん」


 首を傾げた理人が割って入り、一歩前に立つ。


 向坂と呼ばれた彼は、いっそう厳しい顔つきで理人を睨みつけた。


「白々しいんだよ、クソ野郎。警察呼ぶぞ」


 踏み出した向坂くんが、勢いよく理人の胸ぐらを掴んだ。


 突然のことにおろおろとうろたえてしまう。

 一方で、理人は眉を寄せるも冷静そのものだった。


「落ち着いて。全然話が見えないよ」


「ふざけんな。とぼけんのもいい加減にしろよ! おまえが花宮(はなみや)を────」


「ちょっと。どう考えても、きみの方が警察のお世話になりそうだけど」


 向坂くんの凄みにもまったく怯まない。


(いま、わたしの名前……)


 どうして知っているのだろう。

 わたしは彼を知らないはずなのに。


「分かったら、そろそろ離してくれないかな」


 理人は困ったように笑って言った。


 いつの間にか周囲に人だかりができており、ざわめきと注目の渦中(かちゅう)にいた。


「…………」


 向坂くんはばつが悪そうに舌打ちして手をほどく。


 一瞬だけわたしに目をやったものの、結局きびすを返すと歩き去っていった。


「だ、大丈夫?」


「うん、平気。菜乃こそ大丈夫? 怖かったよね」


 襟を整えた理人はいつも通りの笑顔をたたえ、そっとわたしの頭を撫でる。


「わたしは全然……」


 その温もりにほっとする傍ら、周りを取り囲んでいた女の子たちの眼差しが瞬間的に冷えた。


 気づかないふりをして、理人以外のすべてを意識の外へ追い出す。


「あの、向坂くんっていうのは?」


「僕と同じクラスの向坂(じん)くんだよ」


 下の名前まで聞けば、何となく覚えがあるような気がした。

 不良の問題児としてよく名前が上がるからだ。


 そんな彼が、どうしてわたしのことを知っているのだろう。


「何だったんだろう、さっきの……」


「あまり気にしなくていいんじゃない? ほら、行こうか」


 緩やかに流されて、気づいたら頷いていた。


 理人の言葉には、この世界にある不透明な何もかもを遠ざける、不思議な力があるような気がする。




 1限目の授業が始まると、窓の外を眺めつつぼんやりとした。


 意識が宙に浮かび上がって、ふと今朝見た夢を思い出す。


(嫌な……怖い夢だったな)


 あまり覚えていないけれど、漠然(ばくぜん)とそんな印象が残っている。


 目を閉じると、断片的な欠片が不鮮明ながら蘇ってきた。


(苦しかった……)


 思わず首に手を添えてうつむく。


 ────誰かに、首を絞められて殺された。


 そんな悪夢だった。


 あれは誰だったんだろう。

 黒い(もや)がかかっているようで、相手の顔がはっきりと見えない。


(でも、何かすごくリアルだった)


 息ができずに、だんだんと意識が遠のいていく感覚。

 死に晒される恐怖。


 まるで実際に味わったかのような苦痛だった。


 できればもう、あんな夢は見たくない。




 昼休みになると、廊下や教室が一気に騒がしくなる。


 鞄から取り出した弁当を机の上に置いたとき、ばん! と誰かの手が天板(てんばん)を叩いた。


 びくりと肩を跳ねさせながら見上げると、そこには向坂くんがいた。


「向坂くん……?」


「なあ、ちょっと話あんだけど」


 無愛想に言うと、返事を待たずしてわたしの手首を掴んだ。


「え? ちょっと」


 強引に引っ張られて立ち上がった。


 半ばつんのめりそうになりながら、必死で彼のあとをついていく。


 渡り廊下へ出たところで、ようやく足を止めてくれた。


「おまえ、どういうつもりだよ」


「何、が?」


三澄(みすみ)のこと」


「理人の……?」


 わけが分からなくて首を傾げてしまう。

 何も思い当たることがない。


「理人がどうしたの?」


「は? なに寝ぼけてんだよ。おまえが言ったんだろ、“助けて”って」


 思わず訝しむように眉を寄せる。


「わたしが? ……向坂くんに?」


「ああ」


 そんなはずない。

 彼とは今日が、今朝が初対面なのだから。


 そもそも、理人のことで何の助けを求めるというのだろう。


「わたし……向坂くんと話したの、いまが初めてだよ」


「なに言って────」


 今度は彼の方が戸惑いをあらわにした。

 はたと動きを止め、険しい顔になる。


「……待て。今日、何日だ?」


 質問の意図が分からなかったものの、わたしはスマホのロック画面で日付を確かめた。


「4月28日、だけど……」


 それが何だと言うのだろう。

 困惑していると、向坂くんがはっと息をのむ。


「ってことは、やっぱおまえ────」


「菜乃!」


 ふいに呼ばれて振り返ると、渡り廊下の先に理人が立っていた。


 向坂くんを認め、警戒するような表情でこちらへ歩み寄ってくる。


「……向坂くん。菜乃にちょっかい出すのやめてくれないかな」


 理人はわたしの手を引き、背に隠すようにして立った。


「は? 俺は別に……」


「そう? じゃあ、いま続き話したら?」


 そう言われた向坂くんは、もどかしそうに口をつぐむ。


 理人は“勝ち”を確信したのか、いつもの微笑を浮かべてわたしに向き直った。


「行こう、菜乃」


「え……、あ」


 優しく手を引かれ、自ずとわたしの足もきびすを返す。


「……花宮。気をつけろよ」


 そんな静かな声に振り向くも、既に彼も背を向けていた。


「……?」


 戸惑いが膨らんでいく。

 妙な胸騒ぎが植えつけられ、じわじわと根を張っていく。


「菜乃、気にしないで。聞く耳持っちゃだめだ」


「……うん」




 放課後、昇降口で靴を履き替えていると、どこからか視線を感じた。


「あ……」


 その姿を認めたとき、思わず声がこぼれる。


 向坂くんだ。

 何か言いたげな表情で、強い視線を向けられる。


「また、あいつ」


 気がついた理人は眉をひそめた。


 わたしも正直、不審でたまらない。

 もしかして、わたしがひとりになるタイミングを窺っているんじゃないだろうか。


(怖い……)


 何がしたいんだろう。

 どうしてわたしに関わってくるんだろう。


 得体の知れない恐ろしさのようなものを感じて萎縮(いしゅく)してしまう。


「大丈夫だよ、菜乃。何かあったら僕が守る。あいつのことは無視してればいいよ」


 ふわりと理人が頭を撫でてくれる。


 幼い頃から変わらないこの温もりは、今朝よりもずっとあたたかくて安心した。


「ありがとう」


 ────彼と歩くいつもの帰り道、何となく気になって後ろを何度も振り返ってしまった。


 少しだけ息苦しくなって、無意識のうちに首に手を添えていた。

 今朝見た夢が一瞬、フラッシュバックする。


「……の、菜乃」


 顔の前で手を振られ、はっと我に返った。


「ぼーっとしてどうしたの?」


「……ごめん、何でもない」


 苦笑を浮かべつつ首を横に振る。


 いつの間にか家の前にいることに気がついた。


 理人との会話も上の空になるほど、わたしは何を気にしているんだろう。


 いつもみたいに彼の言う通りにすればいいのに、いまは向坂くんのことを、彼のようには流せない。

 きっと、あの夢のせい。


「寝不足ならしっかり休みなよ。あ、それとも何か不安とか悩みがあるなら相談してね。僕がついてるから」


 優しい笑顔が心に染みた。

 まるで魔法みたいに浸透していく。


「そうだね……。ありがとう。理人がいてくれてよかった」


「うん、いつでも頼って。菜乃には僕しかいないんだから」


 また明日、と手を振って別れると、その後ろ姿を見つめる。


 理人は優しい。

 いつでも、どんなときでも、わたしを優先してくれる。




 夕食とお風呂を済ませて自室へ戻る。


 カーテンを閉めようと窓に寄ったとき、ふいに外で何かが動いた。


 家の前の道路に立つ電柱、その外灯が人影を浮かび上がらせている。


 ぞく、と背筋が冷えた。

 ()と目が合う────。


(こ、向坂くん……!?)


 どく、と跳ねた心臓が早鐘(はやがね)を打つ。


 ざらざらとした砂粒が肌を撫でているように全身があわ立った。


 どうして彼がここにいるの?

 まさか、ずっとあとをつけられていた?


「……っ」


 慌ててカーテンを閉めた。

 波のように押し寄せる不安と恐怖が、わたしから平静を奪う。


「理人……」


 ほとんど無意識のうちに、電話をかけていた。


『もしもし。どうかしたの?』


「あ、あの……。いま、向坂くんが家の外に……」


『え』


 玄関は施錠してあるはずだし、自室は2階だし、さすがに入り込んでくるようなことはないだろう。


 そう思うものの、何だか不安でたまらない。


『大丈夫? 何かされてない?』


「いまのところは大丈夫……。だけど、どうしよう。どうしたらいい?」


『さすがに度が過ぎてるね。でも、とりあえず無視するしかないかも。刺激しないように』


 たとえば警察に通報したりしても、実害がない以上、取り合ってはもらえないのだろう。


「けど、どうして急に────」


 昨日までは何の関わりもなかったはずなのに。


『……どうだろう。とにかく、菜乃。怖いかもしれないけど、気にしないでいよう。不安で眠れないなら朝まで僕と話そっか』


 理人はいまできうる最大限の気遣いをしてくれた。


 そう言ってくれただけで、不思議と背中に張りついていた不安感が剥がれていく。


「……ありがとう。大丈夫。理人と話したら安心した」


『そう? それならよかった。じゃあまた明日、迎えにいくね』


「うん、おやすみ」


 通話を終えたスマホを、ぎゅ、と握り締める。


 それでも、カーテンの向こうがまったく気にならなくなったと言えば嘘になる。


(まだ、そこにいるのかな……)


 だけど、理人の言う通りだ。

 向坂くんを下手に刺激して、実害を生んではまずい。


 早めに電気を消してベッドに入ると、頭まで布団を被った。


 カーテン越しに感じる視線が、気のせいであることを願いながら────。




     ◇




「もしかしたら、幻だったのかも……」


 そう呟いた声は昼休みのざわめきに消えることなく、理人の耳にも届いたようだった。


 いつものように教室まで来てくれて、空いたわたしの前の席に座った彼は「ん?」と顔をもたげる。


「向坂くんのこと」


 その名前を口にすることさえ何だか不安で、つい箸が止まる。


 昨晩、家の前に現れた彼は、今朝カーテンの隙間から恐る恐る確かめたときにはいなくなっていた。


 最初から気のせいだったんじゃないかと思うほど、今日は姿すら見ていない。


「……ああ、そうかもね」


 そう答えた理人の声と眼差しは、どこか冷たく感じられた。


「理人……?」


「あ、ごめんごめん」


 思わず戸惑っていると、彼は苦く笑う。


「言ったでしょ、気にしなくていいって。もう彼のことは考えなくていいよ」


 励ましてくれているというよりは、どこか圧を感じるような言い方だった。


 考えるな、なんて言われても、気にしないなんて到底無理なのに。


 ゆらゆらと(なまり)が沈んで心が重たくなる。

 止まった箸を弁当箱の上に置いて、わたしは席を立った。


「あ、えと……ちょっとお手洗い」




 ────鏡の前でため息をつく。


 突き放されたようでショックだった。

 わたしには理人しか頼れる人がいないのに、あんなふうに言われたらもう何も言えない。


「……いつでも頼って、って言ってくれたのに」


 彼の前では口にできなかった言葉を返す。


 そうやって駄々をこねたら、折れてくれることは分かっている。

 だけど、理人の負担になりたくない。


 いつでも完璧で涼しげな彼の隣を歩くには、鈍感で素直な自分でいるしかない。


 理人だけを見て、言う通りにして、理人のことだけを考えていればいい。


 分かっているのに、いまはそれでも不安な気持ちと怖い思いが心の隙間に滑り込んでくる。


 再びため息をこぼしながら、お手洗いを出る。


「!」


 教室へ戻る途中、廊下の先に彼の姿を見つけた。


 人が行き交う中、じっとわたしを見据えた向坂くんが迫りくる。


 反射的にあとずさるも、あえなく捕まってしまった。


「来い」


 昨日のように手を引かれ、教室から遠ざかるように階段の方へ連れていかれる。


「ち、ちょっと待って……。やだ!」


 渾身(こんしん)の力を込めて振り払った。

 恐怖からか、心臓がばくばくと早鐘(はやがね)を打つ。


「何でわたしに構うの? 何がしたいの?」


 怯えているのを必死で隠したものの、情けなくも声が震えてしまう。


「……いま、三澄は?」


 彼はわたしの問いを完全に無視して尋ねてきた。


「そんなこと、向坂くんには関係な────」


 思わず言葉が途切れる。

 向坂くんが手をもたげて、図らずも息をのむ。


 その手には腕時計があった。


 淡い紫色のベルトが特徴の華奢(きゃしゃ)なデザインで、一見して女性用だと分かる。


「なに……?」


「これに見覚えは?」


 真剣な表情で問われるけれど、それが何なのかまったく分からない。

 わたしは正直に首を左右に振る。


「おまえが────」


「……っ」


 向坂くんが一歩踏み込んできて、心臓が跳ねた。

 思わず身構えてしまいながら、顔を背けて身体を縮める。


 怖い。

 夢で見た光景が、ふいに脳裏(のうり)を掠めたのだ。


 向坂くんに殺される。


 あの夢はもしかしたら、そんな未来を予知したものだったのかもしれない。


「おい……」


「何してるの?」


 唐突に聞こえたその声に、はっとして振り向いた。


「理人……」


 みるみる安心感が広がって、身体の強張りがほどけていく。


 彼は向坂くんとわたしの間に立った。

 昨日と同じような構図だ。


 向坂くんはとっさに腕時計を背に隠した。


「菜乃に近づかないで、って言ったよね」


「おまえに従う義理はねぇよ」


「その方が身のためだと思うけどな、ストーカーくん」


「……あ?」


「昨日の帰り、僕たちをつけてたんでしょ。それで菜乃の家を特定して、近くにずっと潜んでた」


 向坂くんは答えなかったけれど、その沈黙が肯定を意味していることは明白だった。


 昨晩、窓から見た人影を思い出す。

 あれは、幻でも妄想でもなかったんだ。


「……だったら?」


「ストーカーだって認めるんだ?」


「ちげぇよ」


「じゃあ誤解されるような行動は控えた方がいいんじゃないかな。これ以上エスカレートするようなら、本当に警察に通報する」


 さっと向坂くんの顔色が変わった。


 とはいえ、普通であれば青ざめるのだろうけれど、彼は逆だった。(いきどお)ったのだ。


「ふざけんな。どの口が言ってんだよ!」


「どうもこうも、きみの方が圧倒的に()が悪いでしょ」


 理人の余裕は最後まで崩れることなく、向坂くんは気圧(けお)されたように口をつぐんだ。


 やがて険しいほど真剣なその瞳がわたしを捉える。


「俺は諦めねぇからな。花宮がどう思おうと」




 放課後になると、向坂くんを避けるように急いで学校を出た。


 けれど、どうせ家は知られている。道を変えても無駄だ。


 だから、いまは逆にゆっくり歩いていた。

 なるべく長く理人といられるように。


(ひとりになりたくない……)


 向坂くんの鋭い眼差しも、掴まれた手首の感触も、片時も離れなくてわたしを(さいな)む。


 指先からちぎれて、ばらばらになってしまいそうだ。


 波立った心はさざめいたまま、一向に落ち着かない。


「あ、そういえば知ってる? 駅前に新しいお店ができてたよ」


「そうなんだ……」


「ケーキ屋だったかな。菜乃が好きそうな感じ。今度寄ってみようか」


「……うん」


 なるべく普段通りの話題を振ってくれているのだと分かっているのに、わたしには余裕がなかった。


 理人の気遣いを無にしてしまうような生返事しかできない。


「菜乃」


 ふいに理人が足を止める。


「また彼のこと考えてるの?」


「だって────」


 ほかごとを考えようとすればするほど、頭の中を侵食してくるのだ。


 向坂くんの言葉や態度は、明らかに普通ではないから。


 一旦口をつぐんだわたしは、そっとうつむく。


「……予知夢って、あると思う?」


 呟くように尋ね、理人を見上げた。


「予知夢?」


「実はわたし、夢を見たの。誰かに殺される夢」


 これほど彼のことを気にしてしまうのは、それも原因のひとつだった。


「夢なんだけど、すっごくリアルで。絞められた首が痛くて苦しくて」


 そっと首に触れる。

 その感覚が残っているようで、ひりついた気がした。


「……誰に殺されたの?」


「それは覚えてないの。でも、もしかしたら向坂くんなんじゃないかなって」


 理人は即座に笑い飛ばしたりすることもなく、突飛(とっぴ)なわたしの話を真面目に聞いてくれていた。


「……そっか。確かにそうかもしれないね」


 少し意外な反応だった。

 彼なら、このことも“気にすることないよ”と微笑んだりするかと思った。


「タイミング的にも妙にしっくり来るし、関係あってもおかしくないよね」


「信じてくれるの……?」


 自分でも瞳が揺れているのが分かる。


 こんな非現実的な話、いくら理人でも取り合ってくれないと思ったのに。


「当たり前でしょ。信じるよ、菜乃の言うことならすべて」


 理人は優しくわたしの手を取った。


 心から慈しむような眼差しと微笑みを向けられ、ついたじろいでしまう。


 本当に童話の中の王子さまみたい。

 でも、わたしは彼に釣り合うお姫さまなんかじゃない。


 ────そう分かっているからこそ、いつからか理人の隣が少し窮屈になった。


 それでも、わたしには彼しかいない。


 わたしの話を聞いてくれるのも、ひとりぼっちにしないでくれるのも、大事にしてくれるのも、理人だけ。


 ふいに、ぎゅっと手に力を込められる。


「だから、菜乃も僕を信じて。僕の言うことを聞いてれば大丈夫だから」


「理人……」


「あいつのことなんて考えなくていい。どうせ何もできやしないんだから……」


 何だか様子がおかしい。

 ぎゅうう、と嘘みたいに強い力で手を握り締められる。


「い、痛いよ……。どうしたの、理人……?」


 初めて見る彼の様子に、戸惑いを隠せない。


 怖い。

 痛い。

 こんな理人、知らない。


「……あ、ごめん」


 はたと我に返ると、慌ててわたしを離した。


 手の甲を見れば、赤い痕が残っている。

 それに気づいた彼は慌てた。


「本当にごめん、菜乃。傷つけるつもりはなくて」


「だ、大丈夫。ちょっとびっくりしたけど……」


 動揺をおさえられない。

 理人に対して“怖い”なんて思ったのは初めてだ。


 だけど、きっと理人はわたしを心配してくれただけ。先ほどはそれが少し高じただけなのだろう。

 きっと、そうだ。きっと。


「でも、菜乃。彼のことは本当に無視してればいいから」


「…………」


「だから、もう気にするのはやめよう。彼の話はこれでおしまい」


 いつもと同じ優しい表情。優しい声色。


 それなのに、もう二度と向坂くんの名を出すな、というような圧を感じる。


「……分かった」


 小さく笑んで頷いた。

 うまく笑えていたかどうか分からない。


 理人は満足そうに微笑んでわたしの頭を撫でる。

 なぜか、いつもの温もりを感じることはできなかった。




     ◇




 夢か(うつつ)か、その狭間を漂っているうちに夜が明けた。


 ────4月30日。


 アラームはまだ鳴っていない。

 全然寝られた気がしない。


 なかなか眠れなくて、やっと眠りに落ちてもすぐに目が覚めた。


 そのたびに不安に(さいな)まれ、何だかどっと疲れてしまった。


 昨晩も向坂くんは家の前で待ち構えていた。

 いつからそこにいたのか分からないけれど、もうカーテンを開ける気にもなれない。


 理人にも頼れないし、自分ひとりではどうにもできないし、ほんの短い間に精神がすり減って、わたしは確実に追い詰められていた。


「…………」


 起き上がってみたものの、身体が重くだるい。


(学校、行きたくないな……)


 向坂くんと顔を合わせるのが怖い。

 また、昨日みたいなことがあったら────。


「菜乃、起きてる? 理人くんが来てくれてるわよ」


 階下からお母さんの声がした。

 いつの間にかそんな時間になっていたようだ。


 ややあって、ノックの音が響く。


「菜乃」


 ドア越しに理人の声がする。


 お母さんが招き入れたのだろう。こんなことはいままでにも何度もあって、珍しいことじゃない。


「まだ寝てるの? 遅刻しちゃうよ」


 苦く笑う彼の姿が容易に想像できる。

 わたしは頭まで布団を引き上げた。


「今日は行きたくない……」


「どうして? 体調でも悪いの?」


 寝不足なせいか、体調は確かによくない。


 でも、それより大きな理由がほかにある。


 理人は本当に分からないのだろうか。

 それとも、彼にとってはどうでもいいことなのだろうか。


「……向坂くんが怖いから」


 少し迷ってから、つい口にしてしまった。

 ドアの向こうが静かになる。


 理人の言うことをきかなかったから、怒ってしまったのかもしれない。


 ぴりぴりするような空気感を肌で感じながら、わたしはドア越しに彼を窺っていた。


「……入るよ」


 ややあって、そんな断りとともにドアが開き、彼が部屋へ踏み込んでくる。


 どさ、と捨てるように鞄が置かれた。


 わたしは布団に(くる)まったまま、思わず身体を起こす。

 明らかにいつもと様子がちがう。


 やっぱり、怒っているのかも。


「理人……」


 不安になって、探るように呼んだ。


 彼はベッドの傍らに腰を下ろし、わたしを見上げる。


 普段はわたしが見上げる側なため、この視点は新鮮なものだった。


(あ……)


 昨日の帰り道と同じ、温度のない微笑みが浮かんでいる。


「……()()失敗しちゃったみたい」


 言葉の意味が分からず、黙ってその瞳を見返す。


「菜乃はあいつの話しかしないし、あいつのことばっかり考えてるし」


「それは────」


「恐怖を与えすぎても、僕を見てくれなくなるんだね」


 理人はわたしの返事など、最初から待っていないようだった。


 わたしはただただ戸惑っていた。

 まったくもって話についていけない。


「“彼”に見られたのは誤算だったけど、利用できると思ったのに。……菜乃が僕だけを頼ってくれる、って」


「なに、言ってるの……?」


「あはは、ごめん。確かに菜乃は頼ってくれたけど、僕が先に我慢できなくなっちゃったんだ。僕、自分が思ってたより嫉妬深いみたい」


 ────怖い。


 まるで話が噛み合わないことも、理人の冷淡な笑顔も。

 目の前にいるのは、本当に理人なの?


「どういうこと……?」


 困惑に明け暮れながらおののくと、理人がふいに表情を消す。


「こういうことだよ」


 伸びてきた彼の両手がわたしの首を掴んだ。


 逃げる間も抵抗する間もなく、きつく締め上げられる。


「な……に、やめ……っ」


 思うように声が出ない。息を吸えない。

 昨日の比ではないほどの力で思いきり圧迫される。


「苦しいよね。でも大丈夫、すぐに終わるから」


 彼の手を掴んで剥がそうにも、まったく敵わないほど力の差は歴然だった。


 これでは抵抗にもならない。


「り、ひと……」


 涙が滲んだ。

 ぼやけた視界で、わたしを見下ろす理人の顔が見える。


 何の躊躇(ちゅうちょ)も罪悪感もないような、晴れやかな笑みをたたえていた。


(ああ……)


 ────やっと、思い出した。


 目の前の光景と夢の記憶が混ざり合う。


 夢の中でこうしてわたしの首を絞めていたのは、向坂くんじゃなくて理人だった。


「……っ」


 ぜんぶ、思い出した。

 わたしは理人に殺されたんだ。


 あれは夢じゃない。

 現実に起きたこと────わたしはあのとき、必死で願った。


 “もう一度、やり直したい”。

 今度こそ、彼に殺されないように。


 どうして、いまのいままで忘れていたんだろう。


 本当に時が戻ってやり直す機会を得られたのに、これでは結局、また同じことの繰り返しだ。


(ばかだ、わたし……)


 向坂くんはずっと警告してくれていたのに。

 理人が危険だと、教えてくれていたのに。


 その脅威から守ろうとしてくれていたのに。


『俺は諦めねぇからな。花宮がどう思おうと』


 その言葉の意味も、いまなら分かる。


 それなのに、わたしが何もかもを忘れてしまったせいで────。


「菜乃」


 つ、と涙が伝い落ちる。

 霞んだ視界が黒く染まっていく。


「次はもっと、うまくやるから」


 水の底に沈んだように、理人の声が遠くに聞こえた。


 恍惚(こうこつ)とした微笑が歪む。

 それを見たのを最後に、わたしの意識は途切れた。




     ◇




 はっと目を覚まし、スマホのロック画面を見る。


 4月28日。

 アラームよりもかなり早く起きてしまった。


「…………」


 夢見が悪かったせいか、不思議と眠気はない。


 ────誰かに殺される悪夢。


 少しだけ息苦しいような気がして、思わず首に手を添える。


(わたしの首を絞めてたのは、誰……?)




 余裕をもって家を出て、ちらりと腕時計を確かめる。

 門前で先に待っていると、曲がり角から理人が現れた。


 少し驚いたように目を見張った彼は、それから表情を和らげる。


「おはよう、菜乃。今日は早いね」


「おはよ。何だか早く目が覚めちゃって」


 理人とふたり、並んで歩き出す。


「怖い夢見ちゃったんだ……」


「夢なんて気にすることないよ」


 眉を下げると、優しく微笑んだ理人の手が頭に載せられる。


 わたしが落ち込むと、彼は昔からいつもこうしてくれる。


 朝の柔らかい陽射しに照らされ、その温もりはいっそうあたたかく感じられた。


「そうする。……あ、今日もお昼一緒に食べられる?」


「もちろん、って言いたいところだけどごめん。今日はクラス委員の集まりがあるんだ。菜乃、先食べてていいよ」


 がっくりと肩を落とす。


 教室の隅で、ひとりぼっちでつつく弁当は本当に味気なくて、なかなか喉を通らない。


 それに、絶えず寄越される意地悪な視線に気づかないふりを続けるのも決して楽じゃない。


 落胆とともに気が重くなる。

 それでも頷こうとしたとき、理人が「あ」と声を上げた。


「たまには教室を出てみるのもいいかもよ。中庭とか、今日あったかいし」


 新鮮な提案だった。

 確かにそれなら、ひとりでも少しは落ち着くかもしれない。


「……うん、行ってみようかな」




 昼休みになると、わたしは窓から中庭を見下ろした。


 意外と人の姿が多くて、設置されているベンチも埋まっている。割と混んでいるようだ。


 このまま教室で食べようかと悩んだものの、結局ランチバッグを持って席を立った。


 趣向(しゅこう)を変えて、屋上の方に行ってみようかな。


 立ち入り禁止だけれど、もしかしたら扉が開くかもしれない。

 そう考えると、少しわくわくした。


 ほとんど教室を出ることのない、そしていつも理人と一緒にいるわたしにとっては、それだけで冒険のような気分だった。




 軽やかな足取りで階段を上っていくと、ふいに頭上で影が揺れた。


 最上階へと繋がる踊り場で、思わず足を止める。


「……!」


 上段に人がいた。

 ()は壁に背を預け、悠々と座っている。


 ここからでは横顔しか見えないけれど、目を閉じているのが分かる。


 眠っているのかな。

 そんなことを考えた矢先、ふと目を開けた彼がこちらを向いた。


「……なんか用?」


 屋上に続く扉の小窓から射し込んだ光が彼をふちどる。


 風で(こずえ)が揺れるように、心がざわめいた。

 何だろう、この感じ────。


「えと、そういうわけじゃ……」


 違和感のようなものが萌芽(ほうが)する感覚を覚えながら、小さな声で答える。


 不良っぽくてふてぶてしいその見た目や態度に、思わず萎縮(いしゅく)してしまう。


 そのとき、彼が身を起こして正面からわたしに向き直った。


「あ。俺、おまえのこと知ってるかも。三澄の彼女だ」


「え?」


「よく噂されてんじゃん。ほとんど悪口だけど」


 ほとんど悪口、という遠慮のない言葉にショックを受け、訂正が一拍遅れてしまう。


「か、彼女じゃないよ。理人は幼なじみ」


「へー。ま、どっちでもいいけど」


 さして興味なさげに言われた。

 自身の膝に頬杖をつき、わたしを見下ろす。


「飯食うならその辺座れば?」


 階段を指し示しながら言われた。

 意外と抵抗感がないことに自分で驚く。


 彼は何だか不思議だ。


 特別愛想がいいわけでもないけれど威圧感がなくて、ぶっきらぼうながら憎めないというか。

 ちょっと、何となく気持ちの部分を引かれる。


 わたしは彼の数段下に腰を下ろした。


「三澄と喧嘩?」


「まさか。今日は理人に用事があるだけだよ」


「ふーん、仲いいんだな。いつも一緒にいるし」


「……理人のこと知ってるの?」


 見るからに正反対のタイプだけれど、どういう繋がりがあるのだろう。


「あー、同じクラス。俺、向坂仁な」


 納得すると同時に、はたと気がつく。

 問題児としてよく聞く名前だ。


「おまえは?」


「あ、えっと……花宮菜乃」


「花宮ね。その反応からして俺のこと知ってそうだな」


「まあ……よくない話は結構聞いたことあるかも」


 無断欠席、遅刻、サボりのみならず、「廊下の窓ガラスを割った」とか「他校生と喧嘩した」とか、どこまでが事実か分からないけれど、色々と耳にしたことがある。


 できれば関わり合いになりたくない、と思っていたのに。


「悪名高い(もん)同士、仲よくしよーぜ」


「一緒にしないでよ」


 わたしは苦い表情で言いながら卵焼きを頬張る。


 そんな彼と、いま普通に話していることが何だか不思議だった。


 ふ、と向坂くんは笑う。


「おまえの場合はほとんど女子からの妬みだもんな。“王子”の隣も大変そうだな」


「理人の方が大変だと思う。わたし、本当にだめだめだから……」


 ついうつむいてしまうと、向坂くんが口を開く。


「おまえさ、友だちいねぇだろ」


 からかうような言い方だったものの、ばかにされたわけではなさそうだ。


 またしてもショックを受けるけれど、本当のことだから何も言い返せない。


「……理人がいるからいいの」


「あんな胡散くさい奴が?」


 思わぬ言葉だった。

 わたしを揶揄(やゆ)するに留まらず、理人まで(おとし)める必要がどこにあるのだろう。


 む、と眉根に力が込もる。


「どうしてそんなこと言うの……?」


「別に思ったこと言っただけだけど。逆にそんだけ一緒にいて、何もおかしいと思わねぇの?」


 彼の黒々とした双眸(そうぼう)が、わたしを捉えて離さない。


 言っている意味はよく分からないけれど、(そし)られているのは分かる。


「つか、おまえらどっちも異常。共依存っつーか……。三澄にマインドコントロールでもされてんじゃね?」


 ずん、と心に鉛を落とされたようだった。


 感情が凪いで、一気にささくれ立つ。

 開いた唇の隙間から、勝手に言葉がこぼれる。


「……最低」


 自分でも驚くほど冷たい声色になった。

 それくらい腹が立っていた。


「何も知らないのに、勝手なこと言わないで」


 まだ中身が半分以上残っている弁当箱を片付けると、バッグを手に立ち上がる。


 向坂くんに背を向け、一瞥(いちべつ)もくれないまま階段を駆け下りた。




 もやもやする。

 初対面の彼に、どうしてあそこまで言われなければならないのだろう。


(わたしや理人のことなんて、何も知らないくせに……)


 それでも、まともに反論することもできないで逃げるなんて、自分が情けなくて悔しい。


「菜乃!」


 教室へ入った途端に理人から呼ばれ、はっと顔を上げる。


 女の子たちに囲まれていた彼はその輪を抜け出し、慌てたようにこちらへ駆け寄ってきた。


「心配してた。中庭にも教室にもいないから、捜しにいこうかと……」


「ごめんね」


 席に座りながら謝った。

 こんな気分になるくらいなら、大人しく教室にいた方がよかったかもしれない。


 そうしたら、あんな無神経な人と関わることもなかった。

 一瞬でも心を許しかけた自分がばかみたいだ。


「……何かあった?」


 前の席に座りつつ、理人が首を傾げる。


 連なっていた女の子たちは、わたしに冷ややかな視線を残して散っていった。


「何でもない」


 何となく向坂くんのことは言い出しづらくて、わたしはそう答えていた。


 感情を隠していつも通りを装おうとするほど、相反して声色も態度も淡々としてしまう。

 むすっとしている自覚はあった。


「本当に? 大丈夫?」


「……大丈夫だよ」


 頷いても、理人には終始案ずるような眼差しを向けられた。


 なぜか、ふいに向坂くんの言葉が蘇る。

 ────“共依存”。


 理人はただ、優しいんじゃないの?


 過保護なのは、頼りないわたしを心配してくれているからじゃないの?


「…………」


 そうじゃないとしたら、わたしを信用していないってこと……?


 思わず彼を見上げた。


 向坂くんとは対照的な、色素の薄い柔らかい双眸(そうぼう)

 幼い頃から変わらない、あたたかい眼差し。


 その目には、確かにわたしが映っている。少しも揺らぐことなく。


「菜乃?」


 不思議そうに彼が名を呼ぶ。


「……本当に何でもないよ」


 わたしはほんのりと笑いながら、もう一度繰り返した。


 ありえない。

 理人がわたしを信用していない、なんて。


 だって、こんなに長く一緒にいて、こんなに仲がいい。

 理人もわたしも、お互いの一番近くにずっといるんだ。


 信じていなければ、もうとっくに離れている。


 ────彼は優しいだけだ。


 彼を必要とするだめだめなわたしに、応えてくれているだけ。

 それは、共依存なんかじゃない。




 夜が更け、濃紺の空に星が瞬く。

 窓からそれを眺めつつ、部屋のカーテンを閉めた。


『つか、おまえらどっちも異常。共依存っつーか……。三澄にマインドコントロールでもされてんじゃね?』


 向坂くんの辛辣(しんらつ)な言葉と、理人を“胡散くさい”と評したことは、思い出すたびにむっとした。


『何も知らないのに、勝手なこと言わないで』


 それでも────“何も知らない”のは、わたしも同じだった。


 向坂くんのこと、全然何も知らない。


 人づてに聞いた話や勝手なイメージに左右されていた。

 その色眼鏡を外せないまま彼と接していた。


 なのに“最低”だと(ののし)ったあの態度は、幼稚で行き過ぎていたかもしれない。


 時間が経って少し冷静になった。


 ささくれ立っていた心がなだらかになると、そこに昼間の出来事がぽつんと浮かび上がって影を落とした。


「……謝ろう、明日」


 屋上へと続くあの階段へ行けば、また会えるだろうか。




     ◇




 昼休みを待って、わたしは席を立った。

 昨日と同じようにランチバッグを片手に教室を出る。


「菜乃」


 廊下に出た瞬間、理人に声をかけられた。

 なんてタイミングがいいんだろう。


「どこ行くの? 中庭?」


「あ、えっと……」


 どう言おうか迷った。


 毎回きちんと約束しているわけではないものの、理人とは毎日一緒に昼を食べることが習慣になっていた。


「ほかのクラスの友だちと食べてくる」


 そう答えると、理人はかなり驚いたようだった。


 目を見張って「友だち?」と聞き返され、わたしは頷く。

 正確には友だちではないのだけれど。


「知らなかった。菜乃にそんな子がいたんだ?」


「う、うん。昨日初めて話したの」


 理人はわずかに目を細める。


「……どんな子? 女の子だよね?」


「えっと……そうだよ」


 半ば焦りながら嘘をついた。


 正直に答えれば、理人の“過保護”を助長させてしまうのではないか、ととっさによぎったのだ。


 真剣に表情を引き締めていた彼は、ふいに微笑んだ。


「よかった。菜乃に悪い虫がついたら心配だからね」


 それを聞いて、正直に言わなくてよかった、とひっそり息をつく。


 それほどにわたしを大切に思ってくれていることが嬉しい反面、理人の(かも)し出す圧のようなものが少し怖い。


「じゃあ、またあとで」


「う、うん」


 手を振った理人が自身の教室へ戻ったのを見届けてから、わたしは階段を上っていく。


「…………」


 心臓がどきどきしていた。

 指先が冷たく、意識して深く息を吸わないと身も心も落ち着かない。


 正直、緊張していた。

 少し、会うのが怖い。


「!」


 果たして、向坂くんはいた。


 屋上の扉へ突き当たる最後の階段に、昨日同様、腰を下ろしている。


 今日は段差にまっすぐ座っていて、見上げた途端に目が合った。


「……あ」


 わたしの姿を認めると、頬杖をついていた腕を膝から下ろす。


 気まずさを拭えないまま、わたしは踊り場で足を止めた。


 どうやって切り出そう。

 まず、何て言おう。


 そうこうしているうちに、向坂くんの方が先に口を開く。


「……昨日は悪かったな」


 弾かれたように顔を上げる。


「え……」


「俺、何も考えずに無神経なこと言った。ムカついただろ? 悪かったよ、マジで」


 まったく予想外の展開だった。

 まさか、彼の方から謝ってくれるなんて。


「わたしもごめん。向坂くんのこと悪く言っちゃって」


 バッグの持ち手を両手で握り締め、うつむきながら目を伏せる。

 緊張が再燃してきて、身体の芯が強張った。


「謝んなよ、おまえは何も悪くねぇだろ」


「え? でも……」


「つか、あんなん悪口にも入らねぇよ。何ならもっと言っていいぞ」


 大真面目な顔で言われ、思わず込み上げた笑いがこぼれてしまう。


 思っていたのとちがう。

 向坂くんって案外、怖い人じゃないんだ。


「……何だよ?」


「ううん、ごめん。仲直りってこんな感じなのかなって」


 何だか心がくすぐったい。


 軽やかに階段を上り、昨日と同じ位置に座った。


「まあ……。別に喧嘩でもねぇけどな」


 それでも、わたしにとっては初めてのことだった。


 こんなふうに誰かとぶつかったことも、それを謝って謝られることも、許して許されることも。

 理人とは絶対に衝突することなんてないから。


「────なあ。詫びに俺がなってやるよ、友だちに」


 思わぬ言葉続きだった。


 驚いたまま向坂くんの瞳を見つめると、反対に彼は、ふいと逸らしてしまった。


「……何かおまえ、思ってたより面白そうだし」


 ふてぶてしいのは相変わらずだったけれど、そこに悪意がないことははっきりと分かった。


 涼しげな向坂くんの横顔を見上げ、小さく笑う。


「ありがとう」


 純粋に嬉しかった。

 わたしにとって初めての“友だち”。


 これまで知らなかった感情が、心の内にじんわりとあたたかく広がっていく。


 ────向坂くんは、わたしに“初めて”をたくさんくれる。




     ◇




 わたしはクッションを抱いたまま、ベッドの上に座っていた。


 昼休みのことを思い出すと、無意識に頬が緩む。




「三澄はどうした? 今日も用事?」


 向坂くんは購買のパンを、わたしは弁当を食べながら話していた。


「ううん、今日はわたしが断ってきたの」


「マジで? あいつ、よく止めなかったな」


 心底意外そうに言う彼に苦く笑う。


「女の子だって嘘ついちゃった」


「あー、そういうことな。……にしても、過保護だな。彼氏じゃねぇなら保護者かよ」


 向坂くんは呆れたように言い、パンを(かじ)った。

 それからすぐに「あ」というような顔をして向き直る。


「悪ぃ、いまのは────」


「でも、仕方ないの」


 昨日のことを思ってか、すぐに悪びれた彼の言葉を遮った。


「わたし、本当にひとりじゃ何もできないから……」


「……んなことねぇよ」


 向坂くんが言う。


「昨日ここに来たのは? 怒ったのは? 今日謝りにきたのは? 三澄に言われたわけじゃねぇんだろ」


「それは……」


 それは、そうだ。

 わたしの意思でそうした。

 わたしの感情の機微(きび)がそうさせた。


「おまえが選んだんだよ。自分ひとりで判断して、選択した」


 はっと目を見張る。わたしが決めた?


「そしたら、ほら。俺って友だちもできただろ」


 わたしの心をがんじがらめに縛っていたリボンが、彼のお陰で少しずつほどけていくような気がした。


 わたしが笑うと、ふっと向坂くんも口端を持ち上げる。

 彼の自信を少し、分けてもらえたような気がした。


 ────ぎゅ、といっそう強くクッションを抱き締める。


『……頑張ってるよ、おまえは』


 向坂くんの言葉が深く浸透していく。


 弱い気持ちに押し負けそうになりながらも、今日、勇気を出して彼に会いにいってよかった。


 彼と出会えてよかった。

 話せてよかった。


 彼の教えてくれる、わたしの知らない“初めて”が、自分自身を信じるきっかけをくれた。


 もっと、ちゃんとしよう。

 理人の助けがなくても、何でもできるように自立しなきゃ。


 “王子”と言われる理人の隣にいても、堂々と顔を上げられるように。


 いつか彼のもとから離れても、心配させないように。


 変わることを恐れて最初から諦めていた。

 向坂くんのお陰で、目の前が晴れたような気がする。


「明日も会えるかな……」


 会いたいな。


 もっと話してみたい。

 もっと、向坂くんのことを知りたい。




     ◇




 アラームを止める。


 時間通りに起きられたと思ったのに、よく見たらスヌーズだった。


「やば……!」


 早く起きてゆっくり準備しようと思っていたのに、これではそんな余裕もない。


 急いで着替えを済ませ、朝食をとる間もないまま家を出た。


「あ、菜乃」


 ちょうど理人が門の前から顔を覗かせたところだった。


 慌てて駆け寄って息を整える。

 ばたばたしていたせいで、何だか暑く感じた。


「お、おはよ……!」


「おはよう。もしかして寝坊したの?」


「そうなの……。夜、何だか眠れなくて」


 思わず恥じらい、笑って誤魔化した。


 向坂くんのことを考えていたせいだ。

 とても理人には言えないけれど。


「どうして? 何か悩み事?」


「ううん、そういうわけじゃないよ。大丈夫」


 彼と並んで歩きながら、左手首に腕時計を巻く。


 心なしか今日は、いつもより陽射しがあたたかい。

 優しい春のにおいが風に乗って運ばれてくる。


 そのせいか、もしかしたらほかの理由も相まってか、不思議と足取りが軽やかになった。


 今日もあの階段へ行ったら、向坂くんに会えるかな?

 今度はもっと、彼の話を聞いてみたい。


「……何かご機嫌だね? いいことあった?」


「えっ? そ、そうかな」


 かぁ、と熱を帯びた頬を思わず両手で包み込む。

 心当たりはひとつしかない。


 核心めいたことを言われたわけでもないのに、なぜだか勝手に心音が加速する。


 理人には、芽生え始めたこの気持ちをすぐに見抜かれてしまいそうだ。


「……菜乃、今日は一緒に昼食べるよね?」


 確かめるように問われる。


「え、っと」


 正直なところ、できれば向坂くんに会いにいきたい。


(そうしてもいい、よね? わたしがいなくても、理人がひとりになることなんてないし)


 彼なら分かってくれるはずだ。

 なんと言っても、わたしの一番の理解者なのだから。


「ごめん、理人。今日もほかのクラスの子と食べてもいい?」


 窺うように見上げると、彼はどこかショックを受けたようだった。


 ちく、と胸が痛んだけれど、自分の感情を優先してしまう。


「……そっか。分かったよ、残念だけど」


「ほ、本当にごめんね」


「謝ることないよ。菜乃に友だちができたのは僕も嬉しいし」


 理人は優しく微笑んでくれる。


 やっぱり、理人ならそう言ってくれると思っていた。


 だけど、何となくその声には感情が乗っていないような、そんな気がした。




 4限終わりのチャイムが鳴る。


 ランチバッグを持って席を立つと、階段を上っていく。


「よ、今日も来たんだな」


 わたしは「うん」と頷き、段差に腰を下ろす。

 この場所は何だか秘密基地みたいだ。


「向坂くん、いつも早いね」


「サボってるからな。ここが一番いいんだよ」


 人が来ないから、だろうか。

 もしそういう理由なら、わたしは邪魔だったりしないかな。


「おまえも気に入ったならサボりに来れば?」


 ふとよぎった心配を察したのか、先んじてそう言ってくれた。


「いいの?」


「別に俺の許可なんかいらねぇよ。おまえの勝手だろ」


 ぶっきらぼうながら優しい言葉だった。

 ────少しずつ、向坂くんのことが分かってきた。


 彼は一見、無愛想で無神経そうなのだけれど、実は人のことをよく見ているし、その機微(きび)にも敏感だ。

 そして案外、素直なところもある。


「なに?」


 思わずじっと見つめてしまうと、不思議そうに見返してきた。


「……優しいよね、向坂くんって」


「は? 俺が?」


「うん、本当に」


「なわけあるかよ。三澄の方が優しいんじゃねぇの」


 頭の中に理人の微笑む姿が浮かんだ。


 慈しむような眼差しと、頭を撫でてくれるあたたかい温もりを思い出す。


「確かに理人も優しいけど……ちょっとちがう。何て言うか、向坂くんはわたしに前を向かせてくれるの」


 理人は確かに優しいけれど、その優しさはわたしを甘やかして、だめな現状に留まらせる。


 その甘さに溺れたら、それこそ理人に依存してしまうだろう。


 その点、向坂くんはちがっていた。


 すぐ弱気になるわたしを奮い立たせ、変わろうとしている意思を()んで認めてくれた。


『……頑張ってるよ、おまえは』


 だからこそ、前を向ける。前に進める。

 向坂くんがそう言ってくれたから、だめだなんて簡単に諦めないでいようと思えた。


「……ふーん。何かよく分かんねぇけど」


 彼はパンの包装を破る。


「俺は嘘とかつけねぇから、思ったこと言ってるだけ。優しくなんてねぇよ」


「……でも、わたしは救われてるよ。ありがとう」


 そう言って笑うと、今度は向坂くんがわたしを見つめた。


「……おまえってさ、よく恥ずかしげもなくそういうこと言えるよな」


「えっ?」


「俺、ひねくれ者だから一緒にいると()れるぞ」


 わたしは小さく笑う。


「それならそれでいいよ。わたしが向坂くんといたいだけ」


「……だから、そういうとこだっつーの」


 彼は呆れたようだったけれど、それ以上は何も言わずにパンを頬張っていた。


 拒絶されなかったことを嬉しく思いながら、わたしも箸を口に運ぶ。


「甘いもの好きなの?」


 彼の手にしているメロンパンを見て尋ねた。

 何となく意外なセレクトだ。


「……まあ、嫌いじゃねぇけど」


「そうなんだ! わたしも好きなの」


 思わぬところに共通点を見つけて、ますます嬉しくなる。


「そういえば、駅前に新しいケーキ屋さんができたって────」


 そこまで言いかけて、はたと言葉を切る。


 この話、どこで、誰から聞いたんだっけ?


「……花宮?」


 急に黙り込んだわたしを訝しむように、向坂くんは眉を寄せている。


「あ……ごめん。ちょっと」


 うまく誤魔化すことができたらよかったのに、掠めた違和感はあまりに大きくて戸惑ってしまった。


 自分で知った覚えも、誰かに聞いた記憶もないことを、わたしはどうして口にしたんだろう。


「何か、顔色悪ぃけど」


「え、本当……?」


 思わず顔に触れようとしたものの、反射的に動きが止まる。


 伸びてきた向坂くんの手が、先にわたしの頬に触れたのだ。


 びっくりした。

 目を見張ったまま固まってしまう。


「熱はなさそうだな」


 すぐに手は離れていく。

 それでも、頬には温もりと感触が取り残されたまま。


 節くれ立った指や手の甲は、自分の華奢(きゃしゃ)なそれとは全然ちがった。

 男の子だ、と当たり前のことを意識する。


「…………」


 その瞬間、どきどきと鼓動が加速した。

 直接、自分の耳に心音が聞こえてくるようで動揺してしまう。


 からん、と音を立てて箸が落ちた。


「大丈夫か?」


「だ、大丈夫!」


 ぱっ、と思わず逃げるように顔を逸らし、箸を拾ってしまう。


 何だかもう食べられない。胸がいっぱいで、苦しい。

 急いで片付けると立ち上がる。


「わたし、もう行くね。また明日!」


「おい……」


 困惑したような彼を残し、慌ただしく階段を駆け下りていく。


 これ以上一緒にいたら、心臓が壊れてしまいそう。




 教室の前で、一度足を止めた。


 そっと胸に手を当てると、てのひらに鼓動が伝わってくる。


 いままでに味わったことのない動悸と感情。

 きゅ、と心を締めつけられているようで苦しいのに、不思議と嫌じゃなくて────。


(わたし……)


 気づいてしまった。

 初めての気持ちなのに、その正体に。


 熱を帯びた頬に両手を添えても、じん、と指が熱く痺れるだけで冷めない。

 真っ赤に染まっているんだろうな、と自分でも分かる。


 向坂くんのくれた“初めて”は、この気持ちもそうだ。


 その正体が分かっても、戸惑いからか目の前が潤んで世界がきらめく。


「……菜乃?」


 ふいに呼びかけられて振り向くと、そこには理人がいた。


「どうかしたの」


 理人は少し硬い表情で尋ねる。


 既にあらゆることを悟っているようで、それでも拒んでいるような。


「理人。今日、一緒に帰ろう」


「え? うん、もちろん」


 騒がしい心臓の音を落ち着けようと、そっと息をつく。


(────言おう)


 理人に、この気持ちを正直に打ち明けてみよう。

 わたしの“変わりたい”って覚悟も伝えよう。


 きっとそれが、彼の優しさやわたしを大事に思ってくれる気持ちに応えることになる。


 理人なら分かってくれるはずだ。

 わたしの一番そばに、ずっといてくれた理人なら。




     ◆




 終焉(しゅうえん)が近づいてくる音がする。


 隣を歩きながら、菜乃の横顔を見つめた。


 桜みたいにほんのりと色づいた頬が、伏せた睫毛の落とす影が、嬉しそうに笑む唇が、僕の心を焼いていく。


「……どう? “お友だち”とは」


 微笑を貼りつけて尋ねてみる。


「えっ! あ……うん。昨日より仲よくなれた、かな」


 どこか照れくさそうに首を傾げる菜乃。

 一緒にいるのに、話しているのに、その瞳に映っているのは僕じゃない。


「…………」


 ────焦げていく。焦がれていく。


 黒い(もや)が頭や心の中に広がるにつれ、焦燥感をかき立てられる。


「あ、あのね。理人」


「ん?」


 鈍感なふりをして、足を止めた彼女を振り返る。


「わたし、理人には感謝してるんだ。いままでずっと、だめなわたしを支えてくれて」


 思わぬ話の切り出し方に困惑していると、菜乃はいつになく凜とした表情で顔を上げた。


「でも、これからは……自分でできることは自分でやろうと思う。だから、朝もお昼も帰りも、もうわたしに合わせてくれなくて大丈夫だよ」


「…………」


 突き放されたのだろうか。あるいは、拒絶?


 いずれにしても、彼女の言葉に大きな衝撃を受けてしまう。

 しばらく思考が止まり、言葉を失っていた。


「……そう」


 やっと発せられたのはそのひとことだけだった。


 受け入れたわけじゃないのに、理由を聞きたいのに、何から口にすればいいのか分からない。


 菜乃にはもう、僕は必要ない────。


 そういう意味なのだろうか。

 焦燥が、心と肌を逆撫でする。


「それと、ね」


 僕の心情なんて知る(よし)もない菜乃は、すぐにその話題を切り上げた。


 荒波が立つ本心をひた隠しに、僕はいつものように微笑んで首を傾げる。


「もうひとつ、言いたいことがあって」


 秒読みが始まる。

 僕たちの世界が崩れていく、絶望へのカウントダウン。


 頬を赤らめた彼女は、幸せそうな笑顔をたたえた。


「わたし、好きな人ができたかも」


 そう言うのだろうことは、あらかじめ分かっていた。


 ────昨日も今日も、向坂と随分親しげにしていた菜乃を見ていた。

 その恋心に気づかない方がおかしい。


「……へぇ、そっか」


 黒く焦げて、燃え尽きた心が灰になる。


 余裕を失った僕は、微笑を保つ気力さえなくしていた。


 すっかり舞い上がっている菜乃は、気づくことなく嬉しそうに笑っている。


 天使みたいにかわいい。

 純真できらきらした瞳も、癖のついたふわふわの髪も、僕を呼ぶ舌足らずな声も。


 昔からずっと変わらない。


 僕がいないと、何もできない。

 僕だけを信じて頼ってくれる菜乃。


(……だったはずなのに)


 世界が壊れていく。

 また、僕のもとから菜乃がいなくなってしまう。


(また、失敗したんだ)


 思わず自嘲するような笑いがこぼれた。




     ◇




「……菜乃。その“好きな人”って、向坂くんでしょ」


「えっ!?」


 あまりに驚いて、素っ頓狂(とんきょう)な声が出た。


「な、何で分かったの?」


 またしても頬がじわじわと熱を帯びてきて、隠せないし誤魔化せない。


 わたしってそんなに分かりやすいのかな。

 どぎまぎしていると、ふっと理人が穏やかに笑った。


「そりゃ分かるよ。どれだけ一緒に過ごしてきたと思ってるの」


 何だかテレパシーみたい。

 ときどき、本当に心が読めるんじゃないかと思うほど理人は鋭いときがある。


 思わず力が抜けて、照れたように笑って頷く。


「そう。わたし、向坂くんが好きみたい」


 ────ざぁ、と吹いた風が、夕方ののどかな空気を(さら)っていく。

 わたしと理人の髪が揺れる。


「……ありえないよ」


 ふいに理人が踏み込んだと思ったら、次の瞬間には腕を掴まれていた。


「え?」


 そのまま強く押され、背にレンガ塀が当たった。


 まともに打ちつけた背中と腕が鈍く痛む。

 どさ、と鞄が地面に落ちた。


「理人……?」


 戸惑ったように彼を見上げれば、理人も縋るような眼差しを返して呟く。


「何で……」


 ぎりぎりと腕が締め上げられ、彼の爪が食い込む。


「い、痛い……!」


 (よじ)って抜け出そうとしても、まったく敵わなかった。

 彼のどこにこんな力があったのかと驚いてしまう。


「やめ、て。離して、理人……っ」


 塀と擦れた手の甲がひりひりする。

 腕の骨が割れてしまいそうなくらい痛くて、目の前がちかちか明滅(めいめつ)した。


 ただ押さえつけられているだけなのに、まるで(はりつけ)にでもされたかのように身動きが取れない。


 じわ、と涙が滲んだ。

 痛みだけじゃなく、動揺のせい。


 よく知っているはずの理人が、別人のようで怖くなった。


「ごめんね、菜乃」


 彼も彼で苦しそうに眉を寄せていたものの、やがてその表情が緩んだ。


「やり直そう、もう一回」


 理人はそう言うと、掴んでいた腕を離した。

 感覚が一向に戻らない。


 ふ、と目の前が(かげ)って、顔をもたげる。


「りひと……?」


「また、すぐに会えるから」


 そう言った彼が何かを振り上げたのが分かった。


 それが何なのかを理解する間もなく、避けることもできないうちに、勢いよく振り下ろされる。


「……っ」


 頭に強い衝撃が訪れた瞬間、目の前が真っ暗になった。




     ◇




 絶叫とも言える悲鳴が部屋に響き渡った。


 数秒後にそれが、自分から発せられたものだと気がつく。

 喉がからからに渇ききっていた。


 心臓が早鐘(はやがね)を打つ。

 冷や汗が滲み、寒気がする。


(わたし……)


 小刻みに震える両手を見下ろす。


「生きてる……?」


 ()()、確かに理人に殺されたはず────。


 帰り道、抵抗の余地もなく何か重いもので頭を殴打された。


 それから、どうなっていま、自分のベッドの上で目を覚ますことになったのだろう。


 そのとき、階下から声が聞こえてきた。


「菜乃、どうかしたの!?」


 焦ったようなお母さんの声だ。

 悲鳴を聞きつけ、心配してくれたのだろう。


「な、何でもない! 大丈夫……!」


 とっさにそう答えてスマホを確認すると、まだアラームまで1時間近くあった。


(夢だったのかな……?)


 そうは思えないほど生々しくてリアルだったけれど。


 今日は何だか彼に会いたくない。


 わたしは急いで支度を済ませ、最後に腕時計をつける。

 理人が来る前にひとりで家を出た。




(……夢だったんだよね?)


 何度も何度も繰り返し自問自答した。


 そんなの当たり前のはずなのに、どこか()せない思いが拭えない。


 そのうち、わたしが殺された場所にさしかかった。


 塀の下、地面に転がっているレンガが目に入る。

 きっと、あれで殴られたのだ。


「……っ」


 ぎゅ、と鞄の持ち手を強く握り締め、わたしは再び歩を進める。


 そのとき、ふいにスマホが震えて思わずびくりと肩を揺らした。


 取り出して見ると、理人からのメッセージだった。


【おはよう、いつも通り迎えにいくね】


  表示された通知を目にすると、なぜか心臓が冷たい拍動をする。

 彼に対して身体が勝手に拒絶反応を示していた。


 ふと、ロック画面の日付が目に入る。


「……え?」


 ────4月28日。


 まだ、夢の中にいるのだろうか。


 おかしい。

 “昨日”は確かに、4月30日だったはずなのに。


「どういうこと……?」


 小さく呟いた声は不安気に揺らいだ。


 何か、とんでもないことに巻き込まれてしまったかのような予感にあわ立つ。


(向坂くん────)


 ふとその名前が頭に浮かんだ途端、気づけば地面を蹴って駆け出していた。


 彼に会いたい。


 向坂くんに会えば、夢と現実の境界線が分かるかもしれない。


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