7つの月
人間なんて、流されやすいもの。
時間に流され、環境に流され、人間関係に流され、自己を主張し過ぎず、他者に同調しがちで、事を荒立てたくない。
彼も、そうだ。親の勧めた家から通える大学へ入り、時にクラスメイトと夜遊びを楽しみ、授業態度は比較的真面目に、良くも悪くも目立つ事なく、模範的な青春を謳歌して入社した、実家から電車で40分程度の会社。私服通勤可能で、休憩室が広い所が気に入っている。ほどほどに広く浅く誰にでも笑顔で対応し、特別に仲の良い相手を作らずとも他人と衝突しないように。のらりくらりと、やり過ごす日々だった。
だというのに。
その日は朝から酷い頭痛に苛まれていた。勿論、それで欠勤出来るほど責任の無い仕事をしているつもりもなく、立ち寄った駅ナカのドラッグストアで鎮痛剤を買って、いつものホームへ立つ。都心から少し離れた、ホームドアのない乗り場。電車到着のアナウンスが流れる。
「ーーーー」
にわかに騒がしくなり、弾かれたように覚醒した。あれだけ煩わしかった頭痛は嘘のように消え去って、寝起きのような思考の遅さは感じるが身体的な異常は皆無。出来ることなら、窓ごとカーテンを開け放ち、冬の空気を少しだけ纏わせた秋晴れの空に腕を伸ばしたい。
それが適わなかったのは、初めて見る風景と、7人の神父風な衣装を着た人々と、普段なら向けられる事の無い奇異の目故。
恐怖と焦燥で乾いて引き攣った喉からは、疑問の音さえ出てこない。
円形の部屋。高い天井には7色のステンドグラスが輝いて、中央の天窓から紫色の月が覗く。礼拝堂を思わせる室内には、これまた円形の台座。自分がそこに居ることにも、ようやく気付いた。
「なんだ、こいつは」
「祭壇がーー」
「どうして」
「黒い髪だぞ」
「紫月の週だろう」
「紫空の神子はーー」
「駄目だ。神子に何かあったらーー」
「領主様には?」
「伝令は出している」
いそいそと台座を降りながら、次第に靄の晴れていく頭で聞き慣れない単語を拾い上げる。しかし、状況を理解するには何もかもが不足していた。此処は何処で、今はいつで、どうやって、何の為に。
疑問が混乱を呼び、混乱は不安を広げて、不安の中から疑心が生まれる。渦を巻くようなそれらの感情は、鮮烈な声で焼き尽くされた。
「司祭、何事だ?」
「コンフォーコ団長」
名を呼ばれた女性は橙色のポニーテールを揺らし、珍事を囲んでいた人間たちの前に出る。
『共通の話題』というのは非常に便利で、広く浅く、多様な趣味に手を出してきた。その中に、アニメやゲームといったジャンルも、勿論含まれる。そんな、にわか知識で例えるならば、『騎士』。
銀の胸当てと、歩く度に翻る長いマント。腰に下がる剣は、おおよそ女性が振り回す物とは思えないがーー
「名は?」
片手で軽々と引き抜かれたソレ。喉元へと触れた切っ先の冷たさに、心臓が痛い。
張り詰めた緊張感の中、警戒しながらも敵意の無い彼女の瞳は、胸襟を開くに値すると信じて。
「……シルク」
あまり好きではない自身の名前が、今この時だけは唯一自分を自分足らしめるモノであると実感する。
「ふむ。シルク、ここが何処だか理解しているか?」
「いえ、わかりません」
「何故ここに居る?」
「わかりません」
「どうやって侵入した?」
「ッ、わかりません……」
「記憶喪失か?」
「いいえ……いつも通り、仕事に行こうとしてーー」
聞かれたことは、今し方自身に問うた疑念と同じ。導き出した答えも、また同じだった。
駅のホームに立った辺りで、糸が途切れる。その後に何かあったというのなら、ある意味記憶喪失とも呼べるのかもしれないが。
「嘘は無いように思うが。ジャルダ司祭?」
「同感です」
薄紫のクロブークに似た帽子を被った、大人しそうな女性が応える。
「混乱と不安の気配は致しますが、謀を企てる者の揺らぎは視られませんね」
「刺客の類でないとすると、ますます処遇に困るな」
「ワタシに預けてみるかい?」
「きゃッ」
不意に現れた長身の男。ジャルダと呼ばれた女性が短く悲鳴を上げる様子に、満足気な笑みを湛えている。呆れ顔のコンフォーコとは裏腹に、他の司祭には安堵が広がっていた。
「カフィツィオーソ様、ヴァルドの祭壇がーー」
「うんうん。伝令から話は聞いているよ」
若草色の司祭が畏まると、革靴の音を響かせながら男は部屋をぐるりと回る。
「まあまあ。ひとまず落ち着きたまえ。祭壇には異常が無いようだし、紫月の魔力も変わり無い。供給は普段通り安定しているね」
そうしてシルクの前で、ぴたりと立ち止まった。172センチのシルクでも少し見上げる形になって、型にはめたような笑顔の圧が、少し怖い。
「君は、何処から来たのかな?」
「っ、ーー!」
それが、核心であると。理解した口振り。早鐘を打つ心臓を、服の上から無理矢理に押さえ付けた。
「たぶん、ココとは、違う世界から」
「なるほど。構わないよ。君が、我らが紫月の導きで此処へ訪れたのだとすれば、ワタシは君を受け入れるとも」
なんとも懐の広い話だ。どこの馬の骨とも知れぬ、異界からの放浪者を受け入れると宣った。聞き捨てならない単語も無いではないが、問答無用で処遇を決められるよりは万倍マシだ。
「とはいえ。異例中の異例、かつてない珍事。領主会議は避けられないね」
「領主、会議……」
「そうだな。議定の間は、この城で仕事をしてもらおうか……何か特技は?」
「えっと……」
流されるまま、示されるままに生きてきた。特技と呼べる程の何かが、はたして我が身に在るだろうか。握り締めた手に、馴染んだ鞄の感触。
「動物の世話ができます」
☆☆☆☆☆☆☆
『そういえば、厩舎のイブリダ爺が後継を欲しがっていたな』
この一言で厩舎行きの決まったシルクを案内するのは、発案者でもある橙髪の女性。コンフォーコと名乗った彼女は、道すがら様々なことを教えてくれた。
この世界は、7つの月に7柱の神が住む。7日毎に交代で近付く月から齎される豊富な魔力が、世界の生命線だ。
7色の月には属性があり、ヒトも動物も、自身と相性の良い魔力の属性は生まれ付き決まっている。そうして取り込んだ魔力は髪や瞳など、身体的にも現れるのだそうだ。
「私の場合は、橙月の魔力を得て、炎を操る。最も、剣を振るっている方が性に合うのだが」
橙色の髪を摘み、少し照れ臭そうに告げる横顔は、どこにでも居る普通の女性だった。
「今週は紫月が近い。紫月の魔力は空間を司り、転移の魔法や結界の魔法がこれに該当する」
コンフォーコは、不意に足を止め、シルクを振り返った。
「『月の導き』と、領主様が例えられたな。紫月の力で、君が転移してきた……いや、召喚、か?」
ピタリと当て嵌まった言葉。交わった視線で、両者腑に落ちた様子は伝わっただろう。
再び歩き出した背中を追いかけながら、シルクは窓の外を横目に見た。明るい空でもはっきりと見える7つの月。一際大きな紫色の月が、悠然と世界を見下ろしている。
次に教えてもらったのは、この国のこと。
エーラ共和国。中央に位置するこの城を、7つの領が取り囲んでいるという。とはいえ、『王城』であったのは何百年も昔のこと。現在は、7人の領主が会議を開く、議事堂としての役割が大半を占めているらしい。
「さっきの……祭壇、の部屋は?」
「……月へ神子を捧げる、ヴァルドの祭壇」
冷えた空気が項を掠める。ピリリと肌を刺すそれが、失言を教えてくるが、もう遅い。
「7つの月が、7度巡る、その日の晩。魔力の強い者を神子として、月へと還す儀式がある。そうすれば、月からの供給は潰えることなく、永遠のものである。と」
声色に含まれる感情は、怒りか、悲しみか、切なさか。全くの部外者であるシルクは思う。『とんでもない悪習だ』と。月が生贄を要求するなんて、平々凡々に生きてきた身からすれば素っ頓狂な話だ。
「まるで、御伽噺だ」
ふと、コンフォーコへ視線を戻す。長い睫毛を瞬かせ、蝋燭のように揺れる瞳が、まっすぐにシルクを射抜いた。
「君も、こんな世界はおかしいと思うか?」
「え、ああ、まぁ……本当に必要なのかな、と」
素直な疑問を口にした途端、薫る灯火は、盛る火柱へと変わる。
「そうだろう! 世界の為とはいえ、誰かの犠牲を見過ごすなど! 私もずっと、他の在り方はないものかと考えていたんだ」
おそらくは、彼女の方がこの世界では異端なのだろう。何百年と続いた生贄のシステム。当たり前に受け入れられてしまったソレに異を唱え、ともすれば平穏を掻き乱し、安寧を打ち砕くことに、恐怖を抱くことは臆病ではない。誰に相談することもできず、ひとり胸の内に抱えてきた秘め事だったに違いない。
そんな彼女が、世界の外側に触れた。
「だが、私は剣術ばかりで学が無い。故に、考え事は君に任せよう」
「ん?」
「何かあれば遠慮なく相談してくれ」
「んん?」
「これからは同じ志を目指す同士ということだからな!」
「んんん?」
思っていた展開と違う。共犯のように巻き込まれ、それでも強く訂正できないのが、流れに逆らえない一般社畜である。我が身の情けなさを嘆きつつ、愛想笑いは無意識のうちに作れてしまうから尚更厄介だった。
「励めよ、シルク。私のことは好きに呼んでくれ」
「コンフォーコ、さん……団長って呼ばれてましたっけ?」
「ああ、領地を治めるにも秩序が必要だからな。領ごとに自警団を設立しているんだ」
警察組織のようなものか、と納得する傍ら、目の前の女性の立場が浮き彫りになる。
「クラテーレ領自警団団長、コンフォーコ・クラテーレだ」
「わぁ……」
とんでもないお嬢さんだった。
☆★☆☆☆☆☆