盲目的な初恋の行方
「リーリエ、君との婚約を破棄させてもらいたい」
いつものように王宮を訪れたリーリエ・フォン・エーレンベルクは、いつものように婚約者であるアレクシス王太子の私室へと案内された。
リーリエを出迎えたのは、婚約者であるアレクシスと、もう一人。
「お姉様、こんなことになってしまって、ごめんなさい……」
リーリエの異母妹、クリスタだった。
突然婚約者から婚約破棄を告げられたリーリエは、長い睫毛に縁取られた大きな新緑の色の瞳をぱちりと瞬かせる。
そして、そのまま何も言わず、静かに一礼して部屋を辞した。
リーリエの退室を見届けると、アレクシスは微笑み、隣に座るクリスタの手を取った。
「クリスタ、君の望みを叶えたよ。これでずっと、一緒にいられるね。ああ……こんなに焦がれるような気持ちは初めてなんだ。これが、初恋なのかもしれない」
「ありがとうございます、アレクシス様。とっても嬉しい……」
クリスタは微笑み返す。
アレクシスの瞳にはクリスタしか映っていない。
先程まで婚約者だった女のことなど、もう頭の片隅にも残っていないのだろう。
クリスタは勝利の喜びに打ち震えた。
◆◆◆
貴族の頂点に立つエーレンベルク公爵。その庶子としてクリスタは生を受けた。
母は平民で、二人は愛し合っていたが、身分が違いすぎることから一緒になることは叶わなかったらしい。
公爵はクリスタの母を領地に住まわせ、家格は高いが権力のない侯爵家の令嬢を妻として迎え入れた。
正式な家族ではないものの、父は頻繁に母とクリスタに会いに来てくれたし、惜しみない愛情を注いでくれているのも感じていた。
平民たちの中では際立つ、ふわふわとした蜂蜜色の髪。
瞳は母譲りの有りがちなヘーゼルだったが、魔力持ちということもあり、クリスタが貴族の血を引いていることは一目瞭然だった。
加えて、その愛らしい顔立ちから、クリスタは羨望の的だった。
ある日、クリスタと母に大きな転機が訪れた。
父の正妻である公爵夫人が亡くなり、父が自分と母を屋敷へと迎え入れてくれるらしい。
母はやはり新しい公爵夫人になることは叶わなかったが、クリスタは正式に公爵家へと迎え入れられることになった。
クリスタ・フォン・エーレンベルク。
新しい名前に心躍らせ、クリスタは王都にあるエーレンベルク邸へと移った。
幸せの絶頂だった筈のクリスタの心を冷えさせたのは、異母姉、リーリエだった。
存在は勿論知っていた。
愛のない結婚で生まれた、必要だからという理由だけで誕生させられた哀れな姉。
さぞみすぼらしい姿をしているのだろう。さぞ辛い毎日を送っているのだろう。
私だけは優しくしてさしあげようかな。たった一人の姉なのだし、それに、私は恵まれているから。
そう思っていたのに――。
「はじめまして、お父様から聞いているかしら? 私はリーリエ。あなたの姉よ。仲良くしてくださると嬉しいわ」
そう言ってふわりと微笑む姉は、クリスタの思っていた「可哀想なお姉様」とは全然違っていた。
リーリエは、今まで見てきた誰よりも――クリスタよりも――美しかった。
月光を溶かし込んだような白金の髪はよく手入れが行き届いていて絹糸のようだったし、輝くような白い肌は大事にされて育ってきた令嬢だけが持っているものだった。
何より、その公爵譲りの新緑の瞳で見つめられると、クリスタは自分が半分平民の血を引いていることを否が応でも思い知らされて、いたたまれない気持ちになった。
聞けば、リーリエはありとあらゆる才能を発揮していて、中でも魔術の腕は王宮魔術師にも引けをとらないものであり、暇を見つけては魔術の研究を行っているのだという。
父は姉に対しそっけない態度を取っているにも関わらず、可哀想な筈の姉は随分満たされているように見えた。
悔しかった。望まれない子のくせに。父から愛されていないくせに。
正妻の子だというだけで、はじめからエーレンベルクの名を持った貴族の娘として敬われて、教育を受けて公爵家を継ぐ。
それは、本当はクリスタのものの筈だったのに。
クリスタだって公爵家で生まれ育ち、教育を受けていれば、リーリエと同じように全てを手に入れていたのに違いないのに。
「お姉様から、私のものを返して貰わなきゃ。本当は、私だけがパパの娘の筈なんだから」
リーリエから全てを奪うことは、正当な権利のように思えた。
今まで離れて暮らしていた公爵はクリスタに甘く、大抵のお願いは叶えてもらうことができた。
まず、リーリエの衣装や宝飾品を最低限のもの以外全てクリスタのものとした。
今までこんな素敵なものみたことないわ、とねだれば、それがどんなものであっても公爵はリーリエにクリスタへと渡すよう命じた。
大抵はリーリエの方も、
「まあ、可哀想に。こんなもので良ければさしあげるわ。苦労してらしたものね」
と穏やかにクリスタへと譲った。
憐れまれているようで気に食わなかったが、どんどん質素になっていくリーリエを見るのは胸がすく思いがした。
リーリエについていた使用人たちも大半クリスタ付きへと回してもらい、リーリエの周りにはほんの数人しか残さないようにした。
しかし、リーリエはさほど困った様子も見せずに、どんな時もその深窓の令嬢然とした態度を崩すことはなかった。
(まだ足りないんだわ。だって、お姉様にはまだ余裕がある)
リーリエの持っている中で一番価値のあるものを奪いたい。
そう考えたクリスタは、エーレンベルクの後継者を自分へと変えてもらうことにした。
いくらクリスタに甘い公爵といえど、後継者となるとさすがに少し渋ったが、公爵の決めた相手――元々リーリエと結婚する予定だった――を婿入りさせることと、リーリエを補佐につけることを条件にクリスタの願いを叶えた。
後継者の座も、婚約者も、すべてクリスタのものとなった。
大事なものを全て失った哀れなお姉様は、一生クリスタのそばで、クリスタの補佐として、クリスタの幸せの支えになるのだ。
その筈だったのに。
◆◆◆
「お姉様! お姉様、本当なの?」
「まあ、どうしたのクリスタ、そんなに慌てて」
ある日、信じがたい報せを聞いたクリスタは居ても立っても居られずリーリエの部屋を訪れた。
血相を変えてやってきたクリスタを見たリーリエは、読んでいたらしい本をぱたりと閉じ、クリスタへと向き直る。
「お姉様、アレクシス王太子の婚約者になったって、本当? 嘘よね? だって、王太子には婚約者がいた筈よね?」
「嘘じゃないわ。殿下は確かに隣の国の末姫さまと将来を約束されていたけど、先日、病で儚くなられてしまって……。それで、私にお声がかかったの。元々、殿下とは仲良くさせていただいていたし」
王族は様々な方法で暗殺される可能性がある。中でも多いのは、毒と呪いだ。
多くの王族は、それらを無効化する魔導具を身に着けている。
王太子の魔導具を作ったのはリーリエなのだという。
その縁もあり、元々アレクシスとリーリエは友人関係にあったらしい。
クリスタは、アレクシス王太子とは直接会ったことはないが、遠目で見かけたことはあった。
黒髪の、穏やかそうな雰囲気の青年だった。
噂によると、取り立てて目立つところのない凡庸な王子だという。
第二王子であるディートリヒ王子のほうが見目麗しく、また様々な分野に優れているらしい。
しかし、アレクシスが長子であることと、目立った瑕疵がないことから、王太子はアレクシスとなったようだ。
「そんな、それじゃお姉様は、王妃さまになるってこと……?」
「すぐにそうなるわけじゃないけど……」
せっかくリーリエから全てを奪ったというのに、運良く転がりこんできた幸運を掴み、国中の女たちの頂点に立とうというのか。
そんなの、許せない。
「……お姉様は、頻繁にアレクシス王太子と会ってるの?」
「今まではお手紙を交換するくらいだったけど、そうね……。これからは、お会いする機会も増えると思うわ」
「いつか、私も会ってみたいわ! 義理のお兄様になるんだもの」
クリスタの黒い気持ちを知ってか知らずか、リーリエはいつものようにふわりと微笑んだ。
「いずれ、紹介するわ。あなたは私の可愛い妹ですもの」
◆◆◆
それから、リーリエは頻繁に王宮へと出かけていくようになった。
アレクシスとの仲を深めているのだろう。
いずれ紹介されるまで、クリスタは歯噛みして待つことしかできない。
(絶対、絶対王太子も私のものにしてみせるわ)
そう思いはするものの、元々交流があったらしい美しい姉から、どうやって王太子の心を奪えばいいのだろうか。
最悪、奪えなくてもいい。この縁談がダメになりさえすれば。
せめて、醜聞となるようなリーリエの欠点が見つかれば……。
クリスタは、リーリエがいない間にこっそり部屋に忍び込み、姉の縁談を壊すきっかけになりそうなものを探した。
初めの数回は何も収穫がなかったが、たまたま手に取った紙の束に、クリスタの求めるものは有った。
「魅了の術……」
特定の異性を自分に夢中にさせる術。
リーリエが別の魔術を研究している中で、偶然発見したらしい。
ただ、おそらく特定の星並びの日にしか成功しないであろうことと、気の遠くなるような周期に一度しかないこと、その日が差し迫っており、危険な術のためその日が過ぎてから発表することがメモ書きとして残してあった。
これだ、これしかない。
幸い自分も魔力持ちである。まともに魔術を使ったことはないが、幸い丁寧に手順が記してあるため、これなら素人のクリスタにも行うことができるだろう。
「待ってて、お姉様」
王太子は呪いを無効化する魔導具を身に着けているらしいが、ダメで元々だ。
何もやらないよりずっといい。
そうしてクリスタは、魅了の術を成功させたのだった。
◆◆◆
アレクシスは優しく、良い恋人だった。
顔を合わせれば心の底から嬉しそうな顔をし、どんな我儘も聞いてくれた。
ただ、不満がないわけではない。
「僕は本当はずっと君と一緒になりたかったんだ。隣国のフランシーヌ姫とは殆ど顔も合わせたこともなかったし……。だから、こうして君と一緒にいられて本当に嬉しいんだよ」
「私もよ、アレクシス様」
「ああ――愛してるよ。本当に、心の底から。あの時から、ずっと君に心奪われたままなんだ」
「あの時?」
「初めてあった時のことだよ。ほら、王宮の夜会で……。呪い無効のブローチが上手く動作しなくて、必死に我慢していた僕に気づいて、そっと解呪してくれたよね。美しくて、本当に女神のようだった」
「アレクシス様……」
こうして、存在しない思い出を語るのだ。
おそらくはリーリエとの出来事なのだろう。
この様子から見ると、王太子は心底姉に惚れていたようだ。
それも今は、クリスタのものだが。
「君のためならなんでもするよ、僕にどうして欲しいか教えて欲しいな」
「ありがとうございます、アレクシス様」
クリスタはアレクシスに微笑んだ。
整ってはいるが、華のある顔立ちではない。
キラキラと光る金の瞳は美しいが、それは眉目秀麗な第二王子も共通して持っているものだった。
(どうせなら、第二王子のほうが良かったかも)
王宮に出入りするようになったことで、第二王子のディートリヒとも頻繁に顔を合わせるようになった。
噂で聞いていた通りの美しい王子を初めて見かけた時、クリスタは思わず目を見開いた。
サラサラとした銀の髪に黄金の瞳を持つディートリヒは、絵本から出てきたような理想の王子様そのものだった。
それ以来、なんとかディートリヒに近づこうとしていてはいるものの、タイミングが合わないのかまだ直接言葉を交わすことはできないでいる。
魅了の術はもう使えないが、近づきさえすれば、ディートリヒと仲良くなることもきっとできる筈だ。
一方リーリエの方はというと、あれから部屋に引きこもって殆ど出てこなくなってしまった。
悔しがる顔をクリスタに見られたくないのだろう。
公爵はそもそもリーリエにはさほど興味はなさそうだし、クリスタの母はリーリエを目の敵にしていたので、これを機にリーリエを公爵家から追い出そうと考えているようだ。
(お姉様には、そばにいて私を支えて貰わないといけないから、追い出すのは阻止しないとな)
クリスタは幸せだった。
◆◆◆
魅了の術をかけてから一月ほど経った日のことだった。
クリスタはこの日も王太子に呼び出されて王宮を訪れていた。
最近は毎日だ。朝から来て夜まで一緒にいることも多く、王太子としての責務を果たせているのか、さすがのクリスタでも少し不安になる。
「アレクシス様、毎日こうしてお会いできるのは嬉しいんですけど……」
「君と会っていないと身が引き裂かれそうな思いがするんだ。こうやって一緒にいる間だけ安心できる……。ああ、クリスタ、どこにも行かないで欲しい……」
アレクシスは虚ろな眼差しをクリスタへ向け、いつもと同じ柔和な笑みを浮かべる。
その金に輝く瞳にはクリスタしか映していない。
いつもと同じ筈なのに、背筋が冷えるのはどうしてだろう。
クリスタは思わず立ち上がった。
「すみません、ちょっと体調が優れなくて、本日はこれで失礼させてもらいますね!」
「行ってしまうのか……?」
アレクシスがクリスタを引き留めようと手を伸ばす。
「来ないで!」
クリスタは思わず叫んでいた。
すると、アレクシスはすっと手を戻し、穏やかな口調で言った。
「クリスタが、そういうなら……」
クリスタは逃げるようにアレクシスの部屋を退室した。
(最近の王太子は、おかしい。魅了の術が効きすぎているのかも……)
でも、リーリエが書き残した手順通りに術を行っただけのクリスタにはどうしていいかわからない。
(そもそも、お姉様が悪いんだわ、そんな危険性のある術なら書き残さなければよかったのよ)
無責任に思考を巡らせながら歩いていると、ふと、聞き慣れた声がしてクリスタは思わず足を止めた。
このやや低めの甘い声は、ディートリヒのものだ。すぐ側の部屋の中から聞こえる。
クリスタはそっと中を覗き見た。
ディートリヒと二人きりで話しているのは――。
(嘘、お姉様……?)
最近部屋に籠もりきりだった筈の、リーリエだった。
何を話しているのか聞き取ろうと、クリスタはそっと聞き耳を立てる。
「兄上を廃嫡することが決まった。あの様子では、仕方ないだろう」
「ずっとあの子に夢中で、本来の責務を何も果たせていないそうですし……。妹が、大変申し訳ございません」
「いや、リーリエ嬢の責任ではないから、謝る必要はない」
ディートリヒは深い溜息をついた。
「元々の婚約者はリーリエ嬢だというのに。父上は貴女のことを大変気に入っていたから、かなりお怒りだ」
「私が至らないばかりに……」
リーリエは遠慮がちに目を伏せる。
それを見たディートリヒは、再び嘆息した。
「兄上は貴女のことを分かっていないようだ。貴女ほど国母に相応しい女性はいないのに……。」
「勿体ないお言葉ですわ」
「兄上は廃嫡される。もうすぐ王太子は私になる。考えては貰えないだろうか? 国母になることを……」
よほど驚いたのか、普段は淑女然とした表情を崩さないリーリエの表情が驚愕に彩られた。
クリスタは、たまらずそこから逃げ出した。
姉がまた、クリスタのものを奪おうとしている。
秀麗なディートリヒと美しいリーリエが並ぶ姿は、一対の人形のように完成されていた。
奪いたい、壊したい。
でも、魅了の術はもう使えない。
クリスタは悔しさに顔を歪ませた。
その翌朝だった。
いつもは静かな公爵邸は、騒然としていた。
王宮の兵士たちが突然やってきたのである。
「クリスタ・フォン・エーレンベルクはいるか!」
彼らの目的は、クリスタだった。
「なに!? なんなの!? いや、離して!」
クリスタは必死に抵抗するが、鍛えられた兵士たちの拘束から抜け出すことは出来ない。
兵士は、クリスタの叫びは無視して、呆然と見守る公爵へと声をかける。
「アレクシス殿下からクリスタ嬢の魔力が検知されました。現在、リーリエ嬢が解呪を試みていますが、この女が何らかの呪いをかけたのは間違いないと王宮魔術師たちは見ています。王太子を害そうとした罪は重い。クリスタ嬢は拘束させていただきます。……連れて行け!」
「そんな! 待ってくれ! クリスタを連れて行かないでくれ!」
「クリスタ! 待って、その子はそんなことする子じゃないわ!」
公爵とクリスタの母は口々に言い募ったが、兵士たちは何も返答をすることなく、クリスタを連行したのだった。
数日後、ディートリヒの私室。
リーリエは再びそこに招かれ、淑やかに佇んでいた。
自宅で大騒動があったというのに、それを全く感じさせない態度で。
「それで、私の妻になるという話はどうする?」
ディートリヒが単刀直入に切り出すと、リーリエはふわりと微笑み告げた。
「お断り致しますわ」
「それは――どうして?」
「私とアレクシス様の婚約はまだ有効です。正式に破棄されたわけではありませんもの。ただ、個人的に告げられただけ。事務的な処理は何も行われておりません」
「兄上は廃嫡された。それでも?」
「アレクシス様にはエーレンベルクに婿入りしていただきますわ」
ディートリヒは面白そうに笑って言った。
「なるほど。それで――全部思い通りになった気分はどうだ?」
リーリエは表情を崩さず、ただ、微笑みだけを返した。
◆◆◆
公爵家の跡取り娘として生を受けたリーリエは、母からは慈しまれて育ったが、乳母を筆頭に使用人たちはどことなく余所余所しく、幼いリーリエには母が全てだった。
なぜ彼等にそのような態度を取られるのか、聡明なリーリエは朧気ながらも理解していた。
「おとうさま、本日はまじゅつの先生にまほうやくの作り方を学びました! 先生はさいのうがあるってほめてくださったの!」
「そうか。励むといい」
「ライナルト様、リーリエは本当に頑張っていて、色んな分野の先生からお褒めの言葉をいただきますのよ」
「……」
多忙な父とは余り顔を合わせる機会がなく、家族で晩餐を共にできる日は貴重だった。
そういった機会になると、リーリエは必死に自らの価値を父へ示そうとした。
しかし、リーリエが何を言おうと、父は簡単に返事をするだけで目も合わせようとしない。
母に至っては無視される有様だった。
公爵家の主である父がこれでは、使用人たちの態度もそれに合わせたものになる。
表立って冷遇されるようなことはなかったが、広い公爵家で多くの人間たちが働いているのにも関わらず、リーリエは常に母と二人きりであるような孤独を感じていた。
そして母の方も、リーリエを心の支えにしているようだった。
「私の可愛いリーリエ、エーレンベルクの後継者として恥ずかしくないよう頑張るのよ。そうすれば、きっとお父様も認めてくださるわ」
「はい、おかあさま!」
リーリエを通して公爵を繋ぎ止めようと母は必死だった。
リーリエも母の期待に応えたかった。
その頃には、母は自分を愛しているのではなく、ただ利用しようとしているだけだということに薄っすら気づいてはいたが。
礼法、数学、言語、音楽、詩作、果ては魔術まで。
血の滲むような努力を重ね、ありとあらゆる教養を身につけていった。
礼法の教師は「もう何も教えられることはありません」と早々に授業を終了させたし、近隣諸国の言葉は数年ですべて問題なく話せるようになった。
数学や詩作の教師は「リーリエ様はいずれきっとこの分野で名を残します」と目を輝かせた。
中でも魔術関連は目覚ましく、デビュタント前には、既に王宮魔術師に匹敵するような実力を身に付けていた。
それでも、父から顧みられることはなかったが。
アレクシスとの出会いは、王宮で開かれた小さな夜会だった。
正式なものではなく、王家と親しい家だけが招かれる小規模なもの。
そこで、ただ微笑み、じっとしているだけの少年がアレクシスだった。
魔術に精通していたリーリエは、ひと目見て彼が呪いに苦しんでいることがわかった。
王族は皆、呪いや毒は対策している筈なのに、どうして。
哀れに思ったリーリエは、そっとアレクシスに近寄り解呪した。
すると、みるみるアレクシスの顔色が良くなる。
「ありがとう、君が治してくれたの?」
「そうですわ、殿下。魔導具はお持ちではないの……?」
「持ってるんだけど、調子が悪かったみたい。助かったよ」
アレクシスは胸元のブローチを示したが、そこからはまるで魔力が感じられない。
魔力が弱まったにしては痕跡がまるで感じられない。おそらくは、初めからただのブローチでしかなかったのだ。
「ディーから……弟から貰ったんだけど。僕は魔術はよくわからなくて、術を掛け直すこともできなかったんだ」
はは、とアレクシスは笑いながら言う。
(暢気な人。今までかかっていた呪いだって、その弟王子のせいに違いないのに)
彼は兄のことが邪魔で、あわよくば死んで欲しいのだろう。
それに気づかず柔和な笑みを浮かべる彼は、危機感のないとんだ馬鹿王子だ。
(それにしたって、誰か彼が具合がよくなさそうなことぐらい気づくでしょうに。……いえ、違うわ)
この場にいる誰もが、アレクシスに興味がないのだ。
今王太子であるだけで、いずれきっと消されるであろう凡庸な第一王子。
まともな護衛もついておらず、リーリエは近づき術をかけることさえできる。
可哀想な王子。誰からも必要とされていないのだ。
(私と、おんなじね)
そうして二人の交流は始まった。
歪んだ初恋だった。
◆◆◆
「全く……兄上は、本当に貴女のことが分かっていない。こんなに食えない女性もなかなかいないというのに。ああ、以前貴女の妹に会話を聞かせたときと違って、この部屋の防音は完璧だから好きに喋ってくれていいよ」
「実の兄を暗殺しようとするような方に言われたくないですわ」
リーリエは表情を消して言った。
「フランシーヌ姫がアレクシス様に嫁いでくだされば、隣国が後ろ盾となってくださる筈だったのに……」
「私は何もしていない」
「それはそうでしょう。隣国はこの国より栄えているし、王族の方々も強固に守られていらっしゃいますもの」
フランシーヌが病に倒れるのは完全に予想外だった。
とある魔術の研究成果を隣国に渡すのと引き換えに、隣国の姫に輿入れしてもらう約束を取り付けたところまでは良かった。
それが、亡くなってしまうなんて。
これではいつアレクシスがディートリヒに殺されるか分かったものではない。
だから、廃嫡されるよう仕組んだのだ。
王太子でなくなれば公爵家に婿入りさせることができる。
そうすれば、絶対誰にも手出しはさせない。
同じタイミングで邪魔になっていた異母妹を利用することにした。
物ならいくら恵んであげても構わないが、公爵家の後継者の座は譲れない。
(だって、それはお母様が私に望んでいたことだもの)
目につくところに魅了の術を書き残し、アレクシスに魅了の術が効くよう、ブローチにかけている術を書き換えた。
あの魅了の術は元々一月程度で解けるようになっている。アレクシスはまもなく正気に戻るだろう。
そして、公爵はクリスタが行ったことの責任を取る必要がある。公爵の座を退いてもらい、領地で蟄居してもらう予定だ。
面倒事が全部片付いてよかった。
「ああ、それにしても……はは、結婚を申し込んだときの貴女の顔は見ものだった。貴女が表情を崩したところは初めて見た」
ディートリヒが心底面白そうに言う。
「殿下があんまり気持ち悪いことを仰るからです。心にもないでしょうに」
「いいや? 本心だよ。貴女くらい性格が悪くて狡猾じゃないと国母は務まらないだろう」
「やめていただけます? ディートリヒ殿下と一緒になるなんて……想像するのも嫌なんですの」
ディートリヒも別にリーリエのことを好いているわけではなく、どちらかというと嫌いであることは明白だ。
お互い、同族嫌悪していることは分かっていたが、表面上は穏やかな関係を築いていた。
嫌っている男と話しながらも、リーリエの心中は穏やかだった。
もうすぐ、アレクシスを迎え入れることができる。
絶対幸せにしてみせるわ、私の、私だけの、王子さま。