五十六航空機製作所と大日本帝国空軍
架空の航空機メーカーを題材とした架空戦記です。
まもなく弊社・五十六航空機製作所が開発した最新型の機体が飛び立とうとしています。
その前に弊社の歴史をおさらいしておきましょう。
弊社の創業者は初代社長でもあった「高野五十六」です。
会社名は高野の名前にちなんでいます。
高野は元々は海軍軍人でしたが、日露戦争での日本海海戦に少尉候補生で参戦し、左腕を切断する重傷を負い、退役を余儀なくされました。
高野は病床で「前回は指二本だったんだがな」と謎の言葉を残しています。
それはともかく、高野は退役後に「相場師」として活動し始めました。
最初は高野自身の僅かな元手でしたが、何度も予想を当てて、利益を荒稼ぎする高野を見て、周囲の人々だけでなく、見ず知らずの人々まで、高野に投資するようになりました。
莫大な元手により、莫大な利益を得た高野は大富豪となりました。
周囲の人々は何故予想が的確に当てられるのか高野に尋ねたことがありますが「一度死んで生まれ変わったからだ」と答えています。
これは「日本海海戦の負傷により死線をさまよったことにより相場を冷静に判断することができるようになった」という意味だと一般的には解釈されています。
しかし、最近は小説での転生物の流行により「未来の高野五十六が過去の自分に転生して、未来の記憶から相場を当てたのだ」という話もあります。
あくまで小説の話ですので現実とは混同しないでくださいね。
話を戻しますが、相場で得た莫大な資金を元に弊社を設立しました。
まだ第一次世界大戦は起きておらず。航空機の軍事的な重要性は明らかになっていなかった時期にです。
周囲は「ギャンブラーの道楽」と悪口を言う者もありました。
実際、創業当初は赤字続きで高野が個人財産で赤字を補填していました。
高野は社員たちに対し「私は数十年先の未来のために投資しているのだ。今が赤字でも気にすることはない」と訓示しています。
弊社は高給だったため優秀な人材が集まりました。
それだけではなく、高野は他に航空機製造会社が設立されると、それに投資し、弊社が開発した技術まで提供しています。
高野は弊社だけでなく、日本の航空産業全体を発展させようとしていたのでした。
高野は日本の航空界における第一人者と言える存在になっていたのです。
航空界に資金を投入するだけでなく、高野は技術者ではなかったのですが、航空機に関する新しい発想を次々と生み出しました。
ある技術者は高野について「社長の新しい発想は大雑把ではあったが的確で、我々技術者の仕事はそれを実現するための細かい作業だった」という言葉を残しています。
さて、高野の盟友であった海軍軍人の井上茂美についても語らなければなりません。
井上は「海軍の空軍化」に熱心で高野はそれを援助していました。
高野は井上のことを「私より先の未来を知っている」と評価していました。
二人のコンビは「日本帝国空軍」の建軍に尽力し、それを成し遂げました。
他国の空軍は陸軍航空隊を母体としていることが多いのですが、日本空軍は海軍航空隊を母体としています。
海軍の基地航空隊だけでなく、空母と艦上機、空母の護衛に必要な水上艦も空軍の所属となりました。
海軍の指揮下に残った航空隊は、水上機と飛行艇のみになりました。
さらに島嶼を占領し、そこに航空基地を建設するための空軍強襲陸戦隊と空軍建設隊も保有していました。
空軍が空母・水上艦・陸戦隊を保有するのは陸海軍から反対が多かったのですが、高野の資金力と井上の政治力で反対を押し切りました。
高野・井上コンビが空軍としては過剰に見える兵力を整備した理由は、太平洋戦争で明らかになりました。
太平洋戦争開戦時の空軍作戦本部総長は井上茂美、空軍大臣は高野五十六でした。
空軍大臣は現役武官でもなくてもなれるため、少尉候補生で退役した高野が就任することが可能でした。
空軍士官たちからは民間人である高野が空軍大臣であることに当初は反発がありましたが、高野と交流が進むにつれて反発は無くなっていきました。
ある空軍士官は「高野大臣と会うと経験豊富な海軍提督と会っているような雰囲気だった」という言葉を残しています。
さて、高野・井上コンビは個人としてはアメリカとの戦争に反対だったようでしたが、それが避けられない運命だとも考えていたようで、ある秘策を極秘に進めていました。
太平洋戦争開戦と同時に、空軍空母機動部隊はハワイを奇襲し、空軍強襲陸戦隊がハワイを占領しました。
空軍建設隊がハワイの飛行場を修復すると、そこに日本本土から一機の航空機が飛来しました。
弊社で開発していた「長距離飛行実験機」でした。
日本本土からアメリカ本土までの往復を可能とすることを目的とした機体の実験機でしたが、まだ目標にははるか遠く、アメリカも諜報活動により存在をつかんでいましたが、一機だけだったので脅威には感じていませんでした。
しかし、ハワイからアメリカ本土への往復は可能になっていたのです。
高野・井上コンビは、この機体をアメリカ本土に送り込むためにはハワイ占領が必要なので、その目的のために空軍が空母機動部隊と陸戦隊を保有したのでした。
戦後、宣伝のために、この実験機は「富嶽」と名づけられましたが、戦時中は情報秘匿のため「名無し」でした。
ここでは話を分かりやすくするため「富嶽」と呼ばせていただきます。
ハワイを飛び立った「富嶽」は、アメリカ本土に侵入しました。
この頃のアメリカ本土防空はザルで、高空を飛ぶ「富嶽」に気づきましたが、アメリカは当初自国の機体だと思い込み、アメリカ陸海軍が関係各所と連絡して、ようやく日本空軍機だと気づきました。
その時には、首都ワシントン上空に「富嶽」は侵入していました。
アメリカは一機だけなので爆弾搭載量は少なく被害も少ないだろうと考えていました。
しかし、それは間違いでした。
首都ワシントンは「富嶽」が投下した一発の爆弾により核の炎に包まれました。
それが人類史上初の原子爆弾の実戦使用でした。
井上が原子爆弾を極秘に開発し、高野が資金提供をしていました。
井上は科学者でも技術者でもないのに何故か原子爆弾に関する知識が大雑把ではありましたが豊富で、原子爆弾開発の費用は思ったより低く済んでいます。
井上はワシントンに投下した原子爆弾には「小さな少年」と名づけ、二つ目に製造した原子爆弾には「太った男」と名づけました。
周囲からは戦意を高揚するような名称を提案されましたが、井上は「仕返しだよ」と謎の言葉を言って押し切りました。
爆心地はホワイトハウスで、ルーズベルト大統領は死亡(遺体が発見されなかったため推測です)、中央官庁は建物も職員も多大な被害を受け、合衆国政府は機能を停止しました。
原子爆弾の威力に恐怖したアメリカの各州は、州知事たちが合衆国からの離脱を宣言し、続々と日本に無条件降伏しました。
アメリカ合衆国は解体され日本に併合、「大日本帝国アメリカ県」となりました。
戦後、欧州を征服したソ連との冷戦が始まり、日ソ冷戦は皇紀2683年、西暦では2023年の今も続いています。
高野は戦後、空軍大臣としてアメリカ県を視察中に銃撃により暗殺されました。
皇紀2603年、西暦1943年4月18日のことでした。
犯人は合衆国陸軍航空隊の元パイロットでした。
井上は盟友高野の死を知ると、自分がいつ死ぬかを悟ったように精力的に活動しました。
ソ連と対抗するための大陸間弾道ミサイルの開発に邁進し、それに付属して宇宙開発にも邁進しました。
そのミサイルやロケットを製造しているのは、もちろん弊社です。
人類初の人工衛星打ち上げと有人宇宙飛行はソ連でしたが、初の有人月面着陸をしたのは我が日本でした。
月面着陸を成し遂げた宇宙船を製造したのも弊社です。
井上は空軍元帥として終身現役でしたが、月面着陸を見届けた後、高齢のため体調が悪化し、老衰で亡くなりました。
皇紀2635年、西暦1975年12月15日が命日です。
弊社は高野・井上コンビの意志を継ぎ、航空機と宇宙船の製造を続けています。
あっ!間もなく最新型の機体の打ち上げ時間となります!
皆さまがご存知の通り、あのロケットには火星行き宇宙船の部品が積み込まれています。
部品ごとに打ち上げられ、衛星軌道上で宇宙船は組み立てられます。
火星への無人探査機では、ソ連に先を越されましたが、有人での火星着陸には我が大日本帝国が一歩リードしております!
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