学園一年生 前半
学園が始まってから、初めてクリストフが公爵邸へと帰って来た。
彼は帰宅早々、まずはシャルロッテの顔を見て、次いで手短にシラーへと挨拶を済ませた。するとすぐに自室に義姉を連れ込み、無言のまま彼女をソファに座らせて…べったりとくっつき虫になった。
シャルロッテの肩に額をうずめて動かなくなってしまったクリストフに、シャルロッテは控えめに声をかける。
「クリス、疲れちゃったの?」
グリグリ、と額をこすりつけるように頷くクリストフ。そのふわふわとした黒髪を撫でてやれば、小さな声で「疲れちゃった…」と言った。
(『疲れちゃった』だって、可愛い…!可愛いわ…!)
じわじわとこみ上げる思いを込めて、シャルロッテはぎゅーっと彼の頭を抱きしめる。クリストフはされるがまま動かない。本当は成長してハグをしてもらえる回数も減ったので、義姉の腕の中を堪能していただけだったのだが…よほど疲れているのだろうと、シャルロッテはさらに心配を募らせる。
「学園って、そんなに大変なのね」
学園で群がり来る有象無象を思い出し、クリストフは義姉に釘を刺しておこうと口を開く。
「……シャルは、行かなくて正解です」
くぐもった声、もぞもぞと腕から顔を覗かせるクリストフ。「あそこは汚くてうるさくて、面倒くさいところです。お茶は酸っぱいしお菓子はパサパサ、人間はいっぱい」とだけ言って、再び顔をうずめた。
シャルロッテはそんな様子の義弟を可愛く思って「そんなところで、頑張ってきたのね。とっても偉いわ」と、慰めにふわりと抱きしめた。
(久しぶりにこうしてみたけど、クリス本当に大きくなったわね)
しみじみと感じる、腕の中の、義弟の成長。
反抗期に入ってから、どうにも抱きしめる機会は減ってしまった。寂しく思っていたが、間が空いた分、成長も分かり易いようだ。
よしよしと頭を撫でて、シャルロッテはふと思い出す。
「クリスでそんなにも辛いのなら、アンネリア様も大変でしょうね」
「いや、彼女は楽しそうです。心配要りません」
「えぇ、でもアンネリア様も、いきなりの生活の変化はお辛いのではないかしら」
クリストフの脳内では「オーホッホッホッ!」と高笑いをしながら、取り巻きの令嬢を引き連れて歩く、いや、己の歩く道を開けさせて進むアンネリアの姿が思い出される。早くも一年女子の頂点として権力をふるう姿は、とてもじゃないけど『お辛い』なんて様子ではない。
『あんな女、わざわざシャルが心配してやる必要はないのに』と、クリストフは不満に口角を下げた。
「……そんなことより、シャルはどう過ごしてましたか」
「えっとぉ、手紙で書いた通りよ?テルー様とウルリヒ様とお茶したりとか、本を読んだりとか、勉強したりとか」
シャルロッテの表情を見ていなかったクリストフは気づけない。
彼女の目が、泳いでいることに。
(嘘は言ってないわ。でも、なんとなぁくホラ、言ったら怒られそうな気もするし…。言わないだけ)
泳ぎまくった目をしながら、シャルロッテは変化の小さな芽のことを思い出していた。
◇
クリストフの居なくなった日常。
いつものように起きて、授業を受けて、ご飯を食べて、本を読んで寝る。話し相手がいなくてつまらない日々。
一週間過ごしてみて、シャルロッテはぼんやりと不満を感じていた。
(やっぱり学園に入ろうかともチラチラっと思ったけれど、原作開始もまだだし…何より、クリスもちゃぁんと、良い子に育ったから大丈夫そうだし?しばらくは様子見かなぁ)
入学式で原作の登場人物を見つけた直後は『やっぱり学園へと行こうかしら』という気持ちになっていたが…まだしばらくスタートまでには猶予がある。クリストフに嫌われたくない気持ちが強いので、今のところは学園に行かずに公爵邸で頑張ろうかと思っていた。
「でも。そろそろ、次のステップには進むべきよね」
「?お嬢様は、十分な進度で学習をこなしおりますぞ」
「ああ、いや、えへへ」
思わず心の声が漏れれば、家庭教師が不思議そうな顔で首をかしげていた。うっかり意識が分散していたのを集中させて、背筋を正すシャルロッテ。
「何かありましたか?」と優しく問いかけてくれる教師。シャルロッテはすこし遠慮気味に「あの、授業に関係ないことなんですけど」と、前置きをしてから質問を投げかけた。
「先生…その…、お金を稼ぐって、大変なことですよね」
いきなり『いつか公爵家が没落した時に、生きていけるようにしたいんですけど』とは言えないので、少し遠回しな表現を選ぶ。
「ふむ。それは、おひとりの力で…ということですな」
「はい。自分でお金を稼ぎたくて」
長いひげを蓄えた教師はぎょっとしたが、何度か顎を撫でて気持ちを落ち着け「それは…お義父上はご存じなのかな」と尋ねた。
「いいえ。まだ言ってません。…でも、私、その…自立してみたくて」
真っすぐに教師を見つめるシャルロッテの、曇りなき眼。
その真剣な顔に『欲しいものがあるならば、お義父上に買ってもらいなさい』という言葉を飲み込んだ。
「それは、お小遣い程度ではなくて…大金が欲しいのですね」
少し考えて「はい」と、シャルロッテは頷いた。
(原作終了後、平民としてでもいいの。生きていけるだけのお金、もしくは仕事が欲しい。私、自立した女になりたい…!)
鼻息荒く自立を決意するシャルロッテの考えと、教師の認識には大きなズレがあった。二人とも気が付いていないが、公爵令嬢が真剣に『大金が欲しい』なんて言うものだから、教師の脳内では『莫大な資産が欲しい』という言葉に変換されていたのだ。
そのため、彼の口から出たアドバイスは壮大なものになる。
「事業を起こすのが良いでしょう」
「事業、ですか」
頷きつつ、思った方向のアドバイスではなかったので、ちょっとだけ戸惑うシャルロッテ。
「何かを売るのが一番近道ですな。カタチの無いものでも良いです」
「事業を始めるには、何が必要でしょうか」
「何のビジネスにするかを、まずは決めることですなぁ。興味がおありでしたら、既に商売をしている方に聞いてみるのも良いかもしれません」
(教師とか料理人とか、アルバイトみたいなものを勧められないのって…私なんかにはムリと思われてるからよね)
ふぉふぉふぉ、と笑い声を沿える教師に「ありがとうございます」と、シャルロッテは頭を下げた。『確かに、身分があるうちに商売をするのも良いかもしれない』と思いながら。