*君の居ない寮で
―――十歳、王立学園、入学。
(あぁ、家に帰りたい…)
どうして自分はこんな場所にいるのだろう。
上級生からの歓迎会だという華やかな会場で、クリストフはそんなことを考えていた。
「クリストフ様ぁっ、私ずっとお話ししてみたくてっ…!」
―――僕は別に話すことはない。
「私は伯爵令嬢ですっ!学園のこと、何でもお教えしますわ」
―――お前に教わることはない。
「クリストフ様、初めまして、私は…」
―――お前に興味ない。
学園の中で、学生は平等である。らしい。
その学園の信条を盾に、クリストフへと群がり来る女子生徒。社交界のパーティーではありえないが、学園ではこれが許されるらしい。
(お父様に聞いてはいたが、これは面倒だな)
「失礼、ちょっと飲み物を」
口を開いただけで、きゃぁと黄色い悲鳴が上がった。
彼の周囲には層になって人だかりが出来ているため、いちばん最前列の女子が退いたとて、後ろからどんどん女子生徒が湧いて出てくる。さすがに貴族子女なだけあって触れてはこないが、進路は塞がれ移動ができない。
(シャルを連れて来なくて、本当に良かった)
この状況でクリストフが幸いと思うのは、ただそれだけである。
手紙では今日テルーが来ると書いてあったので、今頃彼女はウルリヒとお茶でもしているのだろうか。そんなことを考えれば、お気に入りの庭でお茶を飲み、ふんわりと微笑んでいるシャルロッテの姿が脳裏に浮かぶ。
義姉について思いを馳せたからだろう。クリストフの表情がふと緩んだ。
「クリストフ様、いま私に柔らかい表情を…!」
「私によ!ちょっと退いてくださらない?!」
甲高い声に現実へと引き戻され、クリストフは再び完全なる無表情へと戻った。
面倒だなと思いつつ、周囲をぐるりと見回して一言。
「失礼。ちょっと、飲み物を取りに行かせてください」
それにも再びキャー!と悲鳴が上がる。頭痛のしそうな集団の奇声に、返事を待たずに歩きだすが…円形に取り巻くように、女子生徒達も付いて来る。
歩きながらも声高に話しかけてくる女子生徒を完全に無視し、壁際の飲み物へと歩みを進めた。すると。
「ちょっと、退いてくださらない?」
クリストフを囲う人間に対してだろう、幼くも高慢な声が響く。新品の制服に身を包み、金色のリボンで結い上げられた栗毛の髪をなびかせて、女子生徒が進み出てきた。
よく通るその声に女子生徒たちが顔を向ければ、アンネリアを先頭にレンゲフェルト公爵家縁戚の学生達がずらりと並ぶ。
「……、でも、今は私たちとお話しをしています」
「そ、そうよ。いつも貴方達は話しているでしょう」
「それに私たち、先輩ですのよ?」
口ではそんなことを言いつつも、侯爵令嬢のギロリとした眼光に女子生徒たちは後ずさる。
そうして広がった輪の中から、クリストフはスタスタと抜け出した。彼が手を伸ばせば、レンゲフェルトの縁者が差し出す飲み物がそこに収まる。
「お久しぶりです、皆さん」
知った顔ぶれを見回して声をかけるクリストフに、女子生徒の落胆の声が響いた。
もう一度牽制するかのように睨みつけたアンネリアは、パサッと髪を払ってその女子生徒達を鼻で嗤う。
「大変ですわね。次はきっと、男子生徒に囲まれましてよ」
「勘弁してくれ。少し落ち着きたい…移動しよう」
周囲はクリストフへと道を譲り、その背後には縁戚の子息令嬢が付き従う。彼らが進めば波が割れるかのようなその光景は、レンゲフェルト公爵家の一派が学園の頂点に君臨したことを示していた。
◇
夜、男子寮。
アンネリアの言葉が的中していた。
上級生からの歓迎がやっと終わったと思えば、引き続いて寮の歓迎会。の、なんと前夜祭。明日また盛大に歓迎会があるというのに、夜の方が盛り上がるからと、前夜祭と…後夜祭もあるらしい。
(理解ができない。帰りたい。シャルとゆっくりお茶をして、公爵家で寝たい)
寮生活は基本的に不愉快なことが多い。建物は古い、部屋は狭い、部屋から一歩出れば人が多い。談話室は散らかっているし、なんだか埃っぽい気もする。
歓迎会で配られている紅茶は薄くて酸っぱいし、無造作に盛られた菓子類はパサついてまったく美味しくなかった。
そして何より、隙あらば!と、クリストフに群がり来る人、人、人。
しかも女子生徒と違って、こちらは無碍にし辛い。男子寮というのは縦社会の気風があるらしく、先輩風を吹かせた男共は親切顔で、当然の如く声をかけてくる。
「僕は△△伯爵家の…、何でも聞いてくれよ!」
―――知らない家だな。お前に聞くことなどない。
「お父上から、シラー様のご活躍を聞いているよ…」
―――お前は関係ないだろ。
「レンゲフェルト領にこの前お邪魔してね…」
―――だから何だよ。
(でも、これを上手くこなさないと。当主になるなら、こんな場面も多い)
瞼の裏に浮かぶシャルロッテの微笑みで、イラつきを抑え込むクリストフ。
今頃は入浴も終えて、部屋でゆっくりと本でも読んでいる頃合いだろうか。あの白い首筋に垂れる白金の髪の輝きを想像して、ゼロに近いやる気を奮い立たせる。
「若輩者ですが、どうぞよろしくお願いします」
―――思ってもいないことを言うのは、酷くエネルギーが要る作業だ。
無表情でドライなため、傲慢に寮を支配をするかもしれないと心配をしていた上級生達。この一言で、周囲の空気感がガラッと変わった。どうやら傲慢な王として君臨する気はないらしいと分かり、寮生達から野太い歓声が上がる。
レンゲフェルトの縁者達は固まってクリストフの視線を待つが、傍へと寄るように指示はなく、焦れた様子でそれを見ていた。
その後もおざなりではあるが会話をこなすクリストフに『こいつは案外気さくなのかもしれない』と、勘違いをした先輩達が居た。
「と、ところでさ…シャルロッテ様って、すんげぇ美人らしいな」
「俺見たことないんだよ!絵姿とかないのか?」
「なんで入学しなかったんだ?婚約者が居るのか?」
クリストフは目を閉じて、深く息を吐いて心を落ち着ける。
ーーー絵姿?見せるわけがない。
ーーー婚約?お前たちに、何の関係がある。
「―――それ、答える必要ありますか?」
とりあえず一番近くに居た男子生徒を見据えて、もう一度「答える必要、ありますか?」と問いかける。寮の談話室は沈黙に包まれ、クリストフの周囲に居た人間の顔から血の気が引いた。
先ほどまでは無だったクリストフの顔には、明らかな不快感が浮かぶ。その威圧的なオーラに気圧されて、発言をした男達は呼吸を忘れたように固まってしまう。
「家名と名前、もう一度言ってください」
顔も名前も既に覚えているが、周囲への見せしめとして分かり易く問いかけてやる。
震える声で「す、すみませんでした…」と謝る男達に、顎を少しだけ上げるクリストフ。
「…公爵家の令嬢に興味を持つなんて…年だけ重ねて、礼儀を知らないみたいですね」
後輩、それも新入生の暴言だが、誰も反論をしなかった。
シャルロッテは学生ではなく『学園の生徒は平等』といった信条は通用しない。調子に乗った男達の明らかなる失礼に、クリストフは牙を剥く。
「彼女は公爵家の宝。口に出すのもおこがましいですよ、先輩」
―――最初が肝心。シャルに興味を持つことも許しがたい。
レンゲフェルトの縁者達へと、視線で目の前の男達をどかすように指示をした。連れ出される彼らの背中を見ながら、寮生達の心は一つになる。
『この人を怒らせてはいけない』
「失礼しました。せっかくの前夜祭です、皆さまどうぞ楽しんで」
優雅に足を組んで宣言をするのは、新入生であるはずのクリストフ。
いつの間にか紅茶ではなく、彼の手には空のコップがおさまっている。そこへシュワシュワとした炭酸水が注がれて、クリストフは小さくそれを掲げた。
「僕たちの入寮に、どうぞ乾杯を」
雰囲気に呑まれた男子寮に、乾杯の声が響き渡る。
こうして、学園でも寮でも、クリストフは自分なりのスタートを切っていた。