*義姉のいない世界の話2
何かに、追いかけられていた。
喉から血の味がして、呼吸が引きつるほど走るのに…とうとう追いつかれてしまって、頭から喰われてしまう。ごり、ゴリ、ゴリ。全身が噛み砕かれる衝撃でゆさぶられる。
「……ス様!クリス様!」
目が、覚めた。
体が揺れているのは現実だった。ハイジが肩を掴んでゆすっているのだ。
頭がガンガンするので手を振り払おうとするが、腕が重くて持ちあがらない。
「…な、に……」
「酷くうなされてたので、起こしちゃいました~」
光が目に刺さるようで、クリストフはすぐに再び目を閉じた。全身だるくてたまらない。額が冷たいような感覚がするほど、顔が熱い…これは発熱だな、とぼんやりと理解した。
「…ぼ、く……」
「授業中に突然~、高熱出してブッ倒れたんですよぉ」
「あぁ…」
「そのままこちらにお運びしましてぇ、心配だったんで付いてました~」
馬鹿力で絞り上げたのだろう。まったく濡れていないタオルを額に乗せてくるものだから、少し頭を横に倒すと、すぐに落ちてしまった。
「あぁ~」
ハイジの間抜けな声がして、クリストフは全身の緊張を少しだけ解く。ちらりと目を開けてみれば、メイドは誰も居ないようだ。
クリストフの視線の動きで理解したのか、ハイジが少し笑った。
「クリス様が意識朦朧としながら~、メイド全員追い出したんですよぉ」
「そう、か…」
「だから俺がそのまま~、お世話させてもらっちゃいましたぁ」
クリストフは、屋敷の使用人を信用していなかった。弱っているところなど見せたくもない。
火照る頬を隠すように、ハイジと逆方向へと顔をそむける。
「…おまえなら、まぁ……ガマンする…」
「えー、やったぁ!嬉しいッス~」
しかし気心知れたハイジであれ、完全に信用しているわけではない。
今、唯一の後継者である自分を害そうとはしないと確信が持てるが…次が生まれれば分からない。
父親が自分に隠れて母親の元へと通っているらしいこと、その意味を、クリストフは理解していた。
(もっとマトモな子どもが生まれれば、そちらを育てるのだろう)
クリストフは現在、暫定一位なだけ。
いつ崩れるかも分からない、脆い立場なのだ。
「シラー様はぁ、お忙しくて来てませんけど~、心配してましたよぉ」
「ふっ」
ハイジの嘘を、クリストフは鼻で笑った。
父親が今この屋敷に居ないことを、クリストフは知っている。母親のところへと行く周期だろう。
そして父親は、クリストフの心配など、するはずがないのだ。
◇
少し前に、クリストフは外で普通の子どものフリをして過ごしていた。
パーティーで見かける同世代の行動を真似して、言動をトレース、知能レベルを落とす。
『クリストフ様も、子供らしい面があるのですね!』
『まあ、可愛らしいこと』
『親しみやすくなって、うちの娘もますます好きになったようですわ』
苦痛ではあったが、その行動を肯定する人間が多かったので、それなりに出来ていたと思う。
父親からは反応がなかったが、そうしていればきっと何かが良くなるだろうと…心の奥底で、クリストフは期待をしていた。
ある日のこと。
招かれた茶会に、遠い国から連れて来られたという愛玩獣がいた。
ひどく大人しく、大きな鼠のようなその生物は、会場の子ども達の興味をいたく引いた。獣の数も多く、主催者は『お好きに触れ合ってください、噛まぬ生物です』と言う。
「わぁ!いいの~!」「やったぁ!」「優しく触るのよ」「ひぁー」「汚いからやめなさい」等と、会場には様々な声が響いた。
「クリストフも行ってきなさい」
「はい、お父様」
クリストフは父の傍を離れ、周囲を観察しながら人ごみに近づいて行った。多くの子女は怖がり近寄らぬか、少し撫でる程度。男児は、撫でる子どもも居れば、抱いたり、押したり、叩いたりと、噛まないのをいいことに好き勝手に触れている様子だった。
きゅぅ、きゅぅ、きゅぅ、と鳴く生物を、クリストフは抱き上げて観察する。
毛はほわほわとして柔らかく、皮の下はブニブニとしていた。
隣で同じようにしていた男児が、その獣の首をグッと持った。顔に肉が寄り、まぬけな様相になる。何度か繰り返してそれを楽しんだ後、男児はソレを飽いたようにぽいっと捨てて、どこかに行ってしまった。
クリストフは、真似をしてその首を絞めてみた。
締める、呼吸が戻る。きゅぅ、きゅぅと鳴く。
締める、呼吸が戻る。きゅぅ、きゅぅと鳴く。
締める、呼吸が戻る。きゅぅ、きゅぅと鳴く。
締める…。
何度か繰り返す内にぐったりとした生き物は、きゅぅ、きゅぅとは鳴かなくなった。クリストフはまた、男児と同じようにぽいっと捨てて、どこかに行こうとしたが…。
ガシリ、と肩を掴まれた。
「クリストフ、それは死んでいる」
「そうですか」
シラーだった。父親はいつも自分に無関心だが、パーティーの間は話しかけてくることもある。何か用事だろうかと見上げていると、唐突に問われる。
「いいと思っているのか」
「?」
「ソレだ」
示す先には、先ほどの動かなくなった獣が居る。クリストフは考えた。そして「あっ」と声を出してみせる。
「他人の物を、壊してしまいました」
クリストフの触った個体は、弱かったのだろう。運が悪かったが仕方あるまい。「謝りに行きます」と言うが、父親の手が離れない。
シラーからは、蔑むような冷たい目線。クリストフは分からず、肩を落として暗い表情を作ってみせた。そうして話せば、大抵のことは何とかなるのだ。
「弁償は個人の資産からしますので…」
だが、父親からは深いため息が返ってくる。
「…………もういい」
シラーは、メイドを呼びつけて獣を片付けさせた。クリストフは主催者に謝りに行こうとしたが、止められてしまう。きちんと真似をしていたはずなのに、何故だろうと内心首をかしげた。
帰りの馬車の中、シラーはクリストフを眺めて、口を開いた。
「哀れな」
ただ、この一言。
クリストフは悟った。
母親は父親のモノだから、父親に気に入られれば、どちらも手に入ると踏んでいたのだが…。失敗してしまったようだ。
(サンプルが必要だな。それも、多くのサンプルが)
クリストフが望むより先に、父親によって同世代の人間と関わるプログラムが設定された。医師との面会や、小型の動物と触れ合う機会、貧民街への視察なども。それらを消化しながら、クリストフは学ぶ。
(僕は異常だ。これ以上、バレてはいけない)
もっと注意深く、もっと丁寧に擬態しなくては。
このシラーという名の父親の、望み通りの子どもに成らなくては。
あれ以来会わせてもらえなくなった母親のことを思いながら、クリストフはマトモな人格を作り上げていった。