*この生活って2(クリストフ視点)
凪いだ瞳は、ただ問いかけていた。『これに間違えれば、失望されるかもしれない』と、嫌な予感がクリストフの脳裏をよぎる。
「ちがっ…」
クリストフは耳の奥がガンガンと鳴る音を聞いた。何が正解だ、何を言えば、今まで通りで居られる?クリストフは必死に考える。にじませようとした涙は引っ込み、目が飛び出そうだった。
―――僕の世界が、崩れてしまう。
「私のせいでクリスに心配かけちゃったし、申し訳ないなって思ってて。それで、クリスは私のために言ってくれてるんだし、我慢してたけど…」
―――我慢?
お姉さまだって笑っていたから、普通に、幸せな日常をクリストフと過ごしていたから…問題なんて何もないと思っていた。このままずぅっと屋敷の中に居て、クリストフの世界に存在し続けてくれれば、それで良いと思っていた。
それは、お姉さまの望むことではない?
でも、僕の望むことだから、受け入れてくれるんじゃないの?
「今の生活を続けていくには、限界があるの。賢いクリスなら本当は分かってるでしょ?」
―――限界?
それを超えたら、どうなるのだろうか。もしかして…いなくなってしまうのだろうか。そんなわけない。だってお姉さまはここに居て、この家の子で、どこにも行く場所なんてないのだから。
クリストフは靄がかったような思考で、自分に都合のいい部分だけを見つめた。大丈夫だ、何も変わりはしない。少し泣いて言いくるめれば、お姉さまだって今の生活は嫌ではないはずだ、と。
「お姉さま…!僕、やだよ…!」
喉を絞って出す弱々しい声に、シャルロッテは困ったように返してくれる…はずだった。いつもであれば『え、ちょっと、泣かないで』と、クリストフを慰めてくれるはずなのだ。
なのに、なのに…!
今のクリストフの耳に聞こえてきたのは、重苦しいため息。
「私もやだわ」
そう吐き捨てた姉の横顔は、虚ろを見つめている。顔にはいつもの甘さはなく、陶磁器のような肌は血の気が引いて、まるで人形のよう。
「え…、おねえ、さま…?」
白金のけぶるような睫毛が伏せられて、小刻みに震えている。
「私の気持ちを無視するなら、それは私を都合の良いように、利用しているのと一緒だわ。ねえクリス。もう一度聞かせて。―――私の気持ちは、どうでもいいの?」
悲しそうな、声だった。
「気持ちのない人間なんて、人形と同じよ。私が、お人形でもいいの?気持ちのない、空っぽの、死体みたいな存在でいいの?」
いいのだろうか。
ただそこに居るだけ、座っているだけ、微笑んでいるだけ。そんなシャルロッテの姿を、クリストフは鮮明に想像できる。何も物言わぬ、クリストフだけのお姉さま。
「や、やだ…!」
思い浮かべて、大きく頭を横に振った。
ないよりマシだけれど…それはクリストフの欲しいシャルロッテの姿ではない。
だってもう知っている。微笑んで、抱きしめて、一緒に居てくれる、優しいシャルロッテを知っているから。
「私は、私の気持ちもひっくるめて大切にしてくれる人じゃないと…仲良く一緒に過ごせないわ」
「僕、お姉さまの気持ち…ちゃんと考える!ちゃんと、大切にするから…!」
姿勢を崩すように、クリストフはシャルロッテの許へと駆け寄った。膝にすがるように額を乗せて、スカートを掴んで懇願する。
「ちゃんと大切にするって、どうするの?」
「それは、お姉さまの話をよく聞いて…」
「それで?聞くだけ?」
こんなにも必死なクリストフの姿を見ても、ほだされてくれないなんて…!クリストフを初めて襲う、シャルロッテに見捨てられる恐怖。
震える手で柔らかなドレス生地を掴みながら、手から、首から、額から、冷や汗が噴き出る。
「聞いて…全部、叶えます。全てお姉さまの言う通りにします。そしたら、そしたら、一緒に居てくれますか?!」
やっと全てかなぐり捨てて叫んだクリストフ。シャルロッテは「違うのよ、クリス」と少しだけ困ったように眉根を寄せる。
クリストフの回答は、不正解らしい。
「ちがう?…そしたら、僕は、どうしたら…」
「どちらか一人にだけ負担がかかる関係は、フェアじゃないの」
「……僕はお姉さまと居られれば、何でもいいので…、何でもします」
「ダメなのよ、クリス。それだと、今度は“クリスの気持ち”が可哀想でしょ」
「ぼくの、気持ち…?」
そんなものは二の次である。正直、こうなってしまえばどうでもいい。『お姉さまを失いたくない』の一心である。しかし、どう答えれば“お姉さまにとっての正解”か分からない。
「私の気持ちと、クリスの気持ち、どっちも大切にできないと…じゃないと、どっちかが傷ついて、いつかダメになっちゃうのよ」
ずび、と鼻をすりながら、クリストフの頭をぽんぽんとシャルロッテが撫でた。どうやら、話しながらシャルロッテも泣き出してしまったらしい。
―――ダメに、なってしまうのだろうか。自分たちも。
クリストフはその時初めて、大切な相手を傷つけて、泣かせて…自分が悪いことをした、と自覚をすることができた。
悪いことをしたら、どうしたらいいのか。クリストフはよく分からない。今まで自分が悪いと思ったことなど無かったのだ。ただ、頭に浮かんだのは―――許してほしい、という気持ち。
「僕、お姉さまのこと傷つけてたんですね…ごめんなさい。もう、しません…」
シャルロッテに嫌われたら、クリストフはきっと、生きていけないから。
「クリス!いいのよ、クリス。あなたを許すわ」
細い腕が、クリストフの頭に回る。覆いかぶさる様に抱きしめられ、白金の髪の毛がクリストフの背を滑り落ちて、全身を包まれたようだった。
―――ああ、正解なんだ。
この期に及んでそんなことを考えてしまう自分を、クリストフは恥じた。じわり、とクリストフの瞳に涙が滲む。今度は泣きたくなかった。ぐっとこらえて目に力を入れるものだから、口が変な形に引き結ばれる。
「こうやってね、喧嘩して、ごめんねって仲直りして、もっとお互いが良く分かれば…ずっと仲良しでいられるのよ」
「……はい」
「いきなり怒ってごめんね」
「…っ、いえ」
「どうすればいいか、二人で話し合いましょう」
「……はいっ」
涙をこらえてぶっきらぼうな返事をするクリストフの頭に、シャルロッテの唇が寄せられた。頭頂に柔らかくキスをして「いい子ね」と囁く。顔を見られたくなくて、クリストフはスカートに顔を押し付けて涙を吸わせた。
しばらくして、二人とも涙が引いた後。
二人はよく話し合い、シャルロッテは事件前と同じ生活が送れるように希望した。クリストフは、外出に関することにいくつか条件を付けて、それを許した。
許すしか、なかった。