私のおうち1
「あ、れ…ここ…?…うっ…」
起き上がろうと頭を持ち上げれば、くらりと頭の中身まで揺れた。シャルロッテはめまいに顔をしかめ、再び目を閉じる。
(ここどこ…、わたし…頭が、ぼやっとして…。いきが、くる、し…)
首を絞める細い指の感覚が、いまも纏わりついているようだった。段々と覚醒する頭で、今度はゆっくりと体を起こそうとした、その時。
「お姉さま…?」
胸にぎゅっとしがみついてくる、柔らかい黒髪。
息と共に甘やかなクリストフの香りを吸い込めば、不思議と首に感じていた圧迫感も消えた。そっと、その背中に手を回し、頭に頬を寄せる。
「ただいま、クリス」
「お姉さま…」
「心配かけてごめんね」
いつの間に帰って来たのか。そこは見知った、公爵邸のシャルロッテの部屋であった。
涙にぬれた紅い瞳がこちらを見上げて「医者を、すぐに…!」と飛び出していく。
連れられて来た医者と思しき老女は、シラーとリリーと連れ立っていた。
クリストフは部屋から追い出され「離せ!やめろ!」と、初めて聞くような汚い言葉で必死に抵抗をしていたが、ハイジに引きずられて行ってしまう。
シラーも「医者だ、診てもらえ。終わったら来る。誰も入れるな、クリストフもだ」と言い残して去って行き、部屋の中にはリリー、それから医師のみとなった。
「では、診させていただきます」
簡単な触診に始まり、よくわからない器具を付けられたり、観察されたり、それなりの時間をかけてシャルロッテの体は検分された。
「問題なさそうですね。ただ、薬物の後遺症の可能性がありますので、しばらく経過を診る必要があるでしょう。良く水分をとって下さいね」
服をリリーに着させてもらいながら診断を聞いたが、要約すると『異常なし』ということだろう。ホッと息をついた。
医師はシラーを呼び、リリーを追い出してしまう。
(ああ、行っちゃった…。なんかお義父様顔怖い…やだな…)
シラーの顔に怯えるシャルロッテのことを察知できるほど、医師は万能ではないようだった。ベッドの横に椅子を付け、後ろに仁王立ちする公爵の顔など見もせずに「さて」と言って紙とペンを構えた。
「お嬢様の覚えていること、一から整理してみましょうかね」
問いかけられるままに、応えてゆく。
「クリスと馬車で出かけました。目的は…」
家を出てから修道院に行って、既知であるマリアと二人きりになった話まではスムーズに話せた。
しかし、その後がうまく出てこない。
「隣にいらっしゃいって言われて、それで、薔薇の匂いに頭がクラクラして…あれ…それで…」
「それが薬物でしょうね。薔薇の香りに近いものとなると…筋肉の弛緩、思考力や判断力の低下、多量であれば意識混濁を招く類のものが考えられます」
「何を、話したっけ。なんだっけ、公爵家から一緒に逃げようって言われたような…。そう、そうだわ。それで断ったら、首を絞めてきて…ごめんなさい、後はわからないわ」
「首にも跡がありましたね。その後は気絶なされたご様子で。おいたわしや…」
目を閉じて、何かをやり過ごすように身を縮めるシャルロッテを、医師が横になるように促した。ぎゅっと閉じた瞼が細かく震えている。痛まし気にシャルロッテの手を握った医師に、シラーが口を開く。
「少し、娘と二人で話をさせてくれ」
「かしこまりました。ただ、だいぶ消耗していらっしゃいますので…」
「手短に済ませる」
バタン、と医師の出て行ったドアの締まる音を聞いてから、シャルロッテはおずおずとシラーの顔を見た。
シラーは医師が腰かけていた位置に腰を下ろして「気分はどうだ」と言った。紫の瞳は、怖い顔をしている割りには気遣わし気である。
「すこしけだるいですが、問題ありません」
「そうだろうな。二日も経っている」
「えっ…!そ、それは。とんだご迷惑を…」
「クリスが全然離れなくてな。ここで寝てたぞ。あいつの方がよっぽど迷惑だった」
頑なにベッドにしがみつく様子が鮮明に浮かんで、思わず笑ってしまう。シャルロッテの笑顔を見て、シラーは少しだけ表情を和らげた。
「さて。覚えていることを、確認していこう。さっきは言わなかったことがあるだろう」
片眉を上げて問いかけるシラーに、シャルロッテは寝たままこくりと頷いた。
「実は…私の父親の話をされました。シラー様ではなく、血縁上の。マリア様は…その…婚約者だと」
「元婚約者風情が、未だに現役のつもりだったわけか」
「どうでしょうか。父が亡くなったことは、理解していたようです。ただ、他の人の物になるならとか…なんとか…言ってました」
再びシラーの眉間に深い溝ができる。忌々し気な顔をして「狂った女め」と吐き捨てた。
「それで、どこまで聞いた」
「血縁上の父親が、王家の血筋で、元画家で、母と駆け落ちして死んだ、と」
手を組むようにして額を押さえたシラーは、押し殺した怒りと憎悪が凝縮した感情をどうにか鎮めていた。先立った二人があまりに報われない物言いだ。狂った女の言葉とはいえ、娘に聞かせてしまったことが悔やまれる。
「駆け落ちではない。きちんと手順を踏んで、あの二人は結婚している」
「え」
せり上がる涙が落ちないように目を見開いて、シャルロッテは期待のこもった顔でシラーを見つめた。父親を知っている人が、他にもいると思っていなかったのだ。喜びの滲むその顔を見て、シラーは視線を泳がせた。
「…今まで、黙っていてすまなかった。きちんと、説明しよう」
「聞きたい!聞きたいです、ちゃんと」
聞けると思っていなかった、自分のルーツ。シャルロッテはがばりと体を起こす。
朦朧としながらマリアの声を聞いて、密かに絶望していたのだ。もし両親が愛に狂って、人を不幸にして、一緒になったのだとしたら?自分は望まれない子どもだったら?あの、温かな家は、嘘だったら?―――ぐらぐらと自分の基盤が揺れるような気がして、たまらなかった。
「シャルロッテの父親の名はヨハン。先王の、年の離れた弟だ」
「ん…?つまり、今の王様の、叔父様…?」
「そうだ。つまり、今の王はシャルロッテの従兄だな」
おうさまが、イトコ。
思っていた以上に自分が王家の中枢の血筋に近く、シャルロッテは混乱した。どんな立ち位置を想像していたわけでもないが、とにかく予想外だったのだ。目を白黒させるシャルロッテの様子はお構いなしに、シラーは「ヨハンとは小さいころから交流があってな」と、これまた衝撃の事実を重ねていく。
「ヨハンは貴族として生きるのではなく、昔から画家になりたいと言っていた。やめなさいと閉じ込められても狂ったように絵を描き続け…たしか、婚約などその段階で解消になったはずだ。そうして最終的には、体を損なうことを心配した周囲が根負けした。表向きは病死ということで、愛し合うエリザベト嬢と共に隠してやったんだ。決して不義理などはしていない」
(でも、そーゆー時って、断種とかするのでは)
まるでシャルロッテの考えを見透かすかのように、シラーは「どうしてシャルロッテが生まれたのかは知らんが」と言葉を付け足した。
「間違いなくヨハンの子だ。誰が見ても分かる」
「そんなに似ていますか」
「ああ。王家の秘宝とまで呼ばれた美貌を、そっくりそのまま受け継いでいる」
「わあ」
「マリアというあの女は、その顔に心酔しているようだな。その狂信者っぷりを周囲にひた隠しにしてチャンスを窺っていたらしい。金を積み、シャルロッテと同じ修道院にこっそり入ったわけだ」
ぞわぞわと毛が逆立つ腕を、さすってなだめてやる。気持ちの悪い紅い唇を思い出し、思わず嘔気が出た。薔薇の匂いがまとわりつくようだった。えずくシャルロッテの体を支えて、シラーが水の入ったグラスを口元に押し付ける。「飲みなさい」という言葉に、無理矢理冷たい水を内臓へと落とし込んだ。
「ありがとうございます…。それで、もう一つ聞きたいんですけど…!お義父様はどうして私のこと、引き取ったんですか」