昔のあなたに3
「い、痛いよ、クリス…」
弱り切ったシャルロッテの声に、ハッとしたクリストフ。彼の手が力を無くしてだらりと垂れ下がる。泳いだ視線の先、白く細い手首に食い込んだ赤い爪の跡に目が留まった。
「ごめんなさい、僕、そんなつもりじゃ…」
クリストフは恥じ入るように下を向いて、己の手を罰するように、力の限り握りしめた。冷たい風が吹き込んで、彼の体は冷えている。それでも目の奥が熱かった。感情が制御できずに荒れ狂って、どうにもならない感覚にクリストフは戸惑っていた。
「逃げないよ。どこにも行かない」
ギチギチと音がしそうなほどに握りこまれた拳に、シャルロッテの手がそっと重なる。
クリストフは視界の端に映る細い指を凝視して、涙がこぼれないように堪えた。
「うそでしょう…」
そう呟く紅い瞳には膜が張り、ぷっくりとふくれて下睫毛を濡らしている。
シャルロッテはしばらく逡巡してから、重い口を開いた。
「私ね、修道院には無理矢理連れていかれて…それで、おうちに二度と帰れなくなっちゃったの」
「おうちって、どこですか…」
「もうね、ないの」
ぼろりと、顔を上げたクリストフの瞳から涙が零れ落ちる。
シャルロッテは「どこにもないのよ」と言いながら、親指で頬をぬぐってやった。
「だから、ちょっとだけ怖かったんだわ。またおうちに帰れなくなるんじゃないかって」
やっと心配事を口に出して、シャルロッテはすっきりとした気持ちになった。『そうだ、私も、怖かったんだ』って。それを認めてしまえば何てことはない。不安を取り除くように、対策だってできる。
「ねえクリス。私のお願い、聞いてくれる?」
「……はい」
眉根を少しだけ寄せて、クリストフはシャルロッテをそのまま見つめた。何を言われるのかと構える姿は、少し攻撃的で、臆病な子犬のようだった。そんな姿に、シャルロッテは目を細める。
「私を、必ずここへ連れて帰ってきてほしいの。今居るここが、私の家だから。―――クリスのことも、この家も、大好き。今の生活に満足してるわ」
「……本当ですか?」
「ええ。クリスは、もしも私がいなくなったら、探してくれるでしょう?」
「もちろん探します」
涙の止まったクリストフの頬を撫でながら、「うれしいわ」と呟く。
そして、保険をかけることにした。それはクリストフを安心させるためでもあり、自分の心を安定させるためでもある“お願い”。
「私がいなくなったら絶対探して。見つけて、ちゃんと連れて帰ってちょうだい」
「いいんですか…嫌がっても、連れて帰りますよ」
「いいんです」
やっと安心したような顔をするクリストフを一度抱きしめて、ゆっくりと握りこぶしをほどいてやる。ぷっくりとした頬にわずかに残る涙の跡が痛々しくて、シャルロッテは打ち消すように口を開く。
「最近ちょっと夢見が悪かったんだけど、やっと安心して眠れそう。ありがとう、クリス」
「……どんな夢ですか」
「無理矢理連れていかれる夢よ。家に、二度と帰れなくなる夢」
「そんなことさせません」
「頼りにしてるわ」と、クリストフの頭に頬を寄せた。無表情ながら上機嫌な気配を醸すようになった義弟の手を引いて暖かな屋敷へ戻れば、ホッとした表情のメイド達に夕飯の席へと案内される。
こうして、シャルロッテはようやく安心して眠れるようになった。クリストフはやたらとくっついてくるが、不安定な様子が消えたため、もう好きにさせている。
そうして変わらない、愛しい日常をしばらく過ごした後、慰問に向かう日がやってきた。
(相変わらずね、修道院は)
天使と女神、愚かな人間が描かれた美しい壁画を横目に、シャルロッテはゆったりと足を動かしていた。わざわざ馬車の到着を待ち構えて、自ら案内を買って出たのは、なんと修道院のトップである院長。
(院長も相変わらず。強者にはしっぽを振って、弱者に厳しい典型的なダメ男)
シャルロッテはここに居るとき、院長からは丁寧に扱われていたと思う。それは、腐っても貴族出身だったから。彼は、外界の身分を修道院でも適用するタイプだった。
公爵家の身内となり戻ってみれば、それはもう段違い。脂汗を浮かべての必死の歓待ぶり。
建物や院長を見ながら『来てみれば大したことないわね』と、シャルロッテは冷めた目をしていた。
(まあ、公爵家からの寄付金ともなれば必死にもなるか。経営熱心と考えれば良い院長なのかも)
余計なことを考えながら室内を見回せば、頭を下げるシスターが一人。
頭巾にきっちりと詰め込まれた髪、胸から垂れ下がる十字架、典型的な修道女の出で立ちでありながら、気品の漂う佇まい。シャルロッテは、一目で誰か分かった。
「お元気そうで…マリア様」
顔を上げた彼女は、旅立つ日に、唯一抱きしめてくれた人。
ただほほ笑んで返す彼女の控えめさに唯一、懐かしさを覚え、シャルロッテは胸を熱くした。
今回の慰問に先立ち、シャルロッテは修道院に手紙を送っていた。慰問の際には、お世話になったシスター・マリアを同席させてほしい、と。そんな要望を叶えてくれた院長はクリストフを真っ先に席へと案内し、次いでシャルロッテにもソファを勧めた。
「この度はお招きいただき、ありがとうございます」
「いやはや、神の御許で暮らされたシャルロッテ様には、お帰りなさいと言うべきでしょうかね」
「とんでもないことでございますわ」
(このハゲ、私がどうやって修道院に入ったか忘れてるわね。お歳かしら)
院長の言葉に、口元を隠して内心で罵倒する。そうして、新しい生活は如何ですか、こちらはこうですよ、といった雑談をしばらくこなした。正直デリカシーに欠ける院長の言葉にイラッとすることもあったが、一言もしゃべらないマリア様の顔に浮かんだ微笑みをチラと見れば、それだけで不思議と気持ちが凪いだ。
(昔からそうだったわ。マリア様の微笑みって高貴すぎて…色々と、どうでもよくなるのよね)
この微笑みがあれば、院長の説法の皮を被ったつまらない話も耐えられそうである。
「~でして、神は人々の行いを見てらっしゃいます」
「私もそう思いますわ。そうだわ、クリス。お義父様からお預かりしているもの、ありますわね」
しかし、無駄な雑談にそう長々と付き合う義理が無いのも事実。用件を済ませておこうと、シャルロッテはクリストフに促した。コクリと頷き、彼は「お父様から、ほんの気持ちですが」と言って寄付金について書かれた書状を手渡す。
「おぉ…!これは…!神もお喜びになります」
ホクホクとした顔の院長は「お渡ししたいものが。こちらへ」と言って立ち上がる。寄付をした人間に渡す受領証のようなものだろう。シャルロッテはクリストフへと囁いた。
「ここで待っているから、受け取ってきてもらえるかしら」
「え…、でも」
眉根を寄せ、目力を込めるような表情をしたクリストフは首を振る。『ダメです、お姉さまから離れたくありません』と紅い目が語っている。
しかし「ここから動かないわ。ね、お願いよ」と微笑んで、シャルロッテは押し切った。こちらを待っている院長へと、貴族令嬢らしい仕草で膝をさすってみせる。
「院長、証書はクリストフ様がお受け取りになりますわ。私は、マリア様とこちらで待たせていただきます…少々、歩き疲れてしまいまして」
「おお、大丈夫かね!そうなさるとよろしい。ではクリストフ様、参りましょうか」
後ろ髪引かれるような顔で、クリストフは院長と出て行く。その顔を見ると『ちょっと悪いことしたかしら』と思う。が、シャルロッテは正直、修道院の中をうろつきたくなかった。
(昔私のこと無理矢理連れてった神官達、たぶんまだ居るわよね)
あまり見たくない顔がいるかもしれない、という理由が一つ。
それから、この部屋に残りたかった理由も…。
「ああ、貴方様にまた会えるなんて、なんて、嬉しいのでしょう」
理由であるマリアが花が咲くように笑顔を浮かべ、今日初めて声を発してくれた。




