昔のあなたに2
最近、クリストフがやたらとくっついてくる。
何かと手をつないだり、ふとした時に頭を寄せたり、座る時にくっついて来たり。
(可愛いからいいんだけど…『機嫌が悪い』とは、また違う感じなのよね)
シャルロッテは首を傾げた。おそらく、修道院への慰問を決めたあたりから不安定な気がするのだが…何が理由か分からない。
「寄付金のせい?」
口をついて出た言葉に、一人でふるふると頭を振った。違う。
いくらになるのか確認はしていないが、公爵家の財政が傾く程の寄付をするわけではないだろう。お金の心配をしているとは考えづらい。
(クリスは、何を心配しているのかしら?)
うーんと額に手を当てて悩むポーズをとりつつも、シャルロッテはそんなクリストフの様子に救われている部分もあった。実は最近眠りが浅く、過去の夢を見て飛び起きることがあるのだ。繰り返し夢に見るのは、母親の遺骸から引き離される、あの日のこと。
(“私”は何ともないのにね。“シャルロッテ”にとっては、あそこに行くのはどうしてもトラウマが刺激されるわね)
脳内では冷静に分析をしてみせるが、周囲にそんな事情は伝わらない。
朝になって隈をこしらえた顔を見て、最初に悲鳴を上げたのは支度をしてくれるローズ。「お嬢様の顔に!美しい白い肌に!く、隈が!」と騒ぎ立てるものだから、なだめるのに苦労した。
徐々にやつれていくお嬢様にできることはないかと、使用人たちはあれやこれやと世話を焼く。
「お嬢様、何か気になることでもおありですか?」
「悩みがあるなら、話すだけでも気が楽になるかもしれませんわ」
「もしかしてご負担に感じてらっしゃることが…」
「名前を言わなくても良いのです、何か嫌なことをされたりしていませんか?」
当主が登城中のため読書会がなく、夕飯までの時間を自室で勉強でもして過ごそうかと腰かければ、遠慮がちに、しかし何度も声がかかる。心配してしつこく聞いてくるリリーとローズに「何もないわよ?大丈夫」と笑うばかりのシャルロッテ。
(過去のことなんて話せないし、もう別に、どうってことないのに)
内心をひた隠しにしながら、どこか胸には重い部分があって、小さくため息をついた。
「あーあ、早く終わらせちゃいたい。そしたらきっと、スッキリするわ」
独り言をつぶやいて、庭園で石を転がすように踏みつける。もう夕暮れ時であるが、なんだか部屋に居るのも気が休まらず散歩に出てきたのだ。
シャルロッテは良く知る庭の景色に心を落ち着かせて、しばらく花を眺めたり、茜色に染まる空をベンチに座って眺めたりして、それなりの時間を潰していた。
「うっ、寒い…」
時は夕方である。急に気温の落ちた風に肩を撫でられて体を震わせた。ここに居ても何もならないし、そろそろ戻ろうかと考えつつ、シャルロッテの重い腰は上がらない。
「中に入らないんですか?」
耳のごく近いところでそんな声がして、突然のことにひきつった声が出るほど驚いた。慌ててそちらを見れば、ベンチの手すりを掴んで身を乗り出しているクリストフがいる。
「どっ、どうして、外に」
「お姉さまが外に居るからです」
「さ、寒いでしょ」
びっくりしてとぎれとぎれの受け答えをするシャルロッテを、まじまじと見返すクリストフ。
「寒いのはお姉さまでは?」
そっと伸ばされた手が頬に触れる。温かい。
随分と体は冷えていたようだ。ほぅっと息を吐くシャルロッテの顔に指を滑らせて、クリストフは目の下を撫でる。こそばゆくて目をつむり、僅かに顔を逃がすのを、頬を包むようにして止められた。
「何を、そんなに心配しているんですか」
急に声が弱々しいものになって、シャルロッテはぎくりとする。
「何を、言って…」
『それは、あなたの方でしょう』シャルロッテの喉の奥で、言おうとして言葉が消えた。
近いところで、紅い瞳が切なげに揺らめいてこちらを見ていたから。
「近いよ、クリス…」
「僕は、何も言ってもらえないんですか」
「だって、別に。何もないから」
本気でそう思っているのは、もはやシャルロッテだけであった。彼女をきちんと見ている人間ならば誰でも分かる。何かがあると。
「そんなことより、心配してわざわざ出てきてくれたの?やっぱり優しいね、クリスは」
にっこりと笑って、頬を撫でる手を掴んで立ち上がるシャルロッテ。
「寒いから、中に戻ろうよ」と歩き出そうとした彼女を、クリストフの手が引き留める。対面するように手を引き寄せて立つ彼の顔は、真剣だ。
「お姉さま、修道院に行きたくなければ、あんな手紙は燃やしてしまえばいいのです」
「平気だってば。会いたい人もいるしって、言ったでしょ」
その言葉に、ギリッと奥歯を噛みしめたクリストフの顔を、シャルロッテはよく見ていなかった。繋いだ手を揺らすようにして「ほら、行こ」と声をかける。
クリストフの愛しくて憎らしい義姉は、義理の弟の内心なんかはこれっぽちも分かっていない。そんな憤りを無理矢理抑え込んで、絞り出すように声を出す。
「……誰ですか」
「え?あぁ、お世話になった人よ。お元気かしらって、時々思うの」
「その人間を、屋敷に呼べばいいのです」
「えっとね、クリス。修道女は修道院から出ないのよ。私はちょっと、特例だったけど」
「そんなの、どうとでもなります」
苛立つような、焦るようなクリストフにびっくりして目を見開く。なぜだか不安定な様子の相手をなだめるように、シャルロッテは笑みを浮かべてみせた。
「いいのよ別に。私が行けばいいんだから、クリスもほら、来てくれるのでしょう」
「行きません。お姉さまも、行かせません」
「もう、何言ってるの」
シャルロッテがふざけた様子で返すのを、クリストフは許さなかった。
「本気です。お姉さまがそんな顔をなさるなら…その人間が居ればいいんですよね、僕が連れてきます。だから公爵邸から出ないでください。お姉さま、今まではそんな顔、しなかったじゃないですか。僕、ずっと考えていました。お姉さまがそんな顔をするのは、きっと、」
―――行ったら、もう、帰ってこないつもりでしょう。
思わぬクリストフの言葉に、シャルロッテは再び目を見開いた。
そんなことはみじんも考えていない。いないのに、口を開こうとするシャルロッテより先に、クリストフが早口で捲し立てるから、何も反論ができない。
「お母様も、お育ちになったラヴィッジ領が大切です。だから、公爵家にはあまり帰ってきません。僕はお姉さまが来てくれて嬉しかった。ずっと居てほしいと思っています。でもきっと、お姉さまも昔暮らした修道院に戻ったらそっちが良かったって…お母様みたいに、帰ってこなくなるかもしれない…!」
「ちが、違うのよ…!」
「誰なんですか!その人間、僕、嫌だけど!ちゃんと我慢できます…。公爵邸に置きましょう。ね?あとは何が必要ですか?祈りの間があればいいですか?どんな生活なら、ここに居てくれますか…?」
「違うってば!」
叫ぶようなシャルロッテの声も、クリストフには届かない。紅い瞳が濁ったように感じられて、シャルロッテは後ずさる。
「逃げないでください」
ギリリと掴まれた手が痛んだ。