昔のあなたに1
お見送りが終わって邸内に戻ろうとしたときに足を止めたシラーの、シャルロッテへの評価。
「まあまあだったな。途中気を抜いただろう」
「すみませんでした…」
バレていたらしい。何回か気を抜いた場面のあったシャルロッテは素直に反省の意を示す。シラーは「だいたい、クリストフの…」と、何かを言おうとしていたが、それは続かなかった。笑顔のエマがずいっと割り込んできて「シャルもクリスもよくできたわよ~!素晴らしかったわ!」と、ふわりと抱きしめてくれたからだ。
エマの柔らかな香りに包まれながら、シャルロッテは他の貴族家庭の夫人達の姿を思い出していた。特に、目の上が紫色で肥え太った御夫人の姿が思い浮かぶ。少し会話するだけでも消耗して大変だった。
(うちは優しくてキレイなお義母様でよかったなぁ)
「ありがとうございます。今回、お義母様がいてくれてよかったです。あれでプラス御夫人方のお相手もしていたら…大変でした」
震えるようなしぐさでおどけてみせるシャルロッテに、エマは眉尻を下げる。
「いるのが当然なのよ。これからもできる限り戻るようにするけど…負担をかける時もあると思うわ。ごめんなさいね」
「僕は平気です。お姉さまも、僕が守ります」
黙っていたクリストフが突然しゃべりだした。エマとシャルロッテは微笑まし気にそれを見ていれば、疎外感を感じたのか、シラーがやってきてエマの肩を抱く。
「私に言えばいいだろう」
「シラーは極端なことをするから…」
「お前たちも、何か理不尽なこと、嫌なことがあったら言うように」
苦笑いのエマの額に口づけてから、子ども二人へとシラーは言った。子ども二人はエマの腕の中から抜け出して「分かりました」と良い子のお返事をする。シャルロッテから見ると、どことなく残念な感じは否めないシラーであるが、言えば頼りにはなるだろう。
(クリストフも、やっぱりとびぬけて賢かったなぁ。拗ねちゃったりするところは、まだまだ子どもっぽいけど)
ちらりとその整った横顔を見ながら、シャルロッテはアンネリアの子どもらしい癇癪の様子を思い出す。クリストフが駄々をこねている姿は想像がつかない。視線に気が付いたクリストフに手をとられ、二人で手を繋いで歩き出す。
そうして四人で歩きながら屋敷へ戻る姿は、どこからどう見ても“家族”そのものであった。
◇
それからシャルロッテはお茶会デビューを皮切りに、いくつかの社交をこなすようになった。始めは招待した客の家に招かれて、デビューの会に来てくれたお礼を兼ねて参加をして。そうして顔を繋いでいくと、誕生日会やら季節の花が美しいやら、理由をつけた誘いの手紙が紙束となって降ってくるようになる。
「社交って、面倒くさいわね」
ぱらりとそれらを指で持ち上げて落としてシャルロッテは嘆息した。あのデビューからもう随分と経ったが、未だ社交の楽しさは分からない。
シャルロッテは、クリストフと授業を受けて日常をこなすほうがよっぽど好きであった。
(どれに参加していいか、クリスに相談しとこ。一人で行きたくないし)
読み散らかした紙束をローズにまとめてもらい、クリストフの部屋へと先触れのメイドを出す。
社交をする際にはクリストフに相談するように、クリストフ本人に口を酸っぱくして言われているのだ。
シャルロッテも一人で参加などしたくないので言い付けを守っている。あと、一応両親に予定を確認してから返事を出すようにしていた。
メイドが戻ってきて「今すぐどうぞ」と言われたので、クリストフの部屋へと向かう。
見慣れたドアをくぐり中へ入れば、いつも座るソファーにティーセットが用意されている。芳醇な茶葉の匂いが鼻孔をくすぐった。
「わ、いい匂い」
「今年の春摘みの中で最も香りの良いものです」
腰かけて、銘柄のラベルが見えるように置かれた紅茶缶を手に取り、産地を確認する。シャルロッテが紅茶を味わう頃には、クリストフの手にすでに手紙の束が渡っていた。
「お姉さま宛ての手紙、初めから僕が受け取りましょうか」
一々面倒くさいでしょう、と言わんばかりのクリストフの言葉にゆるく頭を横に振る。
「クリスの部屋に来るの、好きだから」
紅茶を味わってクッキーを口に放り込んだシャルロッテが微笑めば、クリストフはいつもの無表情で「それなら、もう、一緒にこの部屋を使うのはどうでしょう」と冗談を言うものだから、声を立てて笑ってしまった。
「やだ、ごめんなさい。はしたないわね」
「本気なのに」
「あははは、もう、やめてよ」
真顔で冗談を言うクリストフが面白くて、シャルロッテは笑ってしまう。あまりに本気っぽく言うものだから、毎回クリストフがこういった冗談を言うとツボに入ってしまうのだ。口を押さえて笑っているが、淑女としてはありえない振舞いである。
自覚のあるシャルロッテは、背筋を伸ばしてコホンと咳払いをして切り替えた。
「それでね。その中で、行った方がよさそうなのはアンネリア様の誕生日会くらいかと思うのだけれど」
「どれも行かなくていいんじゃないですかね」
投げやりに手紙を確認したクリストフは、それを放るように投げつつ二枚を抜き取った。
そしてクリストフの部屋付きのメイドに合図をすれば、シャルロッテのところに来ている手紙の五倍はあろう紙束がトレイに乗せられて運ばれて来た。クリストフ宛の招待状の類なのだろう。
「お姉さまの行きたい会があれば」
「ないわよ、分かってるでしょう」
シャルロッテの呆れたような言葉に少し口の端を持ち上げてみせるクリストフのその顔は、シラーによく似ていた。そのまま、手に持った二枚の手紙を渡される。
シャルロッテはそれを確認し、一枚は想像通りアンネリアの招待状で、もう一枚は…。
「これ、やっぱり行った方がいいかしら」
「お父様に要確認です」
「私、…私、そんなにお金もないし。…やっぱり、お断りしたらいけない?」
妙に不安そうにクリストフを見やるシャルロッテも、この手紙を見た時から薄々は分かっていた。これは、子どもが判断するべきではないと。
『メーニエ修道院』
ちらりと手紙の送り主が視界をかすめ、シャルロッテはため息をつく。シャルロッテが、かつて暮らした修道院からの慰問願いであった。
貴族が修道院に慰問して何をするのか。奉仕か、祈りか、寄付金か、である。
浮かない顔のシャルロッテを見て「お金は公爵家から出ますよ」と言いつつ、クリストフは首を横に振る。
「もちろんお姉さまが行きたくないのなら、行かなくて良いです」
「行きたくない、わけじゃないわ…。別にあそこで、嫌な思いをしたとか、ないし。会いたい人もいるし…。ただその…、上手く言えないんだけど」
もう一生、そこに戻ることはないと思って出てきたのに。それが、一年も経たずに舞い戻ることになるなんて。
(“私”の人格になってから、嫌な思い出は別にないわ。ただ、この体の記憶がどうしても拒否感を示すのよね)
僅かに『そのまま家に帰れなくなる』というトラウマが刺激されて、妙に落ち着かない気持ちになるだけだ。シャルロッテ自体は、別にいいのだけれど。体が覚えているなんて妙な心地である。
「僕が行きます」
シャルロッテの歯切れの悪い言葉に、クリストフが「僕が行けばお金も入りますし、修道院側も文句はないでしょう」と言う。
「クリスに迷惑かけたくない!」
「迷惑じゃないですよ。お姉さまが暮らしたところが気になるだけです」
無表情の彼が何を思うのか、シャルロッテには分からない。だが、この心優しい義弟はきっとシャルロッテの様子を心配しているのだろう。
「それじゃあ、一緒に…来てくれる?」
もしクリストフと一緒であれば、そのまま修道院に入れられることはない、はずである。そうやって自分の心に言い聞かせることができれば、妙な心地もマシになる気がした。
おずおずと伺うような顔のシャルロッテに、クリストフは心底不思議そうに首をかしげて、彼にとって当たり前のことを口にした。
「お姉さまが行くなら、僕も一緒です」
その言葉に、くしゃりと顔をゆがめたシャルロッテ。
泣きそうな、それでいて笑っているような顔で「ありがとう…」と言って、誤魔化すように窓の外を眺める。真っ暗なように見えて、遠目には庭園がうっすらと影を為している。シャルロッテの良く知る景色だ。
(もう、あの頃の私じゃない)
「寄付金をいくらするべきか、確認が要りますね」
そうしてグウェインのところへ行くようにメイドに指示を出したクリストフは、もう一人いたメイドにもお茶を変えるように申し付けた。
他に誰も居なくなった部屋の中、クリストフがぽつりと言う。
「隣に行ってもいいですか」
「?、いいけど」
とことことやってきて、シャルロッテの隣に腰かける。黒髪がそっとシャルロッテの肩に乗り、甘やかなクリストフの香りが強く感じられた。柔らかな髪が、頬にくすぐったい。
「お姉さまは、どこにも行かないで」
しばらくじっとしているクリストフの頭に、そっと顔を寄せて目をつぶる。
「行かないわ。あなたのお姉ちゃんだもの」
二人の静かな寄り添いは、メイドが戻ってくるまで密やかに続いた。