*義姉のいない世界の話1
自分の名前はクリストフ・レンゲフェルト。
公爵家の嫡男で、何一つ不自由なく育っている。と思う。
ただ一つ挙げるとすれば、母親が別領地の当主代理をしている関係で、別居中であるということ。
クリストフには、母親の記憶が存在しなかった。
クリストフが母という人間を認識したのは、四歳頃。
誕生日の祝いの夕餉に突然現れた黒髪の女は『母親』と名乗り、食事を共にした。
誕生日などの行事は父親と食事を共にする。その際にはメッセージカードが届いていた。
いつも簡潔な定型文で、甘い香水の匂いがするソレは『愛しのクリストフへ』で始まり『あなたの母親 エマより』と書かれていた。
(メッセージカードの『あなたの母親 エマ』だ。まさか、本当に居たんだ)
クリストフは驚いたが、同時に嬉しかった。自分を『愛しの』と呼ぶ人である、ずっと会ってみたかったのだ。
しかし、感情の動きを察知されるのは良くないことだと教わっている。マナー講師の指導通り、口の端を吊り上げるようにして挨拶を述べた。
「お初お目にかかります、クリストフ・レンゲフェルトです」
手を差し出されなかったので握手もキスもしなかったせいだろうか。ガッカリさせてしまったらしい。
女の金色の瞳が揺らいで細められる…それは怒りか悲しみか。
彼女から発せられる負の感情をクリストフが読み取った瞬間には、女の横に並び立つ父親が眉根を寄せてこちらを睨んでいた。
「母親だぞ、初対面ではない。それと、家族にそう…かしこまった態度をとるな」
(記憶上は初対面なのに、初対面ではない。家族に対してはかしこまらない。お父様もいつもは何もおっしゃらないのに…。マナー講師はこのパターン、教えてくれなかったな)
父親に叱責されたクリストフは困惑を押し込めて「失礼致しました」と頭を下げる。
「いいのよシラー」という女のとりなしで食事が始まった。
女はクリストフに質問ばかりで、父親はそんな女をずっと眺めている。これが家族というもの、なのだろうか。初めての空間にクリストフは『正解』を探していた。
「困ったことはありませんか?」
「特にありません」
「シラー…お父様は優しくしてくれていますか?」
「良くして頂いています」
「勉強はどうですか?」
「問題なく進んでいます。先日はラヴィッジ領のことも学びました。貿易が盛んで、近年は東の海への進出など素晴らしい成果を上げているとか」
「え、ええ…」
問われることに答えているだけなのに、その女が戸惑う感情が伝わってくる。自分がどうすればいいのか分からない。マナー講師に教わった通りに会話をこなすが、それは『不正解』らしい。父親からの厳しい視線を受けながら進める食事は、砂を噛むような心地がした。
「クリストフは優秀だよ。教師達からの評判も高い」
「まあ、素晴らしいわ」
自分には戸惑ったような目を向けるくせに、父とはとろけるような笑みを浮かべて視線を交わす女。父親も、自分には見せたことのない甘い声、甘い顔、優しい眼差しで女を見つめる。
「エマに似たのかな」
「違うわシラー、あなたに似たのよ。クリストフを立派に育ててくれてありがとう」
「当然のことだ」
見つめ合い、頷き合う、二人の世界。
(二人の会話は『正解』らしい。僕が混ざると『不正解』になる)
食事後、母親は父親と二人で部屋へと帰っていった。
知らなかったことだが、父親の部屋は、父親と母親二人の部屋であったらしい。
部屋に戻ったクリストフはひどく疲れていた。
ガッカリだった。
(何が『あなたの母親 エマ』だ。あれは『公爵家当主の妻 エマ』だ。そして僕は『愛しのクリストフ』じゃなくて『愛しの公爵の息子のクリストフ』の間違いだな)
どうやら父親は『母親の望む息子』になって欲しいようだった。
内心ため息を吐くも、この屋敷において『公爵家当主の息子』として存在している以上、父親を無視することはできない。
(正解は何だ。僕は知らなければならない)
控えるメイドに聞いてみようと、何人か呼びつけて並べてみる。
ここにいるメイド達は皆、貴族でもあるし、参考程度にはなるだろうと問いかけを投げた。
「母親の理想の息子とは何だ」
腕を組みトントンと指を叩けば、並ぶメイドが端から端的に回答を述べていく。
「健康であれば、それだけで良いかと思います」
「賢く、優しい男になれと兄は育てられました」
「父のようになれと、母が弟に申しておりました」
三者三様の答えであるが、クリストフは最後の者の返答が一番正解に近い気がした。
『母親』はずいぶんと『父親』のことが好きな様子だったし、少なくとも不正解ではないだろう。
「お父様はどんな人間だろうか」
トントンと指を叩けば、並ぶメイドはそれが決まりであるかのように再び端から回答を述べていく。
「気高く、素晴らしいご当主様でいらっしゃいます」
「その才覚たるや国一番でございます」
「奥様を深く愛し、大切にしていらっしゃいます」
素晴らしい当主にはそのうち成るとして、クリストフとて才で人に後れを取ることはない。となると、父にあって自分にないものは…と考えた。
(『愛』と『大切にする』か)
「お父様はお母様を大切にしている、愛しているとは、何から判断できる」
クリスの指が二回腕を叩いた瞬間に、端のメイドが素早く口を開いた。
「奥様がお望みのことを、何でも叶えて差し上げるところです」
「奥様のためを考えて動いてらっしゃるところです」
「お二人で居るだけで、幸せそうなところです」
自分は父が望むことを考え、今まさに叶えようと努力している。これは『大切にしている』と言えるらしい。しかし最後のメイドの回答が気にかかった。
少し自分で考えてみるが分からない。分からないので、発言をしたメイドを指でクイクイと引き寄せるようなジェスチャーをする。
「居るだけで幸せとはどういった意味だ。詳しく説明しろ」
三人の中でも一番年若いメイドは震える足で一歩前に出た。指をトントンと苛立たせながらクリストフが顎で促せば、しどろもどろになりつつも言葉を紡ぐ。
「えっと、旦那様と奥様、お二人は、見つめ合うだけでその…幸せそうにしていらっしゃいます。お互いがそこに居るだけで幸せというのは、究極の愛の形かなと」
(同じ空間に存在するだけで幸せなのが、究極の愛)
確かに、先ほどの父親と母親の様子は幸せそうであった。
このメイドの言うことは『正解』のようだ。
クリストフはふと想像する。
先ほどの食事時の光景。父親と母親は見つめ合っていて、幸せそうに微笑んでいる。クリストフはそこに居るだけだった。
しかし。クリストフの頭の中で、シラーが泥となって掻き消える。
母親は泣いたり戸惑ったりしていたが、そのうちに視線はクリストフに向けられた。
(この人は僕の母。でも、僕の母は、お父様のモノ)
じゃあ、お父様がいなくなったら?
『あなたの母親 エマ』だけになる?
そうしてずっとずっとその部屋に居れば、いつか幸せになる時が来るだろう。
そうなれば、それは『愛』になるのだろうか。
そこまで考えて、クリストフは軽く頭を振って思考を振り払った。
(お父様のためなのに、お父様がいなくなっては意味がない)
「下がって良い」
手を払ってメイド達を追い払うも、クリストフの中では先ほどの問答がずっと燻っていた。
ずっと、ずっと。