幸せな光景
シャルロッテはクリストフの視線がこちらにないことを確かめた。
朝日のきらめく中で寄り添う二つの黒。
抱擁をして再会を喜ぶ母子を、少しだけでも二人きりにしてあげたい。そしてもう一つの別の目的のため、そっとシャルロッテは廊下へと出る。
(あとは、待つのみ)
そしてドアの前で小さな足を広げ腕を組み、仁王の如く立ちはだかる。気分は正に守護者であった。
虚空を見つめながら考える。考えれば考えるほど、ムカムカとシャルロッテの胸中には怒りが育つ。
しばらく待っていると上の階から足音がした。かなり急いでいる足音だ。
その足音にさえ苛立ちを覚え、シャルロッテは相当に怒っていることを自覚する。
(来たわね)
シャルロッテは気合を入れた。顎をすこし上に持ち上げ、息を吸って、そして吐いて、階段側の廊下を見つめる。
急ぎ足のお義父様がこちらへやってくるのが目に入った瞬間、両手を前に出しジェスチャーで止まれと示した。
「っどきなさい、エマは中だろう」
焦燥の浮かぶ表情は、いつものシラーの冷静さを欠いている。早足を止めない。後ろを追いかけてくるグウェインも同様だ。シャルロッテはそれを冷めた目で見ながら「待ってください」と声を出した。
シラーは焦ったそうに立ちどまるも眉根を寄せて、思い通りにゆかぬ苛立ちか、妻への心配か、早口でまくしたてる。
「報告は聞いた、随分勝手をしたらしいな」
シャルロッテはあえてゆっくりと、言葉を選んで投げ返す。
「お義母様のご希望を聞いただけですわ」
「白々しい…エマはクリストフに会うことに後ろ向きだったはずだ」
「そんなことありません!怖がっていただけで、本当は会いたかったんです」
「初対面のくせに、随分と知った口をきく」
シラーは呆れたようにため息を吐き、眉間の皺を深くして「初めて会った人間を泣くまで追い詰めるのが、修道院のやり方か?」と小馬鹿にしたような口調でシャルロッテに一歩近づいた。
「それを言うなら、ぶつかりもせずに諦めるのが公爵家のやり方なんですか!」
「状況、タイミング、人には事情があるんだ。私は、私なりに最善を選んできたつもりでいる」
「クリスには『今すぐ』お義母様が必要なんです。どうして分からないんですか」
絞り出すようなシャルロッテの声。
シラーはもう一歩前に足を出す。
「大貴族は自分で子育てなぞしない。プロに任せてそれきり、使用人任せも珍しくない。聞いたことないだろう、おしめを替える公爵、赤子を湯に入れる伯爵、そんな話は私も聞いたことがない」
「そうじゃないでしょ…」
睨みつけるも、シラーの表情は変わらない。一歩一歩と近づき、もうすぐそこまで来ている彼は、今まで見たどんな時よりも冷たい目をしていた。
「エマを泣かせていい理由にはならない。彼女に何の非がある?生まれ故郷を捨てさせ、夫に先立たれ弱りきった母親を見捨てさせ、幼い我が子と公爵家にずっといさせるべきだったと?」
「そうじゃないでしょ!」
あまりにも噛み合わない会話に、頭を振る。ジリジリと迫るその黒髪に何を言えば伝わるのか、シャルロッテは歯噛みした。
「お義母様の気持ちは、ちゃんと聞いたんですか?」
「私はいつだってエマのために動いてる。今回ばかりは解せないが…なぜ私に連絡しなかったのか…」
(アンタがなんぼのもんじゃい)
思わず前世のスラングだろう言葉が脳内で飛び出ていた。
イラァッとしたシャルロッテは内心で大きな舌打ちをして、怒りを押さえつける。
(この人は、自分で抱え込んで説明しないつもりだわ。だから何も伝わらないでこじれるって、この期に及んで自覚しないのね)
先ほどまでエマと話をしていた時も、シャルロッテは目の前の男に対して思うところがたくさんあった。
しかしまだ事情があるのかもしれない。聞かないことには始まらないと、怒りを堪えた控えめな低い声でシラーへと問いかける。
「どうして、今までクリスとお義母様を会わせなかったんですか」
「色々あるんだ」
「お義父様は毎月お会いしてたとか」
「大人の事情がある」
切って捨てるようなシラーの物言いに、ついに苛立ちを隠せなくなったシャルロッテは食って掛かった。
「お義母様がいること、私初めて知りました。クリスも同じなんじゃないですか?」
「事情は説明している。この問題で、君とクリストフを同列にするな」
「納得できません。どうして今まで会わせなかったのか、ちゃんと説明してください」
「君には関係ない」
怒りの湧き上がりで、シャルロッテの脳内は真っ白に染まっていた。それでも尚、大の男二人にどうすれば通じるのかを無意識に選び取る。
(この人には何を言ったって伝わらない…なら)
シャルロッテは、食堂のドアに手を伸ばした。シラーが、グウェインが、シャルロッテの行動で何らか害があると判断したのだろう。慌ててこちらへ駆け寄ってきた。
シャルロッテは伸ばされたシラーの手をパシリと払い除ける。怒りを隠しもしない低いかすれた声で、二人に向かって必死に伝えた。
「……永遠に失おうとしてたモノ、ちゃんと見なさいよ」
シャルロッテがそっと、薄くその扉を開ける。
二人は隙間から見えた世界に息を呑んだ。
ほほ笑むエマの膝の上、小さな男の子が乗っている。
黒髪に紅い瞳の幼児だ。
母親を見上げて話す横顔はあどけなく、紅い瞳が大きく輝いている。それを見て微笑む母の顔は、女神のように慈愛に溢れていた。
朝日がきらきらと二人を包み込み、交わす言葉は途切れることなく続く。ぽつりぽつりと、クリストフの語る言葉に頷くエマの黒髪が揺れている。
幸せな世界がそこにはあった。
シラーもグウェインも、その光景から目が離せず固まっていた。