おかあさま
ひとしきり泣き終わったのだろう。エマが顔を上げて、シャルロッテとやっと目が合った。
シャルロッテはエマに、にやりと笑みを浮かべて手を伸ばす。
「ほら、行きますよ!」
「えっ!あ、ちょっ」
立ち上がるなり手をひっぱり、ドアをあけ放ち転び出るように馬車を下りる。日差しは先ほどより強くシャルロッテの目に刺さり、一瞬目を細めて立ちどまれば、行く手をメイドに遮られた。
「何をしているんですかっ」
「どいてください。私はシャルロッテ・レンゲフェルトですよ」
「私は奥様にお仕えしていますっ、馬車に戻ってください!」
「娘と母の交流を邪魔するんですか?メイドのあなたに止める権利はありません」
好戦的なシャルロッテの言葉に、おろおろとしたエマの気配を背中に感じる。そこでメイドはエマの顔を見たのか「奥様っ、お、お泣きにっ?!」とひきつった声で叫んだ。
エマは手を振って「これは、その、大丈夫なのよ」とほほ笑むが、メイドはますます眉を吊り上げてシャルロッテを睨み付けた。
「あ、あなたねぇっ!旦那様が黙ってませんよ!」
「お叱りならお義父様から直接受けます。そこ、どいてくださる?」
「奥様に何を言ったのです!」
絶対に引かない、というメイドの強い意思を感じたシャルロッテは短くため息をついた。うるさいなあと内心で思うも、それを言うほど性格は悪くない。
ただ顎をつんと上げて、目で語る。
(今までずっと問題を放置してたくせに、口挟まないで)
「朝食をご一緒するのよ。お義母様のお腹が空いていらっしゃるのに…あなた、それを邪魔したりしないわよね?」
笑みをうかべて小首をかしげ問うシャルロッテに、メイドは押し黙った。
どうせこの人はお義父様の駒だろうし、ゴリ押しでいこうと一歩足を前に踏み出して「どいてくださる?」とシャルロッテは繰り返した。
しかし、メイドは退かない。こちらに向かってこそ来ないが、通り道の真ん中に立ったまま、シャルロッテとエマを見つめて動かないつもりのようだった。
「旦那様がお迎えにいらっしゃるまで、奥様は動くべきではありません」
「クリスと朝ごはんを食べるの。母と息子の対面、邪魔するならこっちだって容赦しないわよ」
メイドだって、クリストフとエマの関係性には思うところがあるのだろう。吊り上がっていた眉は瞬く間に下がっていき、戸惑うような顔をして、目線を二度三度と泳がせて逡巡している。
「義理の娘が無理を言って連れて行った、そう言ってくださいませ」
その言葉を聞いて、メイドはシャルロッテに目礼をする。そうしてすっと脇に引き、頭を下げた。
「では、食堂に向かいますので」と告げ、エマの手を引いて歩き出す。
ずんずんと歩みを進めるシャルロッテは、玄関に差し掛かる前に一度、ちらりとエマの顔を振り返って見た。視線に気が付いたエマは「ありがとう、シャルロッテ」と弱弱しい笑みを浮かべる。
「シャルでいいです」
ふいっと前を向きながら、歩みを止めることなく告げるシャルロッテ。
「私のことお義母様って呼んでくれて、ありがとう」
「いえ、勝手にすみませんでした」
「本当はね、今日は私、シャルに会いに来たのよ」
その言葉に立ち止まり、振り返って繋いだ手の先を見つめる。シャルロッテが視線を上げれば、相変わらずほほ笑んでいる金色の瞳。
「無理を押してでも『登城する前に公爵邸に寄るわ』って、押し切ったの。本当はクリストフの顔を見たいけど、もし拒否されたとしたって『新しい養女の顔も見ないといけないし』って、自分に言い聞かせてね」
(じゃあ、本当は、クリスはいつ母親に再会できたのかしら。私がいなければ、いつ?)
思考が傾きかけるのを首を振って追い払う。原作でのクリスの幼少期なんて、いくら考えたって分からないのだ。
「そう、だったんですか」と、なんとか返事を絞り出す。
「夜明け前に家を出たわ。できるだけここに居られるようにと思ったのだけれど…それほど長くは居られない」
良く見れば、うっすらとエマの目元にクマが見える。
「エマさ…お義母様、お疲れじゃないですか?」
「馬車の中で仮眠をとったわ。大丈夫よ」
「そうですか」
短い返答をしながら、歩き出すシャルロッテ。
完全に納得したわけではないが、分からないわけでもない。エマに対する憤りはもう静まっている。シャルロッテはエマにバレないように、鼻からふん、と息を吐いた。
(臆病な人…私なんて言い訳がなくったって、どんな無理をしたって、息子に会いに来るべきでしょうに)
この時間ならもうクリスは食堂だろうとあたりをつける。玄関から直接食堂へと向かおうとすれば、すれ違う使用人の驚いた顔、顔、顔。あまりにこちらを見るものだから、失礼ね!とシャルロッテは周囲を厳しい顔で見回して視線を散らす。
「でもシラーったら、私のこと何もシャルに話してなかったのね」
拗ねたような声のエマに、まさか『死んでいると思っていたので何も聞きませんでした』とは言えまい。
「あー、聞かない私も悪かったです」
シャルロッテはしれっと答えて、食堂のドアに手をかけた。
ガチャリとドアを開けて入れば、クリストフの視線がシャルロッテに向く。
「お姉さま、どうされたんです…か…」
クリストフの視線が、シャルロッテから、後ろのエマへと滑る。
クリストフの言葉が途切れてしまうその時に「クリス!今日はスペシャルゲストと朝ごはんよ!」と、シャルロッテはいやに明るいトーンで声を響かせた。
サッとエマの手を引いて、クリストフの近くまで連れて行く。
見つめ合うばかりで言葉を失う二人。
にんまりと笑みを浮かべて「クリス!誰か分かる?」と、けしかければ。
「お、かあ、さま」
小さく小さくつぶやく、クリストフの声。
エマは感極まったように「お母様よ、クリストフ」と、同じように小さくつぶやいた。
「今まで会いに来られなくてごめんなさい」
そして両手を広げて、小さなクリストフの体をエマが包み込む。黒髪がカーテンのように広がって、クリストフの黒髪に重なった。
ごめんなさい、ごめんなさい、とうわごとのように繰り返すエマの背中は、ひどく小さく見えた。
「そ、れは、おいそがしいって、きいてました」
クリストフの顔を覆う黒髪のカーテンからは、クリストフの知っているような、知らないような香りがした。クリストフは手をうごかして、自分の視界を遮る女の髪の毛を整えてやる。
目を閉じてそれを受け入れ、為されるがままのエマ。
絞り出すように思いを伝えた。
「ずっと会いたかった、クリストフ」
クリストフは紅い瞳を宙に漂わせ、すがるようにシャルロッテを見る。シャルロッテがにっこり笑って両手をパーにし、抱き着くジェスチャーと共に口をパクパクと『し・て』と言った。
クリストフは、そっとエマの背中に手を回した。短いその手はエマの細腕あたりを掴み、弱い力で抱擁を返す。抱きしめる温かさを、エマの香りをそっと吸い込んで、かすれた声でクリストフが言う。
「クリスって、よんで」
その小さな熱にじわりとあふれる涙は、エマの頬を伝い、床へと零れ、自身の腕も濡らしていく。
「っく、クリスの、はっ、はなしがっ、きっき、聞きた、い」
「……はい」
「げっ、げんきっ、なのっ」
「……はい」
「つ、つらいことっ、ないっか、しら」
「ありませんよ」
泣きじゃくるエマの言葉は途切れがちだが、クリストフはきちんと待っている。
どこか表情も柔らかく、短いが、ゆっくりと穏やかに返事をしていた。
(もう、大丈夫そうね)
シャルロッテはホッと息をついた。
 




