思い出す過去と、お迎え
4歳まで、私の名前はシャルロッテ・ヴァーサだった。
人形のように美しい少女だと村でも評判で、みんなに可愛がってもらっていた。ちょっと気が強くて、生意気な女の子だったけど、お母様は私を“シャル”と呼び、愛してくれていた。
『シャル、今日もジョンと喧嘩をしたって聞いたわ。ケガしてない?』
『……してない』
『シャルがどうして怒ったのか、お母様に聞かせてくれる?あなたの気持ちが知りたいの』
『…………だって、じょんが、ちちおやがいないのは、へんだって、いうからっ』
『それで悲しくなったのね。シャル、あなたを抱きしめてもいいかしら』
『っ、ぐすっ、うんっ、お、おかあさまっ』
母子家庭でお母様と2人きり、貧しいながらも楽しい我が家だった。幸せだった。でも、4歳になって、お母様は流行り病であっけなく死んでしまった。
「おかあさま、どうして、どうしてなの…」
母を看取ったその夜、悲しみに泣き濡れる私のところへ大勢の神官がやってきた。
母と二人暮らしていた小さな木の家には入りきらぬほどの人数で、家の前にも神官が立ち、近所の人たちが心配して見に来るのを押しとどめていた。
「ヴァーサ子爵令嬢エリザベトの娘、シャルロッテとお見受けする」
白装束のフードを目深に被って顔も見えない男たちは、幼女の私を取り囲み、手首を掴んで引き立てた。
「やっ、!なんですか!こないでっ…」
「君はこれより、修道院で暮らすことになった」
「え、でも、おかあさま、そんなこと、いっていませんでしたっ、やめてっ!はなしてっ!おかあさまぁっ、おかあさまぁあ!!」
「君の父親の血筋は、孤児となっていいものではない。こちらの管理ができる範囲にいてもらうことになっている。聞き分けなさい」
「しらないっ、しらないっ」
葬儀の終わらぬまま、冷たき体となった母を家に残し、抵抗むなしく馬車に押し込められた。持ち出せた遺品は、たまたま身に着けていた、母の大切にしていた1粒ダイヤのネックレスだけ。
後から、全ての物品は検品された後に焼却処分となったと聞いた。
母の遺体はしかるべき場所に収められた、とも。
「おかあさまのもの、かえして!かえしてよぉっ」
いくら泣いても、燃えたものは戻らない。
母の葬儀もしてやれない。
なんて、むごい。
私は4歳にして、多くのものを失った。
「あれらのものは、あなたのものではありません。あなたの父君に関わるもの全ては、管理されなければならないのです」
「そんなひと、しらない!わたしには、おかあさましかいない!」
「いいえ。あなたは、父君そっくりです。髪も、瞳も、その顔も。あなたは、その血から逃れることはできません」
「そんなの、しらない…」
「あなたは、管理されるべき物の一つなのです。あなた自身が燃やされなかったことに感謝しなさい」
私の父親というものは、どこぞの高貴な血筋であったらしい。
母は、父親についての一切を、私には告げていなかった。私自身、母は貴族のお嬢さんだが父親は平民で、若くして亡くなったと思っていたのだ。周囲の村人たちも、駆け落ちした気の毒な貴族のお嬢さんと思って、なにくれとなく世話を焼いてくれていた。
父親が貴人であったことは衝撃だった。
そういった理由で、私はどこにあるかもわからない修道院に閉じ込められた。
ヴァーサという家名も、もう二度と名乗らないことを誓わされ、私はただの、何も持たないシャルロッテとなってしまった。
私には、世界の全てを奪われたようだった。
「おうちにかえしてっ!いやぁ、おかあさまぁっ、いやああああ!!」
修道院では、泣き、わめき、暴れた。
なにより一番、母の葬儀ができなかったことが悔しくてたまらなかった。
ある日。
私はこんな場所から逃げ出して家に帰るんだと、窓から脱走を試みた。
小さい体でうまく窓枠を乗り越えたはいいものの、外壁のレンガに足をかけたところで滑って落下。植木に突っ込み事なきを得たが、建物の二階から落ちる衝撃で意識を失い…。
プツンと糸が切れるように、幼い私の精神は死んでしまった。
◇
幼い精神が死んだ“私”は、空の肉体になった。
魂がなければ、肉体は維持できない。
生命活動を維持するため、生存本能が、奥深くに眠っていた前世の精神を引っ張り出してきてしまった。
私は、幼い自分の死の瞬間に、前世の記憶を思い出したのだった。
日本という国で生まれ育ち、社会人として働いていた記憶。
なんとなく生きていた、ぼんやりとした情報。
まるでドラマを見ているかのように、ひとりの女の人生が、脳内を駆け抜けていった。
そうして小さな体に大人の精神が宿り、目覚めたときには、自分の不遇な状況を受け入れていた。泣くこともわめくこともなく、淡々と日々を過ごすようになった私に、修道女たちは神のご加護があったのだと言った。
(自分がまさか、異世界転生をするとは…。本当に神様が居るのかもしれない)
この世界は、前世でいう中世ヨーロッパのような景観である。しかし、“魔力”が電気に代わるエネルギーとなっている、なんともファンタジーな世界なのである。
(もしや、何かの物語の世界だったりするのかしら)
今のところピンとくるものはないが、いつか何かを思い出すかもしれない。
その記憶で一攫千金できれば将来も明るいだろう。
ぜひとも前世の知識で無双できると在り難い。
(お母様も言ってた『お金は、あればあるだけいいわよ』って)
貴族であった母が市井に下って生きることは、大変な苦労があったと思う。それでも決して腐ることなく、しなやかに生き抜いた、素晴らしい人だった。
ほっそりとした手を叩いて、感激したように、私を褒めるお母様の姿を思い出す。
『まあシャル、とっても上手よ』
『へへっ。おかあさまのマネするの、すき!』
『うふふ、マナーは完璧ね。次は、いろんな国の挨拶を覚えましょうね」
彼女は生前「どこで役に立つかわからないからね!」と言って、私に貴族的なマナーを含め、様々なことを教えてくれた。
『誰かに襲われたら、人間の真ん中を叩くのよ』
『まんなかー?』
『鼻、喉、みぞおち、股間、真ん中を狙うの』
『みぞーちー?』
『まだちょっと早かったかしら。もっとお姉さんになったら、また教えるわね』
その真意は不明だったけれど、自分の知る全てを伝えようとしていたように思う。
お母様の死後は修道院の外へ1歩も出ることは叶わず、読書と修道女による授業のみが私の許される行動となった。その時、私のマナーや教養は、元大貴族だという修道女にも絶賛されるレベルに仕上がっていた。お母様の教育は、かなり水準が高かったらしい。
そうして2年を過ごし、6歳になってしばらくした、ある日。
シャルロッテは、普段は入ることを許されぬ、修道院の応接室へと呼び出された。天使と女神、愚かな人間が描かれた美しい壁画を横目に、彼女は布靴に包まれた小さな足を動かして、できるだけ急ぐ。
(院長先生があんな顔をするなんて、ただ事じゃない)
先ほど私を呼びに来た院長は「すぐに応接室へ向かうように。高貴なお客様です、失礼のないようになさい」と告げた。彼の顔色は、周囲に緊張が移るほど青白く、よっぽど怖い“お客様”であることが察せられる。
到着したドアの前に立つ。
呼吸を整え、心を落ち着けた。
(お母様、私…見守っていてくださいね)
背筋を伸ばし、顎を引き、肩の力を抜く。コンコン、と二回ノックをすると「入りたまえ」と低い男の声がした。息を吐き、そっとドアを開ける。
線の細い貴族然とした男、濡烏の髪をオールバックに撫でつけた彼は、シャルロッテを見て少し驚いたように瞠目した。
しかしその感情の揺らぎはすぐに隠され、心地よい低い声が部屋に響く。
「シラー・レンゲフェルトだ。爵位は公爵。初めまして、レディ」
(公爵…!貴族の中で最高位…院長もあんな顔するワケだ)
頭を軽く下げてからドアを閉め、あらためてカーテシーをしながらシャルロッテは挨拶をした。
「はじめまして、シャルロッテともうします。レンゲフェルトこうしゃくさまに、おめもじかなって、こうえいにぞんじます」
彼は、頭を下げる彼女をじーっと、頭のてっぺんからつま先まで検分し「顔を上げなさい」と言った。お声がけ通りに顔を上げれば、薄紫色の瞳がこちらを冷たく見下している。
「息子のクリストフが姉が欲しいというので、誕生日プレゼントに君を贈ろうと思う」
レンゲフェルト公爵は、背丈も大きく、冷たい印象から恐ろしく感じる。目つきが悪くて顔も怖い。しかし恐怖以上に、言われていることが理解できず、私は固まってしまった。
(ん…?プレゼント…?え、姉…?姉って、プレゼントするものだっけ)
動かない私を数秒見つめると、彼は再び口を開いた。
「君を管理する費用は、今後削減される見通しだ。どこの誰が財源を割り振っているかは知らないが、そのうち荷物のように処分されることをお望みなら、ここに残りたまえ」
荷物のように処分されると言われて、あの日の記憶が、シャルロッテの脳裏にフラッシュバックする。
何もできずに、馬車に押し込められて、なくなってしまった、幼き日の全ての物。
光を反射して暖かく光った金色の時計、花模様の緑のランプに、天使の描かれた絵。柔らかにほほ笑む、母の笑顔も。暖かな部屋を形作る全てのものは、燃やされ、跡形もなく消えてしまった。
ぎゅ、と手を握りしめて、わずかに息を吐く。
(こんな年で死んで、燃やされてたまるか)
「レンゲフェルトこうしゃくさま、そのおはなし、つつしんでおうけいたします」
足を引き、腰を落とし、頭を垂れる。
恭順の意を示せば、彼はふむと頷いた。
「契約は成立だ。半刻やる、荷物を持って馬車へ来なさい」
公爵はつかつかとシャルロッテに歩み寄り、横を通り抜けドアを開けた。
いつの間にか廊下に立っていた院長に「それでは」と声をかけて、そのまま廊下をずんずんと進んで行ってしまった。
彼女は慌てて院長に事を伝え、大急ぎで荷物をまとめるため部屋へと戻る。ずいぶん急いだけれど、持ち出すものは母の遺品のネックレスくらいで、あとは持っていくものは何もなかったため、荷造りはすぐに終えた。部屋にある全てのものは、修道院から借りているものだった。
その後は荷物を持ったまま、関わりのあった人たちへ挨拶をしていく。
教鞭をとってくれていたシスターの1人を見つけて、はしたないとわかりながら駆け寄るシャルロッテ。その様子に、彼女はハッとして、みるみるうちに目に涙をためて膝を折った。
「シスター、わたくしは、そとへいくことになりました」
「っ…、それは、すぐなのね」
「はい。ばしゃがまっています」
「いつかこんな日がくるって、思っていたわ…」
彼女は、元貴族ながら神の花嫁となった人で。シャルロッテの母のこと、もしかしたら、父のことさえも、知っているようだった。
「きちんと食べて、よく眠るのよ。あなたが元気でいてくれれば、それだけでいいのだから。生きて。逃げたっていい、かならず生きていて」
彼女は「貴方様の行く末に、幸多からんことを」と祈り、少女の細い体を抱きしめた。誰かに抱きしめられるのは、ここに来て初めてのことで、シャルロッテは小さく驚き、むずがゆい喜びを感じた。お母様とは違った彼女のやさしさに、額を黒い修道服にすりつけてから、未練を断ち切るように体を離す。
シスターから離れて、馬車までの石階段を下りながら、シャルロッテはあふれる涙を手の甲でぬぐっていた。それは転生したことに気が付いてから、初めての涙だった。
『シャル、あなたの笑顔は、天使のように可愛いわ!さ、笑って。笑えば、元気がでてくるんだから』
お母様の言葉を思い出し、きゅっと口角を持ち上げる。
二年間暮らした、おそらくもう戻れない、神の家。
シャルロッテは振り返ることなく、馬車へと乗り込んだ。