帰る日
卒寮前夜。
暮らした部屋を最後に丁寧に片付けて、貰った餞別を一つ一つ包んで荷詰めした。部屋の荷物はどれも思い入れが深く『これはみんなで刺繍したやつ!話しながら喧嘩したっけ』『この教科書、まくりすぎてヨレヨレだ。テスト前勉強会してたな〜』など、懐かしむ気持ちも一緒に箱に入れていったので、じんわりと涙が滲んだ夜だった。
女学院生たちと泣きながら別れの挨拶を交わした翌朝。必ずまた会おうと交わした約束を胸に馬車へと乗り込み、港へ着く頃には太陽が真上に輝いていた。海に目を向ければ目に痛いほどで、真っ白に輝く水面がキラキラとうねる。
「あー、腰が痛いわ!」
馬車から降りて伸びをするシャルロッテ。
リリーの瞳には、相変わらず人形のように美しいけれど、どこか人間らしさの備わったシャルロッテが愛おしく映る。リリーの主人は二年でちょっぴり気が強くなり、強く逞しく成長した。色々と思い出を噛み締めて、リリーはシャルロッテに声をかけた。
「西の国はカラッとしてて過ごしやすかったですね」
「そうね。リリーはなんだか、邸にいた時よりツヤツヤした気がするわ。水が合ってた?」
「のびのびしてたからだと思います。シャルロッテ様も前よりお美しくなられましたよ」
シャルロッテはお世辞を受け止めて「リリーに言われると嬉しいわ」と、慣れないウインクをしてみせる。
全てを捨ててついて来てくれた、リリーとローズの二人には感謝しかない。シャルロッテはこの二人に関しては個人契約に切り替えて、現在は自身で給与を支払っている。そんなこともあって全幅の信頼を寄せる彼女達には、どうにも気安い態度をとりがちだ。シラーが見たら顔を顰めるかもしれないが、シャルロッテはこれで随分と気が楽になった。
「二年間楽しかったわ。また、三人で遊びに来ましょうね」
御者から荷物を受け取るローズを横目に、波打つ堤防のそばまで近づく。大きく潮風を吸い込んだシャルロッテはドキドキと跳ねる心臓を服の上から押さえた。外見はそれほど変わっていないので、きっとすぐに見つけて貰えるとは思う。心配はそこではない。
「おとうさま…。って、ちゃんと呼べるかしら…」
シャルロッテは久しぶりに義父に会うことに緊張していた。
家出同然に飛び出してから丸二年、もちろん会うのも二年ぶりだ。というか、男性に会うのが二年ぶりだ。何もないのに妙に緊張する。
当主がわざわざ直接迎えに来る、という知らせの手紙は手汗でうっすらと湿っていた。馬車の中でずっと握りしめていたせいで、今はカバンにしまってあるが文字が滲んでしまった。昨日の夜は目が冴えて眠れなかったのに馬車でも全然眠れず、シャルロッテは日差しの強さにふらりと体を揺らした。目に光が染みる。
「シャルロッテ様、大丈夫ですか?」
「平気よ。リリー、ローズのこと少し手伝ってあげて。ここから動かないし、貴方の視界からは出ないから」
「わかりました」
周囲には人っ子一人居ない。シャルロッテに軽く頷いたリリーは、来る時よりもだいぶ増えてしまった荷物を下ろしに向かってくれた。シャルロッテは水面を眺めながら、小さくため息をつく。
「ハイジなら気楽だったのに…直接来るって、怒ってらっしゃるのかしら…」
義父とも手紙のやり取りは何度かあって、許してもらった…というか『追いつめて申し訳ない』と逆に謝られてはいる。それで二年間も自由にさせてもらっているのだけれど、どことなく気まずさを感じているし、本当は怒っていてもおかしくないと思っている。
(完全なる家出娘だもんなぁ…)
留学していた二年間は、シャルロッテにとってかけがえのない経験となった。飛び出しただけの価値はあった、後悔はない。
やはり、あのぬるま湯のような生活は異常だった。でもシャルロッテを守る箱庭としては、完璧に近かったと今では理解している。
女学院は安全管理上、学院生単独での外出を認めていなかったのだ。
『あなた達は守られる者としての自覚を常に持ちなさい。しかし、お人形のように過ごせばいいというわけではありません。自分のストレスにならない守られ方を知るのです』
女学院では年に何回か、自身で外出の警護計画を提出して、認められれば街歩きが出来るチャンスがあった。それも学びの一つ、ということらしい。
警護の人間の指揮権を自分で持つ、というのは目から鱗の発想で。最初は戸惑ったが、下調べからルートのアドバイスまで、学院の女騎士が導いてくれる。囲われるのではなく、自分で自分を守る方法をシャルロッテは初めて知った。
(私はずっと“してもらう”ばっかりで。自分で動かなきゃいけなかったのね)
エマとは頻繁に手紙をやり取りして、女学院の近況報告をした。楽しいこと、友達とぶつかったこと、学んだこと、大変なこと。年下の少女たちが将来に向かって努力しているのを間近で見て、刺激をたくさん受けたこと。人間ってこんな考えの人もいるんだなあとか、文化の違いとか、なんてことはない日々の感想まで小まめに筆を走らせた。
エマは優しくそれを受け止め、時折シラーやクリストフの近況を教えてくれる。そうして文を重ねる内に、エマとは友達親子のような不思議な距離感が出来上がっていた。
寮の談話室にはいつも誰かしらが居て。エネルギッシュな少女達ばかりだったので、ホームシックになる暇もないほどに日々もみくちゃにされていた。
『えーっ、シャルロッテって十八才なの?!』
『婚約してないの?!』
『私の妹は三歳だけれど十九歳の婚約者がいるわよ!』
『商売人になりたくてココにきたの?』
『違うの?じゃあイヤーな結婚から逃げて来たとか??』
十八歳となったシャルロッテは帝国では立派な嫁き遅れだったが、両親どちらからも『シャルロッテの好きにしなさい』と、急かされることも強制されることもなくて。むしろ周囲の友人たちからのほうがよっぽど口うるさく心配されていた。
『もしかしてずっと好きな人がいるの?!』
そんなことを言われるたびに、シャルロッテの脳内にはクリストフの顔が浮かんで消えた。
家を飛び出してからは手紙の一つも送らなかった。送れなかった。薄情な姉だと呆れているだろう。
シャルロッテはどこかでクリストフから連絡が来るだろうと思っていたが、それもなく。丸二年も没交渉のままだ。元気にやってるということだけエマから聞いていた。
(好きなんて、言えないなぁ)
年頃の女の子は恋話が好きだ。
しかも寮生活でべったりと一緒に過ごすので、どんな小さな火種でもガンガン風を当てて業火にされてしまう。わずかなシャルロッテの表情の変化に周囲からギャーッと悲鳴が上がり、それ以来シャルロッテには『母国に好きな人が居るのに逃げ出した』というレッテルが貼られた。
『帰ったら素直になりなよ!』
「そんなんじゃないわ」と首を振るシャルロッテに、年下の少女たちが揃ってため息をつく。
『いいからそーゆーのー!』
『知らないオッサンと結婚するより、その人と暮らす方がいいでしょ?』
『てゆーか、会いたいでしょ?』
『シャルはその人が好きなの!』
『十八歳なのに恋も知らないなんて、お子ちゃまね』と、友人達にからかわれたり心配される中で、シャルロッテも段々と自覚した。普通に暮らしてみて、楽しくて、今の状態が大好きだけれど…誰かと結婚して生活するなんて想像もできない、一人が気楽と思ってしまうシャルロッテ。誰かと恋する気もない。
でも、シャルロッテは知っている。
(クリスと一緒にいるのは、好きだった)
それがどんな類の“好き”かは置いておいて、シャルロッテはクリストフが恋しかった。会いたかった。
養子に貰われた時は右も左もわからなくて、前世の知識に追い詰められて行動したりして。大変だったけれど、思い返せばいつだってクリストフが居てくれた。
シャルロッテはクリストフに依存していたのかもしれない。
それに気がついてからは余計に手紙なんて書けなくて。
義姉のくせに、年下の弟に依存するなんて…と、気づいた時は罪悪感で死にそうになった。弟に抱いていい感情ではない。何度もペンを持っては『どのツラ下げて手紙なんて送って来たんですか…?』と、冷たいクリストフの瞳を夢に見て挫折した。
クリストフに好きだと言われたことはない。
つまりは、そういうことだろう。
シャルロッテの中途半端な依存や執着心が、恋心になってはいけないのだ。無意識に自制をしていた己を、その点だけはシャルロッテは手放しで褒めてやりたい気分だった。
「私ってえらーい」
あれだけべっとり一緒にいたのだから、初めの一年は寂しいのも当然だと思っていたが…二年経っても不意に「ねえクリス」と口をついて出てしまうほど、シャルロッテにクリストフの存在は染みついていたらしい。
そして、今も。
水面を眺めながら、シャルロッテは思わず「ね、クリス」と、つぶやいていた。
「はい」
声が、した。
記憶にあるよりも少し低くて、かすれた声。
シャルロッテはゆっくりと振り返り、驚愕に目を見開く。
「……ど、うして。ここに…?」
「迎えに来ました」
違う、だって。シラーが来るはずなのだ。
なのにそこに立つ人はスラリと細身の、黒髪赤目の美丈夫で。なんだかとっても成長しているけれど面影はあって。だから、わかる。この人はクリストフだ。
「お、お義父様が、お迎えに来て下さるって…」
「ちゃんと手紙が来たでしょう?『当主が迎えに行きます』って」
「え?」
「僕が当主になりました」
まさかの発言に戸惑うシャルロッテ。イタズラが成功した子どものような、ニヤリとした口の端だけを上げる表情で、クリストフは「追い出しました」と嘯いた。
「え、?冗談、よね」
「お父様はラヴィッジ領で、ラヴィッジの後継者として引き取った養子を育てる手伝いをしています」
「聞いて、ない」
エマもそんなこと、一言も言ってなかった。
クリストフの登場と聞いていない事実、ダブルパンチに頭をくらくらとさせるシャルロッテに、クリストフは最もらしい理由を教えてくれた。
「ああ…。お母様がラヴィッジを継がせる養子を遠縁から引き取ったのですけれど、それが十歳の男児なんです。お父様が嫉妬して、お母様と一緒に暮らすって聞かなかったんですよ」
シャルロッテは「なる、ほど?」と一応相槌を打った。本当はクリストフが『僕は十になる前からシャルが好きでしたけどね』『初恋には男は死ぬ気を出しますよ』と、シラーを焚きつけたのだが…そんなことは口には出さずに肩をすくめてみせるクリストフに、シャルロッテは騙された。
「レンゲフェルト公爵家の補助はしてくれるそうですけど、ラヴィッジで暮らしたいって。お二人も離れて長かったですし、僕も何とかできそうだったのでお受けしました」
「そんな理由で…クリスはよかったの?」
「僕としても都合が良かったんです」
ゆっくりと動いているように見えるのに、あっという間に距離を詰められた。脚が長い。シャルロッテは彼を見上げて感心してしまう、だって、背がものすごく伸びているから。
「僕が当主になれば、シャルにしてあげられることも増える」
「なに、を」
「なんでも。シャルが望むこと全て」
ずり、と反射的に下がれば穏やかに微笑まれて、美貌に思わず動きが止まる。ふっくらとしていた頬や顎といった顔のパーツから柔和さが削ぎ落とされ、美しい青年に成長したクリストフ。どことなく色気の漂う唇をぺろりと舐めて、彼はさらに距離を詰めてくる。
筋張った手がすっと伸び、シャルロッテの手を優しく握って赤い瞳に引き寄せる。
「そんなことより」
「け、結構重大ニュースだと思うけど」
「僕、今年の誕生日に欲しいものがあるんです」
真っ直ぐにシャルロッテを見つめる赤い瞳に心臓が跳ねる。息を小さく呑んで心を落ち着けて、きっと変な顔だろうけれど笑みを浮かべて見せた。できるだけいつも通りに、ええっと、でも、いつもってどんなのだっけと内心で大慌てしながら声を絞り出した。
「成人、だもんね。…何が欲しいの?」
明るい、いつも通りの声。
義姉としてのシャルロッテの振る舞いを思い出して、きちんとできた。
なのにそれをクリストフは望まない。手の甲に、唇がふわりと吸い付いた。ドクリとシャルロッテの血管が膨れる。顔が、熱い。
「シャルが欲しい」
手の甲が、燃えるような感覚だった。
触れたクリストフの唇は震えていて、握られた手の力も遠慮がちなのに…まるで獲物を喰い尽くさんとする獣のように、赤い瞳だけギラギラと光ってシャルロッテを射抜く。
「お嫁さんが欲しい。シャルがいい」
戸惑いに固まるシャルロッテに何を思ったのか、クリストフは眉尻を情けないほどに下げた。握っている手を額に当てて、祈るようにその場に膝をつく。
「愛しています、一生大切にします」
ひゅっとシャルロッテの喉が鳴る。
クリストフは、この二年間ずっと言いたかったことを一つずつなぞり、なりふり構わず愛を乞うた。
「シャルの隣に立たせてください、お願いします。シャルが居ない間、寂しかった、会いたかった。僕にはシャルが残してくれた愛しかなかったから、それに縋って生きてきました。あの日喧嘩別れみたいに…シャルの話をちゃんと聞かなかったこと、すごく後悔して。夢に何回も見てやり直して…もう二度とあんなことはしない、です。シャルを幸せにするために一生をかけたい、僕がシャルを幸せにしたい。何でもします…――お願いだから、僕を選んで」
クリストフの声は震えていた。
「好きです。ずっと、大好きです」
そうして全てを伝えて下を向き、祈るばかりの彼の腕にポトリと冷たい水が落ちる。
「シャル…?」
「…っぅ、っく、ううう、ーー…ッ」
クリストフが見上げれば、顔をぐちゃぐちゃにしたシャルロッテが、かすかに頷いたのが分かった。
クリストフは幻影を見たと思った。それでも、夢でもいいから、勘違いでもいいからと、それに縋りついた。立ち上がって腕に彼女を閉じ込めると、目と鼻の頭を真っ赤にして泣きじゃくるその額に何度もキスをする。おでこ、目尻、頬、そっと顔をぬぐってやって、嫌がるそぶりを見せないシャルロッテの唇に、おそるおそる、そっとキスを落とした。
「ホントに、いいの?」
「ん、」
かすれるような問いかけに、シャルロッテは、今度はきちんと頷いた。
遅くなって本当にすみませんでした




