見習メイド問題2
気が付けば公爵邸に来てから一ヶ月が経とうとしていた。
クリストフとは毎日朝から夜まで一緒に過ごし、授業も剣術を除き二人で受けている。
公爵邸に招かれる教師陣の授業はやはりレベルが高くて面白い。シャルロッテは日々の授業を通して「このまま頑張れば、良い就職ができるのでは」と思い始めていた。公爵家の嫡男の教育は、貴族界の最高峰といえる。それを一緒に受けているシャルロッテは、将来クリストフの闇落ちにより公爵家が没落したとしても、家庭教師として生きていけるかもしれないと考えたのだ。
目指せ!手に職!
公爵家は有り余る資金によって、各専門の教師を集めている。しかし、普通の貴族はそうではない。幼少期に招く家庭教師はたいがい一人で、その人に全てを教わる。その人がカバーできない範囲…剣術などは、外部の道場などに習いに行くのだ。全ての先生を屋敷に招くのは、大貴族だけらしい。
ぼんやりとであるが家庭教師という将来ヴィジョンを抱いたシャルロッテは、いくつかの科目を中心に殊更熱心に授業に打ち込むようになった。
(もちろん、家族になったクリストフを殺人鬼になんてさせないけど…選択肢としてね!就職ができるようにしておいた方がいいでしょう!)
そうして、シャルロッテは教師たちに鋭い質問を投げ始めた。教える側に回ることを想定すると、細かいことが気になるのだ。
教師たちは「シャルロッテ様も授業に慣れてきましたね」と変化を受け止め、嬉々として質問に答えている。
この変化に影響を受けたのがクリストフだ。
例えば先日の算術の授業。
「先生、質問よろしいでしょうか。どうして図形の辺の数で…」
「ああそれはだね…」
ある程度の講義の後、シャルロッテが質問して、先生が答える。横でクリストフは黙々と問題を解く。それがいつものパターンだった。しかし。
「先生。僕も質問があります」
「!」
算術の先生曰く、初めての質問だったらしい。
以前クリストフは算術の授業が好きだと言っていた。頑張るシャルロッテに、対抗心が湧いたのか、触発されたのか。どちらにせよ、クリストフのその様子に先生は「んおおお!な、な、なんだね!なんでも!なんでもきいてくれ!」と見たことのないテンションになっていた。
またその日、クリストフは先生にお願いして宿題として算術パズルの本を貸し出してもらっていた。
「おねえさまにも、僕が終わったら貸してあげてもいいですよ?」
借りた本をぎゅっと胸に抱きながらツーンとして言うクリストフはそれはもう可愛らしく、シャルロッテは「ありがとう」と返しながらニマニマしないよう顔の筋肉を引き締めることに苦労した。
今までの授業では、自発的に口を開くことがほぼなかったクリストフ。
シャルロッテがしゃべることに応えるだけでも大きな変化だった。しかし更に、クリストフは自分で学ぶことを望み、教師に本まで借りた。その変化はメイドを通して当主であるシラー公爵にも報告されていた。
「久しいな」
「!失礼しました、いらっしゃると思わず…」
夕食後。シャルロッテが図書室に入って行くと、たまたま中にシラー公爵が居た。相も変わらず目つきが悪いが「かまわん、もう出ていくところだ」と、言葉は優しい。
「クリスとの仲は良好だそうだな」
「おかげさまで、仲良くしていただいています」
「クリスにも良い刺激になっているらしい」
クリストフの変化は、メイドを通して当主であるシラー公爵にも報告されていた。「もったいないお言葉です」とシャルロッテは返す。
「教師たちから授業はシャルロッテも一緒に受けるよう、引き続き取り計らってくれと言われているが」
無言の圧で「それでいいな?」と問いかけられている。
シラーの高い位置にある頭を見ながら、シャルロッテはこくりと頷いた。
「はい。クリストフ様が良いのであれば、私はご一緒させていただきたいです」
「他人行儀はよせ。クリスといつものように呼ぶがいい。報告は受けている」
呼び方まで細かく把握しているとは。シャルロッテは内心驚いた。クリストフに興味がなく全然関わっていないようでいて、日常のことまで事細かに報告をさせているようだ。
「お、お義父様は、よろしいのですか」
「よい。シャルロッテ、君はもうクリスに立派に影響を与えている。クリスの“おねえさま”だ」
タイミングを見計らっていたのだろう、家令の声が聞こえた。
「旦那様、お時間です」
家令はスッと現れてドアの横に立ち、シラーが動き出すと同時にドアを開く。
「では。心して行動するように」
シラーの黒髪が見切れるまで、シャルロッテはドアを見つめながら、彼の言葉を胸の内に受け止めた。
(そろそろ、なんとかしないとだよなぁ)
シャルロッテは、シラーの言う『心して行動』せねばならない事柄に心当たりがあった。
それは、クリストフのことでも、授業のことでもない。
下級メイドたちとの関係がうまくいっていないことだ。
シャルロッテがクリストフと行動を共にするようになってからは、直接的な嫌がらせはほぼなかった。リネンの類は部屋付きのメイドたちがチェックを入れるようになったし、食事もクリストフと同じものが提供される。部屋の前の庭の手入れも行き届くようにはなった。
だが、小さな悪意というのは、意外と人の心に刺さる。
ある日のこと。シャルロッテが先を行き、クリストフが後をついてくるようにして歩いていた。すると少し先ではあるが、前方にハウスメイドが数名固まって何かを話している。背も低く顔も幼いので、見習いかもしれない。
私たち、というよりクリストフについているメイドが「失礼します」と言って注意をしに行けば、蜘蛛の子を散らすように去っていたが…正直、気分が悪くなった。
何を言っているのか分かる距離ではなかったが、雰囲気で私のことを悪く言っているのだろうと感じたからだ。
(私がここで気に食わないと言えば、ただ固まって立っていただけでも、あの娘たちは全員解雇される。仕事をさぼっていたことを理由に処罰を望めば、鞭打ちくらいにはなるでしょうね)
頭を振って、その考えを打ち消す。シャルロッテは無駄に人をひどい目に遭わせたいわけではない。ただ、快適に公爵邸で過ごしたいだけなのだ。
それに、被害妄想かもしれない。そう自分に言い聞かせるが、シャルロッテは本当は知っていた。外国語でも悪口は伝わるのだから、言われた方には分かるものだ、と。
「おねえさま、どうかしましたか」
メイドが戻ってきても、ずっと立ち止まっていたせいだろう。クリストフに気遣われるとは驚いた。
「なんでもないのよ」とシャルロッテは再び歩み始める。
次の授業は馬術のため少し離れたところで行われる。二人は黙々と歩いた。いつもはよくしゃべるシャルロッテだが、そんな気分にはなれなかったのだ。
するとしばらくして「おねえさま、どうかしたんですか」と、クリストフが再度言葉を落とす。
クリストフは冷たそうに見えても、人をよく見ている。人の心の機微にも気が付くことができる。道を間違えなければきっと、優しい子になれるだろうとシャルロッテは思った。
「大丈夫よ、ありがとう。少し考え事をしていたの」
(心配してくれてるってことよね、少しは仲良くなれたと思っていいかしら)
「なら…いいのですが」クリストフはそれだけ言って、いつもの無表情のままシャルロッテの後ろを歩いていった。
(今考えれば、弟に心配されるなんて情けない姉だこと。お義父様に言われるまでもなく、そろそろなんとかしないと)
クリストフと一緒に居れば問題ないからまあいいや、では済まされないのだ。
そしておそらくシラー公爵は、全てを把握しながらシャルロッテの対応を待っているのではないだろうか。
ザビーの処遇を願い出た際の『身をもって、この決断の甘さをお前は知ることになる』というシラーの言葉が、シャルロッテの脳内に響いていた。