*秘密の後で(クリストフ視点)
言えばよかった。
好きです。
ずっと大切にします。
結婚してください。
お願い、僕を捨てないで。
僕の世界から消えないで。
◇
「…というわけで、シャルロッテは留学した。もう事後だ。エマを責めるな。エマがいなければ、シャルロッテが一人で家出をした可能性もある。そうなればどんな事態になったかは分からないが、現状、身の安全だけは保障されているのを幸いと思え」
シラーは言葉を切って、真っ白な顔で立ち尽くすクリストフの顔をチラリと見るとグウェインに『座らせろ』と指示をした。されるがままソファに座らせられたクリストフは、ガクンと首を落として下を向く。
「シャルが、僕に黙ってどこかに行くはずない…」
小さく呟くクリストフの声はシラーに届かない。声を拾ったグウェインが気遣わし気に肩に手を添えるも反応なく、その後のシラーの言葉も耳を通り過ぎている様子だった。
シラーとグウェインはただ項垂れ続けるクリストフの頭上で視線を交わし、小さく首を振った。
「クリストフ、少し落ち着いてからまた話そう」
「お部屋で温かいお茶をご用意いたします、さ、立てますか?」
クリストフは導かれるままにのろのろと顔を上げると、視界に入った窓から外を見て、ドレスを翻しながら歩く人影を見た気がした。
「庭か」
きっとシャルロッテが待っている。
クリストフは思いつくままに立ち上がった。
「用事が出来ました、失礼します」
きっちりシラーに頭を下げて、戸惑う二人を執務室に置き去りにいつもと変わらぬ足取りで庭へと出る。いつものガーデンテーブルで、花に囲まれたベンチで、シャルロッテお気に入りの東屋で。クリストフはしばらく立ち尽くしては、屋敷中で大好きな義姉の影を追いかけ始めた。
(部屋のソファでくつろいでるのだろうか、手紙でも書いてるのかもしれない。そうでなければ図書室で読みたい本を探している?食堂で大好きな東の国の料理をつまんでいるかも…馬小屋でブラッシングをしているかもしれないな…)
クリストフは思いつく限りの場所を見て回った。この屋敷はどこもシャルロッテの思い出に溢れていて、見尽くすことなどできない。幼いシャルロッテが隠れた棚の陰、衣装部屋のドレスの間、食堂の机の下…思いつくままに確認する。
クリストフの異様な行動の報告を受けたシラーによりいつしか、ハイジが背後に付いて回っていたが気にもとめないクリストフ。屋敷中を歩き続ける。
「かくれんぼは終わりだよ、シャル!」
クリストフはすぐそこから彼女が飛び出してくるような気がしていた。廊下の奥を、書架の向こう側を、カーテンの後ろを…ひとつひとつ確認しては、クリストフはそのたびに胸が引き裂かれるような喪失を味わい続ける。
「シャル…?シャル…?」
呼びかけて、シャルロッテが居ないと分かると呆然として、次に思いつく場所へとのろのろと動く。居ないと分かっているのに、もしかしたら戻っているかもしれないと次第に何度も何度も同じ場所を回り続けるようになった。その様は痛々しく、ハイジが辛そうな顔で「さっきも見ましたよ」と言うも声は届かない。
すっかり日も落ちて暗くなり、食事もとらずに彷徨い続けるクリストフの背中に付き従い続けたハイジが、独り言のように声をかけた。
「クリス様、もう、そこまでにしときましょ」
「どうして?」
クリストフは一瞬だけ振り向いて、幼児のように問い返す。無垢な声色にハイジがたじろいだ隙に、次の場所へとのろのろと移動してしまった。階段をゆっくりと下りながら周囲を見回してシャルロッテを探し続けている。
「シャルはこの屋敷から出ないから、どこかに居るはずなんだよ」
今度は思いつくままに、片っ端から屋敷中全てのドアを調べ始めた。使用人の部屋、クローゼットの小さな引き出しまで開けるクリストフにハイジは『これはヤバイ』と気がつく。刺激しないように、彼の気が済むまではいつまででも付き合うことにした。だってそんなところにシャルロッテが入るわけがない。本当はクリストフだって分かってるはずだ。
夜通し屋敷を彷徨い続け、暗がりにシャルロッテの影を見ては走ったり立ち尽くしたりを繰り返す。「誰かに隠されたのかな…?シャルは怖がりだから、早く見つけてあげないと」と、つぶやくクリストフの横顔はいつの間にか一日でげっそりとこけていた。朝が来て、使用人たちが働き始めるとぎょっとした顔でクリスとハイジを見てくる。それはそうだろう、昨日の夜遅くに見かけた二人が全く同じ服で早朝にうろついてるのだから。
そうするうちに、誰かがグウェインにでも報告をしたらしい。
慌てて飛んできた家令は目に涙をためて「寝てらっしゃらないのですか!」と悲鳴を上げると、クリストフに休むように懇願した。しかしクリストフは止まらない。無理に自室へと押し込もうとすれば、夜通し歩いたとは思えぬほどの力で暴れて抵抗をする。
「離せ!!シャルを探してあげないと!一人で出ていくわけがないんだ、自分でどこかに行くわけがないんだよ!!誰かが隠してるんだ!!」
錯乱状態のクリストフに、グウェインが泣き縋る。
「お嬢様からの手紙がございます!」
ピタリ、抵抗をやめたクリストフは闇を煮詰めたような瞳で首をグリンと回してグウェインを見た。
「どこ」
「…旦那様がお持ちです」
表情の消えたクリストフは縋るグウェインを振り払うと、執務室へと早足で向かった。父親に常に尽くしていた礼などきれいさっぱり忘れ、ノックもなしにドアを開ける。バン!と響く音をシラーは耳だけで捉えて、ゆっくりと顔を上げた瞬間には喉元を掴まれていた。首を絞められる感覚に空気が吐き出され、シラーは息と共に唸り声を上げる。
「どこ?手紙」
短い問いかけに、手だけで引き出しを開けるとなんとかシラーは白い封筒を差し出した。クリストフは奪い取るようにその手紙を手にすると、掴んでいた首を離す。何度か咳き込んで気道を確保したシラーが顔を上げた時には、クリストフは地面に崩れ落ちていた。
『お義父様へ
クリスと喧嘩をしたので頭を冷やしてきます。
自分で帰ります。それまでは自由にさせていただけると嬉しいです。
クリストフには行き先を告げないで下さい。
シャルロッテ』
手紙を握りしめたまま、クリストフの脳内は悲しみと混乱で満たされる。冷える額と指先を自覚した時には地面に崩れて、床にべったりと座り込んでいた。
「喧嘩なんて、してないのに…!」
何でも謝る
何でもする
僕の気持ちなんてどうでもいい
喧嘩になんてならない
お願いだから傍にいて
帰って来て
切ないクリストフの思いの奥の奥から、もう一人のクリストフの声がする。『もう、そばにいてくれないなら。むりやりにでもとじこめてしまえばいい』と。一人で歩けない、立ち上がれない、食べられない、壊れた人形のように屋敷に佇むだけ。そんなシャルロッテの姿を想像して、クリストフは胸を掴んで何かを吐いた。何も食べていないから胃液しか出ず、酸っぱい匂いがあたりに漂う。
ゆらり、立ちあがろうとする。
「迎えに、行かなきゃ…」
片付けようと布を手にしゃがみ込んだグウェインは、クリストフの瞳にドロドロと闇が渦巻くのを見た。グウェインの強張る顔を見て何かを悟ったシラーは、クリストフの肩を再度ゆすって呼びかける。
「お前が行って何になる」
「シャルを連れ戻して来ます」
「本人が出ていったんだ。探してくれるなと言ってる。どうしてかわかるか?お前と喧嘩したからだ。話をろくに聞いてやらなかったそうだな」
シラーの言葉の刃は、ざっくりとクリストフの心を切った。クリストフはずるりと靴底を滑らせて尻餅をつく。
「…そして、シャルロッテに何の情報も与えずに飼い殺しにしていた私の責任でもある。二人とも私の愛する家族だが、やはり嫡男のお前を優先していた部分があった。それを悟ったあの子は私には何も言わずに出ていったわけだ」
自嘲するシラーは覚悟を決めて、クリストフの瞳を覗き込む。
「お前が考えてることを当ててやろう。シャルロッテを連れ戻して、屋敷に閉じ込めて、また逃げるようなら足を折り、文句を言うなら口をふさいで、拒否する腕を切り落とし…」
「違う!!!」
『僕達似ているでしょう』と笑うイーエスの顔が浮かび、首を振って「ぼくはちがう」と繰り返す。口では違うと言いながら、脳内で『何が違う』ともう一人の自分がささやく。
(どんな形でも手に入ればいいわけじゃないんだ…僕は、シャルにも幸せでいて欲しい。ちゃんと、あの子を幸せにしたい)
「ぼく、は…シャルが、元気で幸せで、いて、ほしい」
絞り出すような声だった。
シャルロッテが出ていってしまったという事実への拒絶と、死にたくなるほどの悲しみ、暗い衝動。それをねじ伏せるクリストフの思いを受け止めたシラーは一つ頷いて「それならば」と前置きする。
「お前がするべきことは何だ?またシャルロッテの話を無視して、無理やりに連れ戻すことか?」
「違います」
「どうすれば一緒に居て貰えるか、分かるか?」
シャルロッテを傷つけるだけじゃなくて。
真綿でくるんで守るだけじゃなくて。
シャルロッテの自由を叶えてあげられる、心を尊重できる大人になりたい。
クリストフは願った。
「シャルを丸ごと、そのまま大切にする…!」
「あのワガママ娘を丸ごと受け入れるなら、お前はまだまだ足りん」
「…どうしたらいいですか」
「そうやって学べばいい。先人に学べ、人に学べ、力をつけろ。シャルロッテの望み全て叶えられるくらいまで成長して…迎えに行くのはそれからだ」
どのみち未成年の出国には親の許可がいる。シラーもエマも許可をするつもりはなく、現状クリストフは一人でシャルロッテを連れ戻すことはできない。そして、かの女学院に逃げ込んでいる以上は二年は連れ戻せない。
それを説明することはなく、シラーはクリストフの心に賭けた。シャルロッテを本当の意味で大切にできるようになって欲しいと、そのために二年を使えと諭す。
「私もこの年になるまで、エマが逃げる手段を持っていたことを知らずにいた。彼女たちが心から傍に居たいと思ってくれないと、どうやって繋いだって閉じ込めたって、嫌になったら逃げ出してしまう。…気づかれないように慎重に囲いを作っても、最終的には『愛してるから逃げないでくれ』と、みじめったらしく乞うのが一番効果的なわけだ。情けない男だと思うか?」
ふんぞり返って長く語る割には情けないことを言うシラーを、クリストフは尊敬したまなざしで見上げた。
「それで、傍にいてくれるんですか…」
「ああ。愛してると伝え続けて、愛を乞い続けるんだ。そういえばお前、シャルロッテに告白すらしてなかったらしいな。エマが怒っていたぞ」
衝撃を受けたクリストフは目を見開いて固まった。
そう、クリストフは思いを伝えていなかった。それをまさか両親に指摘されるとは。
「シャルは、僕のこと弟としか思ってなかったので…」
シャルロッテの周りの人間を排除して、縁談が来れば潰せばいいとタカを括って、肝心の本人には何も言えていなかった。今の幸せが壊れるのが怖かったのだ。
「何も言わなければそのままだろう。一生弟なら、シャルロッテがどこに行こうが誰に嫁ごうが、文句は言わせないぞ」
クリストフは情けない己を恥じた。
そしてシラーに頭を下げる。
「シャルロッテと、結婚させて下さい」
「…お前が大人になってから、シャルロッテが『良いよ』と言えば許可しよう。それまでは、精進しなさい」
(はやく、ちゃんと大人になりたい)
クリストフは心の底から願う。
長い二年の戦いが始まろうとしていた。