話を聞いてよ2
「……普通って、何ですか」
クリストフは全然息の入らない肺で深呼吸を繰り返しながら、やっとの思いで声を絞り出した。
「私にも分からない。でも、今が普通じゃないってことは分かるわ」
ぎゅっと握り合わせた手を落ち着きなく組み替えるシャルロッテは、必死に脳内で話の流れを考えていた。そのせいでクリストフの様子が全然見えていない。一度坂道を転がりだすと止まらぬ石のように、焦りながら思いつくままに言葉を並べ立ててしまう。
「普通の貴族は、常に護衛が付いてるわけじゃないでしょう?女の子だって街歩きをして買い物したり、週末はみんなお茶会で集まってるって。家庭教師をしたり、働く子女もいる」
アンネリアと仲良くなればなるほど、シャルロッテは自分の環境が普通の貴族令嬢とかけ離れていることを実感した。貴族相手に商売をする商人達でさえ、シャルロッテのように囲われる人間は見ないと口を揃えて言う。『大切にされてますね』というのは、嬉しくもあり悲しくもあった。
シャルロッテは今までのクリスやシラーを責める気など毛頭ない。ただ自分の将来を、自分で選びたいだけ。
「あのね、クリス。私ね…」
幸いにして商売は軌道に乗っていて、シャルロッテはこの秘密をクリストフに明かしてしまおうと思っていた。自分でも何事かできるんだと分かって欲しかった。そうしてシャルロッテも大人になったんだなと安心してくれれば…そう思って。
アンネリアの話を聞いて、留学だってしてみたいと思った。世界を見てみたい、人と関わってみたい、自分の力で挑戦してみたい!と、そんな前向きなシャルロッテの気持ちの昂りは、キラキラと瞳を輝かせる。その瞳が光る分だけ、クリストフの瞳は濁りを増した。
「……誰に吹き込まれた。アンネリア様?」
怒り滲み出る低い声。
クリストフの心にぐるりと闇が渦巻く。
立ち昇るような怒気に、シャルロッテは慌てて「アンネリア様だけじゃないわ!」と首を振った。その揺れる白金の髪を指で掠めるように、クリストフは体を起こしてシャルロッテの細腕を掴む。
「シャルに他に誰が居るっていうんです。ウルリヒ様?テルー様?使用人の誰かに、何かを吹き込まれましたか?」
他には誰も居ないでしょう、と断定するクリストフはシャルロッテの全てを知っているかのような口ぶりだ。
「シャルに余計なことを言う人間とは、関わらない方がいい。もう屋敷に誰も呼ばない方がいいのでは?」
「それがもう…変だわ。普通じゃない」
シャルロッテはカタカタと震えていた。クリストフの様子が何だかおかしいと、やっと気がついた時にはもう遅かった。焦って愛想笑いを浮かべてみるも、クリストフはニコリとも返してくれない。
「何も問題ありません。シャルだって楽しいって、屋敷が好きだって、そう言ってたじゃないですか」
「す、好きよ!でも…」
大なり小なり、人は家族の顔色を窺うことがあるだろう。だからシャルロッテもそれが普通だと、自分が我儘なのだと思っていた。
今だって、クリストフのこんな顔を見たら、シャルロッテは「ごめんなさい、やっぱりなんでもないわ」と言いたくなる。それはおかしなことなのだろう。
でもそれは、きっと対等な関係じゃない。
『本当に、それでいいの?』
アンネリアの声がする。
やっとできた唯一の女友達。シャルロッテを守るだけじゃなくて、どうしたいか聞いてくれた人。
「それじゃ、よくないの。分かってクリス…!」
シャルロッテは勢いよく言い切った。
シラーは言わずもがな多忙。常に執務室に居るか、そうでなくばエマに会いに行っている。エマも領主代行を必死にこなしているし、クリストフだってウルリヒだって、学園に後継者教育にとやることは山積みだ。アンネリアもパワフルに乗馬やお茶会やら活動をしている姿は眩しいくらいに輝いていて。かくもせわしい人間に囲まれているというのに、シャルロッテだけ、いつまで経ってもまるで子ども扱い。
自分で考えて、自分で選びたい。
普通の暮らしがしてみたい。
そう思っただけなのに。
「なんですか。それ」
泣き笑いのような顔をされてしまうのは、どうしてだろうか。
引き攣ったその笑みは、あくまで冗談だと信じたいクリストフの心の表れ。目だけが異常に見開かれて、ひくりひくりとクリストフの意思ではなく動いた。
「護衛が付いていないのが普通ですか?でしたら姿を見せないように致します。お一人の時間が欲しいのでしたら、しばらく僕もお傍に寄らないようにします。すみません、最近は心配が過ぎて窮屈な思いをさせてしまいましたね。もちろんお望みのものがあれば用意させますし、そうだ!お暇なら手習いなどしてみては?女性の講師を探しておきます。そうそう、どうしても街歩きなどされたいのでしたらハイジに言い付けておきますから…」
「違う、違うのよ、クリストフ」
勢いよく喋り続けるクリストフを遮って、シャルロッテはゆるく首を振った。
「本当は分かってるでしょ?」
どうして誤魔化されてくれないのだろうと、愛しい義姉をクリストフは憎らしく思った。ぎりりと掴む腕に力が入る。今まで通りで何がいけないのだろうと、クリストフはそう思うのに。
「私の人生、私が決めたいの」
自由とは何だ?少なくとも、今の生活が不満なのだろう。
言葉の刃はクリストフの心を引き裂いてズタズタにする。溢れ出る血を止めるために、目の前の敵を倒さなくてはならないと思ったクリストフは強い口調でシャルロッテを責め立てた。
「絶対無理ですよ、何を言ってるんですか…?貴族の令嬢が一人で生きていけるとでも?お金を稼げると?世の中そんな甘くないです。そんなことは誰もしていませんし、誰も望んでません」
「クリスが知らないだけで、そうやってしてる人もいるはずよ」
シャルロッテは職業夫人の話も聞いていた。実際に自分は商売がうまく行っているし、気圧されそうになりながらも、あくまで冷静を心掛けた。それをクリストフは馬鹿にしたような声色で混ぜっ返す。
「シャルよりよっぽど僕の方が貴族の子女に知り合いが多いですけど。みんな親の言うレールの上で生きてます。そのうち親の言うとおりに誰かに嫁ぐ。それが幸せだって言ってますよ?何が不満なんですか?」
シャルロッテは、ショックだった。
さもシャルロッテのワガママだ、と言った口ぶりもそうだが…親の言うとおりに誰かに嫁ぐのが当然だなんて。シャルロッテにもそうしろ、ということだろう。それが常識であるとは、分かっていたことだった。
だけれども、いざクリストフの口からそれを言われると心が酷く痛むのはどうしてだろうか。
そして“みんな”と言うほど多くの女子生徒と、随分とクリストフは仲が良いらしい。クリストフの生きているシャルロッテの知らない世界を見せびらかされて、きゅうっと胸が切なく締まった。シャルロッテにはみんなと言うほど知り合いは居ない。だから個人の名前を出して小さく反論をしてみる。
「……お、お義母様だって、してるわ…」
「アレをそう思っているのなら、尚更。シャルには何も見えてない。そんなんじゃ悪い奴に利用されて終わりって未来が見えますね!止めた方が身のためです」
クリストフは嗤った。
シャルロッテはカッとなり、掴まれた腕を振り払った。
「じゃあどうすればいいのよ!」
「今まで通り、のんびり暮らしてたらいいんです」
ぴしゃりと言い切ったクリストフはもう何も言いたくありませんとばかりに、シャルロッテの腕を再度掴んでベッドへと引きずり込んだ。布団を被せられ、後ろから抱きすくめられるように寝る体勢にされてしまう。
「消灯しろ」
短く命令されたリリーは逆らえず電気を消したが、しばらくそこに居てくれた。それが彼女なりの精いっぱいのシャルロッテへの義理立てであることを感じて、心中で申し訳なく思う。
(どうして…クリス…)
想像していたよりもずっと厳しい言葉で、冷たい瞳で返されて、シャルロッテの心は怒りや悲しみで満たされていた。『いいと思います!』なんて、言ってもらえるとは思っていなかった。でもきっと、きちんと話くらいは聞いてもらえるものだと、そう思っていたのに。
まさかこんなにも否定されるとは。
耳の痛い部分もある。『誰も望んでいない』のは、確かにそうだ。シャルロッテ以外の全員がきっと、シャルロッテが自分で何もかもを決めて、自由に生きていくことを望んでいない。
ぐっと涙をこらえたシャルロッテは、クリストフの体温を初めて嫌だと思った。
寝付けない夜は長く、もがき離れようとするシャルロッテの体をクリストフは無言で抱きしめ続けた。




