妖精が住む家
「愛! 愛!」
高校2年生の夏休み、手芸部の部活帰りに幼馴染の千笑ちゃんから呼ばれて振り返ってみたけど、道路には誰もいなかった。
再び歩き出そうとした瞬間、モゾモゾと右足を何かにつかまれる感覚に襲われ身の毛がよだつ。
「ひっ……」
怖くなった私は眼鏡がずれないよう抑えながら、全速力で家に帰った。
「た、ただいま〜〜」
勢いよく鍵を閉め、家に私以外いないことを悟られないようアピールするためわざと大きめに声を出す。
ヘトヘトになった私は玄関に腰掛け、水筒のお茶を一気に飲み干した。
「確かに、千笑ちゃんの声がしたと思ったんだけどな」
「したよっ!!」
ひょこっと、ポニーテールが揺れる。思わず覗くと、私の右足にしがみつきながら「えへへ」と笑う千笑ちゃんと目が合った。
「……」
「おーい! 愛?」
「ええええええ!?」
驚いた拍子に私の眼鏡が割れた。
無理もない。
そこにいたのは紛れもなく千笑ちゃんだったが、彼女は全長約10cmのミニミニサイズになっていたのだから。
◇ ◇ ◇
「それでー、夏の妖精が〜」
とりあえず千笑ちゃんを私の部屋まで連れて行き、事情を聞く。だがしかし、要約すると、千笑ちゃんの夢の中に夏の妖精が現れて、目が覚めたらこの姿になっていたという、到底理解できかねる説明を、彼女は繰り返した。
「と、とりあえずわかった」
予備の眼鏡がずり落ちてきたのでクイッと上げながら返事をする。
「本当!? 愛ならわかってくれると思ってたんだ!」
ぱあ、と千笑ちゃんの表情が明るくなった。
そうだよね、見てる私でさえこんなに戸惑うんだもん。実際小さくなった千笑ちゃんはどんなに心細かったか。
「ちょっと待ってて」
私はクローゼットを開け、隠していたドールハウスを取り出す。
「ふわあああ」
目を輝かせる千笑ちゃん。
「ちょうど今夏休みだし、おじさんとおばさんには私の家に泊まってくるって伝えて、元に戻るまでここで生活したらどうかな?」
「ありがとう、愛!!」
千笑ちゃんはドールハウスの中で飛び跳ねて喜んだ。
かわいい。
私の作ったドールハウスの鏡の前で踊り出した千笑ちゃんを見ていたらなんだか私の心もうきうきと弾んでくる。
彼女のトレードマークであるポニーテールがぴょんぴょんと跳ねるのがかわいらしくてつい触ると、千笑ちゃんはこちらを見上げて「あはは」と笑った。
彼女の笑顔には力がある。
久しぶりに真正面から太陽のように明るい笑顔を浴びて改めて思う。
千笑ちゃんとは幼稚園からの付き合いだ。
彼女は同じ高校のチアリーダー部に所属している。
チアリーダー部は全国有数の強豪校で、その中でも千笑ちゃんはファンクラブができるほどの人気者なのである。中学まではあんなに一緒に遊んでいたのに、高校に入ってからは安易に近づくことも憚られ、自分にとって遠い存在になっていた。
「こんなに長く過ごすの久しぶりだね」
「うん! すっごく楽しい!!」
彼女も楽しんでくれていることが嬉しかった。
「この服覚えてる?」
千笑ちゃんがくるんと両手を広げて一回転する。
左胸ポケットに校章が入った青いネクタイが印象的な白シャツに、青みがかったチェックのプリーツスカート。
「もちろん。この高校に合格したとき、嬉しくて作ったミニチュアの制服」
「朝起きて、いきなり体が縮んでて、どうしようか困ってたとき、この制服のサイズがぴったりで助かったの、ありがとう」
「ふふ。まさか、そんな風に役に立つとは思いもしなかった。人生何があるかわからないものだね」
「本当。何があるかなんて誰にもわからないね。この制服、愛からもらった宝物だから着られて嬉しいんだ」
びっくりした。自分が作ったものが千笑ちゃんの宝物になっていることが嬉しくて、予備の眼鏡まで割れるかと思った。喜びが抑えられず顔が沸騰して赤くなっているのが自分でもわかる。
彼女は小さな体で、そのあとも一生懸命言葉を紡いでくれた。
「愛は成績優秀で全国模試でもすごい成績で、中学まであんなに一緒に遊んでたのに、なんだか遠い存在になっちゃって、なかなか話すこともできなくなっちゃって、寂しかった。この服着たら勇気が出てね、愛のところに行こうって思えたの」
「同じ気持ち……」
「え?」
「私も、千笑ちゃんが遠い存在に感じて寂しかった」
「……愛、手かして」
私は手のひらを差し出す。
千笑ちゃんは、私の中指を大事そうに両手で掴んだ。
「こんなに近くにいたんだね」
サイズ感だって、普段の関係性だって、明らかに変わっているのに、何も変わっていなかった心の距離が嬉しかった。
心はこんなに近くにいたのに、何に遠慮していたんだろう。
それからは離れていた日々を埋めるようにふたりで遊んだ。
千笑ちゃんの服をちくちく縫って、ドールハウスにあかりを灯して、食べられるミニチュアのご飯にも挑戦して、千笑ちゃんはそのたび驚いて、はしゃいで、よく笑った。
楽しい時間はかくもあっという間なのか。
あと1週間で夏休みが終わる。
ふたりで一日中遊んだ一面のひまわり畑に夕日が沈んでいく。
その景色を祝福するかのように、白いワンピースに身を包み、水色のリボンつきの麦わら帽子をかぶりながらひまわりの上で踊る千笑ちゃんはキラキラしていて、まるで夏の妖精のようだった。
ふと目を閉じ、夏の妖精の魔法に思いを馳せる。
夏の妖精は、なぜ千笑ちゃんを小さくしたんだろう。
ツクツクボウシが鳴いている。夏が終わる匂いがする。
胸騒ぎがする。
何か、何か忘れているような……。
映像が自室に切り替わる。
「しまった、ドールハウス出しっぱなしだ」
嫌な予感がする。
「はあ、千笑ちゃんごめん。急いで帰ろう」
諦めとともにため息がこぼれた。
◇
家に帰ると、ドールハウスは母によってバラバラに壊されていた。
「まだこんな遊びをしていたの?」
予想通りの展開。
大事なものを隠しておかなかった私が悪い。
「あなたは将来有望なんだから、遊んでいないで勉強なさい。これからは女性も社会で活躍していく時代です。周りの人間に勝って、組織を変え、社会に貢献していかなくては——」
苦しくて息が詰まる。
頭に何も入れたくない。
どうして成長していくと、今まで通りじゃいけなくなるのかな。
周りの目を気にして、レールからはみ出さないように怯えて、自分の気持ちを閉じ込めて。
それがあなたのためだよと、大人は言うけれど、今の大事さはいつ大事にするの?
私の宝物は、誰が大事にするの?
「ごめんなさい」
謝りながら涙が出てくる。
悔しくて、唇を噛む。
「分かればいいわ」
母親が私の横を通る。
ぎゅっと、私の指を握る小さなぬくもりをポケットから感じた。私の作ったものを宝物だと大事にしてくれた、あなたの応援が、私に力をくれる。
私は通り過ぎようとする母親の手を掴んだ。
「ごめんなさい。お母さんの言ってること、私には分かりません」
「あなた、何言ってるの?」
「最初のきっかけはお母さんだったの。お母さんが私とドールハウスで、お人形で、一緒に遊んでくれたから、私こんなにミニチュアが好きになったんだよ」
「私のせいにしないで! あなたの教育のために一緒に遊んでただけよ」
「せいじゃないよ。おかげだよ。教育のためだったとしても、私はとっても楽しかった」
「だって勿体無いじゃない。せっかくそんな頭が良くて。私だったら行けないところまで行けるのに。私のように周りに見下されて、悔しい思いなんてしなくてもいいのに。あなたには、幸せになってほしいのよ」
お母さんの気持ち、ちゃんと聞いたことなかった。
いつも一方的な考えを押し付けられて、逃げて、大事なものは隠して、上辺だけ取り繕ってた。
でも、やっと本音が言えるくらいあなたに向き合えるときが来たの。
「うん。そうだったんだ、お母さんも、苦しかったんだ」
私は母親を抱きしめた。
私を縛っていた母親は思っていたよりも細く小さかった。
この体でいつも戦っていてくれたんだね。
守ろうとしてくれていたんだね。
「ありがとう、お母さん」
母親は首を振って泣いていた。
もう自分の人形はいないと悟ったからだろうか。
もしかしたら、私の旅立ちを少しでも喜んでくれたのだろうか。
そのどちらともかもしれない。
人間の心は複雑だ。自分の気持ちもスッキリした部分もあれば後に戻れない恐怖のようなものもある。
でも、自分で選べた道だから。
これから母親だけでなく、先生や先輩後輩、色んな人になんでそんな道をと言われるんだろう。
その度に、千笑ちゃんがくれた笑顔が、勇気が、力になる。
◇ ◇ ◇
「は〜〜〜」
疲れたときはお風呂に入るに限る。
「千笑ちゃんありがとう」
「私は何も」
「ううん。千笑ちゃんが私の作ったドールハウスで暮らしてくれて、服を着てくれて、宝物だって言ってくれて、笑ってくれて、そういうひとつひとつがかけがえのない思い出になって、ドールハウス作家になりたいっていう夢になったの。千笑ちゃんが来てくれる前の私は、大事なものだから誰にも壊されないように隠して、秘密にして、願望はあっても目指す前から諦めてた」
「同じだよ……」
「え?」
「あのね、私の夢、世界で活躍するチアリーダーになることなの」
「素敵!!」
「でもね、自信なくて、周りの期待ばかり膨らんで、名前や顔だけがひとり歩きしていって、本当に私の応援で元気になってくれる人っているのかなって不安になって……ある日夜寝る前に願ったの。私は大事な人の心に届く応援がしたい。お願いです、不安でいっぱいの私にどうか力を貸してくださいって」
「千笑ちゃん」
「あの日願ってよかった。愛の応援ができたこと、嬉しかった。自分が応援することで、笑顔になってくれる人がいる。それってすごいことだと思うんだ。生涯やりたいことだと思う。辛いこと、苦しむこと、これからもきっとある。でも、この夏に見つけられた自分の好きなことを私は大事にしていきたい」
「うん!」
私たちは小さな小さなハイタッチをした。
部屋に戻ると、バラバラになっていたドールハウスが、接着剤でくっつけられていた。
「ふふ、お母さんって案外不器用なんだな」
新たな発見だ。こうして体当たりするたびきっとまだまだ知らない母親の魅力を見つけることができるのだろう。
予感があった。
きっと今日で夏の妖精の魔法が解ける。
「よーし、やるか!」
私は決めた。感謝をたくさん詰め込んだドールハウスを作る。夏の妖精に捧げる、ひまわり畑が美しいプールつきの楽しい家。きっと住みたくなる、見てるだけで幸せになるあったかい家。
◇ ◇ ◇
あの日の予感は的中した。
ドールハウスで寝ていた千笑ちゃんは次の日に160cmに戻り、未来の道を照らす太陽のように明るい笑顔で帰って行ったことを今でも昨日のように思い出す。
高校を卒業した私たちはそれぞれの道を歩み出した。
「愛〜! 千笑ちゃんからエアメール来てるわよ」
「お母さんありがとう!」
『Hello,Ito. How are you doing. I'm working hard in Washington. I cherish the miniature of the cheerleading costume that Ito gave me. Best wishes, Chie』
「ふふ、いい笑顔」
千笑ちゃんは私がプレゼントしたチアリーディングの衣装のミニチュアを大事そうに持っている写真付きの手紙をくれた。
彼女は高校卒業後アメリカへ渡り、あちらの大学で学びながら、チアリーダーとして活躍している。
私は日本の大学で建築や照明を学びながら、ドールハウス作家としてギャラリーに作品を置いてもらい展示販売したり、インターネットで活動している。
それともう一つ。
「できた!!」
「今度はどんな家だ!?」
私の作ったドールハウスには妖精が住むようになった。
夏の妖精が秋の妖精を連れてきて、冬の妖精、春の妖精と、次々に妖精が遊びにやってきたので部屋が賑やかになっている。
コンコンと、ノックの音とともに母の声が聞こえる。
「はーい! みんな、ケーキ食べましょう」
「わーい!!」
「隙あり!!」
妖精達は繰り出された虫取り網をするりとかわす。
母は研究員時代の血が騒ぐらしく、彼らのことを捕獲し、科学的に証明しようと日々努力を重ねている。
「あなた達のこと論文にまとめて、この世界をあっと言わせてやるんだから!」
「できるもんならやってみな〜!」
母といたずらっ子の妖精達の相性は意外にもいいらしく、生き生きとしている姿を見られるのも、最近の楽しみの一つになっている。
父もそんな母の笑顔を見るのが楽しいらしく、早めに家に帰ってくることも珍しくなくなった。
人生何があるかわからない。
だからこそ、きっと今日も明日もわくわくするんだ。