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メンズエステ  作者: みぃ
9/38

9 その前の彼

アルバイトの帰りに、

〝電話して″

と彼氏からLINEが入っていた。

「どうしたの?」

と帰り道を歩きながら電話をかけると、

「ちょっと待って…」

と彼が店を抜け出し、ガラガラ引戸を閉めるまでの間があり、

「今ちょうど間の時間で店が暇だから。メシ食いに来る?…ちょっと紹介したい人もいるし…」

と言う。

そんな事は以前にも何度かあった。

 神戸に来て始めの方は自分が何もしていなくて、学校へもまだ通ってなくアルバイトも探し中とか失業中とかで、ただ彼について来ただけのブラブラしている暇人だったので、よく店が暇な時は呼んでもらいご飯を食べさせてもらっていた。その時は彼氏は二番手として板場に立っていた。


 もともと彼と出会い一緒に働いていたのもお寿司を出す和食料理屋さんだったし、なんとなく板場の雰囲気も懐かしく、彼の職場の仲間を紹介されるのは気恥ずかしく緊張もするけれどみんな優しく接してくれるし、きっと彼が事前に私の事を、人見知りだからあまり困らせてやらないでなと言ってくれていたのだと思う、ほどほどに放っておいてもくれて、居心地も良かった。


 この頃では、新入りのナントカくん(名前はもう忘れてしまった)とは彼女さんとも一緒にカラオケにも行った仲だし、お腹も急に空いて来たし、彼の握ったお寿司でこの空腹を埋めてもらえると思うと幸せな気分だった。私はすかさず回れ右をして、

「うん、今からすぐ行く」

と浮き足立ち、急ぎで彼のお店に向かった。


 紹介したい人というのは、次に2番手として入ってきた後輩だった。

「こちら、藤堂くん」

と彼に紹介されたのはふくよかな恰幅の良い男の人で、なんだか細っそりした私の彼氏よりも風格があり立場が上の人みたいに見えた。調理場に立つ人は太っている方が食に精通し道を極めしプロっぽくて得をしそうだ。

「こちら、彼女」

「はじめまして」

藤堂さんはいつもニコニコしている人なのか、ふっくらしたほっぺが幼く若く見え、年が幾つなのか分かり難かった。


 店には個室が四つとカウンターが8席あり、今は、私の三席ほど空けたカウンターに1組のアフターらしき若い女の子とおじさんのお客さんがいるだけだった。

「あの人は?」

と彼氏が近くに来た時に、小声で、前に紹介され私も良くしてもらっていた板長の事を尋ねてみると、

「大原さん?板長?あれ?この前言わなかったっけ。あの人は独立して、今は自分の店のオープンに向けて忙しくしてるよ」

話が聞こえたのか藤堂さんが横から、元気な声で、

「今は彼氏が板長だよ!」

と教えてくれた。


 そうだった。言われてみればそんな話を家で聞いていたのだった、と思い出した。

 前に板長だった彼氏の先輩は、今では元の雇用主の女将さんを相手に訴訟を起こし労働条件の悪さの事で、お金を争っているらしかった。

 それじゃあ、彼氏とも今では仲が悪くなっちゃったのかと心配になり恐る恐る聞いてみると、

「そんな事はない、むしろこっちで働けば良いのにって言って、引っ張ってくれてるくらいだよ」

と言って笑った。

「そっちへ行くの?」

「いや、行かないけど。でも仲は悪くなったりはしてない、俺ら従業員とは。女将さんとがバチバチなだけで。

あの怖い女将さんは、一切連絡取るなとかって凄い言ってくるけどな」


 私は一度しか会ってないけれど自分には優しかった、お喋りで小柄な女将さんを思い出した。

 本当は色々無茶苦茶な無理難題をサラサラと言ってくる物凄く怖い人らしいとは聞いていたから、会うまでは、醜悪な意地汚い顔をした大きな恐ろしい姿とかを連想していた。

 実際に見た時は小柄な可愛らしくも見えるこちらを見上げてくるその姿に、拍子抜けしたような気持ちだったけれど、雇用主だから見た目が恐ろしくなくても言うことの内容次第で恐ろしい人になれるのだと後から理解した。

 彼氏の働かされている時間の長さだけをとって見ても、明らかに労働基準法違反とかで雇用条件が劣悪だった。

「自分は働かないで人をコキ使うような感じ?」

と女将さんのことを聞いてみると、

「いや、あの人がどこの店舗のどんな従業員よりも朝早くから掃き掃除とかしに来て、誰よりもよく働いてる」

と彼は唸るように認めた。

「ただ、従業員と経営者とは、立場とか事情が違うんだって事をよく分かってないんだろうな…」

 私自身も学校帰りに三宮駅からバイト先まで近道をしようとして、地下へ降りて行く時に、反対側のエスカレーターの上り口のところで片っ端からエスカレーターに乗る人に広告を配りまくっているエネルギッシュな小柄な婦人がいるのを見て、それが

(女将さんだ!)

と気が付いたことがある。

 こんな仕事もされてるんだなぁと感心した。きっとジッとしていられない働き者なのだ。

 ついその少し前の日に彼のお店で初めて顔を合わせたばかりだったので、嬉しいような気持ちになって後ろから声をかけ、お辞儀しに行ったのだけれど、彼氏の名前までは出さなかったからか、彼女のあやふやなお愛想の微笑には私が誰なんだかよく分かっていない雰囲気が漂っていた。

ついこの間の夜には、カウンターにもたれ、何度擦っても取れないだろう汚れを擦り擦り、布巾を畳み畳み、私の顔を下から見上げて、

「そぉお、貴女が鹿江くんの彼女さん…」

と確認してきた。あんなにも娘時代の昔話を物語ってくれたのに…

「田舎から出てきたのよ、私。貴女くらいの時。神戸の街が都会に見えてねぇ…働き出して、ほんのちょっと優しくされたら、世間知らずだから、すぐにポーッとなっちゃって、好きで好きでたまらなくって、ここの一号店を出したばかりの先代を追っかけ回して、旦那さんにしちゃったわ。

 それから2号店3号店を出し、姉妹店を出し、して…

先代が逝っちゃってからも働いてますのよ。私一人になっても…

 苦労する事が分かってても、生まれ変わってもまたあの人を探し回ってまた捕まえちゃうわぁ…」

夢見る少女みたいな幸せそうな目をしほっぺを赤く染めて、旦那さんへの愛を語りながらも手は現実的にずっと動かし続け、前進し続けるパワー溢れる愛らしいお婆ちゃんだなぁと感じ入って、こんな風になれたら最高だろうなぁと自分の理想の将来像を見出した思いがしたので、自分自身は珍しくすごくよく相手の顔や話を覚えていた。それだけに、相手からアッという間に簡単に忘れ去られているのが分かると悲しいような、忙しくされている所を無駄に邪魔しちゃったなぁと後悔するような、変な気持ちになってその場を離れた。


 私は元先輩の大原さんの事もなかなか良い人だと思っていたので、もう会えないのかと思うとちょっとショックだった。彼とはこんな一幕があった。

 彼氏が私とデートの約束をしていたのに先輩に誘われて呑まされ、酔い潰れて、家に帰って来なかった朝、もうそれが何度目かのことだったので、私は怒り心頭に発して店まで、自分史上最大限に脚を露出したミニスカートととんがったハイヒールで、迎えに行ってやった。

 彼の事も彼の上司のことも、正面切って責めるわけにはいかないから、とにかく全力の姿勢で、こんなにデートに行きたかったのにこの気合いいっぱいのお洒落が水の泡になったのだ、おのれ、よく見ておけ、お前達、特に先輩の方!私の彼氏をよくも…という無念さを最大限の効果を上げて思い知らせてやりたかったのだ。

 するとその夜、

「彼女さんへのお詫び」

という事で、お店に呼んでもらえ、ご馳走を振舞われ、なかなか手に入らないという珍しいお酒を出して貰えた。

「それめっちゃ高いんだよ」

と彼氏が恐る恐る、近くを通る度に何度も小声で教えてくれるので、だからなんだってんだ、と逆に腹が立ってきて、しかもそれが本当に甘くて美味しくて、日本酒を美味しいと思った事がない私にも美味しいと思える初めての日本酒だったので、

「おかわりできますか」(まだまだ、)

「おかわりありますか」(こんなもんじゃねぇぞ、)

「もう一杯、…」(くそぉ、このヤロウ、)

「もう一杯…」(チクショウ、このヤロウ…)

とバンバンお代わりをしてやった。

 私の正面に立つ板長と私は一騎討ちの様相を呈してきた。彼氏は青ざめだし、大原さんは大笑いし出した。

「あまり飲めないって聞いてたけどこれじゃあ、もう、意地だね。でも後から脚にくるよ。この辺でやめにしておいたら」

と、最後の一杯をカウンター越しに手を伸ばして出してくれながら、負けを認めてきた。私は勝たせてもらえたのだ。このよく分からない勝負に。


 フラフラになって見送られ、後から帰って来た彼氏に、

「あの子は面白い面白いって、すごい褒められたよ」

と教えてもらった。

それからも何度も夜ご飯をご馳走になっていた。上司が呼んであげてと言わない限りは彼氏が勝手に決められる事ではないはずなので、少しは本当に気に入って貰えていたんじゃないかなぁと思う。


 自分が学校へ通い出し、そうするとお金も必要になってきて、アルバイトも是が非でも常にシフトを入れて毎日稼働し、時間がなくなって晩ご飯のお誘いにもあまり応えられなくなってしまっているうちに、もう二度と会えない状況になってしまっていたのだとしたら、悲しい限りだ。ご馳走になった分をそんなにお返しも何も出来ず仕舞いだ。

「別に自分の腹を痛めてるわけでもないんだから、そこまで気にしなくても良いんじゃない」

と彼氏は言ってくれた。

「お店の物を出してるわけだから…」

それでもすぐに立ち直れない顔をしていたら、

「でも誘われてもいるし、どうせまたオープンしたら祝いに2人で行こうよ。そのつもりで誘おうと思ってたけど」

と言ってくれた。


 結局私は行かず仕舞いになってしまったけれど。彼とは別れてしまったから。



 私が忘れたいのはこの人の事ではないのになぁ。

この彼氏の事はもう忘れる事が出来ている。少なくともそう思い込んでいた。では何故こんなにも詳細な話をつらつらしてしまうんだろう。自分にも分からない。


 忘れたいと思っている忘れられない人というのは井上くんのことだ。だけどその前に付き合っていた人とも、自分なりの真剣な気持ちで交際していた。それを言い訳がましくも全部説明したくなっている。

 せっかくここまでこの人には名前をつけずに来たのに、このままでは2人の元彼がゴチャゴチャになってしまうといけないので彼にも今更ながら名前を付けようか、迷ってしまう。まるで死者のために全く別の体を何処かから見繕ってきて無理矢理蘇らせようとしているみたいだ。

 彼との別れは必然だったから、私の中には未練は残らなかった。だからキチンと忘れて次の人にまた新たに向き合う事ができた。そう思っていた。それなのに、やっぱり愛情を通い合わせた頃のことを思い出すとしんみり悲しい気持ちにはなるのだ、これでよく分かった。枯れて干からびて死んでしまった花の茎を見つめているように、綺麗な花を咲かせてくれたその記憶だけが残っていて、血の通わない枝の先にはもう何も咲かないという事実が、目の前に突き付けられるとこんなにも悲しい。こんなことを繰り返すくらいなら、花を買うのももうこれまでにしようか、と思いたくなってくる。どうせ私には上手く育てて行く能力が足りないようだから…



 彼氏との別れはもともとから、時間の問題だった。

彼は実家で家業を継ぐ人で、その事は最初から決まっていたのだったが、私には結婚するつもりは最初から無かった。こちらも結婚願望がないことは、付き合う前にキチンと前もって、しっかり言ってあった。その事では何度も顔を突き合わせて話し合いもしたのだから、お互い忘れようが無かった。


 私はなにも彼だから結婚したくないという訳ではなく、その当時は、誰とも結婚なんてしたくなかった。

「私は誰とも結婚したくない」

「私達は結婚しない」

最初からずっとそう言っていたのだから、そのつもりで彼も私と一緒にいてくれているとこちらは考えていた。ところが、時々思い出したように彼は私を責めた。

「結婚する気がないなら、じゃあなんで一緒にいるんだよ?!」

と彼は怒鳴った。

 付き合ううちに私の方も結婚したくなるさと彼も初めから予言していた。俺がそのように考えを変えさせてみせると。

 でも3年程の付き合いの中で、私の考えは変わっていなかった。

 結婚とは、不自由。妊娠とは、ホラーでしかない。そう思い込んでいた。何かに縛り付けられるようなことの全てが、悪夢にしか思えなかった。自分の身一つですら責任を持つことにずっしりと重みを感じていた。それ以上に何かを背負い込むのはまだ早すぎて、無理だった。自分自身がまだまだ赤ちゃんだった。未熟だったのだ。

「結婚する気がなくて、なんで一緒にいるんだ」

と彼が怒鳴ったとき、

「好きだから」

と言った私の返しに、彼はちょっと落ち着いて、静かになり、目が覚めたという顔をして、

「そうか」

「若いな」

と呟いた。


 別れは決定事項、あとはそれがいつになるかという時間の問題みたいだった。

 何をきっかけにしてこんな怒鳴り合いのいつも辿る筋道をまたも蒸し返す事になったのか、些細な事からいつも始まっていた喧嘩だったので、きっかけは忘れてしまったが。結末はいつも同じだった。


 彼は実家のある鳥取に帰るし、私はそれまでに自分の住める部屋を探し、移らなければならない、と思った。もしすぐにも別れるのならば。



 アルバイトへの行き帰りの途中、私はミニミニとか賃貸仲介業の店の前の広告に目を止めるようになり、家賃3万円代という今までに見てきた中でも1番破格のその割には真面そうなこじんまりとした部屋の貼り紙を見つけ、モタモタしていても始まらないと、ある日曜日のお昼、意を決し自分一人でミニミニに入った。


 2つのデスクがあり、片側はお母さんと娘さんで埋まっていた。若い女の子の一人暮らしを心配して親が一緒に部屋探しについて来ているみたいだった。空いた方の席の向かい側でこちらを向いた若いスタッフと目があったので、私はそこへ座った。

その男の人は立ち上がって愛想良く

「いらっしゃいませ!」

と深々お辞儀しながら待っていた。

 凄く口が達者な軽い感じのしてしまうお兄さんで、ほんのちょっと苦手というかついていくのが必死になるスピードで話すタイプの人だった。

「窓に貼られていた広告を見て…」

と恐る恐るやっとこちらが喋り出すと、相手は

「どれのことでしょう」

とサッと立ち上がり、先に立って店外へ出た。

「これ、です」

と指差すと、

「あー…こちらはですね…まだあるかなぁ…」

と手際良く机の向こう側へ戻り、パソコンをカチャカチャ操作し、クルッと画面をこちらへ向けて説明し出した。

「ご覧になったあのマンションとすぐ目と鼻の先にある別の物件でして、こちらなんかどうでしょう?」

「えっと…」

なぜ別の物件なんか薦めてくるんだろう…と思いながら、せっかくなのでパソコンの画面の部屋の情報を見て、

「値段がちょっと違う…」

と指摘した。

「それでしたら…こちらは?」

今度の画面に写っているのはなんだか古めかしそうな長屋のようなアパートだった。

「ちょっと違う…」

「でしたら、こちらの用紙にご記入お願いできますか?」

と紙とペンを渡された。

氏名、生年月日、現住所、仕事先、勤務年数、保証人氏名、保証人勤務先、それから希望家賃、希望最寄駅などなどの空欄がある。

(めっちゃ個人情報…そりゃあ書かなきゃいけないかぁ…どうしようかなぁ…)

などと思いながら、仕事先は学生、アルバイト、にしておいた。

(保証人がいるなぁ…)と苦い思いがした。


 思い浮かぶのは母しかいなかった。母に一番住所を知られたくなくて、叔母さんに保証人になってもらって借りた姫路での人生初の一人暮らし中、1回目の家賃の支払い方をしくじって、現金を封筒に入れて大家さんの家のドアポストから中に落として入れておいたら、叔母さんに連絡が行き、迷惑をかけた。

 母の住む公営住宅ではそのやり方で正解だった。祖父母の住む家は持ち家で家賃の支払いがなく、世間一般のアパートではどうするのが正しいのかをあんまりよく知らなかったのだ。

 そう言えば銀行がどうとか口座引き落としが便利とか、なんちゃらかんちゃら契約時に言ってたなぁと後で思い出した。色々いっぺんに言われても全部いっぺんには覚えきれない。よく分からないでもとにかく「はい」「はい」と答えなければ部屋を借りられないのだから、不安定にも首を縦に動かし「はい…はい…」と言い続けながら契約を進めるしかなかったのだ。

 以来、次に部屋を借りる時は叔母さんには絶対頼めない気がしていた。頼めば頼めるのかもしれないが、あまり何度も恩を売るのも嫌だった。

一応、

「保証人って絶対必要ですか?」

と聞いてみたが、

「そうですねぇ、必要ですね」

と私の丸をつけた学生、という欄に目をやりながらスタッフさんがサラッと

「絶対」

と付け加えた。

「普通ならご両親とかだけど、ご実家が遠い?」

「姫路に、母がいます」

「お母さんには頼めない?」

「…頼んでみます…」

「働かれてる?」

「はい、母は働いてます」

「ではお母さんのお名前を、こちらにお願いします」

「はい…」

「お母さんのご職業は?」

「あー、…お店してます」

「飲食店?」

「あー…はい」

「経営?」

「はい」

「何年?」

「えっと…4年…くらい…かな」

「それなら多分大丈夫ですよ」

そのスタッフのお兄さんから3件の候補のアパートの部屋のプリントを印刷してもらった。

 家賃、立地、条件のどれもが、私が窓の外で最初に貼り出してあるのを見つけたのにちょっとずつ似ている別の物件だった。貼り出されていたその部屋自体はもう人が入ってしまい、無くなっていたのだ。見本として貼り出してあるだけみたいだった。


 3枚のプリントを鞄に入れてバイトに行き、バイト先でも、次の日は学校でも、休み時間の度に鞄から取り出して、睨めっこしていた。

「何それ?」

と早速朝イチでマイマイが食いついてきた。

 実は誰かに相談したくてウズウズしていた私は、ここぞとばかりに3枚の候補を並べ、どれが良いと思う?と聞いてみた。

どれどれ…と手に取り、1枚ずつに目を通しながら、ふんふん、とマイマイは、

「これはボツ」

と速攻で1杯目を机に落とし、

「これも、お前、やめとけ」

と2枚目も落とした。

「えー、なんで?」

とどれも同じようなものと思っていた私は違いが分からなくて叫んだが、

「これお前、沖縄出身の私でも分かるのに、知らないの?ここって風俗街だよ。3原って有名な。神戸にあるのが柳原、東京の吉原…は聞いたことある?もう一つが…なんだっけ…」

隣から井上くんがボソッと

「島原?」

と割り込んで来た。

「おめぇに聞いてねぇわ」

と最近井上くんにやたら当たりの強いマイマイが食い気味で撥ねのけた。それでも目元も口元も笑顔だった。

「それで?なんで部屋探ししてるの?彼氏と別れる事になった?」

井上くんがちょっと身を乗り出して聞き耳を立ててきたのを意識しながら、私は小さな声でポソポソと、結婚願望が自分にはまだない事や、彼氏にはある事、彼はいずれは実家に帰って家業を継ぐつもりだという事、別れは必然のように思える事、などをマイマイに話した。

「それでも、いつかは彼との仕事に役立てようと思ってこの学校に来たんでしょ」

とマイマイは言った。

「そう言ってたじゃない、入学してすぐ。」

そうなのだ、彼氏との将来を思いこの学校に入ったのだった。私たちが学んでいたのは栄養学だった。


 マイマイは文化祭の時に私の彼氏を見て知っていた。彼を呼んだと事前に知らせてあったので、

『姉さんにどんな男かじっくり見せてみな』

と言われていた。

 既に母とは仲の悪い時期に突入しており、初年度の文化祭に母は呼んでいなかった。保護者控えが封筒に入れられて実家のポストには届いているはずだった。

 母よりも、私は歳の離れた彼氏を、保護者を待つ子供のような心境でソワソワと、自分の受け持ちの小ちゃい子達に折紙を折ってやりながら、今か今かと待っていた。

 マイマイのお金持ちらしき彼氏は見られないのが残念で不公平なような気がしたが、忙しいらしいので仕方がない。

 自分の彼氏が来てくれた時、ちょっと服装とかについて事前に簡単にでも自分の好みを言っておけば良かったかなと、チラリと後悔した。

 彼はほんの少ししか居られなかった。仕事があるので。それでも来てくれたのだ。私もまだ持ち場を動けない時間だった。マイマイにちょろっと紹介し、

「ちょっと見て回って、帰るわ」

と言って、手を振って彼はすぐ帰って行ってしまった。料理人なので、調理師科の学生の野菜の彫刻や、製菓の飴細工も見てみたかったのかもしれない。

マイマイは

「あれが彼氏?」

とちょっとなんとなく不服そうだった。今にも、

「どこが良くて付き合ってるの?」

と言いそうだった。マイマイは踏み止まったが。

 今までに紹介した事のあるこれまでのアルバイト先の友達とかは、みんなズケズケと聞いてきた。

それでもマイマイも彼氏を紹介している間、私の横で仁王立ちになり、珍しく愛想の悪い睨め付けるような目つきだった。


 私がカラオケで次に彼氏に誘われたら歌えるようになっていようと練習していた、彼が好きな歌手の歌と、彼がその歌手を好きだと言っていた付き合う前の話をするのをのを聞いていて、マイマイは私に、

「自分は妙に一途な面を持ってるよ、」

と教えてくれた。

「もったいないかもよ、それを捧げる相手を間違えると」

と。

深い友情があり、

(自分がもしこの子と付き合っている男だったとしたら…)

と考える女友達は、少なからずその相手の男に敵対心を持つのかもしれないと思う。

(もっと大事にしろよ、こんないい女を独占しておいて)

と思うのだ。

 私だって、マイマイが自分の彼氏の愚痴を言うのを横で聞き、自分なら許すまじき事をされているのに本人が彼氏を甘やかし、許すのを見てき、知っていたりするので、私も、

(そんな男にはマイマイは勿体ないぞ…私がある日突然、寝て起きたら男になっていたとしたら、いの一番にマイマイに告白するぞ、もっと大事にするぞ!)

と思ったものだ。見た事のないそのマイマイの彼氏に嫉妬したのだ。


 マイマイには、入学した理由をもっと前にちゃんと説明してあった。

「自分の彼氏は料理人だから、将来は2人でやっていけるようにこの学校を選んだのだ」

と。

自分でも忘れ去っていた真実を入れていた引き出しが不意に、予期せぬところから開かれて、中身が飛び出した。

(そうだった…。そうだった…)と私は思い出した。なんで忘れていたんだろう。

 彼氏とは一生一緒にいるつもりではいるのだ。付き合っていた時はそうだった、別れたいと思って付き合ってなどいない。ただ、結婚という結論を早急に出すには自分には早過ぎるような気がするだけで、いつか別れたいと思っているわけでは全然なかったのだ。



 学歴もなく、動きもゆっくりで何をさせられても覚えの悪い私が、正社員の働き口も見つけられずアルバイトも続けられず、行き場の無いやる気だけを持て余しフラフラしていた時、神戸に来てしばらく経った頃のことだった。その時は、一時的に仲の良かった母との電話で、

『今からでも何か手に職をつけなさい』

と説得された。

 子供の頃から、仲良しか、悪魔のように憎しみ合っているか、そのどちらかで、ちょうど良いところでは落ち着いていた試しがない、母と私との関係だった。

『お金は私が出してあげるから』

という母の言葉は、優しい気持ちから出たものだと感じた。

 海のそばの四畳の部屋の片側の壁に背中をもたせかけ、床に座り込んで、ベッドの上の壁をじっと眺めながら話していた。

 電話を切ってからも胸が温かかった。甘えたいなぁと思った。この感じを形に残しておきたかった。自分の未来も開けるかもしれない、何か前向きな形で。学歴も資格もなくてはノロマな自分に生きていく希望はないと、現実の辛さに直面している時期でもあった。


 確かそこら中何処にでも置いてあるフリーペーパーのユーキャンで、栄養士という仕事について知った。調べると、学校を卒業しなくてはなれない事が分かった。3月の初めとか、そのくらいの頃のことだ。この近くの学校を調べると、西宮が一番良さそうで、入学願書受付締め切り日まで後3日だった。慌てて滑り込みで入学した。一応願書を提出する前に母と彼氏に報告はした。動き出し、走り回り、それからは入学が決まるまで一瞬のことみたいだった。深く考えていないようでいて、ある程度は考えがあっての事で、その時は、いつかは料理人の彼の役にも立てるかもしれないと、彼と同じ食に関わる分野を選んでいたのだった。初期費用の一部を負担してくれたのも彼だった。私にも、遠い先の未来でもずっと同じ人と一緒にいる心積りがあったのだ。

 なんだか恐ろしい〝結婚″などという型に嵌めなくても。


 自分で分からなくなっていた。あまりにも目の前に〝結婚″を突きつけられて、

「絶対しない」

とか言ってしまったのだ。矛盾した事を言っていた。



 引越し先探しは、現実味を失い、日々の諸々の忙しさに埋没して、いつの間にか忘れ去られていった。学校で貰うプリントや書類の山に埋もれ、時々間違えて引っ張り出したり、ファイルの中からズレてキチンと収まっていなかったりして、次第に角もボロボロになり、一人暮らしのキラキラした妄想にも飽きて、一時的な気紛れだったなと、最後に眺め、感慨もなく、他のいらない書類と一緒くたにポイと捨てた。

 喧嘩はしょっちゅうしていた。けれど、その都度、時間はかかっても仲直りもできてきた。これまでは。



 けれど、もしかしたら…

今になって気が付いた事だけれど…

 彼氏はポイと私が捨てておいた紙屑から、部屋探しをしようとしていた事実に気付いたのかもしれない。

 いつからか彼の心が急速に離れていったように見えたのは、それも原因の一つかもしれなかった。




続く

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