6 後期の授業開始
後期が始まってから、学校ではマイマイや私達のグループと井上くんはよく喋るようになった。
「あの先生、滑舌が悪くて何を言ってるか聞き取れない…」
「字が汚くて何書いてるか見えない!」
「前の席に座高の高いのに座られたらストレスでしかない」
等と色々文句をつけ、ずんずん前の方へと席を移動していくマイマイにくっついて、私も前の方へ席を移して行っていたら、とうとう最前列で井上くんと隣り合って座ることになった。
ちょっと分からないところを聞き合ったりノートを貸し借りしたり、お昼も近くで食べているし、食後に喫煙所に向かう行動パターンもマイマイと同じで似ているしで、だんだん同じグループのような近しい存在になってきた。
井上くんは依然としていじられキャラで、私も面白がって夏休み前と同じように井上くんにちょっかいをかけ続けていた。
彼は愛され続ける人柄の優しい大男で、服装は前期に比べると割と落ち着いてきており、秋らしい枯れ葉色を多めに使うようになってきていた。
夏休み前ほど
「目がチカチカする…」
などとマイマイや老教授たちからケチをつけられることも減り、
(今度は…蓑虫だな…)とか
(…秋のテーマは擬態かな…)とか、隣の私にだけ聞こえるくらいの呟きでマイマイは感想を漏らしていた。
後期には彼の内面と頭の良さがクラスに知れ渡るようになっていた。
わけのわからない先生の授業の後は前期とはまた違った理由で彼の机の周りに人だかりが出来るようになった。今度の構成員は主に男子生徒達だった。
さっきの授業の分からなかったところを解説してもらいに来たり、単に文句を聞いてもらいに来たり、宿題を一緒にやろうと約束しに、理解できたかどうかただ確認しに、色んな理由で男子が寄り集まって来た。
試しに私も井上くんのノートを借りてみたことはあった。
ところが、そのノートに書かれた文字は同じ日本人にも解読不能の驚くほどのたうち回った殴り書きで、隠された暴力性すら垣間見せてしまっているような、いかつい、シャープペンの芯が折れまくって突っ込んで紙に穴が空いたり破れたりした箇所が一つならず幾つもあるし、その上、一個の文字自体もところどころ筆記体なのかと見紛うほどの潰れた続け文字だった。
黒板から目を離さずにブラインドタッチみたいにしてノートの方は見ずに書き殴っているのか、隣の文字の上に被さった字もあれば上の行に被さった下の行もあり、一つ一つの文字自体が暗号みたいなだけじゃ無く、まるで混沌だった。
ミミズか蛇かムカデのような体の長い生き物の巣窟を淵から覗き見てしまったかのようなおぞましさだ。ここまできたら逆に芸術と呼ぶ人が出てきそうなレベルだ。
こんな独自極まるノートを読み解くには本人の解説が必要だ、と思われ、
「これ、なんて書いてるの」
と聞くと、本人にも読めない箇所ばかりだった。
返された自分のノートに首を捻って、すぐ
「読めん」
とノートを閉じてしまう井上くんに、
「えっ、どういう事?」
とちょっと笑い出してしまいながら聞き返した。
「だって、自分でも読み返せないノート取ったって、後から困るだけでしょ?せめて自分にだけは読み返せるように書かないと…」
彼の成績の良さに疑問符が浮いてきた。何なのか、まぐれじゃ無いのか??と。
すると彼はこんな事を言い出した。
「振り返って読むためにノートを取ってるんじゃないからなぁ…
理解するために覚書として手を動かしているんであって…
授業中に、同時進行で頭の中にキチンと内容をおさめてしまえば、それで良い事でしょ…」
そんな夢のようなことができるなら誰もノートをとらない。
要するに彼は天才肌なのだった。授業中にノートを取ることに必死になっている私等凡人とは違って、彼は集中力が凄まじく、一気に理解して覚えてしまう。先生が言っている内容を同時進行で納得し理解して記憶しているというのだ。だからノートを取る手元はグチャグチャでも、別に後からノートなど振り返って読む必要がないから、それでいいのだ。
信じられない羨ましい能力だ。
同じクラスには萩原くんという、授業中は真っ直ぐに姿勢を正して僧侶みたいに目を閉じ微動だにせず寝ている孤高の男子生徒が1人いて、その子も天才みたいな人だった。
人見知りが全くなく誰とでも仲良しですぐ分からないところがあったら小声の届く範囲の誰にでもに気軽に話しかけるマイマイが、この萩原くんの隣に座った時、
「さっき先生が言ってた問題解ける?」
と多分無理だろうなと予測しながら聞いてみたところ、萩原くんはおもむろに目を開け、ポッと人差し指で教科書の一部を指差し、
「ここのことじゃない…」
と一言、返事した。
そこに驚いたことに的確に答えが書いてあったらしい。休み時間になってマイマイが私を叩き起こし、大興奮して、
「あいつやべぇぞ…!
寝ててあんな複雑な問題を理解出来てる。ゼンイツかよ…!
今のうちに仲良くなっておこう」
などと物凄く言うので、私も名前を覚えた。
けれど彼は恐ろしく無愛想な男で、マイマイが隣の席に座りニコニコ笑いかけても、静かに目を閉じ眠り始める。
あまり話しかけると細く目を開けて睨み付ける。マイマイもちょっと怖くなって大人しく話しかけるのをやめておいて、授業中また姿勢を真っ直ぐにして寝ているのを横目で確認しておき、休み時間になるとおもむろに目を開ける萩原くんの目が開くのを待ち、難しかったところを再び聞いてみると、また教科書をポツ、と指差して
「ここ、書いてある」
と言う。
驚愕の表情でこちらを振り返り、マイマイが小声で
「おい、見たかよ?」
と私を殴って来た。そしてすぐに萩原くんに向き直り、
「なんで分かるの?授業中寝てるのに」
と聞く。面倒臭そうに目を半分だけもう一度開けて、
「だって教科書に書いてあるから」
と萩原くんはぬかす。
こっちは教科書だってちゃんと開いて読んでいるし、その上、目も開けて授業を聞いていたって、難しいのだ。だから聞きに行っているのに、その相手に向かって、バツッと切って捨てるような言い方でそんな事を言うので、ちょっと相手への精神的なダメージには配慮の欠ける、下手に触ると容赦無く猛毒を吐く地蔵みたいな、意外と攻撃性の高い孤高の天才型の男子だと分かった。
マイマイだけは全然めげず、
「アイツは仲間に入れる価値があるぜ…」
と何やら企んでいる口調で呟いていた。
もう一人いる最上級に賢くてノートも綺麗な天才は、私達4人の中に最初から紛れ込んでいるチーちゃんだった。
彼女はこの学校ではそんなに使う必要もない外国語までペラペラ話せるし、1度物凄く難関などこかの国立大学を卒業してからこの学校に通い始めたらしい謎の経歴を持つ才女で、
「あの子だけは別格だ」
と教師陣にも唸りを上げさせる雲の上の存在だった。
「学年で1位どころのレベルじゃない、ここ数年来なかなかいないぐらいの出来る子だ」
「何故この学校に来たのか分からない」
とまで言わせていた。
「もしかしたら…いや、もしかしなくても、多分、他分野ではここの先生達よりも賢いのかもしれないよ、チーちゃんは…」
と当人がトイレに行くと言って席を立ち、後ろ姿が遠去かるのを見送りながら、マイマイもコソコソ囁いていた。
「なんでそんな凄い人がこんなところに来てるんだろ…?」
と私も興味津々で囁き返すと、
「さあ…?何か目指すところがあるんじゃない…専門性の高い分野で…
…でもなんか謎が多過ぎて突っ込んで聞きにくい…私でも…
人には誰でも触って欲しくないところがあるじゃない?
あんまり深入りしたらもしかしたらそこに触れてしまうかもしれないから、お前は、下手に首を突っ込むなよ…な?」
そう真面目に声を落として言われたので、私はウン、と重々しく頷いた。
普段、本人に聞こえそうなところでだって構わず誰の事でもほんの少ししか声を落とさないでいくらでも悪口や批判をするマイマイにはかなり珍しい、本気の忠告だったので、肝に命じた。
もともとの天才素質も絶対あるのは確かだけれど、チーちゃんの勉強の仕方は努力型だった。
普段は優しくて柔らかいおっとり話す温かい人なのだが、夏休み前の前期試験前に一度マイマイの家で勉強会を開いたところ、鬼のように殺気立って〝話しかけるな″オーラをビリビリと放ち、気圧の違いが目にも見えるほど全集中してノートを睨め付けていたので、これにはマイマイですらたじろぎ、
「ちょっと、あの子にも、私らの、片手で菓子摘みながらの和気藹々みたいな勉強会は…付き合わせるのが可哀想だから…次からはソッとして、誘わないでおこうか…?」
と私に相談して来たほどだった。
チーちゃんは文句無しの優等生だった。
試験直前の時間のない時等を除いては、分からないところを
「教えて~」
と聞きに来る子達にとても親切で、教え方もかなり分かりやすく、クラスの女子から大人気で、
「もう、先生よりチーちゃんが授業してくれたら良いのにー」
と大絶賛だった。
井上くんのとはまるで違ってノートも整然とし、分かりやすくまとめられ、文字も一字一字が凛と美しく、そのまま参考書として売り出せそうなほどだった。逆に人気過ぎて、同じグループの私やマイマイでさえも近寄りがたいくらいの、ノート写させてもらい待ちの行列が出来ていることがあった。
すり鉢状の教室では横並びに4人で座っていたけれど、普通の平坦な教室で席が二列ずつなら、私とマイマイの後ろにチーちゃんとチョウさんが座るという形で、4人で集まっていた。授業終わり、先生にもフレンドリーに話しかけるマイマイにつられ、私も先生との雑談にかまけたりしていて、後ろを振り向くのが遅れると、後で振り向いた時に驚くことがあった。
チーちゃんは、さっき授業中に説明が分かりにくいことを一度証明してしまった教師よりも人気者だった。
「はいはい、そんなにも人数いたらラチが開かん、コピー取ってくる」
とマイマイが立ち上がって両手を掲げてパチパチ叩き、仕切りだしたほどだ。
「チーちゃんのノートのコピーいる人~?何人?手を挙げて~?」
むしろ同じグループに属している私達は後でゆっくり解説を聞けるだろ、というような空気感で、他の女子達に休み時間いっぱいチーちゃんを預ける様な形になったりもした。
クラスには他にも賢い人達はいたと思うけれど、私の身近だったのはこの3人くらいで、チーちゃんはあまりにも人気過ぎ、隣で井上くんが暇そうにしていれば私はヒョイとそちらへ聞きに行ったりもしていた。
彼の長所はとにかく気が長く、辛抱強くて、優しく、偉そうにしない点だった。
天才型の人々によくありがちな事に、井上くんも、自分がよく理解できていても、理解するまでの過程で他の一般的な人々が陥りがちな色々悩むはずのところを飛び越えて悩まずに理解出来てしまっているので、ゆっくりジワジワと色んな行程を踏んで廻り道してしか理解に辿り着けない迷子の人に教えてあげるのは、かなり苦労するみたいだった。
相手がどこで躓いているのかに気付くまでに一番時間がかかり、そこから説明の仕方を考え、つっかえ口ごもりながら、穏やかな低い声の柔らかい調子で、丁寧に、分かるまでとことん付き合ってくれ、一緒になってウンウン悩んでくれた。
どうやって1人でも正しい答えの導き出し方が分かるようにしてあげられるか…と。
彼の気が長いのに、聞きに来たこちら側の方が気が短い事も多いくらいで、
「どこが分からない?」
と問われ、その質問への答えが分からないのだ!と、分からない事だらけの自分に嫌気がさしてきて色々とそんな事が積み重なって泣きそうになってくる。
八つ当たりのように、机の脚を蹴ってガチャーンと机をひっくり返してしまった男子をビックリして振り返って、マジマジ見てしまった事もあった。
クラス中から一瞬ざわめきが消え、休み時間なのにシンと静まって見守る中、井上くんが落ち着いて椅子に座ったまま片手を伸ばして机を起こし、蒼ざめて突っ立っている友達に何事もなくまた勉強の続きを教え出したので、
(ビックリした~…)
と思いながらまたみんな日常に戻ったが、机を蹴ってしまった子もまさか倒れるとは思っていなかったのだろう。井上くんが辛抱強くあまりにも優しいのでちょっと甘えて八つ当たりのようになってしまうのだ。私もグジグジ言ってしまう事があった。
「考えなくても分かっちゃう人は良いよなぁ~、良いよなぁ~」
とか。
彼自身がのんびりしていて、全く急がず、結局は最後までとことん一緒に課題をやり遂げてくれるので、そばにいればとにかく(なんとかなる…)と思えた。それで初めはイライラして自分の理解の遅さに気が立っている人達も、だんだん癒しのオーラに包まれていつの間にか課題が解けている。初めのうちは自力ではなかったとしても、いつの間にかできるようになっていればそれで良いのだ。
井上くんが男の子を好きになるのか女の子が好きなのか問題に関しては、夏休みが明けてからすぐに答えが出ていた。
どんな顔をした人がタイプかという話に女子4人でなったとき、大好きなアイドルがいるチョウさんが、明日雑誌を持ってくるからと言っていたのに閃きを得て、次の日マイマイも学校に雑誌を持って来ていた。
「せーの、でタイプの顔を指さそうよ」
と言う時に、
「ちょいちょい、お前も来い、」
と井上くんを隣の席から引きずって来て、
「分かったか?お前も指差すんだぞ」
と私たちに目配せして言い、
「せーの」
でそれぞれ適当なイケメンの顔に指をさした。
ワクワクしていて実のところ井上くんの指先にしか誰も興味がなかった。自分が指を差す誌面の男など誰でも良く、とにかくちゃんと誰かの顔に指が差せたかどうかさえ怪しい。
その時彼は私達と違って、隣のページの女の子3人組と一緒に写っているチワワに指を指したので、
「チッ」
と思わず全員が舌打ちした。
「そういうのいらないから」
と彼の遊びはバッサリ切って捨てられ、
「真面目にやれ」
と真顔でみんなに叱られた。
その次はせーの、で女の子のたちの間の空間を漠然と指差し、
「まぁこの辺かなぁ」
などと言って誤魔化そうとしたが、これでなんとなく答えは出たというわけだ。
彼は女の子が好きなのだ。
「でもまだ分からんぞ…」
とその日の帰り道、腕組みして難しい顔でマイマイが言った。
「バイの可能性も捨てきれん…」
「確かに…」
とチョウさんまでが話に乗って来た。
文化祭も間近だった。毎年恒例で調理師科の先生達がマグロの解体ショーをやる事になっていた。あとはメジャーでない漫才師やバンドがライブに来たり手品師や大道芸人が来たり…
高校ではクラス毎で自分達で何をやるか決めたが、この学校ではやる事は決められていて、その中からどこへ配属になるかを自分達で決める方針だった。
お化け屋敷とか猫カフェとかそんな楽しそうな選択肢は当然なく、地域に校門を開放して、老若男女を校内に呼び込み、宣伝効果を上げ、次の学生予備軍を集客したい、という学校側の欲望にまみれた文化祭だったので、在校生から見るとつまんなそうだった。
2-E教室:10歳以下の小さなお子様のお相手
2-F教室:大人向け食生活アドバイス
2-G教室:来年度入学希望者への案内…
とかいう分け方だった。
製菓の学科はこの日に向けて大きくて手の込んだ立体的な飴細工の製作に取り組んでいた。調理師科は野菜や果物の彫刻を展示するらしい。
文化祭がなかったら卒業までずっと知らなかったかもしれないが、この学校には部活もあったらしく、当日は華道部が一人一人大きな器に花を生けて作品の前に自分の名札を置いていた。書道部も一教室を使って本格的な大作を展示していた。
茶道部は文化祭当日までにお茶席のチケットをクラスメイトに売って自分の分のノルマを捌き切ろうと、休み時間になるたびに手にチケットを持ってキョロキョロ売る相手を探す目をしていた。
井上くんが茶道部に入っていた事がここで判明した。茶道部だけでなく、彼は華道部にも所属していた。
お茶席のチケットを買いながら、
「茶道部って渋い」と言うと、
「華道も入ってる」と本人が教えてくれた。
「本当は書道部にも入ろうかなとしてたけど、曜日が茶道と重なってたから行けなかった」
と言うので、
「もしかして実家がめっちゃお金持ち?」
と聞いてしまった。
「全然。そんな事ないけど。部費なんて月に1000円とか2000円とかだよ」
「部費って?…部活の費用?」
「うん」
「ふーん…そんなもんなんだぁ」
部費など一回も払ったことのない私は全く部費について知らなかった。
「なんかイメージで言っちゃった」
でもやっぱり考えてみれば優雅だよなぁと羨ましく思えてしまう。毎日あくせく働いている自分と比べれば。
誰でも他人の事は優雅そうで羨ましく思えるものなのかもしれないが。
「茶道と華道は男子何人いるの?」
とチーちゃんが聞き、
「俺しかいない」
と言って井上くんは嬉しそうにニヤッとした。
私達4人は、10歳以下の子供達の相手をする教室に配属になっていた。いつの間にそんな事が勝手に決められていたのか思い出せないが、あの頃は眠たくて眠たくて、隙があれば睡魔に負けて眠りを貪っていた。マッサージのアルバイトはお客さんのいない時間がありそんな時は楽だったが、もう片方の派遣のアルバイトはノロマな自分にはキツかった。その上各授業の先生たちが容赦無くバンバン課題を出したり
「こんどミニテストしますから」
とサラッと脅しで授業を締めくくって来たりして、生徒たちの安眠を奪う重荷を与えていた。
もしかしたらマイマイやチーちゃんが私の分まで行き先を決めてくれていた時、私はアラームをかけ忘れて家で寝ていたのだったか電車で寝過ごして大阪まで行ってしまっていたのだったか、教室でいつものように寝ていてその時の記憶が全く無いのか、分からない。けれど、とにかく寝ていたのだと思う。
文化祭までに、子供達を飽きさせないために折り紙の折り方を覚えて来るという宿題が出された。私は鶴、手裏剣、紙飛行機2種類、パクパク人形というやつを覚えてくる担当になった。
当日は彼氏が来てくれる事になっていた。
続く