38 SOS
今夜これから一夜を共にするお客さんがシャワーを浴びている。その水音を片方の耳に聞きながら、もう片側は目まで枕に押し付けて、音の無いテレビが放つ色に照らし出された波打つシーツのひだを眺めている。チラチラと目まぐるしく移り変わる喧しい光。
目を閉じる。雨のようなシャワーの音だけがまだ響いている。あの日もあの後は雨が降り出した。
目を閉じるとあの瞬間に時は巻き戻る。何度でも。
何年が経過しても…
彼を失ってから…
もう何年経つのか、数えるのはやめてしまった。
フロントガラスにぶつかってくる彼の大きな体。ドンっと胸を打つ衝撃音。急ブレーキ。一瞬にして現れた目の前のガラスの真っ白な蜘蛛の巣のようなヒビ割れ。
彼の姿を探し振り向いた助手席の窓の外を、破片を撒き散らしながらバイクが横滑りしていった。
自分が何を叫んでいるのかも分からなかった。ただ声をかぎりに叫ぶ自分の金切り声がこだましていた。
ロックが掛かって開かないドア、急発進、罵声が車内を飛び交う
「クソッ!」
「止めて!止めて!轢きましたよ!」
自分が正確には何と叫んだのか覚えていない。叫びながらドアノブをガチャガチャ引っ張り、運転席のお客さんのハンドルを握る腕を掴み、揺すぶった。
「止めて!止めて!」
角を曲がる刹那に見た井上くんの姿は道路にコブのように突き出た影みたいだった。
それが彼を見た最後…
「あれ?寝てる?」
シャワーから戻って来たお客さんの温かく湿った手が私の手首を掴み、目を覆うのをやめさせた。
「起きてー。何か考え事?」
「寝てました」
お客さんは明るい笑い声を上げた。年下の若いお客さんだ。
「ルナさんもシャワーしておいでよ」
「うん…」
…お誕生日に贈ったばかりのバイクだった。
井上くんが遠くに行きたいと言っていたから。私を後ろに乗せて連れて行ってねと約束していた。
「どこ行きたい?」
「お花でも咲いてる所」
「いつ?」
「そのうち…いつか休みがとれたら…」
何もいらないと遠慮してばかりの井上くんには勝手に喜びそうだと思う物を押し付けるようにプレゼントしていた。それで微かに横顔の唇の端が疼くように笑みを浮かべるのを盗み見ては、忘れられずにいつまでもそれを心の支えにし続けてきた。
(ほら、喜んでくれてる…)と思って。
二人のためだと信じて働いてきた。常に。そう言い訳すれば働きやすく自分が楽になれたから。
目に見える現金を掻き集める事にかまけて気付かないふりを貫いてきた。
(あの時バイクなんて贈らなければ…)何度もそう悔やんだけれど、この頃には、乗り物など関係なかったのかも知れないと思えだした。
彼は別のやり方でも同じ目的を遂げていただろう。
私達は最初から同じ目的地を目指してなどいなかった。彼は無理矢理に心引き裂かれながら私に引き摺られついて来てくれていただけだった。本来は物欲が無い人だった。日向ぼっこと使い物にならない雑学とのんびり歩く事が好きな、野良猫に懐かれるのが特技の、今というかけがえのない時間を大切に一歩一歩真面目に生きていきたい人だった。
「将来の為って言って走り回って今を蔑ろにしないで。今一番大事なのは未来でも過去でもない、今だよ。生き急がないで。立ち止まって深呼吸して、ちょっと周りを見てみなよ。大事にしなよ、今の自分を」
ずっとそう言い続けてくれていた。
猛スピードで走り続ける車の中で揉み合い、ハンドルを掴み、車を止めさせようとして、ユラユラお尻を振って車体が揺れ、脇腹を鋭く殴り付けられた。息が詰まり、体を折り曲げ、両腕でお腹を庇いながら、必死で訴えた。
「戻りましょう…早く…お願いです…後続車に轢かれてしまう…」
お客さんはブツブツ呟き続けていたが、それは私への返事ではなく、狂ったような早口で、
「あれは飛び込んで来た…完全に…あっちから飛び込んで来やがった…」
と言うさっきからの同じ文言を暗い声で繰り返しているばかりだった。
「私だけでも降ろしてください」
そう言うと突然急停止し、弾き出されるようにして車から降りた。
そこは冷んやりとした山奥だった。秘密基地みたいなステーキハウスに連れて行ってあげると言われていた。
辺りには急速に夕闇が迫り、風は感じなくても、頭上や足元で木の葉や藪がザワザワざわめいていた。雨の匂いが忍び寄っていた。
街灯が頼りない光を投げかけ等間隔にポツポツと遠くまで立ち並んでいる。とにかく歩き出した。山道を歩くような靴ではないけれど、立ち竦んでいては闇に飲まれてしまう。来た道を引き返して、井上くんが倒れているはずの場所まで、できるだけ早足で…
どこか遠くで犬の遠吠えが聞こえた。目に付く範囲内に人間は一人もいない。
ガードレールが白い線になって緩やかなカーブを描き山道と崖との境を知らせている。
どこまで引き返してもバイクも井上くんも見当たらない。こんなに車で走って来たかと奇妙だった。けれど道は一本で、もっと重くのしかかる不安が心を塞いでいた。
どんな姿になった彼を発見する事になるか…できるだけ考えないようにしようとしても考えるのはその事ばかりだった。死んでしまっているかもしれない…あんな勢いでぶつかって来たんだから…もしも息をしていても血みどろで酷い重症に違いない…でもどうかできるだけ軽傷で見つかりますように…どうか…そう願いながらできるだけ急いで歩き続けた。
ポツポツと雨が降り始めていた。
街灯の光が足元に浮かび上がらせる薄い水溜りのような光の輪。遠い先々にまで、この頼りない光の輪は続いている。私は歩き続け、光の輪の中へ歩み入り、街灯の下を通り過ぎて、輪から抜け出ると、次の光の輪の中へ、そしてその次の光の輪の中へと、黙々と規則正しく歩き続けた。
羽を千切られ歩かされるトンボを思い出した。小さな男の子達の残酷な遊びを。
引き返し続ければ必ず彼に辿り着くはずだった。心は不安に押し潰されそうだ。何故なのか、どこまで引き返しても彼が見付からない。
ガードレールが白く導くままに幾つも幾つもの光の輪を通り抜け、影に追われ、影を追いかけ、どこまでも戻った。
(こんなはずない…倒れている彼に気付かずに通り過ぎたなんてことがあるだろうか…?まだ先なのか…?来た道はずーっと一本道だったはず…)
こちらへ向かって走ってくる車を見て内臓が砕け流れ落ちるような思いがした。車体の下の方に血がついていないか目を凝らしながらすれ違った。
さらに後からこちらへ向けて走ってくるヘッドライトが見え、道路の真ん中に出て光に向けて両手を差し出しながら歩いた。
車は遠くからスピードを緩め、止まりそうな速度でソロソロ進んで来て迷うように左右に微かに揺れ、仕方なさそうに停止してくれた。眩しい光が目を射ていた。運転手が窓から顔を出し私の顔をジロジロ見ているみたいだった。怯えた声が小さく
「えぇ…何?怖い…」と頼りなげに囁くのが聞こえ、男の声がこちらに向けて努めて大人しくハッキリと尋ねた。
「大丈夫です?何かありました?」
「男の人が倒れてませんでしたか?」
掌で光を遮り目を背けながら私は訊ね返した。
ライトが消された。まだ眩しさの中にいるみたいに目蓋を閉じても視界だけが取り残され、ジリジリと私は体を前に進め、青白い痣が浮かんでいるような残像の中に少しずつ見えてきた若い男女の戸惑った顔に向かってもう一度必死に尋ねた。
「男性が倒れてませんでしたか?はねられたのを見たんです。自分の乗ってた車がはねたんです。この道のどこかで…
ずーっと後戻りして来たんですが全然見つからなくて…もっと先だったのかもう通り過ぎてしまったのか…
でもまさか通り過ぎたなんて考えられない…一本道のはずなのに…」
「何も見かけなかったですけど…」ね?と不安げな声で男の子が恋人に同意を求め、女の子の方も頷いた。
「暗くてわかり難いかもしれませんが一本道じゃないですよ、この辺り。所々に枝分かれする道があったはずです」
私は茫然となりながら振り返り、暗闇に沈んでいく見えない遠い彼方に視線を彷徨わせた。
「救急車…?」ヒソヒソと二人が話し合っていた。
「でも轢かれた人がどこにいるか分からないのに…」
そして二人して車中から私を見上げた。
「貴女の車はどこに…?」
私は歩いて来た道の先を指差した。
「運転してた人は行ってしまって…私だけ降りて歩いて引き返して来たんです…」
「これからどうするんですか?貴女は?」
「どうしよう…」
初めは不審げな目でこちらを見ていた二人は人の良さそうなあどけない表情になって目配せし合った。
「この辺り危ないですから乗って下さい。一緒にちょっと探しましょう」
若い恋人達は後部座席に私を乗せてくれ、安全運転で路上に倒れた人がいないか探して辺りを走り回ってくれた。ステーキハウスまで行ってみたけれどどこにも井上くんもバイクもバイクの破片さえ見当たらなかった。その頃には雨が本降りになってきていた。
「きっと軽傷で済んだんですよ、その人。自分で起き上がってバイクを起こして乗って帰っちゃったんだ。」
「本当だね、そうとしか考えられない!多分それですよ。」
と二人は明るい声で励ましてくれた。私もその最高に幸せな可能性にすがった。
駅のそばで降ろしてもらい、優しい二人を乗せた丸っこい黄色いワゴンに手を振り、電車に乗って家に帰って来た。
でも井上くんは家にも帰って来ていなかった。後から帰ってくることもなかった。
彼は消えてしまった。
何故今日はこんなに思い出してしまうんだろう…頭の切り替えが上手くいかないんだろう…
シャワーヘッドを壁に固定し両手を冷たいタイルについてボンヤリする頭をシャキッとさせようとした。
今夜のお客さんが井上くんに似ているからだろうか…
(違う…)
どんなお客さんにも彼に似たところがある。どこかには。いつもかつての恋人との類似点を探してまわっては深い声が似てるとか癖のある髪が似てるとか眼鏡の形がそっくりだとかでお客さんを好きになろうとし、自分の心を慰めている。
今日のお客さんが特別に彼に似ているわけではない…
湯を止め、素肌にガウンを羽織ってベッドに戻る。このお客さん名前何て言うんだったっけなと思い出そうとしながら広く空いている方の端からベッドに上がると、胡座をかいてテレビを見ていたお客さんがリモコンでテレビを消し、改まった姿勢になって窺うようにニッコリした。
「あの、もう一回良いですか?」
「えっ」
わざと大袈裟に驚くフリをした。
「もう一回…」
首を振ったけれど、手を合わせて拝まれ、くっついてもたれかかってきた。断っても多分眠れないで一晩中擦り寄ってくるだろう。さっさと気が済むようにしてあげた方がこちらも楽だ。眠らなければいけないから…明日も仕事があるから…
「若いですね」
私は苦笑いして了承した。
若い人は美しい。若いというだけで。自分自身が歳を重ね失ってきてしまった沢山の大切な物をまだ持っているように見える若い人達は輝かしい。
けれど、心が通い合っていないなら、見て綺麗だなと思うだけで充分だ。縺れ合うときはやっぱり井上くんを思い浮かべてしまう。目を閉じて自分だけの瞼の内側に。
あの雨の夜、傘をさして交番に行き、六時以降に救急車で運ばれた交通事故被害者の問い合わせや、捜索願い、彼の家族への連絡等、できるだけの事はしてもらい、後は待つだけになった。彼の携帯電話には何度もかけたが、繋がらなかった。
何度か迷った後ついに彼の棚を触って、埃っぽい古い書類の中から彼の実家の住所と電話番号を見付け、勇気を出して電話をかけてみた。
彼のご両親やお姉さんには何度か会っていたし、一緒にご飯を食べたり買い物をしたり旅行に行った事もあった。けれど、連絡先はまだ交換していなかった。
井上くんの家族の中でも特にお母さんは凄く優しくて、積極的に仲間に迎え入れようとしてくれる温かい人だった。これまでは。
でも電話では何か今までとは全く違うよそよそしさと敵意までが感じられた。
仕事は予定していた分だけはこなすとその後は休み休みになり、やがて完全にやめてしまった。何もせず家にじっと篭り、布団に寝たまま、玄関の外で音がすると彼が帰って来たかもしれないと思ってそちらを向いた。
あんなに激しく体を打ちつけてどこがどうなっているのか分からない塊みたいに道路に倒れていた、死んでしまったかと思った井上くんは、一体今どこにいてどうしているんだろう…
多分どこかの病院か実家で怪我の治療をしているのだ。そして本人か家族の意思で私とは会わない事に決めてしまったのだ。どこかで彼は生きていて、ただここへは帰って来たくないんだ…
…それとも死んでしまったのか…だとしたら死体はどこへ消えたの…
布団から起き上がれなくなりそうだった。
冷蔵庫に食べ物が入っているうちはノソノソ起き出して冷えた食品を口に入れたが、食べられる物が完全に無くなると外へまで買いには出かけず、布団の中に戻りそこから動かない事に決めた。空腹感は波のように襲って来て、最大限に高まっても、億劫さが圧勝し、眠りの中へ波は退いていった。このままここで幕を閉じられるのではなどと考えていた。
マミちゃんが電話をかけて来て、家から誘い出してくれた。
「仕事辞めちゃったの?どうしてるの?結婚した?妊娠した?」
何もする気が起きないんだ、働くのもお金を稼ぐ必要もなんだかもう感じなくなっちゃったんだ、と言う私に、マミちゃんは
「一緒に住もう」と言った。
赤ちゃんを一人で育てるのは大変なんだろう、二人で育てようと思った。
でもマミちゃんの言葉はその言葉通りの意味ではない。彼女のマンションではなく私は女子寮に連れて行かれた。体格の良い男の人達が入り口に数人立っていて、何人も中で女の子達が暮らしている。監禁されているわけではなく、出入りは自由。そこで与えられた部屋はそのままそこにお客さんを迎え入れて営業ができる家具付きの仕事部屋だった。
寮に住んでいる誰かがマミちゃんの噂話をしていた。彼女は子どもをどこかにやってしまい、社長夫人になるつもりでいるのだと。
「あの人、権力が好きなんだよね…」
「結局利用されてるだけなのに自分では気付かないのかな」
「気付いてないうちが幸せなんだよ」
「悪い人じゃないよね…」
「良い人でもないけど」
両隣の部屋の女の子達は個性的だけれど親切で、寮生活のあれこれを丁寧に教えてくれた。
右隣の人は秘密主義で自分の事となるとなんにも話さない。語るほどの事がないからなどと言う。
左隣の子はその分までお喋りで、聞かなくても自分の話を語って聞かせてくれる。働けない両親のために自分が仕送りしているのだそうだ。お父さんが北朝鮮の国籍の人で、お母さんはパートをしているけれど体が弱い。お姉さんとお兄さんが一人ずついるけれど、二人は自分達の生活だけで余裕が無いのだそうだ。
彼女の話を聞いていて私は子供の頃によく祖母の家にお金を借りに来ていたおばあさんを思い出した。そのお婆さんは旦那さんと二人で1万円とか2万円とかを借りるために片道2時間近くかけて電車に乗って来るのだ。二人ともすごく太っていてお婆さんは脚が悪く、鈴のついた杖をついていて、シクシク泣きながらお金がどんなに無いか話すのだ。その時に必ず子ども達の事にも触れた。
「何人いたって子どもなんてみんな当てにならない。どこにいるのかも分からないし帰っても来てくれない。年とった親を放っておいて…」と。
祖母は長屋時代のお隣さんで仲良しだったその友達が来る事を電話を受けて事前に知った時からもうお金は渡すつもりで待っているので、涙を見せなくてもお金は借りられるのだ。けれど彼女は毎回泣いてしまう。涙が皺に染み込んで、喉を詰まらせ、肩を窄めて。どうにも見ているこちらまで辛く悲しくなる泣き方だった。だから私は左の部屋の子には親身になって注意した。
「貴女は本当に偉いと思うよ。だけどね、今からでも良いから自分の分は分けて別に貯金しておかなくちゃだよ。親に全部渡してしまわないで。ね?私達もいずれお婆ちゃんになるんだから…」
寮に部屋をもらってからも私はしばらくは井上くんと暮らしていた自分の家もそのまま残しておいて、行ったり来たりして住んでいた。でも彼の名残がそこここに濃く漂っている部屋は寂しすぎ、手放すことにした。
彼の使っていた側の棚にドキドキしながら触れ、彼の荷物を整理しようとした。切なかった。何度も着ているのを見かけた服や下着や靴下や、集めていた雑誌や髭剃りや充電器や細々とした何もかもが、それを手に持っていた彼の記憶を呼び覚まし、捨ててしまうのがいけない事のように感じた。彼の存在を自分の手で減らしてしまうみたいで。片付けは何から手をつけて良いのか分からなかった。
彼の荷物は捨てるか送って下さいと彼のお母さんに電話で言われていた。けれど、私は持って行った。井上くんの実家に。もしかしたら彼に会えるのではないかと思って。でも会わせてもらえなかった。
二人で貯めたお金だからと、預金の半分を引き出して持って行ったけれど、それも受け取ってもらえなかった。
「何のお金ですか?これ」と言われてしまった。
今では井上くんが生きている事だけは分かっている。彼はかけ続けた電話を一度だけとってくれたのだ。電話が繋がったと分かった時は慌てて私は色んな事を一生懸命聞いた。
「今どこにいるの?何してるの?怪我は?」とか。
「うん…」質問には彼は答えてくれないみたいだった。
「戻ってきてくれる?話し合いが足りなかったんだよ。私達…」
「今更?」
「まだ好きだよ。井上くん…」
「望み通りになったじゃない?仕事ができて。邪魔する奴はいなくて。」
「井上くんがいなかったら何のためにこんな事してるのか分からない…」
「俺だって…愛しかなかったよ」
今日もまたシャワーを浴びる。名前も知らない初対面の人のために。こんな抜け殻の、使い捨ての体にも優しさと価値を与えてくれるありがたい人達のために。
この職業でなら私は生きていく事ができるかもしれない…でももうこれからの人生に、目的も生き続けている理由も見出せない。
誰か私をここから救い出してください。
完




