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メンズエステ  作者: みぃ
37/38

37 負のループ

「卒業パーティー行く?どうする?」

「行けない」

部屋の明かりを消し、ため息を吐いた。

「1ヶ月切ってから誘われても遅いよね…とっくにシフト入れてるし。行きたかったなぁ…」

マイマイは卒業後すぐの飛行機で沖縄に帰ってしまうと人伝に聞いていた。最後に話しかけたり出来たかもしれない…仲直りしてからサヨナラできたかもしれない…もう会う事もないからと、最後に優しい言葉をかけてくれたかもしれないのに…

「バイト休めば?」

井上くんの言い方は少し軽蔑的だった。

「そんな適当な事できない。仕事なんだから」

「適当でいいでしょ、そういうアルバイトなんだから」

私は咄嗟に言い返せなかったが、お腹の底の方からじわじわムーッとしてきた。

これでも大事な仕事なんだ、私にとっては。そのお金で家賃を払って光熱費を払って私の命はあるのだ。

(自分は親にもらったお金で飲み会に行くのに、そっちの方が恥ずかしくないのか?)

と思った。

あまり言ってはいけないと思っていたがその通り口に出して言ってみた。

「自分は親に貰ったお金で遊びに行くの恥ずかしくないの?」

「全然」井上くんは即答した。

ガツンと硬い高い壁に正面衝突したようにそこでいきなり二人の会話は絶えた。


 卒業式の日の早朝に井上くんは早起きをして一度バイクで実家に帰り、侍のような袴姿で式に遅刻して到着した。私達は別々に家を出て式典の開催されるホテルに向かった。

 卒業はもう決まった後なので式典の日は出席日数には数えられないためか、名前を呼ばれても本人が来ていなくて返事が無い子がチラホラいて、それが何人目かになってくるとマイクを通して卒業生の名前を読み上げる畠中先生の声にイライラが滲み出し始めた。井上くんがまだ来ていないように見える隣のクラスの空いたパイプ椅子を気にしながら私は内心焦ってヒヤヒヤして待っていたけれど、彼は結局自分の名前に間に合わなかった。私の呼名が終わった頃に他の遅れて来た子達と一緒に身を屈めて入って来た。

 袴姿の井上くんはカッコ良く、最後までやっぱり印象に残る目立つ人だった。式が終わると写真撮影にあちこちからお呼びがかかっていた。彼は写真映えがするから。

 入れ違いに私はアルバイトのためにすぐにその場を去らなければならなかった。単純にその日の稼ぎと一生に一度の卒業パーティーを比べれば、たかが知れた現金の方が価値は軽いのだろうけれど、私にはもはやお金だけのためにしている仕事ではなくなってきていた。この日陰の仕事が表すものは自分自身だった。


 式に出ていた人数よりも卒業パーティーに出席する子達の方が数が多く華やかな印象だった。

「袴カッコ良いね」

「巻多さんもスーツ似合ってるよ」

私達は一応互いを捕まえて急いで言葉を交わし、手を振り合った。

「じゃあ、仕事行ってくる」

「うん…気を付けて」

これから卒業パーティーに参加する彼にはせっかくの晴れの日なのだから100%楽しんで来て欲しくて、水を差さないように、なんとなく育ちや家柄の違う彼のゆとりを羨み憧れる気持ちを、彼を誇る気持ちの影に隠し、笑顔で手を振った。

 でも妬ましかった。自分だけが髪を振り乱し二人のためにあくせく働いているように見えた。


 卒業してからの井上くんは少しずつ私や私のしている仕事に軽蔑的になっていった。

 ある一流バンドの一員が売れない時代はAVの男優をしていたと言うネットニュースを、かなり見下した口調で私に読んで聞かせた。

 私達の家にはテレビが無く、携帯電話で情報を得ていて、大事だと思う事や相手に聞かせたいニュースは読み上げて教え合う習慣ができていた。

彼の蔑んだ言い方になんだか黙っていられなくなって、私はその有名人を擁護した。

「親に迷惑をかけずに、自力で頑張って下積み時代を乗り越えて、今は売れてて、凄く立派じゃない?」

「立派ではない。親に恥かかせて迷惑かけてるし」

井上くんは首を傾げた。

(井上くんよりは立派な気がする…)と口には出さずに私は思った。

 卒業後、井上くんは働いたり働かなかったりだった。家賃は井上くんが払ってくれるようになったけれど、働かない期間が長い時期にはお金はどうやりくりしているのかなぁと不思議になった。どうも親が出してくれているような感じがしてきて、なんとなくそれでは私が恥ずかしいようないたたまれないような気がし、彼に何度か薦めてみた。

「普通の仕事が続かないなら、お金持ちの女性を相手にする仕事とか、男優さんとか、何かやれそうじゃない?しても良いよ。私理解できるから…」

「男優になりたい男を集めた詐欺とか昔あったなぁ…」

井上くんはニヤニヤ笑い、指先で顎を擦った。

「『お前の演技が下手で一本の仕上がりが全部ダメになった、どうしてくれるんだ、賠償しろ、』

って言って、出演料よりも結局高いお金を取ろうとするんだよ」

そう言って冗談めかしてから、結局首を横に振った。

「そう言う仕事は…なんか…やりたくない…」

せっかく畠中先生の助手をボランティアで務めていたのだからコネで優良企業に推薦して貰えば良いのにとも言ってみたけれど、本人が何故だか乗り気ではなかった。


 自分は働かないで私の仕事の批判ばかりしてくるので、こちらだってと負けてばかりいずに、言い返した。

「自分も何かやってみれば私の気持ちが分かるよ。井上くん裸凄く綺麗だからお金になるよ。お金にしないで老けるのもったいないかもしれないよ。私は理解できるから、やってみれば良いじゃない?」

「俺はそんな仕事はしたくないなぁ」

「でも親からお金もらって…それでなんでそんな堂々としていられるの…?」

「だって親に恥かかすような事してないもん」

私には親のお金で生きることの方が恥に見え、井上くんの言う意味が全然理解できなかった。


 私の母親は

「自力で大学を出た娘だと職場で自慢できるわ、ありがとう、尊敬する」

と言って涙ぐんでくれた。私の仕事については二人とも深く立ち入りすぎないようにしていた。

 中学高校時代には、「私も働きたいから」と言ってアルバイトの同意書にサインを求めると

「貴女を働かさないために私が頑張ってるの!」

と意地を張って名前を使わせてくれなかった。

彼女には彼女なりの譲れない自分で決めた信条があり、それは、成人するまでは絶対に子どもにお金の苦労はかけさせない、と言うもので、離れて暮らす母からしてみれば仕送りだけが子どもの面倒を見ている証でありプライドだったのかもしれない。

 でも母も私が成人した事でやっと肩の荷を下ろせたのだ。



 私達は話し合う時間ならいくらでもあった。出来る限り毎日休まず仕事を詰めていたとは言え、お店で働く日は12時から遅くても2時、早い日は21時までだったし、お客さんがいない時は非常階段かお店の近所の公園や神社やらをうろついて出来るだけ一緒に過ごしていた。

 それなのに、くだらない笑い話ばかりして、核心を突くような喧嘩になりそうな話題は避けてきた。


 私は自分の思い描く未来に理想通りの彼を当てはめて夢を見ていた。

 彼は小さくても良いからどこかの社員になり、初めのうちは薄給でしんどいかもしれないが定職に就きコツコツキャリアを積み重ね、私はこのままガンガン稼ぎ続ける。いずれそのうち子供ができて私はこのアルバイトを辞めるか、もし子供ができなくてもいずれそのうち歳をとって需要が無くなり、どっちみちその頃には稼ぎ頭は彼にかわっていて、私はきっとパートの最低賃金で働く事になるだろう。できることを探し回って、何かその時できることをやるしかない。そしてそこで働き続け向こうからもう要らないと言われるまでは、彼の定年後もきっと体が動き続ける限り働くだろう。それが私の分相応な自分達の理想の将来設計だった。

 井上くんが何を考えていたのかは知らない。私自身が漠然と胸の中に思い描いていただけで将来の展望を彼には話してみたことがなかったように、彼の方でも、私に対して思い描いている理想像があったのかもしれない。

 彼は今は、いずれ自分が両親の面倒を見るのだからそれまでは親に面倒を見てもらっても構わないとどうやら考えているみたいだった。だから今いくら親にお金を出してもらっていても恥ずかしくはなく、それよりも親の面汚しになるような仕事をする方が恥だと考えているらしかった。そして私にも期待をかけてくれていたのだと思う。学校を卒業して資格を手に入れたのだからアルバイトは辞めて定職に就き子どもができたら産休や育児休暇を使って出産すれば良い。彼のお母さんのように…

きっとそう考えていたんだと思う。


 あちこち散歩したり日常の中でポツポツと耳にする彼のお母さんはとても立派な人みたいだった。井上くんの両親は二人とも公務員で、キチンキチンとずっと働き続けてきて、お母さんは職場で辛い時期にも投げ出さずにお昼休みに抜け出して河原を一走りしてきて発散して、それで耐え、そのうちその趣味が高じて毎年神戸マラソンに応募して参加するほど足腰が丈夫になったそうだ。料理も得意で、明るくて完璧な人みたいだった。

 家族の話をするときの彼は誇らしげで自然に両親とお姉さんを敬愛しているのが伝わってきて、ホカホカこちらの気持ちまで良くなった。そういう風に家族の話をする彼のことが好きだったし、まだ会ったことがないうちから相当家族仲が良さそうな彼のお家の人達みんなが好きになってしまった。

 大きな木のような安定した彼の雰囲気や純粋さを見ていると健やかに平和な家庭で育てられたのはよく分かった。

 劣等感の塊で挫折続きで捻くれ、ズルさを武器にコソコソ生きてきたような私には、彼の話す家族の人々が眩し過ぎて、自分が釣り合うのかなぁと怖くなった。

「いきなりバレたら怖いから、少しずつ私の仕事の話はしておいてね。家族の人達に」

私は何度かそう頼んでみた。けれど、その都度井上くんは笑って首を振り続けていた。


 一度は将来の話でぶつかり合い、喧嘩になりかけたこともあった。

それは真夜中の帰り道で、もう次の角を曲がれば自分達の住む家という裏路地の、その春に初めて子供を産んだらしい若い神経質な野良猫の母子にこっそりおやつを置いてあげている場所だった。寝静まった窓の並ぶ狭い壁に自分達の怒鳴り声が響き渡り、こだまして、相手の怒った顔も自分の乱した声も嫌で、1秒たりと喧嘩に無駄遣いする時間も嫌で、それで私達はむっつり黙り込んだ。懸念は脇へ押しやり、何も考えずに愛し合いたかった。

面倒な事は全て放っておいて情熱のままに。


 生まれ育った環境の違いから互いの頭の中が全く理解できないことも多かったけれど、それでも相手を求め合う力だけは強く、繋がりは確かにしっかりと実感していた。



 プロの女の子達を含めて100人斬りをお金を払ってしていた彼なのだから、お金を貰う側に転身して、何かそういう職に就き、私や自分や二人のためにお金を稼いで来てくれても良いのになぁ…と私は時々単純に不思議だったけれど、そのうち彼に水商売の提案をするのはやめた。

(人の倫理観はその人のものだ…彼は身を汚したくないらしい…そう言う人なのだ、しかたがない…)とやがて私は諦めてしまった。

(じゃあ彼は家の事をしてくれれば良い、私が出来る限り外でお金を稼いで帰ってこよう、彼は私だけのために綺麗な体でいてくれるんだ、その考え方を尊重しよう、私が彼の純潔の保護者なんだ…)

と考え、誇らしくもなりだした。

 家の中では暑い暑いと言って全裸でうろつき回る彼の素晴らしい肉体美を眺め、この人の事は私1人に鑑賞を許された美術品なのだと思おう、彼だけは汚れに染まらないように私が責任を持って守ってあげよう、それが自分の使命なのかもしれない…と思い始めた。

(自分が穢れる代わりに彼の一途な綺麗な心を守ることが…私の使命…

たとえ私がどんなに身を落としても、彼だけは分かってくれる。彼だけでいい。他の誰にも理解されなくても。)

 毎晩仕事から疲れて帰ってくるたびに井上くんは抱き締めて高い高いしてくれた。子どもの頃の憧れだった、従兄弟たちだけが順番に叔父さんに抱き上げて貰えるのを羨ましくて見ないようにしながら見ちゃってた、私が従兄弟たちと順番に並んでいると見えないふりをされてしまうから自分から並ばなくなったんだ、と言ってからは、彼は毎晩。

(井上くんがいてくれる限り私はどこまででもいける。どこまでいっても戻ってこれる。彼が私の元々の姿を知っていて覚えていて待っていてくれる限り私は元通りに戻れる。一人のありのままのただ一人の男の子に恋をしているだけの普通の女の子に。戻れる。彼さえいれば私はとにかく大丈夫…)

彼の綺麗な心に感応できるだけの綺麗な部分をまだ心に持っている。彼と半分こすれば良いだけ…美しさと汚れを。彼に浄化してもらえる…私が彼を守るかわりに彼も私を守ってくれている…私の分の心の美しさを…

何かそんな気がしていた。


 卒業後私の仕事は順調で、固定客は増え続け、収入もジワジワ右肩上がりに増え続けて、私はこの仕事にもプライドと自信を持ち始めた。私の仕事が波に乗り出すと、気がかりな事は家で起きるようになった。

 井上くんが避妊しないでいきなりしてくるようになったのだ。一度目は勘違いか間違いか失敗か事故か何かかと思った。

 彼に身を任せているといつもとはなんだか感覚が違うなとは不思議に感じていたけれど、

「お腹に出すよ」と言われて、終わる直前に避妊具を付けていなかった事が分かった。

 それでも、井上くんがわざとそんな事するわけがないと思っているうちは、

「あれはどこに消えちゃったの?お腹の中?」

と言いながら布団やシーツやベッドの下の床に落ちていないかとあちこち探してしまった。井上くんの目を見て、真相に気付きそうになり、言い争いを避けて目を逸らした。間違いだと思おうとした。

でも二度目には真剣に抗議した。

「ちょっと待ってよ…まだ付けてないじゃない…!赤ちゃんできちゃうよ?!」

「産めば良いよ。育てよう」と彼は言った。

「誰が働くの?」

「俺が働くよ。子どもができたら」

「できてからじゃ遅過ぎるし、そんなの信じられない」

でも井上くんは強引だった。滅多にない事ではあったが力づくになる事が稀にあった。卒業後すぐの頃には特に。

 私は叫び声を上げ、ドアの方へ向かって這いずり、金切り声で彼の名前を叫んだ。正気を呼び覚まそうとするように。

 それは朝だった。と言っても6時とか7時とかではなく11時頃だった。

 廊下の外にまで彼の名前を叫ぶ私の声は轟いていたが誰も助けになど来ない。私が助けを求めているのはその名前の主なのだから。

 全部終わってしまってからボタボタ性液を垂らし、私達は下半身を丸出しにして仁王立ちになり睨み合った。彼は急激に後悔し始めているような顔をしているみたいには見えたが、それでも、無言で、無表情な頭の中で何を考えているか次に何をやり始めるか分からない大男だった。

この屈辱と恐怖を伝える言葉が無いほど腹が立ち怖くて、今日この後仕事から帰ってきたらまた顔を合わせるという現実にゾッとした。

 でも仕事の時間が迫っていた。こちらも無言でシャワーを浴び服を着て家を出た。

 後から振り返って考えると、とにかく仕事を辞めて欲しくて彼も必死だったのかもしれない。妊娠すれば辞めざるを得なくなるから…


 でも私の心の中にも子供を作る上では理想の譲れない計画があった。井上くんが働いてくれないのなら、私は子どもは産まないか、産むとしたら三人分の8年分くらいの生活費を先に貯めてからだと思っていた。

 しっかり避妊して、計画的に産まなくてはとお腹の中で考えていた。

 今の一月の生活費を15万円として、それを妊娠中も含めた子供が小学校に通い出す6歳までと考えたら約8年分…1440万円。なんとか先に貯めてしまってから産みたい。

 もし子どもを産むとしたら、私は絶対赤ちゃんのそばにいたい。できるなら小学校へ上がるまでくらいべったり側についていたい。このご時世、子どもは人生で一番の贅沢品で宝物で一世一代の賭けだ。産むとしたら仕事と両立なんて私にはきっと出来ない。せっかく産む子どもの一番可愛くて一挙手一投足目を離したくない時期に離れ離れになるくらいなら、全然産まない方がむしろ良い。とにかく自分の母親のようにだけはなりたくなかった。母を嫌っているとか非難しているのではなく、ただ無意味で可哀想に見えるのだ。産んでその子のために働いて、人生を使い果たし、全然その子と一緒には過ごせず、心も通い合わないなんて。それでは悲劇だけを生み出しているようなものだ。

 現実的には井上くんが働いてくれない時点で子どもは諦めていた。もし数年で目標額を貯められたとしてもそこから8年ものブランクを開けてまた同じ職場に復帰できる気はしないし、小学生以降からもっと子育てにはお金がかかってくるのに、そこから私の働ける仕事は無くなるのだ。多分最低賃金のパートでは掛け持ちしなくては三人分の生活は成り立たない。掛け持ちして自分一人だけあくせく駆けずり回って働き家に必死にお金だけ入れて家族にはあんまり会えないなんて考えただけで悲しくなる。そんなくらいなら子どもなんて欲しくない。


 きつい言い方や優しい言い方で井上くんが働いてくれるという望みをかけて時々私は言ってみた。

「鳥や魚でも巣作りをしてから雌にアピールするのがいるよ。

『ほらここなら安心して卵が産めるよ』って。

産んでから慌てて巣作りしてちゃ間に合わないよ」

「子どもができたら働き出す。大概みんなそんなもんでしょ」

結局本人が働くかどうかと言う事は私には決められないし、彼の言葉を信じきれない自分も悪いのかもしれないと思えてきた。

 自分の職種を大目に見てもらえている引け目から、できるだけ彼の仕事にも口を出さないことにしようと決めていたし、まだまだ二人だけで充分幸せだった。そもそも今すぐ子どもが欲しいとか絶対に生涯に子どもが欲しいと言うわけでもなかった。ただ産むならこだわりがあると言うだけで、産まないなら産まないで良く、今から選択肢が限られるのはちょっと不本意ではあったけれど、その程度のことだった。井上くんだって時々は思い付いたように履歴書を書いたりちょっと働いたり求人誌に目を通したりしていた。

 それに彼は言っていた。

「本当に仲がいい夫婦の間には子どもがいらないらしいよ。お互いで満足して完結してるから、子どもは邪魔になることもあるんだって」

「まだ私達もその段階なのかなぁ」

「そうかもしれない。俺はどっちでも良いよ。子どもはいてもいなくても。巻多さんさえ居てくれれば」

そんな風に言われれば私もそうだなぁと思えた。


 私も彼とならお金が無くても楽しい老後を想像できた。

 とりあえず節約するため二人で出掛けるところはお金のかからない場所ばかりで、それでもどこへ行っても楽しく、繰り返し行ったのは市場だったから、ぼんやり二人の貧乏で幸せな市場のそばで暮らす老後の生活を空想してみていた。

食べ物がこんなに安く大量に買える大安亭市場のそばとかならきっと二匹の鼠みたいに仲良く手を取り合ってお腹は減らさずに暮らせそうだなぁと考えていた。

 床に敷いた一枚しかない布団で寝起きしていても井上くんにくっつけば暖かいし、その部屋に冷蔵庫も電子レンジも時計も携帯電話もなくてもカーテンの無い窓から差し込む朝日で目を覚まし、手を繋いでブラブラ散歩して安くお腹を満たし日が暮れたら帰ってきて、隣に井上くんさえいてくれればきっといつまでもヘラヘラ笑って生きていられるだろうと思った。お金なんてなくても、歯が抜けてどっちがどっちだか見分けがつかないヨボヨボのお爺さんとお婆さんになっても幸せで…

 井上くんには話さなかったかもしれない淡い物思いだったけれど心の中では時々そんな事を考えていた。

 

 井上くんが一日中家に居るようになると家事はたまらなくなり、部屋の中はスッキリ片付き、時々は家に帰るとご飯を作ってくれている事もあった。

 私も空き時間や待機中はちょっとでも一緒に過ごしたくて家に飛んで帰ったり、非常階段で待ち合わせ、予約が入るまで何時間でも一緒に過ごしたりした。

 彼の作ってくれる玉ねぎと人参とキャベツと豚肉の味噌炒めが私は大好物だった。非常階段でピクニックをしたり、お店が入っているマンションの裏の神社で蟻の行列にちょっかいをかけたり蚊に噛まれたりしながら彼の手作りのお弁当を食べたりした。

「走る水と書いてハシウドって読むらしいよ」とか、誰を祀ってあるかだとか、井上くんは調べながら読み上げてくれた。

 私はふんふんと覚えるつもりもなく聞き流していた。彼が知っているなら自分は覚えなくても良いかなと思いながら、ただこうして過ごしているだけでも幸せだなぁと感じていた。



 生理が来るまでは日数を数えヒヤヒヤして過ごし、もう二度とこんな事はしないと目を見交わして真剣に誓ってくれたのに、また同じ事が繰り返され、もう私は避妊に関しては井上くんを信頼していられなくなった。

「ピルを飲むことにする」

と彼に宣言した。井上くんは病院まで付き添ってくれた。

 ポカポカとした外は良い天気だった。夏を思わせる湯のような暖かい陽光と冷たい秋風が心地良く、煌く自由な世界のそこここで姿は見えない濃いオレンジ色の金木犀の濃密な香りが漂っていた。せっかく仕事を休むならのんびりお散歩でもしたいような日和だった。

(あーあ、何故こんな日に…)

と思いながら、井上くんのため、暗いビルの入口を入った。診察台に乗るためにスカートを履いて来ていた。診察台やこれまでに産婦人科に来た理由の負のイメージが次々勝手に頭を独占し、暗く沈んだ気持ちだった。井上くんが隣にいてしっかり手を繋いでいてくれなければ我慢できなかったかもしれない。

 受付で問診票を書き、二人並んで座れる席を探して待合室のソファを見渡すと、こちらをジッと見つめているかなりお腹の大きな妊婦さんと目が合った。一瞬誰だか分からなかった。身に纏っているものの印象がこれまでと違いすぎて。南国の花のように艶やかだった全身から漂白されたように色が抜け落ちた、砂色のぺったんこのスニーカーを履いたマミちゃんだった。こちらを見つめている表情だけは見間違いようのない満開の笑みだ。

「わあっ」

思わず大きな声を出してしまい、静かな待合室にいた女性達みんながパッと一瞬顔を上げてこちらを向いた。

 満面の笑みでおいでおいでと手招きするので、井上くんを引き連れてマミちゃんの隣に座った。

「久しぶり」

「もうすぐ出てくるよ」

「触ってもいい?」

もうマミちゃんのお腹に手を伸ばしながら聞いた。マミちゃんもお腹をこちらに向けてくれた。

「凄い…硬い」

石のように、テーブルのように、マミちゃんのお腹は硬かった。頭の中に思い描いていた妊婦さんのお腹はフワフワしているイメージだったけれど、実際はこんなに硬いんだ…と知った。

「中から蹴ったら足形がくっきり浮かび出て来たりするんでしょ?

『外から足を掴んでやった』とか言ってる人がいて、そう言うの聞いてたからもっと柔らかいものなのかなぁと思ってた…」

「パンパンに詰まってるから。赤ちゃんだけじゃなくて水も。滅茶苦茶重たいよ」

「いつ産まれるの?」

「もう今にも。明後日から入院」

「マジかぁ」

マミちゃんの目はキラキラ輝き、はちきれそうな希望で笑顔が治まらないみたいだった。それが私にも伝染し二人で笑顔が抑えきれずしばらくニコニコ見つめ合っていた。それからチラッとマミちゃんが私の奥の井上くんを見て、また私を見た。

「彼氏?」

「うん」

〝付き合う″の定義をいちいち人に説明するのがややこし過ぎここまで来ると空説が自分にさえ空々しく聞こえるので、もうとっくに井上くんは私の彼氏と言うことになっていた。井上くんもペコリとお辞儀した。

「橋立さーん」

マミちゃんの名前が呼ばれ、

「はーい」と手を上げて、彼女は席を立つ前に私に小声で囁いた。

「靴のサイズ同じだったよね?」

「うん」何故だろうと思いながら私は急いで返事した。

「ピンヒールの靴全部あげるからおいでよ、このあと。」

井上くんを振り返り、(いい?)と小声で聞くと彼も頷いてくれた。

「うん、行く」

 ピルを処方してもらうのに内心台には乗らなくて済み、百合の花の壁紙の待合室で待っていてくれたマミちゃんと連れ立って、彼女のマンションへ向かった。

 小さいけれどキチンとしたオートロック付きの、植え込みも手入れされ綺麗に白やピンクの背の低い可愛い花を咲かせている煉瓦造りのマンションで、彼女の部屋は三階だった。玄関に溢れ返るほどの靴と靴の箱が山になって積み上げられ、靴棚の扉の前を塞いでいて、棚を開けられなくなっていた。

「全部捨てるつもりなんだけど見たらもったいなくて捨てられなくなっちゃうから、箱に入ってるのは見ないでこのまま捨てようと思ってたんだ。どれでも持って帰って。

 私、妊娠するまでヒールの無い靴なんて履いたことなかったけど、これからはもうペタンコ靴しか履かないと思う」

「変わるねー、お母さんになると…」

「そらねー、ヒールなんて怖くて…」

「これなんてベーシックで10年後でもまた履けそうだよ。赤ちゃんが大きくなった後からでも履けるよ」

「その時はその時でまた買うわ。

…じゃあこんなのは?今しか履けなそう。持って帰って。箱もいる?」

マミちゃんはつるの細い真っ赤なサンダルを私に持たせ、わざわざ屈んで空箱を探してくれようとしたので、井上くんも私もオロオロと止めようとした。

「お腹を大事にして」

「屈まないで」

下手に人の家のものが触れなくてとにかくもういいよ、もういいと遠慮ばかりしていた。

「じゃあ勝手に持って帰るの決めてよ。もう。私はお茶でも淹れて来るから」

結局帰る時には四足も靴箱に入った新品同様の綺麗な靴を貰った。部屋にも上がらせてもらったけれど、ローテーブルの前でマミちゃんがあくびを一つしたのを見て、私達はすぐに辞去した。マミちゃんは疲れてもいて、同時に寂しそうでもあり、早く帰った方が良いのか一緒に居てあげる方が正しいのかよく分からなかった。多分私一人なら彼女ももっと引き留めたかもしれないが、井上くんが居たので、

「デートの途中に寄ってもらってごめんね。」

と言って送り出してくれた。

 人見知りしてマミちゃんの家ではヘラヘラしているだけだった井上くんが、荷物を持ってくれながら、

「玄関に一足だけ男物の靴が置いてあったね…ほんのちょっとずつ男の人の気配が漂ってたね、トイレの洗面台とか」

と急に喋り出した。

「確かに…誰だろう…」と私も言った。



 お店の外で会おうと言ってくれるお客さんには、お店に居たら稼げる最高額の値段を交渉し、それで納得なら外で会う事にしていた。

他の女の子達もそうしているらしいという噂を耳にして。

「相場は2万円だよ」と言うお客さんもいれば、

「相場は3万円だよ、騙されちゃダメだ」

と教えてくれる人もいた。

「僕の知ってるある女の子は、3万円もらっても拘束時間が5時間を超えるとしんどいから断るらしいよ」

と聞いて、

(だとしたら大体4時間で3万円貰うのが妥当なのかな…)と考えていた。


「分かる?私が誰か?」

 マミちゃんは新しい携帯電話を手に入れたらしく、未登録の番号からかけてきて、いきなり質問した。母も私によくそんな風に電話をかけてきた。

「マミちゃん?」

「そう。よく分かったね」

「私に電話をかけてきてくれる女友達は一人もいないから。マミちゃんの他に」

「寂し」

「マミちゃんはいっぱいいそうだけど、友達。」

「うん、でも上部だけの付き合いかな。この業界の事まで知ってる友達はモカだけ…」

「何か嘘っぽい」私は相手の語尾の揺らぎに気付いてしまい、笑った。

「私の他にも友達なんて腐るほどいっぱいいるか、私の事を友達とは思ってないかだなぁ…」

「モカは信頼できる仕事仲間だよ。モカの仕事に対する姿勢の真面目さには感服してる。舐めてないよね、自分のやってる仕事の事を…色々悩んでそうではあるけど」

「何も考えてないよ…」

「そう?順調?仕事は」

「この前貰った靴を履いてお客さんに会ったら、『靴だけお洒落』って褒められたよ。ありがとう」

「店外デートやってるんだ?」

しまった、と思った。が、もう遅い。

「あーあ、私… 秘密にしてね。お店には」

「言わないよ。みんなやってるしある程度は店も分かってる事じゃない?

 でもちゃんとお金貰ってるんでしょうね?店外で」

「ちゃんと相場通りには貰ってると思うよ…多すぎず少なすぎず…」

「だから…」

マミちゃんは大きなため息をついた。

「ダメ。考え方がそれじゃ全然ダメなんだって。意味分かんない。何?多過ぎず少な過ぎずって…なんで多過ぎないようにする必要があるの!ガンガン吹っかけていけばいいんだよ。

だってモコから店外しましょうよって誘ってるわけじゃないんでしょ?相手から言ってきてるんでしょ?」

「うん…」

「…モカ、もう私と仕事する気はない?」

「…」

「お客さんはね、貴女の心を手に入れたら次は体を求めだす。体から先に手に入れたら、心まで欲しくなる。そういうもんなの。だから、その習性をうまく利用するのよ。」

「なんて?」

何か大事な事を聞き逃した気がした。

「相手はモカの何かを既に気に入って、それでお店の外でも会えないかって聞いて来てるの。誰でもいいわけじゃないの。モカが良いのよ。だから、他の女の子とおんなじ値段じゃないわよ私はって言ったって良いんだよ。多少相場より高い値段取りなよ。愛情見せてもらいな。高い女よ私はって、自分で言うのよ!」

「そんな事できるかなぁ…私に…」

「なんでできない?お金稼ぎたいんでしょ?どうせルールの無い世界で働いてるんだよ。相手はお金払うことでしか誠意の示し方がない既婚者とか独身貫く気の人とかなんでしょ?今しかない売り物じゃない物売ってるんだよ、なんぼでも言い値ぐらい言ってやらないと。なんでわざわざつまんない相場とか見つけ出してきて自分をそんな中に当て嵌めようとするの?馬鹿みたい」

「うーん…」

私は目の前の壁紙に目を凝らした。客待ちをしているcocoaの1012号室でその電話を受けていた。壁には誰かがこぼしたオイルか何かの何度拭っても完全にはとれない薄茶色の染みが付いていた。

「マミちゃんはなんで私にそんな値打ちがあると思ってくれてるの?」

「…さぁ…」

マミちゃんは急に冷静になったようだった。

「なんでだろ。やっぱり…友達だから?」

そうだろうか…それだけだろうか…?何か私に利用価値があるからではないか?何か私を使って企んでいる事があるのではないか?

「ただなんとなく、モカが安値でいいようにされてると思ったらムカつくんだよ」

「…ふーん。なんとなくその気持ちは…分かる…」

ココちゃんの事を思い出していた。それに、アカリちゃんや、他のみんなの事を。マミちゃんの事も。お母さんの事も。

「自分の価値は自分では分からないけど…仲の良い人には確かに安い値段で自分を売って欲しくないよね…」

「うん…

 今度いつ電話できるか分からないから…この番号一応登録しといて」

「うん。お産頑張ってね…」

「立ち会ってくれる?」

「えっ?」

「手を繋ぎに来てくれる?」

「え…そんな事できるの?」

「できないか…じゃあ、また、連絡する…」

「あ…うん…」

電話を切った後になんだかドキドキしてきた。父親がお産に立ち会う事が出来るのは知っているけれど、マミちゃんの赤ちゃんにはお父さんがいない。だから誘ってくれたのだろうけれどこんな私が立ち会って良いのか…?邪魔になったり何か間違いを起こしたりしてしまわないか?そもそも家族以外のよそ者がヒョロッと分娩室に入って行って良いのか?よく分からなかった。光栄な頼み事をされかかったような気もしたが、マミちゃんが「できないか」とすぐに打ち消したので、私もすぐにその事を忘れてしまった。


 マミちゃんのアドバイスを聞き、高望みかなと思うような額をまずは口に出して言ってみるようになって、世界は言ってみたもの勝ちだと気付いた。

マミちゃんは時々病院や自宅から電話をかけてきてその都度アドバイスしたり相談に乗ってくれた。

「駆け引きだよ。後からでも交渉次第では値段を釣り上げていく事もできる。でも一旦二人ともが納得し合った値段から引き上げるのは難しいし、せっかく慣れた優しいお客さんを逃しちゃったらもったいないから、慎重にね…

それよりまずはこれからのお客さんが大事だよ。一番最初の交渉で絶対に相場通りで良いとか言っちゃダメだからね」

とか、

「自分磨きにお金をかけなくちゃダメだよ、投資だと思って。お金がかかって手入れが行き届いてるものに対しては相手も敬意を払って価値を認めてくれるから」とか。


 お金は面白いように稼げるようになってきた。自分自身に磨きをかけてそれでお客さんに大切に扱ってもらえるようになるならと、少しずつ整形し、歯並びを整え、メイクを勉強し直し、エステに通い出した。服装にも気を使うようになった。

「女の子なんだから」とか「もっと可愛らしい服を着たら」と言われて、やっぱり男の人はスカートやワンピースが好きなのかなと分かって来た。

 自分の楽な服を着ていてそれで自然に好きになってくれた井上くんとは違い、お金を払ってもらわなければならない相手に会いに行く服なので仕事着なのだ。お金を儲けるためとなると自分はエンジンがかかる気質みたいで、日毎、鏡を見るのも仕事に行くのも楽しくて仕方なくなってきた。

 家に持ち帰る物は現金だけではなくなり、ダイヤモンドやルビーや真珠やエメラルド、花束や香水がなんでもない日にも貰えた。

 まるで全盛期の母に近づきつつあるようで、嬉しかった。


 けれど仕事がうまく行き出すと今度は家で井上くんが退屈に過ごすようになってきた。横目にそれがうっすらと感じとれた。

 作ってくれたお弁当が食べられず無駄になり、だんだんと最初から作ってくれないようになった。

 ふいに長い休み時間がとれた時には少し寂しい思いがしたけれど、いつか家に帰ってきた夜にコンロの上のフライパンの中で冷えている野菜炒めを見て言ってしまったことがあった。

「1時間でも何かアルバイトしたらランチ1食分くらいは稼げちゃうんだよ」

 子どもの頃はあんなに嫌だった母の押し付けと同じ事を自分がやっていた。しんどいのは自分だけ、何が何でも働いている人が偉いんだ、稼いでいる人の方が上なんだとどんどん思い上がり始めていた。


 井上くんはよく言っていた。

「〝今″が一番大事なんだよ」と。

彼は一緒に過ごす時間に一番重きを置いているみたいだった。私が働いてばかりなので自分が空き時間を多くして少しでも会える時間を確保しようとしてくれていたのかもしれない。けれど、こちらから見れば忙しい時には特にそれが怠けているようにしか見えないことがあった。

「私は将来のために頑張ってるのに!」と言い、彼はだんだんやる気を失って家事をしてくれなくなった。


 家では井上くんの態度が冷淡になっていくのが目に見えて分かるので、その反対にますます私は仕事に逃げるようになっていった。職場には嘘でも優しい言葉や気遣いが溢れていた。

 家に帰ると病気になりそうな散らかり放題そのままの狭苦しい淀んだ空気が待っていた。

「一日中家にいて何してるの?」

私は井上くんに少し咎める口調で聞いた。

「少しずつで良いから片付けておいてよ…」

窓を開ける事も出来なくなっていた。それは井上くんのせいではなく不動産屋さんのせいだった。入居後すぐに工事が始まる事を知っていながら教えてくれなかったのだ。朝日が登るとすぐベランダにゴツい作業靴の足ががうろつき回っているのが見えた。床まで丈の届ききっていないカーテンの隙間から。

私達のアパートは入居してからすぐに建物全体を囲う白い幕が張られ、何やら外壁の工事に入っていた。いつまで経っても工事は一向に終わる気配が見えなかった。一体何の工事をやってるのか誰もよく知らないみたいで、立ち話をしている古株のお婆さん達から、入居して年数のまだ浅い私達にまで

「これは一体何の工事でしょうね?」

と聞かれた。一階の管理人室の前ではしょっちゅう管理人の小柄なおじさんが複数の住人に取り囲まれて質問されていた。

「世間知らずな子がよく引っかかるらしいけどね、不動産屋が最初に出してくる3件くらいは断った方が無難なんだって。押し付けたい物件を最初に出してきてる事がよくあるから…」

井上くんが後からうんちくを教えてくれた。


 家事を放っておいて何もしてくれないのはむしろまだ良かった。下手に中途半端に手を出されると余計にいつもの段取りが狂って面倒臭い事になるので、何もしないなら何もしないでいてくれた方がまだ良い。

 ただ、たまに優しい言葉や彼の気の抜ける笑い声が聞きたかった。そのために仕事を頑張っているのだから。彼との二人の生活のために。

 でも私が仕事を頑張れば頑張るほど彼の顔から笑顔は消えた。


 まだ私は井上くんの事が好きだった。一度深く好きになった人のことをそう簡単に嫌いにはなれない。

 二人で半分ずつ使っていた棚の私の側だけが急に成金的にゴージャスになりだして、不公平だなと思い、彼にも何か欲しい物を言ってみてと言ったけれど、彼は「何もいらない」と言う。

 初めは彼も私の誕生日にお客さんたちの誰にも負けないプレゼントをくれようとして一生懸命アルバイトを掛け持ちして頑張ってお金を貯めていてくれたみたいだったけれど、その時には私ももったいなくて、恐れ多くて、同じように「何もいらない」と言ったのだった。お金持ちのお客さんから物なら貰えるから、彼にはお金のまま二人のために大事に持っておいて欲しかった。


 彼にも就活やアルバイトを頑張っている時期はあった。自分で働いたお金で私に買ってくれたプレゼントもあった。けれど私は冗談めかして言ってしまったのだ。彼の給与明細を見せてもらった時に。

「終電で帰って来て始発で出て行く事もあるのに、週休一日でその休みの日も研修やなんだかただのタダ働きでうやむやに消えちゃうのに、そんなに頑張ってもこんなちょっとしか貰えないんだね」と。

(世の中狂ってるよね)と言うつもりで私は言ったのだけれど、その何気ない一言が彼には突き刺さってしまったのかもしれない。彼が呟いた小さな一言が私にはよく聞き取れなかった。聞き返す時間がないままバタバタと慌てて仕事へ出掛けた。優雅なディナーやプレゼントを受け取って遊んで稼げているように見えてしまう私と暮らしていて彼は馬鹿らしくなって頑張ろうという気力が潰えてしまったのかもしれない。


 何か根底から変えたくて、部屋を引っ越した。そのくらいのお金ならもう貯まっていた。時々自分達はお金持ちだと錯覚を起こすほど稼ぐには稼げていた。月の収入は多い時では100万円近くに上ることもあった。

(絶対に井上くんには秘密にしておかなくちゃ、この人ますます働かなくなりそうだから…)

そう思って彼には秘密にしていたけれど。


 いくらあるのか知らないが貯金が底をつけば井上くんも重い腰を上げて働き出すかもしれない…などと私は考えていた。定期的にお金を渡したりはしていなかった。

 全額稼いだ分全てを彼に渡し、彼に管理してもらうべきだった。それが全幅の信頼だ。そうでなければ愛がない。富めるときも貧しいときも浮かぶも沈むも一緒でなければ、二人は一つとは言えない。もっと彼に出口を作ってあげるべきだった。私は自分の逃げ道を断つべきだった。

 例え井上くんが二人で貯めたお金を全部持って逃げ出してしまったとしても、私にはお客さんが残るのだから。

 彼に心を預けているなんて綺麗事を並べて、私は狡いだけだった。


 新しく住むことになるかもしれない部屋を朝からキャーキャー言いながらあっちこっち見物し、久しぶりにお休みをとったのと新鮮なデート気分で新しい生活への期待と甘い余韻に浸ったまま、夕暮れ時に契約する段になると急に彼が敷金や礼金を見て渋っているのを尻目に、私はここぞと一括で現金で全部支払って得意になって彼に言った。

「ほらね、お金の力。働いてる人は偉いんだよ」


 今度の部屋は街中にあり夜になると余計に賑やかに喧騒が響いてきたり食べ物のいい香りが漂ってきたりしてそれが逆に楽しかった。少しずつ豊かになってきた自分達の富を象徴しているようで。昼間も若い学生や親子連れや迷い込んで来た観光客などが、

「こんなところに住みたいな~」

などと話しながら歩いて行くのをベランダや布団の中で聞いていると微笑ましかった。家賃は2万円くらい上がっただけだった。それでこんなに広々とした間取りと職場からの距離の近さを手に入れられるならそんなに大したことのない額に思えた。

 今度の部屋には椅子やテーブルでも置いてお茶ができそうな広々としたベランダがあった。部屋もフローリングのキッチンと畳の寝室に分かれていた。

「布団が干せるのが最高」

「ふかふかのお布団で眠れるだけで幸せになれるね」

と言い合った。

最初のうちはそうだった。新鮮な気持ちがまだ続いている間は。

 井上くんは天気の良い日に布団を干したり、カレーやシチューなど保存の効く料理を作ってくれたりした。

(ああ…また最初のように心が通じ合って元通り幸せに戻れるんだなぁ…)と思ったりもした。

二人で見上げているぷかぷか白い雲の浮かぶ青空がどこまでも平和に続いて行くような気がする長閑な日もあった。でもそれはこれから降り続く雨の前の微かな雲間から射す途切れ途切れの光みたいに滅多になくなり、やがて全く無くなってしまった。


 二人で一緒に非常階段に座っていても、立て続けに私の携帯電話にお客さんからの予約が入ると、私はお金儲けができるから笑顔になり元気を出して職場に戻っていき、彼は寂しそうに真顔になってちょっとだけ手を振り返し、俯いて階段を降りて行った。


 

 お客さんと初めて泊まってしまった日は完全な手違いから起こった。私は日帰りの予定で来ていた。毎晩必ず家には帰っていた。井上くんと住み出してからは。最悪でも終電には乗るつもりでいた。

 ところがお客さんの方では朝まで一緒にいるつもりで予定しホテルも最初からそのつもりでおさえていた。馬場さんと言うお酒が大好きな人で、騙そうと言うつもりはなくただ約束をしたときに二人とも勘違いをしていたのだった。

「明日は何時に起きる?」と聞かれ、

(あれっ)と思った。

いつもなら黙っていても相手の方から帰り支度をし始めるので、完全に悠長に構えていた。

 向かい合ったソファに座りまだたっぷりお酒をグラスに注いでちびりちびり飲んでいるので、なんだか何かがおかしいかもしれない…とじわじわ気付き始めた。

「まだ帰らなくて良いんですか…」と逆に質問したら、

「何言ってるの?泊まるって約束だったじゃない」とビックリして慌てたように言われた。

「いや、帰ります」私は立ち上がったが、立ち上がりかけた馬場さんは壁の時計を見上げて首を振った。

「もう無理だ。ごめん。諦めて。最終は行ってしまった…と思う…調べてみようか…ごめんね、ハッキリ言ってなかった僕が悪い」

「いえ…」

ここがどこなのかもよく分かっていなかった。ただ連れられるままに車に乗ってついて来ただけなのだ。もう何度も外で会っているお客さんだったからパターン化されていて、いつも通りだと思い込んでいて何も考えていなかった。

最寄駅を調べ時刻表を出してみると本当に電車はもう最終が出てしまった後だった。

「結構お酒飲んでしまったしなぁ…」

馬場さんは申し訳なさそうな顔をして私の目を覗き込んできた。私は内心の焦りを表には出さずに平静を装って馬場さんから貰っていたLINEを読み返してみた。文章の中のどこにも泊まるとか日帰りするとか言うやり取りはなかったけれど、添付されていたホテルの予約プランには宿泊とちゃんと記されていた。添付資料まで私は開いて見ていなかったのだ。

「もう一部屋予約しようか?」

私は馬場さんをじっと見た。

「あ…お願いできますか」

馬場さんはホテルの電話の受話器を上げてフロントに部屋の空きを問い合わせてくれた。

「空きはあったけどね、どうしよう?提案なんだけど。ここで一晩一緒に眠ってくれたらその分上乗せしてお支払いするよ。夢ちゃんに。僕が手放すのは結局同じ金額だけどできるならきみにより多く受け取って貰える方が良いかなぁと思って」

「その分っていくらですか?」

馬場さんは指を二本掲げた。ピースみたいに。

私は事を終えたベッドをチラリと見、金額と秤にかけた。

「ここで寝ます」

結局ちょっとでもお金になる方を選んだ。馬場さんはお年を召されていて夜中またもう一度お相手をさせられるような事はないだろうと踏んだのだ。

「僕はお年寄りだからすぐに寝ちゃうよ」

と本人も言った。ベッドに入ると、

「手だけ繋いで欲しいなぁ」と言われた。

手を繋ぐと、もぞもぞ近寄ってきて腕枕をされ、私は背中を向けてギュと抱き締められた。馬場さんはそのまま寝てしまいそうな鼾をかき始めたので、しばらくじっとしていてからソロリと腕の中から抜け出し、鞄から携帯電話を出した。

(どうしよう、井上くんに何て連絡しよう…)

そう思って窓辺に立ち外に目を凝らしていた。ザーザー果てしないような大粒の雨が降り、歩く人もいない歩道を黒い流れがうねっていた。雨の向こうに何か大きな塊が浮かんでいるのが見えていたが、何が見えているのかもよく分からない冷たいガラスの外だった。近づくと自分の息で白く曇った。

 考えても考えても彼に送る文面が思い付けず、ソファに座ったりベッドの端に腰掛けたり部屋中を静かにウロウロしたりした。そのうち馬場さんが目を覚まして起き上がり、スリッパを足で探しながら私の方を見つめ、

「眠れない?」と聞いてきた。

「ちょっと…」と私は答えた。トイレから帰ってから馬場さんはベッドの端っこに寄ってくれて、

「広く使って良いから寝た方が良いよ、明日も朝から晩までシフト入ってたでしょ」

と気を遣ってくれた。手招きされ、携帯電話を鞄にしまい、ベッドに戻った。

 目を閉じて、生まれ変わったら何でも良いから真っ直ぐ欲しいもの目掛けて動ける生物になりたいと思った。鳥でも魚でも虫でも何でも良い。木の実が食べたいと思ったらその木の実の事だけしか頭にないように行動し、間にお金なんか使わず、老後とか子どもとか病気とか不安に備えるとかなんてなんにも考えないで、ただ木の実の実る場所目がけて一直線に飛んで行ける野生の生き物になりたい…その方がヒトよりシンプルで正しい生き様だ。迷いも後悔の余地もない…何故私はゴチャゴチャ迷って悩んで回り道していつも失敗ばかりしているんだろう…


 翌朝家に帰ると拍子抜けするほど井上くんの反応は何事もなかったみたいに普通だった。別に怒っている様子も取り乱した感じもしなかった。

(あんなに一晩中悩んだけれど、良かった、これなら…なんだぁ、ホッとした…)と思った。またすぐにアルバイトに出掛けるため、彼をギュッと抱き締めて力を補充し、制服を掴んで走ってお店へ向かった。

 井上くんは何も言わなかったけれどそれは心配していなかったからでも怒っていなかったからでもなく感情を言い表す言葉が見つけられなかったからだったのかもしれないのに、私は(なーんだ)と思ってしまった。

 泊まりがけで働けばお金になる事は前から分かっていた。でも井上くんが嫌がるかもしれないからと勝手に思い込んで自制していたのだけれど、今度からは泊まりがけの仕事もどんどん受けていこう、と一人で決めてしまった。

 私はお金を稼ぐことに集中していれば良いのだ、井上くんは本当にあの最初の言葉通り何でも受け止められる人なんだと思い込んでしまった。


 正社員として働いている時、井上くんは連絡無く一晩帰って来なかったことがあった。その時の自分はしこたま心配して色んな可能性を考え朝まで眠らずに起きたままどうしようどうしようと魘されて過ごした。後から帰ってきた彼に

「山奥で働いてるから電波が無いんだ」と言われ、この時代にそんな言い訳は通用しないぞと思った。けれど、何度かそんなことがあり彼が最終のバスを逃すと職場で寝るしかないのが本当なのが分かる前にはもう習慣付いて慣れてしまっていた。

 そんな風に私の出張も彼は慣れていくんだと思っていた。


 引っ越したところで何も変わりはしなかった。中身が同じなのだから。

 そのうちまた悪い方に逆戻りしてしまった。家の中は放っておかれて滅茶苦茶なまま、彼は昼間は何もせずにグッタリと横たわっていて、夜になるとむっくり起きてウロウロし始めた。多分鬱になりかけていたのだ。いつの間にか髪が灰色になっていた。まだ30歳の若さで。髭も髪も伸び放題で、言動も以前のような優しすぎるくらい優しかったあの特徴的だった物言いはすっかり失われ、そんな言葉を知っていたのかと驚くような汚い罵り文句を唾を吐くように吐き出すようになりだした。

 まるで井上くんではなくなっていく人と一緒に暮らしているみたいだった。時々本気で恐ろしくなった。


 私はせめて職場では楽しんで働こうと思い始めた。家でもしんどくて職場でまで嫌々に働いていたのではこちらまで腐り尽くしてしまう。井上くんがなぜ働かないでジトっと寝てばかりいるのか分からないがその事は何も咎めないかわりに自分は職場に楽しみを見出そうとした。

 外で会おうと言ってくれるお客さん達は外へ出掛けると、あちこちに連れて行ってくれた。季節の花々を見に、季節のご馳走を食べに、流行りの観光地に、デパートに、お芝居や映画やお祭りや水族館や植物園や海や山やプールや神社仏閣やバーや果樹園や…

 これまでは時間ばかり気にして、

(どうでも良い、お金さえ頂けたら私はそれで…)と思っていた。

井上くんとなら見たかったかもしれない夜景、井上くんとなら楽しかったかもしれない遊園地、井上くんにも食べさせてあげたいご馳走、これまではみんなそんな感じで、全部がいつか井上くんと行く予行演習みたいに見えていた。いつか彼を連れてきてあげよう、そう思いながら与えられるものをただ淡々と受け入れていた。初めての新鮮な驚きや本気の感謝の気持ちは常にあるのだけれど、どこか心の半分は上の空で、罪悪感にも苛まれていた。

 ところが少しずつお客さんと出かける事自体が楽しみになって来て、それがしみじみと身に染みてありがたい真心のこもったデートである事も分かってきた。

 こうしたお客さん達はただお金を払って時間や体を買おうとしているのではなく、本来ならいらない余分なお金まで払って希少な経験を共有させてくれ、狭い私の世界に豊かさを与えようとしてくれているのだ。無意識にかもしれなくても。

 

 目に見えやすい愛情はもはや職場の方に沢山あり、家では、あったものが失われていく残酷な過程がハッキリと目に映った。

井上くんは私の名前も呼んでくれなくなった。彼の声で名前を呼ばれるだけで心はとろけウットリする事ができていたのに。

「お金もかからないのに、なんでもう優しい言葉もかけてくれなくなったの?好きって言ってみてよ」

しつこくねだると井上くんは忘れていた言葉の意味を思い出そうとするように言った。

「好きだよ」薄いシャボン玉のような一瞬の命の空っぽの儚い言葉だった。


 だんだんと長い時間、遠い距離、家から離れるようになり、私は翼を広げ世界中を飛び回れる渡り鳥や回遊魚にでもなったつもりで働いた。

 家にいるのが辛かった。

以前には彼の方が私を死ぬほど求めてくれていたのに、いまやこちらが必死になって擦り寄って行っても彼は背を向け、あまりしつこく食い下がると肘で振り払おうとした。唸り声まであげられた。犬なら噛み付く寸前の、原始の本能的に二度と聞きたくないような凶暴な唸り声だった。まるで私のことが噛み殺したいぐらい大嫌いみたいだった。

(彼のためでもあったのだ、私がここまで仕事に身を窶したのは。今更軽蔑するのはおかしい)と思った。

彼が働かない分を自分が働けるうちに死に物狂いで二人分稼いで貯めておかなければと思っていたのは本当に本当なのだ。お金はいくら稼いでも足りないみたいに思えた。二人の人生には一体いくら必要なのか分からず、とにかくちょっとでも仕事し節約を心がけていた。

 時々、耐えきれなくなって井上くんの両方の肩を両手で掴み、揺すぶってみた。冷たい黒い瞳を覗き込み、そこにまだ私を欲しがる気持ちが残っているか確かめようとしてみた。でも彼の心は死に始めているみたいに虚で、私を欲しがる気持ちだけでなく世界中の何に対しても、何を成す意欲も全部が薄まってきているみたいだった。ただハッキリと不快なのは表明してきた。私の手を振り払う必要以上の力と、その時目に現れる強い憎悪の感情とで、ゾッとするほど伝わってきた。私が思いがけないほど後ろによろめいて襖にぶつかり、驚いた顔をしたのと同時に彼もハッと我に帰ったように気弱な顔に戻って、心配するような目で窺うように見て来たので、私はやっと一瞬、今まで通りの(井上くんだ…)と思うことができた。それでもその後に喧嘩をしたくなくて、布団の中では彼に嫌そうに押しやられながらしがみつき、それで我慢して眠ろうとした。


 やがて彼は夜に眠ることができなくなった。昼間に眠っているらしくコウモリみたいに日が沈むとむっくり起き出して深夜に彷徨い歩くようになった。昼間は働いている私は眠たかったけれど彼の夜の散歩について歩き回った。お昼間に途切れ途切れに貪るようにお客さんの隣で熟睡した。

 夜の散歩中にだけは井上くんは昔のように笑ったり冗談を言ったり手を繋いでくれたりするので、この習慣はやめられなかった。麻薬みたいに。

「でももう帰ろう、夜は眠らないと死んじゃうよ」私は彼に言った。

「死なないよ」

「二人とも死んじゃうよ。こんなこと続けてたら…私は死にそう。明日も明後日も仕事なのに昨日も一昨日も寝てないんだよ…今日も寝なかったら…私を殺したいの?」

井上くんは困った顔をした。

「…じゃあ帰って寝れば?」

でもそれでは寂し過ぎた。それなら何故二人で暮らしているのか分からなかった。


 そして井上くんの夜型にこちらが合わせ始めると、今度はこちらの仕事が疎かになり、居眠りとか上の空とかあくびばかりを連発して、徐々にお客さんの顰蹙を買い、2、3人の気の早いお客さんには契約を切られ、このままでは二人の生活も立ち行かなくなるのではと感じた。


 まるで永遠の負のループだった。どこまで行っても足枷が邪魔をして、引っ張り合い鎖をジャラジャラ鳴らして両方ともが幸せになれる場所へは決して辿り着けない二人みたいだった。


「井上くん実家に帰って」

私はついに彼に提案した。

「嫌だよ」

「なんで?」

「…」

「もう二人でいるのは無理じゃない?私のこと好きじゃなくて嫌いなんでしょ?」

「だったら一緒にいないよ」

「でもこれ以上一緒にいたら憎しみ合いになるよ。そうならないうちに一旦別々に暮らそう」

「お別れだよ。それは。」

「そんなことないじゃん、別れないために一旦、生活を立て直すんだよ。結婚してる人達だって喧嘩して一時的に実家に戻って距離置いて頭冷やすなんてこと普通によく聞く話じゃない?」

「家に戻ったらお別れだよ。俺家族に何て言えば良いんだよ」

「ちょっと帰って来たって言えば良いじゃない?」

「離れ離れになったら終わりだよ」

「終わるわけない」

私には分からなかった。

 子どもの頃から母や祖母や母のお客さんや友達の家やあちこちに移り住んできたけれど、別に誰とも関係が壊れたり断たれたりした事はなかった。むしろ憎しみ合いを避けるために遊牧民のように争いを避けて暮らして来た。

 こんなにハッキリと終末へ向けて突き進んでいるのに毎晩深まる憎しみを目の当たりにしながら孤独に眠ったり果てしなく当てのない深夜徘徊を繰り返して命を擦り減らしていくなんて早くやめたかった。無理やり同じ屋根の下にいる意味が私には分からなかった。


 

続く

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