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メンズエステ  作者: みぃ
33/38

33 鬼

 誰かと一緒に住む事を想定した家ではなかった。契約も一人暮らしが前提だった。犬も猫も何も飼ってはいけない決まりなのだ。自分よりでっかい男の子を住ませて良いはずがない。

 両隣とも学生風の男の子が一人で住んでいて、毎朝同じ時間帯に部屋から出て来るため、私達は二人で住んでいるのがバレないように、同じ時刻に授業がスタートする時には玄関で二人ともまず最初に靴を履いておき、せーので一斉に部屋を飛び出し、片方が鍵をかけているうちにもう一方は階段を一階下まで駆け下りておいて、そこで片割れが降りてくるのを待った。それから二人で駅まで走った。毎朝遅刻ギリギリだった。


 鍵は大家さんから一つだけしか貰えていなかった。

授業が二限目からでまだ寝ていられる方も、一限目からの授業へ出て行くもう一方を見送るため、ベッドから出なくてはならず、ブツブツ言いながら内側から施錠してもう一度ベッドへ寝に戻った。

 井上くんが鍵を持って出る日は良いけれど、私が鍵を持って出ると夜中まで彼は全然部屋に入ることができなくなる。だから学校で必ず鍵を渡してあげなければならず、すぐ二人が一緒に住んでいる事は同級生に知れ渡った。

「みんなになんて言おう…」と井上くんは悩んでいた。

彼と私の恋路を応援してくれていた喫煙所の仲間達が、彼に

「良かったなぁ」

「もう付き合って同棲まで行ってるんでしょ」と進捗状態を確認してくるらしかった。

「付き合ってはないけど同棲してるって、みんな納得してくれるかなぁ…」

「なんで…誰にそんな事納得してもらう必要があるの?言わないでよ、そんな事…」と私は言った。

「いや、言わないといけない。みんなに応援してもらって来たから…一年の春から…

実はね、まだ前の人と巻多さんが付き合ってた時、喫煙所でみんなに相談してたんだよ。」

「ええ、ちょっと待って…なんでそんな話になるの?」

「そういう話になるもんじゃない?春って。入学してしばらくしたら…

『誰か好きな子できた?』とか

『あの子可愛くない?』とか」

「まぁ…そうかな」

喫煙所のベンチや緑色のフェンスにもたれかかって喋っている人達のほんわかと和んだ雰囲気を思い浮かべた。

「恋話ってみんな好きだから。俺その時、

『巻多さんが気になる』って言ったから、みんな

『おお~』ってなって…

でも巻多さんに彼氏がいる事知ってる子達は、ちょっと

『え…』ってそわそわ

『待って、これ言って良いんかな…』ってなって、やんわり教えてくれようとして、

『あの子、付き合ってる人いたんじゃなかったっけ…』って言いにくそうにしてたから、

『俺も知ってるけど略奪愛頑張る』ってその時言ったんだよ。そしたら

『おお~』

『頑張れ~』ってみんななって。

そこからずっとみんなに相談に乗ってもらってたんだ」

 この時に初めて聞かされて、私は呆然とした。

「じゃあみんな知ってたの?ずーっと?」

「そうだよ」

「みんなって…誰誰?」

「名前言ってもどうせ分からないんじゃない」

井上くんが朗らかにからかって来た。

「俺も名前は知らないけど一番聞いてくる子がいるよ、そっちのクラスに。俺は一度も同じクラスになってない女子が」

「応援て言うよりそれ面白がられてるだけじゃない?」

「うん。そんなもんでしょ」

(あぁ…それにタバコ吸いだけじゃなくてもとっくにもう学年中に知れ渡ってるだろうなぁ…)と思った。

ちょっと呆然としてしまった。

当事者の自分が知らないところで一体どのくらい大勢の人が一年も前から井上くんと私の事を知っていたんだろう…もう自分で話しちゃってみんな知ってるからそれで井上くんはあんなに堂々としていたのか…と思った。私は彼のためにも隠した方が良いと思っていたのに、これでは全部無駄だったという事だ…

 私は開き直ってしまった。

 服が少なくて、洗濯が追い付かず、昨日の夜干した物がまだ生乾きだったりすると、ドライヤーで必死になって乾かしていたけれど、それをやめて隣でハンガーにかかっている井上くんのブカブカの服を借りて登校するようになった。

 彼の服を着ているのは素敵だった。彼の体の匂いがして…毎晩お湯をいっぱいに溜めた中にザブンと頭まで潜ってワシャワシャ髪を洗い、泡だらけのラブラドールレトリバーみたいになってヘラヘラしている彼の体は清潔なシャンプーの香りと、それだけでない体温のような彼だけの香りとの融合だった。いつも抱き締められているような満ち足りた温かい守られている心地になれた。


 タバコを吸うくせに煙の匂いや害を嫌がり、最後の一本はお風呂に入る前に吸わないといけないという自分なりに決めたルールが井上くんにはあり、忙しいのになんで先にお風呂済ませてくれてないの?と一緒にお風呂に入ってくる彼に聞くと、

「帰って来てから最後の一本を吸いたいから」

と教えてくれた。家に一度帰って来てからなんとなくまたもう一度フラフラ出て行く彼の謎の習性の意味がこれでやっと分かった。

「どこ行くの?」と聞いても、ちゃんと答えずにニヤニヤしたりフニャフニャした返事をしたり首を捻ったりして誤魔化しながらさっき帰ってきたばかりの外へしれっと戻ろうとするのだ。

「ちょっと…すぐ帰ってくるから…」などと言い置いて。

不信感が半端でなく、また靴を履いて私もついて行った。すると彼は諦めて、トコトコ階段を降り、一階の明かりの乏しい駐車場の傍の座れそうな花壇に縁があるところまで来ると、ポケットからタバコとライターを出し、火をつけて

「ぽぉ…」と吸い始めた。

「なんだー…タバコ吸ってるところを見られるのが嫌だったの?」

彼は首を傾げた。

「自分の家の中では吸いたくないからなぁ…ヤニって凄いから…一度服や壁に汚れが染み付いたらどうやってももうとれないからな…」

「その考え方は…良いと思うんだけど…じゃあやめちゃえば良いのに。そもそもタバコ吸うの自体を。」

「やめようと思うよ。いつかは…」

そう言いながら煙が流れてこない風上で、風下に向けて腕を伸ばしてタバコを持ち、煙をふぅと吐いた。

「なんで吸い始めたの?」

「別れた元カノが吸ってたんだよ」

それを聞いた途端ちょっと気持ちが塞がった。表には出さなかったが。

「一度付き合った人とは結婚して一生その人と死ぬまで生きて行くんだと僕は思ってたんだ…」

私は頷いた。私達は花壇の縁の土で汚れていない綺麗なところに腰掛けていた。チューリップとデイジーとパンジーと名前を知らない服のボタンのような花々が闇夜の中、美しいかどうか見えもしないのに蕾を開いて咲き溢れていた。贅沢に。指を広げた手でフワフワと触ってみると花弁は柔らかく、冷んやり湿っている。

「虫がいるかもしれないよ」

潔癖な彼はまずそちらを心配した。

「その子はなんで井上くんと別れたいって?」

「凄く長い手紙をくれて…」

「ふーん?」

「ズッシリした手書きの手紙をもらった時はすごく嬉しかったんだけどね…」

井上くんはその日最後のタバコを吸い終わり、私はまだ腰掛けたまま待っていたけれど、火を指で弾いて消した彼は立ち上がった。そして二人で部屋に戻った。手紙の中身については聞けずじまいになってしまった。

 

・家の中では煙草を吸いたくない

・最後の一本を吸ってからお風呂に入りたい

その他にも彼には潔癖な、それは良い事だなと私にも認められる癖がいくつもあり、面倒だなと思える癖やそれはやめてくれと言う癖もあり、多分自分では気が付いてない癖が私の方にも幾つもあって、そのどれもを相手に合わせて曲げたり捨てたり増やしたりして、色々細かい喧嘩を繰り返しながら二人で暮らす新しいルールに作り変えていった。

 

 井上くんの習性の謎が解けてからは、彼に付き合って最後の一本のタバコを吸い終わるまで彼の隣に座り、いろんな話をした。煙の行方みたいに一つ一つ何の話をしたのだったかは忘れてしまった。でも彼と一緒にいるためにそこにいた事だけは確かだ。10分か15分の間、先に部屋の中へ入れてもらって、先に明日の授業の用意をしたりお風呂を溜めたりしていれば時間は節約できたかもしれない。けれど、そんな事は分かっていたがしなかった。

 時間に追われている日々の中でも自分がどこにいたいか、そこにいると幸せかどうかはハッキリと分かっていた。できるだけ井上くんから離れなければ、彼の綺麗な心に触れてその声や気配が届くほどそばに…少しでも長くいれば、自分の心まで浄化され、少しだけ元々の自分を取り戻せるような気がしていた。お金のために何でもやる人間ではない、もともとの自分を…


 お金の件では一度だけもめた。2、3ヶ月一緒に住んでみて、彼は家賃を払わず、自分だけが払ってるなんてなんだかおかしいなと思い始めたのだ。それで彼に来月からは貴方も半分出してよと言ってみた。

「だから言ったのに…お金俺もなんとかしようかって。もう今更無理だよ。これからアルバイトなんてできない…」

「なんで?」

「ボランティアを始めちゃったから…畠中先生の。」

私は呆然となった。確かに、何度かお金を援助してあげようかと井上くんから申し出てくれたのを私は断っていた。過去に。でもずっと前にだ。まだこんな風に一緒に暮らすことになるなんて思いもしなかった頃のことだ。

「そう言えば一生懸命募ってた…畠中先生…

『ボランティア誰かなってくれませんかー?』って…ずーっと前…」

「あれ誰も結局手を挙げなかったんだよ。それで、仕方ないから先生、ある日の授業終わりに廊下で俺とかそこら辺歩いてた三人くらいの子達呼び止めて、

『井上くんがなってくれたら嬉しいなぁ、ボランティア』って頼んで来たんだよ。」

私は呆然となりながらも頷けた。

(ああ断れない井上くんは一番頼まれそうだなぁ、気弱だしブラブラしてるし優しいし…)

その時の情景が目に浮かぶようだ。

「巻多さんが長いこと学校を休んでたあの時だよ。俺心配で、学校行っても巻田さんいなくて…どうなってるのかも分からなくて、辛いし、他に気の紛れる事がちょうどしたかったんだ。先生の頼みだったし。

やり始めた事、今更投げ出せない…!」

井上くんも何かに物凄く腹を立てているみたいだった。

私はぼんやりと苦しい胸のつかえを感じながらも頷いた。

 確かに…やり始めた事はやり遂げて欲しい…と私も思った。

 でもボランティアとは…自分には遠くかけ離れた現実味のない言葉としか捉えられていなかった。そんなものはよっぽど時間にもお金にも余裕があって心が綺麗な人がやるものと思っていた。だから自分に関わってくる事は一生ないものと思っていた。私ならお金や時間に多少余裕が出てきたとしても、もう少しあった方がいいかなときっとまだ働いてもっと余裕を作ろうとするだろう…

 だけど井上くんが…同居人がボランティアをしてるせいで家賃を半分こできないとは…

 でも仕方がない。やり始めたものは確かに途中で投げ出さない事の方が大切だ。しばらくは目の前が真っ暗だったが、私は気を取り直した。その分自分が稼げば済むことだ。


 井上くんから「仕事のこと理解するよ」と言われそれに力付けられて、アルバイトは順調だった。リピーターさんの捕まえ方もなんとなくコツを掴んできたように思えた。とにかく愛想よくできるだけニコニコして、帰り際に「また来てくださいね」と一言言うだけでも全然違う。律儀な人はその最後の一言を覚えていてくれて、本当に「また来たよ」と言いながら来てくれたりする。

 一人ぼっちでピリピリしながら目に映る誰もが敵のように気構えていた以前よりも、恋の力で誰にも寛容になれ、自分に自信も持てて、

「ずっと笑顔で良いね、リノンちゃん」とか

「ニコニコニコニコして、そんなに僕が来て嬉しい?」

と新規や常連のお客さんに褒めてもらえるようにもなった。

「どうせ時間を切り売りしてる商売女なんだから、彼氏がいなくてショボくれた子より彼氏がいても愛されてキラキラ磨きがかかってる子の方が良いよ」

と言ってくれるお客さんもいた。

「で?彼氏できたでしょ?この頃様子があからさまに違ってるからバレバレだよ」

 ずっと彼氏はいませんとどんなお客さんにも答えるようにしてきていたけれど、割り切れる人や見抜く人もいるんだなと思った。たった一人のお客さんにだけは本当の事を言ってしまった。

「まぁ…この頃ちょっと仲良しな人ができて…」

「つまんねー!」

ビクッとした。

「引っ掛けに引っ掛かるなよぉ、いつも絶対彼氏いないって言ってくれるのが安定の夢ちゃんの取り柄だったのに!早く別れちゃいな。」

「えー…」じゃあ引っ掛けとかするなよ!と思いながらヘラヘラ笑った。

「ああダメだ、つまんねー、彼氏いる子にマッサージ受けてるのが辛い…早く嘘でしたって言って?」

マッサージ台の上から落ちそうなほど体を捻って私の目と目を合わせて、そのお客さんは言った。

「今夜電話して別れ話しますって言って?」

「えぇ?マジですか」

「マジで。嘘でいいから。俺意外とダメージ喰らっちゃったわ。自分でもここまで嫌な思いするとは思わなかった。やっぱり彼氏の話とか聞きたくなかったし、俺が悪いんだけど今度から夢ちゃん指名しないかもしれないわ。だから今すぐ、早く今夜別れますって言って?嘘でいいから」

縁起でもねぇなと思ったけれど、機嫌を損ねてはいけない。

「彼氏はいないですよ…」

同棲していて屁理屈のようにもだんだん思えてきたが、私と井上くんとは厳密には付き合ってはいないのだから…嘘というわけでもない…と思った。

「永遠に彼氏いないでいてよ?もう引っ掛けに引っかからないでよ?別に付き合おうよとか言うつもりなくても、ただせめて独り者同士寂しいもの同士ではありたい…だって寂しくて来てるのにここへ来てまで惚気話聞いてられないって。他の男もみんなそうだと思うよ!」

騒がしい人だなぁと思った。自分から聞きたくない事を聞いて来て大騒ぎするなんて…それなら聞かなければいいのに…

 けれどこの仕事をしていると一番か二番目によくされる質問だ。彼氏の有無は。


 店の外に一歩出れば井上くんと狭い神戸の商店街やら中華街やらそこら中を歩き回っているのだから、見かけているお客さんだっていっぱいいるに違いない。が、それはそれでプライベートだ。

 でも一旦お店に入ったら、一度吐き始めた嘘は貫かなければならないのだ…やっぱり。特に私の常連さんはそれを求めている事がこれで分かった。

(絶対にこれからは認めないでおこう)と誓った。

 相手は私が常に同じ嘘をつく事を期待してお金を支払い、こちらはその対価を受け取っているのかもしれない…

ある意味、嘘を吐き続ける事こそが誠実さなのかもしれない…この業界では…

 仕事として店の中では一度決めた設定のキャラクターを演じきるしかない。これまでそうしてやってきたのだから、急に変えてはいけないのだ…



 去年卒業した一学年上の先輩は、まだ時々来てくれて、帰り際にいつも「外で会おうよ」と誘ってきた。まだその動機がよく分からずとにかく不審だった。増田さん…という名前を使っているけれど、これは咄嗟についた嘘だよ、と教えてくれた。

「咄嗟に?凄い頭回りますね…若いのに…田中さんや鈴木さんならやたらと多いから、通り名だなって受付の人も女の子もなんとなくすぐ察せるんですが、増田さんはちょっと本当っぽいですね…」

無表情の彼はジロジロと最初に会った時から全く変わらない探る目付きでいつまでも私を見つめ、こちらも彼の腹の内が全く読めずにいつもジロジロと彼を見つめ返してしまった。彼は顔見知りとこんなお店で出会ってしまって驚いたという表情をいつも浮かべていた。そのうちそれが生まれ付きの普段の顔付きなのかなとは分かってきた。

 特別なサービスは全く求めて来ず、ニコリともせずにお終いまで寡黙に部屋にいて、時間きっちりに帰って行く。その帰り際にだけいつも、外で会おうよ、と言うのだ。どうにもそれが解せなかった。

 私に特別愛着がありそうな素振りがないのに指名はいつもしてくれていて、別に会えて嬉しいとも会いたかったとも言わず、なんだか視線を逸らすようにしていつも玄関を入って来て、月に一度かたまに二度来てくれ、一度は、酔っ払って自分にお水を買ったついでにコンビニで私にもジュースを買ってきてくれた。

 本名ではないとは教えてくれながら、では本名は何という名前かは教えてくれないんだな…と思った。

「増田って、今いる会社のムカつく先輩なんだ…」

ある時マッサージ中に突然喋り出したので、ビックリしてちょっとすぐには受け答え出来なかった。

「ああ…だから…咄嗟に増田さんって名前が出たんですね?」

「うん」

彼はまたしばらく黙った。私は彼の背中と肩をほぐしているところで、うつ伏せの増田さんではない彼の表情は見えなかった。

「意地悪なんですか、その人…?」

と私は言いかけ、その同じ時に彼の方でも何か言いかけていた。

「えっ?」

「何?」

二人とも相手に先にもう一度言って欲しがった。

「…うん、凄く性格が悪い」

彼の方がまたしばらく時差があってから突然返事した。聞こえていたのか記憶を解析したのかとちょっと面白くなって微笑んだ。彼には見えないし。

「こんなところ二度も来ないと思ってたから…」

「ああ…」

「増田って言っちゃって、今は後悔してる。嫌いな名前で増田さん増田さんって自分がこんなに呼ばれる事になるとは…って」

「今からでも名前違うのに変えますか?事情を説明すれば受付の人にも分かってもらえると思いますよ」

「んん…いい…別に変えなくても…」

それからまた増田さんではない人は黙ってしまった。筋肉が張り詰めていてうつ伏せでもいつも眠っていないようなのは感じ取れていたけれど、リラックスできているのかなぁと不思議だった。逆に凝っちゃうんじゃないのか…?ここへ何をしに来てるんだろ…この人…

そして最後には必ず「外で会おう」と持ちかけてくるのだ。靴を履いた後に。

「外で会って何するんですか?」と私は相手の目を強く見つめながら聞いてみた。

「お茶とか…」

初めて会話の続きをしていた。玄関で。彼が今夜最後のお客さんだった。

「私、お休みの日を作ってないので…」

「…リノンって、源氏名?」

「…そうですけど…」

「学校では本名?巻多さん?」

ゾッと怖くなった。調べたのか…

「俺本名田中なんだけど、信じてくれる?」

増田ではなく田中でもなさそうな彼はクスリと虚な笑みを残しドアノブを押して風が吹き荒ぶ廊下へと出て行った。屋外は春の嵐だった。



 もしかしたら学校では知れ渡っていたのかも知れない…私のアルバイトのことは。何て言う源氏名でどこで働いているかとか…

 表立って誰も何も私に言って来なかったのは、井上くんのお陰だったのかもしれない。彼と一緒にいたから、私の周りには悪巧みをする人や傷付けようとする人がそう易々とは近寄って来られなかったのかも…

 井上くんは全然そんな事は何も言わなかったし、誰も何も言わなかったけれど、ただ彼がいてくれる事で私は守られていたのかもしれなかった。



 矛盾するかもしれない…けれど、一緒に暮らし出してからすぐ井上くんは怪物みたいになり、夜全然私を眠らせてくれなくなった。

「眠ってていいよ、勝手にやるから…」

話し方や声は今まで通り優しいままだった。でも眠っていられることではなかった。毎晩毎晩何度も何度も…

 井上くんは誰よりも恐ろしい人になってしまった。どんなお客さんよりも、あの事務所よりも酷い。同じ場所へ同じ事を繰り返す際限のない攻撃的な行為が全部愛情を源に湧き出してきているというのは嘘みたいで、真っ暗な気持ちで、それでも彼しか私にはいなくて、拒絶する事ができず、でもこのままでは死にそうだと思いながら天井を見上げていた。

「お金を上げるから他所でやってきてよ…」

と何度か頼んだが、通じない。

「他所でなんかやりたくない…」

井上くんの顔は鬼のように歪んでいた。

「巻多さんこそ、仕事ではいっぱいしてきてるんでしょ…帰って来たら俺の番だよ」

 そうするのが良い事だと思っているのか、手や指で激しく私の一番傷付きやすいところを擦るので、まず痛めつけられてから更にそこをずっと通してもっと痛めつけられるみたいだった。拷問でしかない。帰り道を楽しそうに歩きながら井上くんが今日はどんなふうにやるかという話をするのが、隣で聞いている私にはサイコパスの話のように聞こえた。同じ家に向かって歩いているのが嫌で嫌で足がしんどく重くなり、

(なんでそんな事を言うんだろう…)とどうにもできない真っ暗な気持ちだった。

 丈が足りないカーテンの裾から灰色の朝日が差し込んでくると、這いずり出して学校へ行き、深夜仕事から帰ってくるとまた灰色の朝日が差し込むまで井上くんの猛烈な情熱の受け皿を努めた。死に物狂いで愛し合った。これ以上は異常だというところは遥かに超えて。井上くんの事が分からなくなり、何度もこの人は気が狂ってるんじゃないのかと真剣に疑った。彼の黒い瞳を覗き込むと、そこに写っている自分が見え、彼の声が何度も私の名前を呼ぶ…

 三日眠らなかった後、お店で接客中に一瞬意識が飛び、床を這う私にお客さんが言った。

「ちょっと、寝てなさい、もうこの後の時間は…そんな状態で働いたらダメだ…」

このままではいけない、もう無理、どうにかしなければ死んでしまう…と自分でも思った。

 また学校を休みがちになり、その時間中に睡眠をとるようになった。


 一年次の時に救済措置を講じてくれた畠中先生は、たまにしか学校に来なくなった私に呆れ返って完全に口を効いてくれなくなってしまった。廊下ですれ違っても、挨拶しても聞こえないフリをされ、度重なるとこれは偶然ではないなと確信が持ててしまった。

「おはようございます…」

顔をジッと見ながら挨拶しても先生は目もこちらへ向けてくれない。見たくもないと硬くそっぽを向いているのがよく分かってしまう。

 こちらとしては恩義を感じているのだけれど、先生から見れば私は裏切り者の怠け者の生徒なんだろう…

 でも先生のボランティアをしている井上くんには物凄く甘く、私の事は能面のような顔で無視してすれ違うのに、後ろにいる井上くんにはパッと表情が満面の笑みに変わり、親しげに肩を組み、次の出張講義の打ち合わせをしに彼を連れて行く。そんな畠中先生の背中を見送っていると、こんなのって不公平すぎる…悲し過ぎる…と切なくなった。

 

 私を殺すとしたら井上くんだろう、私が死ぬとしたら井上くんのためだろう、それでも私の名前を呼んでくれるのは彼だけだ…他に誰もいない…死に物狂いで彼にしがみ付いていた。愛するということはこんなにギリギリまで命を削り捧げるという事なのか、分からなかった。

 



続く

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