32 神様
宮家さんから頻繁にご飯に誘ってもらえるようになった。
部屋を勝手に空けその後二日間音信不通にしてしまい、もとからちょくちょく様子を見にお客さんとお客さんの合間に部屋に顔を出しに見える人だったけれど、もっと気にかけて可愛がってもらえるようになった。
「焼肉連れてってあげる。美味しいところ教えてもらったの」
「今日は餃子を食べ行こう」
「着替えて外に出て、待ってて。この前車で迎えに行った、あの場所にいて。中華行こう」
などと言って。
ずっと以前からご飯のお誘いは受けていた。本当は。ただこちらが全然休みの日を作らないので、先延ばしにし続けていたのだ。
(きっと社交辞令だろうな…アルバイトか学校の他に使う時間もお金も私にはないのを知っていて、どんなに誘っても断るって分かっていて安心して誘ってくれるんだろうな…)
と思っていた。でもそうではなかったようだ。
初めて焼肉を食べに行った日は、お部屋に入って『お部屋スタンバイできました』と報告すると
「行くよ。焼肉。今から。私服に着替え直して」
と上官命令のような連絡が下された。
しっとりとした会話の最中に独特の落とし穴のような間を持つ宮家さんは、同時に、無駄な動きを一切しないという機能的な一面もあわせ持っている人だった。特に車の運転に後者の持ち味がよく現れていた。
桜色の長い爪でテキパキとナビを操作し、安定したヤンチャな走りでスイスイとゲームみたいに邪魔な車を追い抜かし、目的の駐車場に乗り込んで行くと、勢いを緩める事なく一撃で後ろ向きにサクッと駐車した。助手席で私は現実離れしたVRでも見せられているかのようなスリルと安全性を同時に体感した。こんなのは初めてだ。
(スピードを上げたり落としたりが滑らかなんだ…緩急の振れ幅は大きいし交通ルールにも無頓着なようなのに、ぎこちなさが一切ないから同乗者に不安を抱かせないのだ…)
ちょっと感激なドライブだった。幾つも規則やマナーを破っていそうなのであまり褒めては不謹慎かもしれないが…
バタンと車のドアを閉め、ふんわりしたスカートのしわを手で払いながらサッサと歩き出す彼女のフェミニンな後ろ姿がカッコ良過ぎた。子どもの頃に母から耳打ちされた説をつい思い出してしまった。
『モカちゃん、…車の運転が上手な人はエッチも上手よ』
(わーお!宮家さん…わーお…!)と思いながら小走りでリュックを肩に引っ掛け彼女の後を追って焼肉店に入った。
トングを掴み手際良く肉を網の上に次々並べたのも宮家さんで、私には手を出す隙もなく、こちらが気付いた時にはもう宮家さんが全部やらなければならないことはやってしまっていた。なんとなく困ってしまい、手持ち無沙汰で、とりあえずさっきの運転技術を褒めた。
「凄いスピーディーでしたね、運転…カッコ良かったです」
すると宮家さんはゼリーのような唇の片端を緩めた。
「怖かった?」
「気持ち良かったですよ!安心して身を任せられる感じで。スカッとして。」
「そう?じゃあ良かった。怖がる人多いの。割と男の人が怖がるわね。彼も大概ヤンチャなくせに、自分で運転しないと怖いって。」
「へぇ…彼氏さんと一緒の時は宮家さんは助手席ですか?」
「そんなの、その時々よ。別々の車で同じ場所に向かったり。私モタモタした人嫌いだから」
私は最後の言葉にドキッとした。宮家さんは私をチラッと見て笑みを深めた。猫のような人だ。お気に入りの相手をちょっとだけいたぶって遊ぶのが好きなのか、弄り甲斐がありそうなのを選んで気に入るのか…
「前に同じお店にいたでしょ、原さんって子。あの子がここのお店教えてくれたの。美味しいものが凄い好きな子であっちこっち教えてもらっていっぱい行けて楽しかったわぁ…結婚して辞めちゃったんだけど。
彼女、凄いお金持ちと結婚したのよ。もう全然働かなくても良いくらい。」
私は首を傾げた。原さんが誰だかよく思い出せなかった。
「原さん…?原さん…?」と言っていると、
「そっか、あの子平日のお昼にしか来なかったから。リノンちゃんとはあんまり会ってなかったかもね。
今度合コン開いてくれるそうよ。貴女も行く?」
私は首を横に振った。できるだけ色んな人にあちこちで会いたくない…この業界を辞めるまでは。
(他の女の子達はこの仕事を隠して行くのかなぁ?アルバイトは何してるって言うんだろう?)
と思った。
「なんで?来ないの?相手の人達みんなお金持ちのきちんとした人達よ?」
「いやぁ…私はいいです」
ヘラヘラ笑いながら宮家さんの目と目が合うと、キラリと相手のその目が光った。
「彼氏がいるのね?」
「いや…彼氏というか…」
まだ私は井上くんにちゃんと付き合うという返事はできていなかった。ずっとグルグル悩み続けていた。両思いというのはなんとなく分かっているのだから、縛りの無いそのままの状態でも良いんじゃないかな…それが彼のためでもある…という考えでいた。
だってもし付き合ってから私のアルバイト先が学校などで明るみに出たら、『井上くんの彼女が…』と噂されることになるのだ。そうならないためにも、公然としたお付き合いなどしていない方が彼のためにも良い。
「ふーん…」
宮家さんは頬杖をついて私の顔を見透かすようにじーっと見つめた。あまりにその間が長いので、嘘など吐いていないにも関わらず疾しさが沸き起こる。顔が赤くなっているんじゃないだろうか、目を逸らしてはいけない…とか思った。
「彼、この仕事のことは知ってるの?付き合いはこの仕事をし出す前から?」
ヘラヘラして首を傾げてこの話題を切り抜けようとした。
「この仕事を始める前と今とで、行為中、彼が激しくなったり執拗になったり、何か変わったりしたでしょ?どう?激しくなったでしょう?求められる頻度が急に増えたり?」
「…」
「私も昔は前線に出て体張って働いてたから知ってるのよ。
それはね、嫉妬してるからよ。愛が深いほど強烈に嫉妬されるわよ。愛なんだから受け止めねばと思うから、彼の行為が暴力のようにだんだんエスカレートしてきても必死で受け止めてたわ。」
私は頷けなかった。井上くんは絶対そんな人じゃない。
マミちゃんの痣を思い出し、愛と暴力の違いくらいは分かりそうなものだと、傍目から見ただけの私は思った。
「彼にはもう話してしまってるの?この仕事の事は?
まだならそのまま知らせない方がいいわよ。」
「なんでですか?」
「そら、苦しませないようによ。焼きもち焼かせないために。お互いにとって地獄よ?この職業を知ってしまったら」
「でも後からバレた方が大変じゃないですか?修羅場になるんじゃないですか?」
肉の脂に燃え移った火が網の上で火事のようにメラメラ燃え上がり、慌てて私は椅子から立ち上がって逃げかけた。店員さんを呼ぼうとしているうちに宮家さんがそれを冷静に消し止め、唇の片端にニヤニヤ笑いを浮かべながら、もう一度座り直した私をジッと見つめた。
「まぁ確かにリノンちゃんには嘘を吐き続けるのは無理そうね。
彼氏とはもしかしてお店で知り合った?お客さん?」
「いや、同じ学校の…というかまだ彼氏では…」
「あら可愛い!どんな子?」
ホルモンが来た。ヒョロリと痩せて背の高い真面目そうなアルバイトの男の子が運んで来てくれ、宮家さんがチラリとその顔を見上げ、後から私に目配せして聞いてきた。
「芸能人では誰に似てる?ここの従業員とかでも良いわよ。似てる人いる?」
私は笑い出してしまった。
「宮家さんの彼氏は?」
「ふっ…」
振り返って厨房の中までサッと目を凝らして見てから、
「この中にはちょっといないわね。彼と言うよりも私のタイプはね。こう、肩とか腕がもうちょっとガチッとした人が好きなのよね…
今度やたらマッチョな店員さん揃いのサムギョプサルのお店があるから、連れて行ってあげるわ。」
御馳走してくれるのは最初のうちは珍しい特別なことなんだろうと思って嬉しかったけれど、これがあまりにも続いてくると、だんだん負担になり始めた。
働きに来ているのにその時間でゆっくりご飯など食べていては仕事にならず、稼ぎが減ってしまう。
向き合って肉を焼いたり餃子が運ばれてくるのを待ったりしている間に、宮家さんの携帯に予約の電話が入り、他の女の子に仕事が回されていく。それを目の当たりに見ているとジリジリしてしまった。
『はいcocoaです。ご利用は初めてですか?指名の子はいます?いない…お時間は?今すぐから…でしたら今…そうですね…ちょうど居ますよ、葉月さんと言う可愛らしい子で…ええ、場所はですね…』
時には宮家さんが私にニコッとしながら携帯電話に耳を澄ませ、席を外して声の届かないところへ行き、通話を終えてから戻ってくる事もあり、それを見ると、
(もしかして私の指名の予約を断っちゃったりしてないかなぁ…他の子に回しちゃったりしてるとか無いよね…)
と不安になった。
女の子達に働いてもらい、その監督をして三、四部屋ある一人一人から収入を得る宮家さんとは違い、私には自分一人の体の数しか資本がなく、働ける時間にも限りがある。自分の体が稼働していなければお金にならない。休んでいる暇はないのだ。
けれど、ご馳走してもらっているという事は多分気に入られているという証だし、気にかけてご飯を食べさせてあげようと言う優しい思いやりを無下にもできない。ただこのままでは楽しいお食事をさせてもらっているだけになってバイトの時間が無為に過ぎてしまう…
焦燥感に苛まれながら、お誘いの上手な断り方を見付けられないでいた。
宮家さんとは色んな話をした。裏話を教えてもらったりもした。他の女の子やお客さんの癖とか憶測とか。受付でしか分からない情報も。
一人のお客さんが女の子を二人予約して倍の料金で施術したこともあるだとか、他店でも私のように数日間消えた子がいたらしいとか、面接を受けに来た子が男の子だった事に気付かず採用して後でお客さんからのクレームで知ったがもうしばらく様子を見てあげようかしらとか、他店の意地悪な店主から逃げてうちに働きにきた子がいるのだけれど物凄くその元店主からその子へ指名で予約したいと電話がかかってきてキモいとか、女の子を引き抜こうとする邪な同業他社のお客さんも増えてきたとか、他店からスパイの女の子が調査とお客さんの横取りをしに潜入していた事が最近分かったとか…
「そんな事ってあるんですね…お客さんの横取り…?」
「よくある話よ。お客さんと連絡先を交換して店を通さずに会うとか。アリアさんて子がいたでしょ?前のお店に」
「はい」
「彼女とか有名よ。お店に在籍するのは自分の顧客を増やすためみたい。別にマンションに自分で一室借りて会員制みたいなお店を持ってるって」
「…すごいですね」
自分に思い付くことなんてとっくに誰かが実現していて更にその上をいってるんだなぁ既に…と驚き感心してしまった。
それでも許されているのなら自分ももっと要領良くやらなければ損だ…と思った。
でもこちらから外で会いましょうと誘うのは勇気が必要で、まだその度胸が自分にはなく、お客さんの方から誘われた場合にだけまずは応じる事にした。
ずっと前からお店の外で一度会いたいなぁと誘ってくれている、一見紳士なお客さんもいた。
梅が見に行きたいですね…映画を観に一緒に行きたいな…などと言い、
「それだけですか?」と笑いながら聞いてみると、
「それだけではないでしょうな。多分ベッドのある場所に行きたい。
…できるだけ期待に沿うようちゃんとお支払いするから…」
などと、いっそ正直な、大事なところを有耶無耶にしないきちんとした言い方で誘ってくれていた。
これまではずっとその度に角が立たないようにヘラヘラ笑いながら断り続けてきていたけれど、何となくあまり頑なに断り続けていたらそのうちいつかは心変わりして別の女の子のところへサヨウナラと去って行ってしまいそうな予感もあった。
岸さんという名前のお客さんで、偽名でない事も運転免許証を出して信用させてくれていた。いつもコム・シノワとかドンクとかで美味しいサンドイッチや軽食を買って来てくれて、隔週の土曜日の午後に三時間予約してくれる。私がcocoaにいてもbijouにいても。
お店で出会ったとしても、人として大事に扱われているかどうかという事はだんだんと身に染みて分かってくる。
岸さんの予約が入っている日は少しずつ心待ちな楽しみな日になっていたし、干されかかったあの暗い重苦しい時期にも通い続けて私を支え続け、味方になってくれていた。他の誰だか知らない女の子にとられるのはやっぱり悔しい、惜しい人だった。お金だけの問題ではなく。
「こっちではリノンさん、あっちでは夢野さん、本名は何さん?」
「何でしょう?」
「さぁ?教えて?」
「モカです」
「可愛い名前だねぇ。何モカちゃん?」
「苗字はまだ内緒です」
「そうかぁ…寂しいなぁ」
「じゃあ今度の今度の今度の時に教えます」
「再来月かな、待ち遠しいなぁ」
ちゃんと要望も伝えてきてくれるけれどゴリ押ししてこないところが余裕のある大人だ。岸さんは素敵なきちんとした人だ。
初めて外で会うのはこの人が良いなぁと内心では決めていた。
外で会うと言うことはホテルへ行くと言う事で、そこで何をするかは覚悟しておかなければならない…
それとは別に、奥さんが多分いるだろう…とも考えた。
もし、奥さんにバレて慰謝料を請求されたりしたら、パパ活でちまちま稼いだ額よりもよっぽど大金をこちらが支払わなければならなくなる…多分…
そんな事を色々深刻に考えていたらなかなか第一歩が踏み出せなかった。
岸さんは最初はあまり自分からは結婚している事や奥さんの話はしないようにしているみたいだった。けれど、会話の端々に奥さんの存在はチラつくので、結婚や夫婦についてある時、あえて聞いてみた。するともともと話好きな人なので話し出すといっぱい話してくれた。どんなふうに知り合ってどんなふうに連れ添ってきたか…30年…
長い間片想いしてきた別の女性は少しずつ距離を縮めようとしていた岸さんの後から来た別の男にさらわれるように交際し始めあっという間に人のお嫁さんになってしまった。その傷を癒すためにも長い月日がかかった。今の奥さんは、そんな傷付いた時期に毛糸で一から編んだセーターをプレゼントしてくれた人だそうだ。結婚して以来今日まで毎日三食の健康に気を遣ったご飯を作ってくれる、まめまめしくよく働く我慢強い人…岸さんの話からは、奥さんへの感謝と尊敬の念、温かい想いを感じた。一度も一言も奥さんを悪く言わなかった。岸さんは良い人だと確信を深めた。
奥さんを悪く言う人はたちが悪いと母もよく言っていたし、自分も自分自身の経験からもそう思うようになっていた。
「でもなんで奥さんがいる人達がこんなところに来るんでしょう?奥さんに肩揉みやらマッサージしてもらうのが一番じゃないのかな?その方がお金もかからないし、愛し合って結婚した人なんだから…って、いつも思っちゃうんですが…」
ちょっと原点すぎるかも知れない、意地悪にも受け取られかねない質問も岸さんにならぶつけてみる事ができた。それは帰り際のシャワーも終わり、ゆっくりお茶と焼き菓子を食べながら寛いでいる時だった。岸さんは帰り際にバタバタするのが嫌いで、30分前にはシャワーを終えてゆっくり寛いだりお話ししたりするのが好きなのだ。
「若いなぁ…」
岸さんは首をふりふりため息を吐き、食べかけのクッキーを珈琲の受け皿にカラン…と落とした。
「結婚も長くしていると…
うーん…どう言ったらいいか…
僕たちの場合、子どもができた後くらいから嫁さんの方で僕を寄せ付けなくなって…近寄ると嫌がられるようになりだした。僕も仕事に追われ、当時は必死だったんだけれど、都合良く見えたのかな。今とは時代も違っていたし…子育てにも力が及ばず…それ以来ずっと触れようとすると怒られるんだよ…
『やめてって言ってるでしょ!』って。
身の回りの事はきちんと世話してくれるんだよ、洗濯から掃除から何から。減塩も僕のためにしっかり考えてくれてね。
まぁ、熟年の夫婦はどこもそんなもんだよ…
旦那は元気で留守が良いって言葉知らない?
うちの嫁さんは僕に外でしっかり働いて家にお金を入れてくれれば、あとはなるだけそっとしておいて欲しそうなんだ。僕の方は…
だから…人の肌の温もりが恋しいんだ…」
なるほど…そうか…可哀想だなぁ…と思った。
「でも…最後に奥さんにアタックしたのはいつなんですか?30年って長いから…一時的に冷たくなる時期もあったかもしれないけど、今は…?改めてもう一度トライしてみたら奥さんも今は寂しくなってて、受け入れてくれるかもしれないじゃないですか?」
井上くんの言っていた事を思い出して私は提案してみた。彼はこんな事を言っていたのだ。
『結婚したらその相手と何でもしなくちゃ…何でもその相手とできなくちゃ…他の人が入り込む余地なんて無いように、二人で努力して、常に二人で解決を目指していくんだよ…』と。
でも尾崎さんは悲しそうに首を横に振った。
「もう心が折れてしまった。もしこれ以上こちらから歩み寄ろうとして、避けられたらと思うと…もう僕の方でも彼女を嫌いになってしまうかも知れない。
嫁さんが僕を避ける時のあの酷い歪んだ顔を二度と見たくない。
同じ寝室で寝ているのも辛い時期をやっと乗り越えて、今は外に安らぎを見出す事に決めたんだし、嫁さんの方もそれでホッとしているみたいなんだ。どうも…おそらく。家庭内はこれで平和なんだよ。今更わざわざ波風を立てようとは思わない」
「あぁー…そっかぁ…」
尾崎さんの言う事もなんだか分かるような気がした。奥さんが内心で
(外で浮気してきて…私を愛してるなら、むしろ…外で済ませて来て…)
と願っているとしたら、その気持ちも、実際自分にも経験があった事なので、よく分かる。
付き合っていたり結婚していたりといった一応の形をなして見えるその内側にも、幾通りものすれ違いや孤独が巣食い、寂しさは単純に独り身の人が抱えるものと大差ない。ただ複雑で理解されにくいだけで…
思わず私は岸さんの頭をお腹に当てて抱きしめた。
コーヒーカップの受け皿にポトリと落とした欠片を見つめる岸さんがあんまり寂しげに見えて。
(本当は奥さんの事が凄く好きなんだなぁ…)と思った。
奥さんの側からの意見は聞いていないから公平ではないかも知れないけれど、私には自分の見える面からの物しかどうせ見えはしないのだ。
一番初めに外で会うとしたらこの人かなと心の中では決めていた。けれど、順番通りにはならなかった。
出待ちされ、別のお客さんから深夜、道で呼び止められた。道路脇に車を停めて、その人は私を待っていた。
その時私は一人だった。いつも帰り道で待っていてくれる井上くんはいなくて…
何故彼がいなかったのかを先に説明しなければならない…
彼とは〝付き合う”と言う言葉の定義が食い違い過ぎて、電車の中で大喧嘩をしていた。これが初めての井上くんとの喧嘩だった。
私には中学や高校生の時からどうしても不思議でならなかった事なのだけれど、親の扶養のもとで生きている間に彼氏や彼女を作ったり、その事に命懸けのように真剣になれるとか言うのがなんだかどうも変な事のように思えるのだ。
私にとっては、自分の食い扶持を自分で稼げて、まず自立が出来てからの、その上で余裕ができてから、やっとやっても良いかなというのが色恋沙汰だった。なんだか親のお金で生きている時点で、親からもらうお金で出かけるデートや何か相手に買ってあげる物なども全部親から貰ったお金というのでは、
(それってオママゴトではないか…所詮お遊びの範疇ではないか…)と思えてしまう。
(何故まず親の扶養から抜け出す事に必死にならないのだろう…)それが不思議だった。
恋をしている周りの同級生達を見ていると、違和感が拭いきれず、昔から腑に落ちなかった。
母は命をかけて仕事をして私を養ってくれている。だから、こっちも一刻も早く自分で稼げるようにならなければ…早く自分もお金を稼げるようになりたい…と思っていた。
ただその時期には自分が恋をしなかったと言うだけの事かもしれないが。
中高時代には自分に関わって来なかった問題だったから違和感も他人事で、
(まぁ人は人か。それぞれその人の考え方でやれば良い事だ)と思い、薄っすらとしか違和感も感じず誰に何を言うわけでもなかったが、ここへ来て、井上くんに対してはモヤモヤがどんどん募っていき、突然、電車の中でハッキリ言ってしまった。
「〝付き合う”なんて…、
まず自立して、恋人の面倒も見られるかなぁと思うようになってからやっと出来る事が恋愛じゃない?付き合うとか、まず自立できてからでしょ?親のお金で生きてて、親に学費も何もかも出して貰ってて、それで恥ずかしくないの?井上くんは?
まず自立が第一だよ。先に自分のお金で自分の生活ができるようになってからの話だよ。何もかも。全部。」
「そんな事ない。だって、じゃあ中高生はどうなの?恋愛しちゃいけないって言うの?一番恋愛とかし始める時期だよ」
「昔からそれが不思議だったんだなぁ、私。周りの子達見てて。まず真っ先に自立がしたいとなんでみんな思わないのかなって。
でも人は人だし、自分のことじゃないから良いけど…それぞれの考え方で。
でも私は嫌だなぁ、なんか…」
「でもどうせいつかは親の面倒を見るでしょ?」
「いつかって?井上くん何歳なの?25歳だよね?普通もう働いて自活してても良い歳頃だよ?」
仲良くなってきたからと遠慮がなくなり、ズケズケ彼の痛いところに踏み込んでしまったらしく、初めて井上くんが荒い口調になって言い返してきた。
「面倒臭っ!そんな事初めて聞いた!」
私達は電車の中で通路に向かって横並びに座り、初めは小声で話していた。ところが井上くんの突然の怒りと声の大きさにギョッとした。通路を挟んだ向かい側の席のそれまで欠伸をしていたくたびれたスーツ姿の眠そうなサラリーマンのおじさんも俄然こっちに注目しだしたし、私は、普段は優しすぎるくらい優しい井上くんの怒った姿など怖すぎて信じられなく、喉が縮んで、黙りこんだ。
「付き合うかどうするかって話になんでお金が絡んでくるのか分からない…!そんなに嫌なら嫌って言えば良いのに。それだけの事なのに…」
私は小声でやっと言い返した。
「でも毎晩は泊めてあげられない…!」
「じゃあ分かった。もう良いよ」
井上くんは荷物を持って立ち上がり、ちょうど開いたドアからまだ途中の駅なのに降りてしまった。私は内臓を全部失ったかと思うくらい空っぽになった気分で、彼にすがりついて行きたいと願いながら、座席に座り続けていた。呆然として。向かいの席のおじさんにジロジロ顔を見つめられている気がして、俯いた。
その日の帰り道の事だった。当然井上くんは待ってくれていなかった。心が暗く沈んだ。でも少しだけ身軽になったような気もした。
(これまでなんのかの言っても一人でやって来れたんだ、ずっと一緒にはどうせいられなかったんだ、)となんとか思おうとした。
春の夜の空気は甘く温かく、野生の花の息吹く匂いがして、何とかなるはずだ…!と勇気付けてくれた。
一人で寝るために買ったセミシングルというシングルよりも狭い小柄な人間一人分のためのベッドで、いつも寝苦しく二人で積み重なるようにして寝ていた。今日からは伸び伸びと独占して寝られるんだと喜ぼうとした。
(これがもともとの望みだったんだろ…やっと思い通り自由になれたんだ)と良い方へ考えようとした。子どもの頃にはもっと深い孤独な夜をやり過ごしてきた。あの頃の方が強かったような気がするのは何故だろう…
とにかく疲れてヘトヘトなので、足を動かし帰りながらにしよう何を考えるにも…と、歩き出した。
時々井上くんはすぐには見当たらないところにいてタバコを吸ったり猫と戯れたり浮浪者のおじさんに話しかけられたりしている事もあったから、電話してみようかなと番号を画面に表示するところまではいったが、かける前にやめた。
シャッター街をキョロキョロ見回したり、路地裏を覗き込んだりしながら歩いた。どこにも彼はいなかった。どこでも彼を見つけたことはあったのに。本当にいない。
いつもはくだらないお喋りをしながら歩いた道が異様にシンとして、耳が勝手にそば立ち、急に角を曲がってきた人影に必要以上に飛び上がって驚いて、相手までビクッとさせてしまった。
交差点を渡ったところでその人は待っていた。車を停めて。
(コンビニもない変なところで停まってる車だなぁ)とは思い、そっちを見ながら歩いていると、男の人が車から降りてきて、車体を回り込み、ちょっと手を振った。
(えっ…)と思って、振り返ってみた。誰か後ろにいるのかと見渡したが、誰もいない。
向き直り、あれはもしかして私のお客さんか?とジロジロ目を凝らした。
そうだ…うわぁ…最近の常連のお客さんだ…この頃立て続けによく来てくれている、ちゃんとした人だと思っていたお客さんだ…目が合い、こちらへ手を振っている。
足が重くなり立ち止まってしまった。怖くて、気がつかないフリをして一気に通り抜けようかなと一瞬思ったけれど、もう無理な距離だ。バッチリ目は合ってしまっていた。
相手も窺うような変な表情でジロジロこちらを見ている。不味かったかなと今頃気が付いたみたいだ。
名前が思い出せない…
今日はお店では接客していない…
ニコッと満面に笑顔を作った相手の表情を見て、こちらも原始的に薄ら笑いを浮かべた。
「こんばんは。ごめんね…
帰り遅いね。予約しようと思ったらいつも凄く埋まってしまっていてなかなか会えないから…今夜も予約しようと電話かけてみたんだけどもう埋まってていっぱいで…」
それは嘘か本当か私に分かることではない。受付の宮家さんしか知らない話だ。
「一目見たくて…」
古典に出てくる言葉遣いみたいだ、〝一目見たくて″なんて…私をお姫様扱いしてくれているのかなとは思った。けれど、まだ警戒心は完全には解けなかった。自分のこの気持ちは名付けようもなかった。怖くて、それが怒りに移り変わり、ムッとし始めていた。
(でも優しい事を言われたのだしこれからもお客さんとしてお付き合いするつもりなら怒りは引っ込めねばならないのかなぁ…)と思った。
でもとにかくこれは反則行為ですよと言う正当な気分がやっと心の底から湧いてきた。それまではとにかく怖くて驚きで信じられなくて胸が塞がっていた。
「反則ですよ~、これは…」
とヘラヘラ笑いながら角が立たないように私は言った。
「うん…ごめん…ただ…うん…それじゃあ…」
そう言ってお客さんは手を振り、車を回り込み、
「遅いから、夜道気を付けてね」
と言って、車に乗り込み走り去って行った。遠くに見えなくなるまでずっと見ていた。
それからすぐに井上くんに電話をかけてしまった。
「もしもし?」
「もしもし?」
「寝てた?」
「寝ようかなと思ってたけど…何?どうしたの?」
もういつも通りの柔らかい話し方だった。
「なんでもないんだけどね」
「ふーん?…何かあったのかと思った」
「何もないけど…今日はごめんね。電車で…」
「あぁ、ううん…」
「…今までも、ごめんね。いつも帰り待ってもらって送ってもらってたのにありがとうってちゃんと言ってなかったなぁと思って…」
「ううん…俺が勝手にやってた事だったみたいだから…」
「ううん!すごくありがたい事だったんだなぁって気が付いて…本当に。今まで助けてもらってたんだなぁと思って…」
「どうしたの?弱ってるねぇ」
井上くんはいつも通りヘラヘラ笑った。いつも私達はヘラヘラ笑って誤魔化して優しい事ばかり言い合って居心地良く仲良く過ごしてきた。核心には触れずに。
でも私は一人で、不安で、もう笑えそうもなかった。
「時々すごく不思議になるんだけど、私みたいなののどこがそんなに一生懸命になる価値があるんだろうなって…
なんでこんなのの事を好きになってくれたりする人がいるんだろうって不思議で…」
「…何それ?」
興奮して話し出し、もう隠しておけず、ついに言ってしまった。
「さっき出待ちされて…お客さんがいて怖くて後ろを何回も振り返りながら帰ってるんだけど…」
「ええええ」
「家に入るまで電話繋げてて良い?」
「うん。そら、電話切っちゃダメだよ。もうそこにはいないよな?見える範囲にまだいる?そのおっさん」
「いない。見える範囲には」
「電話切っちゃダメだよ。今どのあたり?」
「えっと、でももうすぐ着くよ…今…NHKのとこら辺…」
「…」
「…」
「巻多さん…これからどうするの?」
「どうしよう…
慣れ…かな…」
「は?慣れるとか意味分からん…」
「でもこの仕事やってる限り乗り越えるしかない壁だよね。負けてられん」
「今からそっち行っても良い?」
なんだかさっきからゴソゴソ雑音がしているなと思った。動き回って上着を着たり階段を下りたりしているようだ。
「家もうすぐ着くから大丈夫だけど…」
ああやっぱり軽率に電話なんて掛けてしまったなと思った。来てくれると聞いてハッキリと断れないくらい物凄く嬉しくて胸が踊っているというのに、素直に喜びきれない引っ掛かりもまだある。まだ〝付き合う付き合わない″の定義に囚われていた。
「巻多さん、付き合わなくてももう良いから。今は一緒にいよう?何でもいいからもう。付き合いに名前なんて付けなくていいから」
「それ私が前から言ってた事だよ?」
私は笑い出してしまいながら、確認した。
「付き合いの名前つけなくて良いって言ったの私だよ」
「だからそれで良いって。もう家には着いた?」
私は周りを見回してからマンションに入り、階段を上っていた。
「今鍵を開けるところ」
「誰も周りにいない?」
「うん」
「入った?」
「入った」
「チェーンもかけて。じゃあこれから行くから。3、40分後には着くから覗き穴から俺の顔見て開けてね」
「もう家の中だから…来なくて良いのに…」
とっくに通話は切れていた。
やったぁ来てくれる…井上くんが来てくれる…と思いながらお風呂に入り、時々お湯を止めてドアに耳を澄ませた。
夜中なのでチャイムを鳴らさずにコツコツとドアを叩くところが井上くんらしかった。ビショビショのままお風呂を出て部屋を抜け、覗き穴で確認してから鍵とロックを外しドアを開けると、
「うわぁ裸」と言われ、注意された。
「普通の子はそんな格好でドアを開けたりしないよ。」
一応フェイスタオルで要所要所は隠していたが。
「ここ自分の家だもん」
「床もビッチャビチャ…あーあ」
いつものように床を拭き始めた井上くんを見ていると口から勝手に思っていたことが出た。
「何かお兄ちゃんが来たみたい」
「兄妹いても体は隠すもんだから。普通」
「別に普通じゃなくて良いし」
井上くんはタオルを洗濯機に入れて手洗いうがいをし、その間に私は服を着込んだ。
「じゃあ寝ますか」
また眠るだけだと思っていた。
私達はまだ繋がった事がなかった。試すのもやめてしまっていた。井上くんはエッチは付き合ってからが良いとずっと思っているらしかったし、私も体を寄せ合うのは大好きだけれど痛いのは嫌だった。だから私には凄く今までのくっつき合い方が心地良かった。ただ身を寄せ合って眠るだけでも良いならそれが一番幸せな事なのかもなと思っていた。
でもその夜は井上くんにやる気が漲っていた。
いつもは抱き締め合うだけなのに、それだけじゃなくなっていき、熱烈なキスに気圧されながらもなんとか井上くんの情熱にこちらも応えようとした。引っ張って服を脱がされ、手が目に当たったり髪が引っかかって痛かったりしても気が付かないのか、普段の井上くんならすぐ謝るのに黙ってどんどん先を急ぐようで、もしかして怒ってるのかなと怖くなり顔を見ると、ただ真剣なだけの真っ直ぐな強い眼差しだった。両手でゆっくり押され、寝かされた。服も布団もみんな床に落ちてしまい狭いベッドの上にいるのは何も着ていない私達二人だけだ。
「痛いかもしれないけど…ちょっとだけ我慢して」
そしてグッと力を込めて押し当ててきた。私は目をギュッと瞑り、慌てて深呼吸した。
「少し入ったけど痛い?」
「…ううん」
「少しずつ入れるよ」
「うん」
今日はどうしたんだろうと考えながら、手に当たるベッドの柵に掴まっていた。前よりは痛くなさそうだが、それでも痛いに決まっている。
「結構入ってきたよ。ほら、見て」
私は起き上がって見てみた。
「うん。本当だ…」
井上くんがクスクス笑い、こんな時に冗談ぽい井上くんが可笑しくて私も笑いかけたが、振動で切れたりしたらと思ってすぐ笑い止んだ。井上くんが私の脚を摩った。
「緊張しないで。力が入るから」
また私は後ろへ沈むように倒れた。井上くんに全部預け、力を抜いて目を見つめ合った。
「痛くない?」
彼の声はとても深く穏やかで優しい。
(あぁ、井上くんだなぁ…)と思った。
手を繋いで欲しくて手に触ると、すぐ繋いでくれた。ギュッと握り締めた。
「大好きだよ」
「私も大好き」
「痛くない?」
「…」
「痛いの?」
井上くんは動きを止めた。
「痛くてもいい。嬉しい」
ごくゆっくりと井上くんはまた動き始めた。
好きな人とするというのがこんなに幸せな事だとは思わなかった。突き上がってくる痛みすら喜びに昇華され、気遣いを感じるたびにより愛おしさが膨らんでいく。これは正しいことなんだ…これは天国にまで続く。神様にも祝福してもらえる正しいことなんだ…と信じられた。
続く




