28 花
アルバイト先では
「とにかく手で良いから全部最後までやって欲しい」
と言われる事が多くなってきた。これまでにもなんとなく
「ここの辺りももうちょっとして欲しいなぁ…」
みたいなほんのりとした期待を込めた願望の吐露ならあったのだけれど、だんだん
「なんでしてくれないの?」
「おかしいんじゃない?」
と言う空気感に変わって来た。
手で男の人を射精まで導いてあげる行為はヌキと言われて、メンズエステでは絶対にやってはいけない決まりなのだけれど…
それでもあまりにも何人も何人ものお客さん達から
「やってよ」と当然の如く言われ、その度にいちいち押し問答を繰り広げて断り続け、しまいには言い争いのようになり気まずくなって、お互いに一言も口を聞かずにムスッとされたままで帰ってもらう…という事態が増えだした。酷い人なんて、
「あのきみと一緒のお店で働いてたココちゃん。あんな可愛い子でもしてくれたよ?」
などと他の女の子の名前まで持ち出してきた。
嘘でも酷いけど、もし本当に良かれという気持ちからやってあげた本当の事だったとしたらもっと酷いと思う。胸に秘めておくべきだ。少し嫌悪感すら覚えてしまう。
(なんだか苦しいなぁ…この頃…)と感じるようになってきた。帰り際に捨て台詞を吐かれる事も多くなった。
「硬いね、きみ。他の子はみーんなやってくれてるのに。そんなんじゃこの業界やっていけないんじゃない?」
(ふん、もう来なくて良いもん)と思える人ならそれでも良いのだけれど、今までは優しかったお客さん達までもが
「このままじゃあもう来てあげられないかもしれない…」
と言って帰られるのには内心で結構傷付いた。
誰かに相談したいなぁ、ココちゃんはどうしてるのかなぁ…と思った。
彼女は、夢野として私がcocoaに入店した最初のうちは、自分の暇な時間に私もお茶を挽いているのをお店のブログで確認すると、コートを羽織り同じマンションの8階から降りてきて、6階にいる私の部屋のチャイムをピンポーンと押して訪ねてきて、一緒にパンやお菓子を食べながら客待ちをしたこともあった。人懐こい、良い子でしかない。人気が出るのも当然だ。彼女が暇でいることなどほぼ無いから、私から彼女の部屋にお邪魔するチャンスは無く、彼女の空き状況を調べ続けるのも情けないしあんまり根気よくやり続けていると自分が暇なので全然暇がないココちゃんを妬みそうになってくる。
ココちゃんに連絡をとるのは諦めて、出勤していないミサさんに電話をかけた。
「久しぶりー、珍しいね」
「どうしてますか?最近は?」
「あのねー、独立したんだよ」
「独立?」
ビックリした。同じお店にいると思い込んでいた。三宅さんからは何も聞いていなかった。
「独立して何されてるんですか?マッサージ?」
「そう。女の人も来るよ」
「へええ、良いなぁ、雇って下さいよぉ」
「無理無理、今は友達と二人で立ち上げたばっかりで他の子を雇ってる場合じゃない…そのうち規模拡大できそうだったら声かけるよ」
「すごいなぁ、良いなぁ…」
人の事は羨ましく思えるけれど、自分は一度女性専門店で働いていてグチャグチャにダメダメだったのだ。ミサさんの
「大変だよ、女性相手も」
という一言で突如自分には続かなかった過去を思い出した。
「結局お金のために男の人も入れてるしね。今は。後々には女性専門店にしたいと思ってるんだけど…厳しいかなぁ…どうかなぁ…」
そうか、苦労されてるんだな…と思った。
「どう?そっちは?悩み?聞くよ?」
「あー…いや…」
困ってしまった。
『正直どうしてますか?手でしてあげてますか?』
とヒソヒソ声で聞くつもりだったけれど、別の方向へ今は頑張っているそうだし過去の事だとしてもなかなか電話では聞き出せることでもないなぁと土壇場になって尻すぼみになった。
「また集まりたいねー」
ミサさんが救い舟を出してくれた。
「ですねえ、みんなどうしてるかなぁ」
「ちょっと召集かけてみるか」
ミリマイ、アカリちゃん、マミちゃんは来られないか連絡が繋がらず、宮家さんは上司になってしまったし嫌でもしょっちゅう会えるからという理由で誘わないことになり、アリアさんは連絡先を知らなかった。ココちゃんと佐藤さんとミサさんと私だけが集まることになった。
三日後の朝、三宮駅のそばに停めたミサさんの7人乗りのミニバンに集合した。まだ佐藤さんは来ていなかった。珍しい。
「どこ行く?もうお腹減ってきたんだけど…」
ミサさんがキョロキョロ道行く人々の中から佐藤さんの姿を探しながら言い、ココちゃんはニコニコ手招きして私を隣の席に誘ってくれた。集合時間を過ぎてもなかなか佐藤さんが現れないので
「おかしいな、モーニングコールあの子がくれたのにな」
と首を傾げながらミサさんが電話をかけた。
「二度寝しましたー!申し訳ない!すぐ今から行きます。」
とスピーカーホンでもないのに佐藤さんの悲鳴のような声が後ろの席にいても聞こえてきた。
「お腹すいたー」
笑いながら唇を尖らしてミサさんは佐藤さんの弱みにつけ込んだ。
「何か買って行きます。」
「安いので良いよ。マクドとか」
「4つ?」
「うん。4つ」
佐藤さんは1時間近く遅れてきて色んな種類のハンバーガーを買って来てくれた。海老フィレオをココちゃんと取り合い、ジャンケンで負けてフィレオフィッシュを食べた。食べながらなんとなく無言になった時に、全員が車窓から信長書店と西村珈琲の間の薄暗い路地の方を見つめていた。
「あそこ今どうなってるんだろうねー…」
「懐かしいような…」
「水着でやってんのかね」
「みんなバラバラになっちゃったなぁ」
「アカリちゃんはどうしてる?…誰か最近連絡取った?」
佐藤さんが聞き、みんなが首を横に振った。
「あの日以来連絡つかなくて…嫌われちゃったなぁ…無理やり辞めさせちゃったからなぁ…
…まさかもっとグレーな場所で働いてないかって…心配だよ…」
佐藤さんはまだアカリちゃんを気にかけ続けていた。
私にはマミちゃんが思い浮かんだ。今は携帯電話を持っていない彼女を誘えるとしたら私だけだったのに、あのカラオケ屋さんに近付くと男がいて、怖くて誘えなかった。ただのカラオケの利用客かも知れないが、向こうではこちらを知っていてこちらは相手を知らない可能性も考えられる。動画を撮られたのだ…
マミちゃんは何人いるのかも分からない蜘蛛の巣のような組織の中にいる。今も。何故だかその網を私だけすり抜けられたのだ…
適当にドライブして、家庭教師のアルバイトを始めたという佐藤さんが仕事の時間になり、車からバイバイしながら降りていった。
ココちゃんと私が後ろの窓から、小さくなっていく佐藤さんとまだ手を振り合っているうちに、運転席でミサさんがポツンと言った。
「もともとあの子も硬い子だったけど、もう少し話の分かる子だったよね…なんかどんどん世界がずれて話せない事とか増えていくのって寂しいよね…」
私はここだと思って聞いてみることにした。
「ねぇ、二人は…手でしてあげてる?」
「やめよやめよ。そんな話」
ミサさんがアッという間にぶった斬った。
「そういうのから離れたくて新しい店始めたのに、結局はお金のためにまだ前の仕事もやんなくちゃいけなくて、もうウンザリなんだって…
…でも金になるからしょうがないよね?軌道に乗るまでは…」
「うん…」
「そうだね…」
みんなしんみり頷き合った。
ミサさんの車から降り、バイバイと手を振ってミニバンが見えなくなってしまうと、ココちゃんと二人きりになった。まだお昼過ぎだけれど、もう残された時間は少ない。二人とももうすぐ1012と807号室に別れてアルバイトだった。ココちゃんが手を繋いできた。今しかない。
「あのね、聞き辛いこと聞いて良い…?怒らないでね…」
先にココちゃんの方が切り出してきた。
「へ、何…うん、怒らないよ…」
「あのね、ずっと来るお客さんがいるんだけど、筋肉質で凄い筋肉見せびらかしてくる人…田中さんて言うんだけど…」
「田中さんはめっちゃいるな」
「誰か分からないよねぇ…」
「うん…鍛えてる人も多いしなぁ…その人に何されたの?」
「何もされてないんだけど…
怒らないでね、…その人が…夢野さんとはヤったって言うの」
「私とヤった?」
ココちゃんは上目遣いで頷いた。
「ヤったって、エッチしたって言ってんの?その人?何だそいつ。誰だ?出てこい」
「ヤってないよね?」
「ないよ。ムカつくなぁ、そいつ」
「私もそうだと思ったけど、あんまり何回も言われて、何か詳細に語ってくるから…」
「くそムカつくなぁ、その筋肉野郎多分偽名田中…!
その人、ココちゃんのこと誘ってるんだよ。あの手この手で。
『ほらあの子もやってる事だし俺らもやろうよ』
みたいなノリで。そんなの信じてたら騙されるよ?」
「そうだよねぇ」
ココちゃんはすぐにそのお客さんよりも私を信じてくれた。
もっと手を繋いでいたかったけれど、もう出勤時間だ。私達は手を離し、私は四車線の道路を走って渡って、それぞれ道を挟む向かい合わせのマンションへ入って行った。
「こっち側の窓からお互い見えるかどうか確認しようよ」
と別れ際に決めていたので、部屋へ入ると真っ先に出窓からココちゃんの部屋のベランダがある6階辺りを見下ろした。ココちゃんはすぐに見えた。春物の白いコートがよく目立ち、既にベランダにいて、私を探しキョロキョロ上を見上げているが、なかなか見つけられないようだ。こちら側は出窓だから…私は台の上に立ち上がり、ガラスに張り付くようにして全身を大きく使って激しく両手を振った。するとココちゃんが両手を双眼鏡のように丸くして目にかざし、見つけたよと手を振り返してきてくれた。笑い声が聞こえてきそうな眩しい笑顔だ。嬉しくなってしばらくニコニコ手を振り続けた。浮かれた自分の笑い声が部屋に漏れた。フフフ…
(可愛いなぁ…ココちゃん…)
急速にお客さんが減り続け、目に見えて収入が激減してきた。最初のうちはボンヤリと気が付かないフリをしていた。暇な時間だらけなので、
(楽だなぁ~)と思ってゴロゴロお昼寝をして…たまに来るお客さんの相手をして、帰り際に
(今日の売り上げも少ないなぁ…)となんとなくションボリし、でもこれまでにもたまにはそんな日もあったので、
(まぁ今日もたまたまかなぁ)と、まだしばらくは自分を騙せた。コロコロで無心に部屋中掃除ばかりして部屋がピカピカにはなった。
月に一度の給料日にお金を貰うbijouでは、いつもは少なくても10万円代は貰えていたのが、沢山出勤したのに8万円しかもらえなかった。一桁減ったその数字を見たときにハッキリ実感した。
(ダメだ…これではスーパーで働いた方が稼げてた…)
ジワッと焦りが心を蝕んだ。
「研修しましょう」
ついには高嶺さんに厳しい表情で言い出されてしまった。
〝研修″という言葉はあまり店の方から使われて良いものではない。クレームが多いセラピストやお客さんが少ない子が店から再研修を受けるのだ。
入店するための三日間の研修では、社長さんがマッサージ台に寝そべり、高嶺さんが左の足首から上へ向かってマッサージするのを私は右の足首から真似をして教わった。
今度の研修では社長さんと一対一だった。
社長はその日の私の受け持ちの部屋303号室に既に入って待っておられた。朦々たるタバコの煙が廊下に漏れ出て、部屋の中は雲の中みたいだった。
「お久しぶりです。入店研修以来ですね、何ヶ月振りかな?」
「3、4ヶ月振りでしょうか…」
「うーん、そのくらいからちょっと女の子によっては独自性が出てきてしまうというか、手抜きしてしまう子が出初めてくるんですよね」
私は声は出ないけれど(手抜きなんてしてませんよ!)と一生懸命首を横に振りかけた。
「まぁ貴女がそうだと言ってるわけではないんですよ。ただ…この頃ちょっと売り上げが落ちて来てるのは…自覚ありますよね?」
「はい…」
「じゃあ」社長さんはタバコの火を灰皿に押し付けて消すと、ガウンを脱いでマッサージ台に上がった。
「いつもやっているようにやってみせて下さい」
いつもよりも緊張感を漲らせて一生懸命マッサージした。手順はいつも通り。右脚から始まり腰までほぐすと、次は左脚をまた同じように腰まで…その後は腰から肩まで。それから両方の腕を順番に、心臓へ向けて流す。教わった通りを丁寧に再現した。表向きも教わった通り、足首から太ももの付け根まで…お腹、胸、デコルテ、肩、腕と手のひら。そして指だけは根本から先へ向けて一本一本流した。あやふやな所ややっているうちに自分なりのやり方に変えてしまったところはあったかもしれないけれど、出来るだけ最初にこのお店で教わった通りにやったつもりだ。
「うん、上達しましたね。すごく上手です…」
社長さんは褒めてくれた。基本的には褒めて伸ばそうとしてくれる人のようだ。けれど少し首を傾げながら私の目を見上げて、
「でもこれだけですか?これがいつもやってる通り?」
「はい…」
社長さんは上体を起こし、私の手を掴んで、太腿に当てさせた。
「これでは物足らなくなって来ているんです。どこでもそう、この業界全体がもう少し先を求め始めて来てます。現実。
貴女が入店した頃までは今さっき貴女がやってくれた通りのそのやり方で良かったんです。でも今はもうこのままでは通用しなくなって来ています。」
うっすら分かっていたことではあったがこんなにハッキリ言われてしまうと認めざるをえなかった。
「このくらいまでは来てください」
社長さんは私の手を持ち自分の鼠径部に手の甲を押し付けさせた。
「もっと攻めたマッサージを。今この場で、貴女が思い付くように練習してみて下さい。」
今まではやってはいけないと言われ続けて来ていた事を今度は出来るだけやってと言われるのは複雑な思いだけれども今度からはこれが正しい事なのだ。社長さんがそう言うんだから間違いない。生き残りをかけ周りに合わせて遅れをとらないように頑張らなければ干されてしまう。既に私は干されかけている。
(他の女の子達が悪いんだ…一人二人抜け駆けしているだけじゃない。もう業界全体、みんな、きっと…手ではやってあげてるんだ…)
社長さんに鼠径部のマッサージをしているうちにだんだん激しく揺れ動いていた心も鎮まってきた。慣れてきた。
(これでお金が稼げるなら大した事ないじゃないか…マミちゃんと私がやった事は何だった?あれに比べれば屁でもない…)
社長さんはしばらくすると、時計を見て、私に煙草の箱とライターと灰皿とそれらを置くためのパイプ椅子をベッドのそばに持って来させ、一本タバコをふかし、頷いて、研修を終わりにした。
「はい。あとは実際にお客さんでコツを学んでいって下さい。貴女ならできます。」
私はbijouの社長さんを頼りにしていた。貴女ならできますと言われて嬉しかった。誰が何と言おうが、ここにしか自分の生きられる世界はないんだから、どうせやるなら胸を張ってやるしかない。そう思った。
それでも、最初のうちは辛く、試行錯誤の日々だった。
良かれと思っていっぱい鼠蹊部をマッサージすると、体の反応が起こってしまう人もいっぱいいた。すると
「これどうしてくれるの…なんとかしてよ。夢野ちゃんのせいでこうなってるんだから」
と言われる。吐きそうなジレンマだ。
(でも鼠径部やらなきゃいけないんでしょ?やらなくて良いならやってないけど、そしたら干されるんじゃん!)
と矛盾への怒りを抱えて仕事していた。
そのうち自分で手で持ってゴシゴシやりだす人が出てきた。
これまでなら止めなければならないと思って止めていた。怒りだす人にはこっちもムッとするのだが、申し訳なさそうな悲しい目で
「これで我慢してとか、きみ、酷いこと言うね、…知らないからだろうけど…凄く辛いんだよ?これ…このまま帰れって言うの?」
と同情を誘われると
(そうなの?辛いことなの?)と可哀想な気持ちになった。
止めようとしても言う事を聞かない人やそれそのものを触らなくても暴発してしまう人や可哀想すぎる人があまりにも多く、黙ってティッシュの箱をソッと出してあげるようになった。
そしてティッシュを用意してあげるようになると、今度は強引なお客さんからガシッと手を掴まれ、彼のそれを掴まされ、
「ちょっと、えええ…!」
と言っているうちにバーンと破裂して終わる、という事件が頻発しだした。
強引な人は得をして控え目な人は損をするなんて可哀想だ。それに、一人の人にしてあげたら、次に来たお客さんにも同じ事をしてあげなければ不公平になるような気もする…
(他の子達はどうしてるんだろう…)と本当に知りたかった。
夢にまで出てきてうなされそうなぐらい鼠蹊部の光景が目に焼き付いてしまった。衝動的に花の鉢を買ってしまい、バイト終わりに井上くんに
「貰ったの?」と聞かれ、
「買った」と言ったらビックリされた。
「ネカフェ持ち込めるかなぁ…それそんなに好きな花?」
「ううん、名前も知らない。」
「まぁでも綺麗だね…」
「目の保養だよ。」目を消毒したいくらいだった。
これは違法なんだろうか、それとも大勢の人がしているという事は合法なんだろうか?よく分からない。お客さんに聞いた話では、
「こういう店ができ始めてからまだ法律が制定されてないんじゃない?」
と言うことだった。
でも誰彼構わず全員にしてあげなければならないのなら、もう一段階上のそういうお店があるはずだ。そこでは基本的にもっと高給がもらえるはずではないか?もういっその事、そういった店に転職した方が開き直り甲斐もあり堂々と仕事できるのではないか?と悩んだ。
その道に詳しいだろう井上くんに聞いてみた。
「女の子が男のお客さんに手でしてあげる店って何て言うの?」
「回春?性感?えっ、なんで?何の質問?」
深夜の灰色のシャッターが下りきった道を寝ぐらに向かって二人で歩いている時だった。井上くんの顔には冗談にして良いのか本気なのか分からないで浮かびかけた半笑いが漂っていたが、目を見ているとだんだん真顔になってきた。
「風俗には色々段階があるかも知れないけど、お客さんはいつもそこでできるもう一つ上を要求してくるよ。どこへ行っても。キリがないよ。多分…
〝ここでそれはやってはいけない″って事をして欲しがるから…多分…みんな。」
「なんでそんなみんな悪いやつなの?男全員が?なんで?」
「なんか、そんなもんなんだよ…」
井上くんはなんとなく悲しそうに言った。
「そうなんだ…」
なんとなく私も悲しくなってきた。
「多分、〝特別な感じ”がするんだよ…してはいけないお店で自分にだけはしてもらえてるって。ちょっと嬉しいんだ。
特別扱いしてもらえると嬉しいでしょ?そんな感じ…」
「ふーん…」なるほど、分かったような分からないような…でもなんとなく分かったような気がした。お客さんは〝特別”を求めているのかぁ…
「ソープだって本当はやっちゃいけないのにやってるし…」
「えっ?ソープってエッチするところじゃないの?」
「この国は売春許してないから」
「でもソープって…エッチすると思ってた…」
「するよ。でも違法だから年に何店舗かは摘発されてる。全部一気に潰すことはないけど」
「なんで?」
「全部一気になくなったら何が起きるか分からないし、日本中で性犯罪があっちこっち起きちゃったら困るし、路頭に迷う人たちの救済も一気に増えるしとか色々考えたらできないんじゃない?」
「それはそれで何か狡いような気がするなぁ…じゃあ合法化すれば良いのに」
「法律変えるのめんどいんじゃない?」
「えー…」
井上くんこそこの会話が面倒臭くなってきたんだろうなと、適当な受け答えに笑えてきた。
「その辺はモヤモヤさせておくのが一番都合が良いって、政治家とか偉い人達が思ってるんじゃない?気に入らないなと思う店があったら、好きな時に潰せるしね。」
「悪いなぁ」
しばらく無言で歩いてから、また聞いてみた。
「井上くんはそんな経験ある?」
「ソープに行った経験?」
「特別なサービスを求めた経験。そこでして良い事よりももう一つ上のものを求めた経験。ある?」
「あー…」
いっぱいあるのか、色々思い出して嬉しそうな顔になりながら上を向いて、どれを話そうかと迷ってから、一つに絞ったように、話し出した。
「友達と三人で中華のエステのそういうところに行ってね…」
「うん」私はワクワクし出した。
「壁があるんだけど、天井まではくっついてない壁で。一緒に入ったから三人並んでエステ受けてるのが分かるんだよ」
「うん、うん」
「そしたら、最後の方になって来たら、担当の女の子が1万円で手でしてあげてもいいよ、1万円でそのオプションが付けられるって言うんだけど、でもその時本当にあと千円しか持ってなくて。千円しかないって言ったら、中国語で壁越しに何か隣の女の子と大声出して喋ってるんだよ。多分、
『こいつ千円しか持ってないとか言いよったで!』
『そっちはどうよ?』
『こっちはいくら!』とか言い合ってたのかな…そのあと、仕方ないからかやってくれて…」
「やらせたんかい」
「だって勝手にやってくれたから千円あげたよ。本当にそれしか持ってなくて。申し訳なかったけど。
そしたら、後から、店を出てから、連れの一人がタダで本番までやってた。って、話」
「本番って…」
「エッチまでしてたって事」
「タダで?」
「そう。タダで。」
「それ本当?」
「えっ?本当だろ…なんで?」
「ええぇ…信じられない…そのツレ嘘ついてるんじゃない?」
「嘘じゃないと思うけど…」
「そのオチもなんか腑に落ちないなぁ…」
「なんでだよ」
「もうないの?」
「まぁ…あるけど…
凄い不便なところにポツンとあるエステで…」
「うん、うん」
「従業員が多分二人くらいしか居なくて。片方めっちゃ可愛い人で。初めて行った時その可愛い方の子に当たって、もう一回行こうと思って、行ったら、おばちゃんに当たって…今度はいるかなぁと思ってもう一回行ったらまたおばちゃんで…
結局三回くらいおばちゃんに当たって、可愛い人には会えなかったんだけど…
けど、最初はなんかこう、離れて座った椅子から、こう手だけを伸ばして、やってくれてたのが、そのおばちゃん、だんだんくっついてきて優しく寄り添ってやってくれるようになったよ」
「おばちゃん可愛いな」
ヘラヘラ笑っていたらいつものネットカフェに辿り着いた。
受付のカウンターから花が見えないように鉢を入れたビニール袋を下の方へぶら下げてカウンターへ向かった。
「今夜ペアシートしか空きが無く…」
その店員さんは私達が別々のブースを使いたがるのをもうよく知っているお馴染みの店員さんだったので、申し訳なさそうな言い方をして口籠った。
前に二人で泊まったのは別の漫画喫茶だった。井上くんとはホテルと満喫を合わせれば一緒に寝るのはこれで三度目になる。これまでに起きなかったことがここで起きるとは思えない。私はチラッと井上くんの目を見上げてから、店員さんに頷いた。
「良いです。大丈夫です」
店員さんは動きを止めて一瞬ジッと私を見た。『結構です』と言う意味に捉えたのかなと思いかけた時、急にハッと我に返ったように手続きを進めだした。その顔にジワジワ笑顔が浮かびかけているのが見え隠れした。隣の受付の店員さんともチラッと目を見交わしていた。
「多分、今頃バックヤードで従業員同士盛り上がってるよ。『あの二人ついに一緒のブースに泊まったぞ!』って」
カードキーを受け取り廊下を進みながら井上くんが面白そうに他人事のようにヘラヘラ笑っていた。
ふと変な違和感が胸に生じた。
(この人何を考えてるんだろう?なんで何もしてこないんだろう?これって何なんだ?私達の関係とはどういうものなんだ?この人私を好きだと言ってなかったか?どんな風に私のことを好きと言ってくれてるのか…マイマイのように友達として好きなのか、でもこれまでのアプローチから考えて…)
分からなくなってきた。モヤモヤしながら花に水をやる井上くんの横顔を見た。
(草食系とかいうわけでもない…これまでの話を聞く限り食欲旺盛な肉食のはずだ。じゃあ…これはどういう事だ?)
明かりを消し眠ろうとしながら井上くんの気配に耳をそば立ててみた。なかなか眠れないようだ。これまでの二回ともはこちらはヘトヘトですぐに寝てしまったから気が付かなかったが、彼の方は寝付きが悪いのかもしれない。私達は鍵のかかる防音の個室の中にいた。無音の暗闇で彼の起きている息遣いや寝返りが伝わってくる。
「井上くんは私としたくならないの?」
「何?何?」いきなり話しかけたので井上くんは一瞬ビクッとしていた。
二度も同じ事を言うのは嫌だなぁ、聞き取れなかったのならもう良いや、と思って黙っていた。
「したいけど巻多さんは?」
なんだ、ちゃんと聞こえてたのか。
「私は…どっちでも良いけど。聞いてるんだけど」
「どっちでも良い?」井上くんが聞き返してきた。
「どっちでも良い?」今度は反芻しているようだ。
「じゃあしても良い?」
話が違ってきたなぁ、適当に返すべき返事じゃなかったなぁと思った。なんでこんな事になったのか?そうだ、いらん事を聞いてしまったからだ。もう寝たかった。
「巻多さんがしたいならしたいけど、したくないなら別にしないでいいよ。」
「…ふーん」
そうか、この人は優しい人なんだった、と思い出した。そうだ…花の世話をしたり鉢が重たいからといつも持って歩いてくれるのも彼だ。家があるのにいつもそばにいて隣の個室に泊まってくれる…心配した彼のお母さんが何度も電話をかけてくるのに…これまで何度も横にいて聞いていた…その度に
「帰った方がいいよ」と言ったけれど、それでも帰らない。全て私を心配してくれてのことだ。どれほどの気持ちでそばについていてくれるのかを私はまるで見落としていた。
本当は彼に家に帰って欲しくなかった。そう言わなければならないと思うから「帰っていいよ」と言ってきたが…一人にはなりたくなかった…
私は井上くんの方へくっついていった。彼の体が反応しているのが分かった。すぐ腰を引いて当たらないようにしてくれたけれど。
「いいの?巻多さんはしたいの?」
私は自分がしたいとかしたくないとかじゃなく、井上くんの気持ちに応えたい、何か自分もしてあげられる事をしてあげたい、彼の役に立ちたい、という気持ちだった。それにはこれしかないように思われた。他に何もできないし持っていないから。
井上くんのベルトを手探りしている私の手を掴み、彼が言った。
「やめよう。ちょっと落ち着こう、巻多さん」
手首を掴む力が結構きつくて痛かった。
「なんかこういうの嫌だよ。無理してしてくれなくていい」
「なんで?」
「なんか…なんか…嫌なんだよなぁ」
ヒヤリと背筋が冷たくなった。そうか、分かった…私が商売で何人も男の人を接客しているからだ。その手で触られたくないんだ…と思い当たった。
若いお客さんに多かったが、帰りしなに言われることがあった。
「なんでこんなとこで働いてるの?」
「早く辞めた方がいいよ」
「こんなとこで働いてる人とまともな男は付き合わないよ」
良かれと思って忠告してくれてるのかもしれないが蔑む態度にグサッとくる。言葉そのものよりも、見下した目がいつまでも頭から離れない。
「俺は一緒にいるだけで満足だよ」
明かりをつけて井上くんの顔を確認したかった。優しい言葉や話し方が胸に温かく染み込んでくるようだ。手を離してくれたので、上を向いて考えた。女心は分からないとか言うけれど男の人だって全然分からない。体と心が同じ動きをしていない。それほど単純ではない。
井上くんの手が私の脚に触ったのでビクッとした。手が探り当てられ、繋がれた。
「手だけ繋ごう。ごめん」
「ううん」
手を繋ぎ肩をくっつけて眠った。なぜ彼が私に触られたくないのか、したくないのか分からなかった。
続く




