27 ペアシート
テストが全部終わり、誰も学校へ行かなくていいはずの春休み。その初日から学校へ行かなければならないなんて誤算だ、痛手だ、と憂鬱な思いで電車に揺られ、目を閉じて天を仰いだ。半日分の稼ぎを水の泡にしてしまった…
隣には井上くんがついていてくれた。彼は茶道部のお手伝いでどうせ自分も学校へ行かなくちゃいけないからと言って、隣のブースで寝ている私を朝起こしに来てくれた。
春休み中の学校にも生徒は何人か来ていた。補講や部活やその付き添いで来ている子達もいた。退学をチラつかされ強勢的に呼び出しを受けて、普段は不登校だった子たちが集められ、幽霊生徒達の集いみたいになっていた。
「なんだこれ。みんな辞めたか死んだと思ってた子達ばっかりだ」
と井上くんが目を輝かせた。前期の早いうちに意気投合していたらしい一人の小柄な男子学生に歩み寄って行き、向こうの方で嬉しそうに話し出した。
私には全員が見たこともない子達だった。違う学科や学年からも問題児や何かやらかした子達が集められて来ている。正面入り口から廊下にポツポツ広がって今にも帰ろうかどうしようかとなんとなくみんなが外を見たり職員室の方を窺ったりしていたが、助手二人を引き連れた畠中先生が現れて、私達をお猿さんのショーみたいに手を叩いて注目させた。
「はいはい、それではみなさん、地下教室へゴーです」
10人ぐらいがゾロゾロ階段を降り講堂へ集まった。
「はい、じゃあ今から皆さんにはね。この冊子をページ通りに並べていただきます。一番さん、はい助手の駒田さん。二番さん、はい助手の榎本さん。一番さんの後に二番さんが続き二番さんの後に三番さんが続いてね、自分の担当のページを積み重ねていってくださいな。えー、裏向きにね。じゃはい三番さん、そこの貴方…四番さんは彼…はいはい皆さん、後ずさって行かないで。サッサとやりましょう。終わらせましょう。まだまだ他にも仕事はあるんでね」
私は六番さんを務め井上くんが七番さんを務めた。
「茶道部行かなくて良いの?」
「お昼に行くよ」
井上くんは自分が配っている冊子をちょっと持ち上げて言った。
「懐かしいね、新入生の時に最初の説明会で貰ったやつだ。そっくりそのまま。このイラストの苺食べてる女の子には見覚えがある」
そんな物よく覚えているなぁと感心した。彼は記憶力オバケだ。私は裏向けて持っていたので自分が何の冊子を作る歯車の一部になっているのかも知ろうとする気もなかった。
面識のない者達がズラズラと列になって講堂の机を縫って歩き、半分以上来たところで教室の後ろから私はちょっと顔を上げて見てみた。人間の流れ作業が壮観だった。ページ並べはそれで終わった。その次は少人数ずつに分かれ、私は上の教室に移動してホッチキス止めなどの単純作業に移った。人懐こく話しかけてくる隣の女子の言う事をよくよく聞いていると、なんと同じクラスだと言うことが判明した。特徴的な顔をした子だから一度見ているなら覚えているだろう、全然知らないから多分別の学科だと思っていた。意外さが隠せず顔に出てしまった。
「こっちは知ってるよ。巻多さんでしょ。向こう側にいる人は井上くん。でしょ。」
私達は頷いた。
「藤島です。後期からはあまり学校来れてなかったけど。濱口くんは知ってるでしょ?私の彼氏」
思わず井上くんと目を見合わせてしまった。
(願望とか妄想が強い子なのかな)
と思ってしまった。
濱口くんは人気者で目立つ男子だった。同性も異性も友達がいっぱいいる明るい性格で、授業中爆睡しているしよく遅刻や欠席もするのに先生からも好かれている。後期にはクラスの真野さんという大人しくて可愛らしい女子と密かに付き合っていたことがみんなにバレ、もうそれは公然の事実みたいになっていた。
ちょっと確認のために口を挟もうかなとしたときには、藤堂さんのノロケ話が始まっていた。
濱口くんがプリントや進み具合を全部教えてくれたから勉強についていけたとか、彼は学校では自分達のことを隠したがるのでみんな知らないのだとか…
だんだん私は怖くなってきた。目ではちょくちょく真野さんと濱口くんの仲良しな姿を見てきていた。でも藤島さんの話も何だか詳細で妙にリアルで本気なのだ。
「彼は学校ではどんな感じ?誰とよく一緒にいるのかな?」
と聞かれ、咄嗟に助けを求めて井上くんを見た。
「堀くんと青山くんとよく一緒にいるよ」
といつも通りの口調で間髪入れず井上くんが危険を回避してくれた。
「あれどう思う…」
と帰りながら井上くんと首を傾げ合った。
「怖かった」
「私も」
「濱口くんが二股かけてるのかな?それとも…?」
「うーん…」
「藤島さんの妄想だとしたら…」
「なんか気を持たせるようなこと言ったかしたか…したのかなぁ。あの子…」
井上くんは濱口くんのことを〝あの子″と呼んだ。
学校への慈善活動を終えた後は井上くんと解散してアルバイトへ行き、帰り道でまた集合した。漫画喫茶でもネットカフェでも同じ事を言われてしまった。
「カップルシートなら空いてますが…」
後ろに並んでいる人もいたのでエレベーターホールまで出て話し合った。
「カップルシートってどんなの?」
「広いんだろうか」
「使ったことない?」
「昔あるかなぁ…もう忘れたけど。でも多分ただ少し広いだけだよ」
「眠れるかなぁ」
受付が空いたので、画面を見ながらまたひとしきり悩んだ。
「いつもの倍の広さか、それよりはちょっと狭いくらいかな…」
「でも他にないしなぁ…」
店員さんと井上くんが二人してジッと眼鏡の奥から黙って私の顔を見つめている。
(私待ちか!)と突然気付いた。
「井上くん、何もしないでね」
と言ったら井上くんも店員さんも笑いながら頷いた。
「ネットカフェでやっちゃいけないことになってるから、一応」
廊下を歩きながら小声で井上くんが教えてくれた。
ところが、ペアシートの階へ行くと何だか物凄い甘い悲鳴が響き渡っている。通路にチラホラ人だかりができ、個室のドアを開けて中から二人で顔を覗かせ、クスクス笑い合いながら聞き耳を立てている若いカップルも1組いる。
「めっちゃやってんじゃん」
と思わず言わずにいられなかった。
「ここまで堂々とは…凄いな…クライマックスかな…」
「めっちゃやってんじゃん…」
もう一度言ってしまった。地響きすらしてきそうな凄い騒ぎなのだ。
「俺らの部屋の隣かなぁ」
「嘘でしょ」
「中入るのもう少し待つ?」
「待とう」
井上くんは気を遣ったのか引き返そうとしたが、私はちょっと面白くなってきてしまってもう少しで終わるなら最後まで立ち聞きして行こうとその辺りを用もなくウロウロっとしていた。井上くんが戻ってきて彼もウロウロした。
「もう終わるよね」
「さぁ」
「もう終わるよ、こんなに声出してるんだもん」
井上くんは首をひねった。
私はもう終わるだろうもう終わるだろうと思って待っていた。自分の理論では、女の子が最高潮のような声を張り上げているときはとにかく(さぁ早く!)(もうこれで終わって!)と言う意味なのだ。その魂の叫びが自分にはハッキリと伝わってきた。
ところがなかなか終わらない。男の人が真意に気付かず、もっともっとと女の人に声を上げさせようとしているみたいなのだ。男の人は女性が悦んでいると勘違いしてしまっているのかもしれない…という気がしてきた。
最初はサービス精神いっぱいだった女性の声がだんだん本気で疲れてへたばってきて力の無い弱々しい声に変わり始めた。酷いな、なんで分かり合えないんだろう、男女は…と思って私はムーと暗い気持ちになりだした。井上くんが腕を引っ張って来た。
「漫画借りに行こうよ」
彼はちょっと苛立っていた。初めて垣間見る井上くんの苛立ちに怯えて私はすぐに彼についてその場を離れた。本棚の列の中で、
「あれは異常。あんなのは普通ありえないから。ごめんね」
と井上くんが隣のブースの二人のマナーの悪さをかわりに謝ってきた。私は自分の出した野次馬根性が井上くんを苛立たせてしまったのかとヒヤヒヤしていたので、ちょっとホッとした。
「でも初めにあんな風にヤる人達もいるって分かったからもうそんなに大して驚くこともないよ。今度何か聞こえてきても『あぁ別の組が始めましたかぁ』って子守唄みたいに寝ながら聞ける。」
「表向きはダメなんだから申し訳なくやるべきなんだ」
私は小さい声でそれにしてもあからさまだったなぁと思い出し笑いしてしまい、笑いが収まらなくなってきた。井上くんもしまいにはニヤニヤし出した。
戻ってみると大騒ぎは収まり、廊下には秩序と静寂とクスクス笑いの名残と各個室から濃く漂ってくる気配だけが充満していた。BGMの影に隠れるか隠れ切れていない音量の鼾は、一人用のブースの時と同じ聞こえ方だった。
井上くんとはそう言えばもっと狭い一人用の個室で髪を切ってもらうときに一緒に入った事があったのだったと思い出し、狭い個室に入って行く時に緊張しかけた気持ちも和んだ。
鍵の掛かるドアを閉めてからも、ちょっとでも意識しそうになるとあのお隣さんの物凄さが連想され、笑い出しかけてしまった。
「お隣さんは朝までいるのかなぁ」
「もう帰ったんじゃない?それか寝たか」
「女の子の方は終わって欲しくて必死に声出してたね」
「そう?」
「あの声はそうだよ」
「ふうん?」
「絶対そうだって」
なんで男の人には伝わらないのか、不思議だなぁ、哀しいことだ…と思って力を込めて解説してしまった。
「そろそろどうぞ、もう限界ですから、って意味であんな風に大きな声になるんだよ。さぁ早く、もう終わって、って」
「そんなこと限らないでしょ。ただ気持ち良くてってだけの事もあるんじゃない?」
「男の人の方はそう思って続けてたみたいだけど、あれはあの女の子が可哀想だったよ。私は同じ女として分かるもん」
「見てもないのに?」
「声だけで分かる。そのうちに諦めちゃって疲れて声出さなくなったもん」
「普通に気持ち良さに緩急があるだけじゃない?」
「そうなのかなぁ?」
「男だって女の人に気持ち良くなって欲しくて一生懸命頑張ってたのかもしれないよ?」
「うーん、そんなもんかなぁ…」
だんだん自説に自信がなくなってきた。でも話し合えた事には満足感があった。こういう事も語り合えるのが井上くんの良いところだなぁと思うのだ。
もともともう遅い時間で明日も朝からまた学校へタダ働きしに行きそのあとはアルバイトへも行かなければならない。早く眠らなければ…
井上くんは漫画を読んでいたけれど、眠くて目が勝手に閉じて来たので、明かりはそのままでも眠れそうだと思い、モソモソ横になった。すると気を遣ってすぐに漫画を閉じ、井上くんが明かりを消してくれた。
眠りに落ちる前に私の短い髪に触り、井上くんが言った。
「今度僕の髪も切って?」
「うん。いいよ」
暗闇の中で寝返りをうち、彼の方を向いて、私よりも長いフワフワした房の柔らかい髪を指で梳かした。
お母さんと離れて住むことになった初めての夜から、私と一緒に寝てくれたのは祖母だった。手を伸ばして暗闇の中、冷んやりしっとりとした祖母の銀色と黒の髪を撫でながら眠った。誰かの体の一部に触れて眠りに落ちられる事がこんなにも安らかな温かい気持ちになれることなのかと知った。
心配され愛されて育った日々を思い出した。
続く




