26 鍵
根本さんに会うために、綺麗な服や靴はもう無いから、せめて髪や体を洗って、清潔さは完璧にして行こうと思った。
シャワーブースだけを使うためにもネットカフェは便利だった。
とにかく心を鎮めよう…この頃は1秒毎に死ぬとか生きるとか極端な発想をしてしまう。崖の上をウロウロしているようだ…飛び降りようと考えたり飛べそうだと思えたり…心を鎮めないと…と思った。あまり根本さんに迷惑をかけないように…
〝弦″という和食料理屋さんに夜9時に集合だった。迷うといけないので30分前に着き、近くをウロウロして待った。5分前になって恐る恐る暖簾をくぐり門の中へ入る。石畳の庭の先に引戸があった。仄暗い揺れる灯りの道を白く丸く浮かび上がる石を踏んで進むと、戸の中にも石畳が続いている。その先で下駄を履いた和服の仲居さんにお出迎えを受けた。
「御予約様のお名前は?」
と聞かれ、
「根本様」
と答えた。靴を預け、スルスル歩く着物の女性の後ろに続いて襖の横をいくつか通り過ぎ、目的の部屋の前で女性は振り返ると、急に両膝を床につけて
「失礼します」
と言って襖を開けた。私1人だけが立っていた。座敷の中に座っている根本さんにも案内してくれた仲居さんにもヘコヘコとお辞儀して、腰を落としながら畳の個室に入って行った。映画の中で偉い政治家や悪代官が悪巧みをするための場所みたいな趣のある高級そうな緊張するお店だった。床の間には掛け軸や壺や梅の花が生けてある鉢や大きな黒い古風な電話も置かれ、重たい分厚い小豆色の座布団が四つも敷いてあった。
帽子を脱ぐと、根本さんはまずみんながビックリする通りに、短くなった私の髪に驚いた。
「ちょっと切ったぐらいじゃないね…」
とじっくり私の頭を眺め回して感心したように言った。それからすぐ、薄茶色の封筒をいつもなら帰り際に渡してくれるのに今日は会ってから真っ先に渡してくれた。
頭を下げながら受け取り、いつも持ち歩いている鞄の奥にしまった。これは貰うのではなく必ず返すのだ、だからあまり媚びたようになりすぎないようにしよう、と思いながらもヘコヘコしてしまう。
沢山の贅沢なお料理が出てきた。少しずつ小鉢に入ったり花弁や綺麗な葉が添えてあったり…
何だか亀も助けていないのに竜宮城で歓迎を受けてしまっているような恐縮さだ。これは夢で、後から目が覚めたらネカフェの床に倒れてティッシュでも口に入れてモゴモゴ食べているのではないかと思った。
「普段は何が好きなの?どんな物食べてる?」
と聞かれ、
「こんなご馳走は食べてないです…でもちゃんと食べてます。吉牛とか」
と答えた。
「自炊してる?」
禁止されてるなぁと思ったけれど、もうあんまり漫画喫茶に住んでいる事は言いたくなかった。
心配されたってお互いに気まずさしか残らない。根本さんにはもう10万円も借りたのだし、これ以上頼れない…もう後は自力で何とかしたい、と思った。
「一ヶ月で一番、何にお金がかかる?」
「それは家賃ですよね。やっぱり一番は」
根本さんはジッと私を見た。真剣なその目は大きな決断をする前触れだった。
「提案がある。僕の家に引っ越して来ない?」
私はビックリした。どんな裏があるのかと思った。
「それって結婚ですか?」
「いや、結婚…というか…
一人暮らしの費用を持ってあげようと思ったんだけど。そうすればだいぶ楽になるんじゃないかと」
「楽には…なりますね…」
でも無理…どういう事なのかよく分からない…と思いながら、根本さんの目を見た。
母に連れられて突然知らないおじさんの家に住み始めた日の記憶が蘇った。車で連れて来られたのは真夜中だった。
「ここが子ども部屋」
と言われ、一人取り残された薄暗い部屋の明かりの付け方も分からず、どこに何があるのか、全てのものに触れて良いのかいけないのかも分からなくて、ひたすら恐ろしかった。何も見えない。そこかしこに色々な物がゴチャゴチャと置いてあるような気がするのだが…
閉められたドアを開けようとしても外から鍵が掛けられているのか開かない。その場に座り込んで見えない室内をギョロギョロ見渡した。そこら中にオバケが潜んでいる気がした。目を隠し、膝の間に頭を突っ込んで、早く朝にならないかなぁと時間が過ぎるのを待ちわびた…
寒かった。
どれくらいの時間が過ぎたのか…
前触れもなくドアが開こうとして、私の背中を押した。母が一人で迎えに来てくれていた。その時のお母さんはとても優しくて暖かくて、怯えていた。ソロっと部屋の中へ入ってくると、体が冷えきって震えている私をギュッと抱き締め、何度も呟いた。
「ごめんね…ごめん…」
その囁き声で、母も怖いのだと伝わって来て、私は自分が勇気を出さなくちゃと思った。闇の中で見えない自分の輪郭がむくむくと膨らみ、母を守ってあげられるくらい大きくなる妄想をした。
「帰ろうよ」
私の髪を撫でてくれながら母は無言だったが首を横に振っていた。
「帰れない。今は…」
「なんで帰れないの?」
母は私をその冷たい部屋から連れ出し、抱っこして、ストッキングをどこかへやってしまった裸足で廊下を歩き、イビキが響いてくる別の部屋のドアを開けた。中を覗いた。獣のような塊が床で寝ている大きな影が見える。
「今のうちに逃げよう」
母は首を横に振り続けた。
「なんで?こんなところ早く逃げようよ」
「そんなこと言っちゃダメ…絶対この人にそんな事言わないでね。ここが私達の家なんだから」
違う、と思った。
絶対違う。ここはどこか知らない…全然知らない場所だ…ここは私達の家じゃない…!
根本さんは頷いた。
「いや、いいよ。忘れて?ただ…」
握り締めたグーの手を私の前へ突き出した。なんだろうと思いながら広げた手のひらをその下へ出して、握られていた物を受け取った。それは鍵だった。鉄が根本さんの体温で熱いぐらいの。
「もし路頭に迷って困るような事があったら…住所はその時に教えるから…持っててくれてると思ったら私が安心できるから…」
私は根本さんの目を見ながら頷いた。
穴蔵の寝床みたいな漫画喫茶の個室に戻ってきて、もう断ってしまった淡い夢のような提案をあれこれ検討した。もしかしたらものすごくありがたい提案を断ってしまったのではないかとボーッと感じた。
いつも空から降って来る幸運を待ちわびているくせに、いざポンと目の前に差し出されると信じ切れない…気持ち良く大金を貸してくれるような懐の深い人物を、まだ疑いの目で見てしまう…愚かな卑屈な生き物だ…自分は…なんでこんな嫌なやつなんだろう…
翌朝はすぐに学校へお金を納めようと思った。
元彼の家に届いていた一枚目の学費の振り込み用紙はもう学校へは行かないと思って捨ててしまっていたので、新たに用紙をもらいに職員室へ行かなければならない。
「そういう手続きは事務所が担当だから事務所へ行ってきて…」
と人の良さそうなほっぺのぷっくりした助手の男の先生に言われた。
その肩越しに、職員室の奥の方から、普段は面白い授業で名物のひょうきんな畠中先生が厳しい顔をして私に手招きをしている。目が合ってしまっていて無視するわけにもいかないから、嫌な予感を感じつつも、生徒が入って良いラインを白いテープを貼って示してあるカウンターの先生の一番近くまで寄って行って待っていた。すると渋い顔をして畠中先生が長い机越しに私の正面に立ち、言い放った。
「巻多さん、急に頑張って学校来だしたようですがもう出席日数が足りんのですわ。退学ですわ。」
愕然とした。ただジッと先生を見返した。
(…この人の授業だって昨日も受けたのに…嫌に大声で言うんだな…職員室中に響く声で…そんなに意地悪だった?この先生?…じゃあもっと先に教えてよ…遅刻もせずに毎日通っちゃってたわ…)様々な考えが頭の中を飛び交った。
「ただ、救済措置が講じられる範囲内なんですわ。まだ。良かったねー!」
いきなり厳しかった先生の顔がニッと笑い、私も釣られてパッと笑顔になった。隣で絶句していたマイマイとチーちゃんも金縛りが解けたように笑い出した。
「今後も無遅刻無欠席で、春休みに清掃と事務仕事の手伝いに来る事。それと、来年度はこんな事にならないようにチャンチャンと学業に励む事。分かりましたら、授業料払いに行ってきてください」
畠中先生はビッと事務所の方へ指を差した。多分先生のちょっとしたお灸の据え方だったのだろうけれど、「退学ですわ」が効き過ぎて、ショックからフラフラと力の抜けた頼りない私の猫背を、気の毒に思ってくれたのか、先生は両方の手で掴んでグイと胸を張らせ、励ますように平手でパンパンと二回背中を叩いてくれた。
不思議なことが起こった。
突然この60歳くらいの先生が大好きになってしまった。父親的な愛だと感じたからだ。
普段アルバイト中には男の人に触れられて愛の言葉を囁かれてもただ女として見られていることに対しありがとうねと思うばかりで、相手が誰だか覚える気も起きなくなっていた。ただ我武者羅に目の前に次々に現れるお客さんをこなしていく日々、まともに愛に動じることもなくなっていたのに、この時は胸に染みた。
体は時の経過で勝手に大人になれても、心はいつまで経っても子供時代の飢えを引きずっている。女として間近に父親くらいの年の男性を引き寄せた時には、こちら側から激しく求める別の種類の愛情がある…
マミちゃんにかけ続けていた電話は唐突に繋がり、誰かが耳に当てて、私が彼女の名前を呼び続けるのを聞いていた。
「マミちゃん?…マミちゃん!…マミちゃん…?…マミちゃん…」
だんだんとこちらにもこの通話の相手が自分の求めている相手ではないかもしれないと気が付いてきた。相手は答えず、ただ黙って聞いているだけなのだ…
だとしたら…悪趣味でしかない…
口を閉じ、しばらく黙って耳を傾けてみた。向こうも黙っている…
虚しくなってきた。電話番号だけが彼女との唯一の繋がりだった。
「マミちゃんはどこですか?」
最後の望みをかけて聞いてみた。
「カラオケ屋」
男の声が答え、通話が切られた。そうだった…
悔しくて頭を抱えた。そうだ、聞かなくたって知っていた、マミちゃんはカラオケでもアルバイトしてるって言ってたじゃないか、なんで言われてからしか思い出せないんだ…
24時間営業のカラオケ屋さんを検索し、この付近には2軒しかないことが分かった。
マミちゃんはカウンターに一人で立っていた。ドアを押し開けて入ってきたのが私だと認めた瞬間のマミちゃんの表情の変化から、彼女が最初から私を騙すつもりだったことに気付いてしまいそうな気がして、こちらも一瞬視線を逸らし、何も見なかったふりをした。
「元気?」
「うん。久しぶり」
「私も元気」
「そっか、良かった」
ソワソワお腹を撫でている。
「赤ちゃん?」
「うん」
「産むんだね」
マミちゃんは頷いた。疲れた顔をしているけれどお腹を見下ろす目がとても優しくて、今までに見たことがない表情だった。もうお母さんなんだなぁと思った。
カラオケ店にお客さんが入って来たので、少し隅によけてマミちゃんが接客するのを見ていた。
緑色の髪を左右にひと房ずつ垂らし後の黒い髪はポニーテールにした目の化粧の濃い女の子と、飾り気のない中学生のように幼く見える男の子の二人組が、それぞれドリンクを片手に持ってエレベーターを上がって行ってしまうと、マミちゃんがこちらを見た。
「モコも何か飲む?」
自分はカウンターの下に紙コップを置いて飲んでいるみたいだ。ドリンクバーは漫画喫茶のとほとんど同じものだった。私は紙コップをもらい、無駄にただっ広い空間の隅に設置された機械から爽健美茶を汲んで来た。
「マミちゃん、今どこに住んでるの?」
自分自身だって自分がどこに住んでるのか分からないけれど、マミちゃんがもしかしたらまだ店長と暮らしているのかなと思って聞いてみた。
「今は店長と一緒にはいないよ。別の人のところにいる。昔店長と犬猿の仲だった人のところに」
「ええ…その人は大丈夫な人なの?」
「うん。すごく優しい人で、子ども産んだらそのあとはその人の店で働くことになってる…」
すごいなぁと思った。なんだか子どものために自分が人質にとられているみたいだ…それだけの覚悟で産むのか…と思った。
「店長の子なんだよね…?」
思わず確認してしまった。
「うん。
だけどあの人の事はもういい。あの人が酷かったのとかもうどうでもいい事だよ。ただあの人を信じてた時の自分の気持ちだけは純粋だったから…
まだこんな心が自分にも残ってたんだ、って言うくらい綺麗な気持ちだったんだよ、あんなののことも本気で好きになっちゃうくらい。そんな最後の私の綺麗な欠片だけでできてる結晶みたいな子だから、産んで、絶対に綺麗なままで育てるよ。汚れ仕事は全部私が引き受ける。汚いものは近づかせない。この子には。守り切ってみせる。
女の子だったら嫁に出すまで男に触らせない」
マミちゃんが明るい声で笑い出したので、つられて私も笑った。
(マミちゃんが笑ってないと世界中暗くなるな)と思ったけれど、恥ずかしいから口に出しては言わなかった。
何かしてあげられることがあったら頼って欲しい…と思ったけれど、それも軽々しく口には出せなかった。
「またここに来てもいい?」
マミちゃんの顔が苦しそうに歪んだ。
「来ない方がいいよ」
「電話は繋がらなくて…」
「…」
「男の人が出た」
「携帯今持ってないから」
「そっか…」
口に出せる言葉が見当たらず、私はお茶を飲んだ。飲み干してしまった。
「もう会えない?」
「私に会いたい?」
マミちゃんは一瞬すがる目をした。見逃さなかった。
「一緒に住むって約束までしてたんだよ?」
「…ここにはあの人たちも来るよ」
「あの四人?」
マミちゃんは頷いた。
「四人の他にももっといる。
私と住むって、一緒に働くって事だけど…」
「全員と研修しなくちゃいけない?」
「そんな事はない。一応もう研修は済んだと思う」
「あとは仕事してお金稼ぐだけだよね…?」
「分からない。多分…」
私は飲み干した紙コップの中身をジッと見た。
「また来るよ」
カウンターの上で手を握り締めた。マミちゃんの目はもう来ないだろうと思っている目だった。
この店の扉の分厚いガラスには波打つ模様が入って歪んでいて、向こう側にいる人の服の色しか見えない。表に出ると外に男の一人が立っていた。三番目のよく喋る男だ。一番会いたくなかった男だ。向こうを向いて虚空に喋っている。耳の中でワイヤレスフォンが光っていた。相手がこちらに気付かないうちに俯いて背後を通り抜けることができた。
続く




